目次
第1 量子コンピューターの話が企業法務に関係する理由1 今すぐ全ての暗号が破られるという話ではない2 本記事の対象と資料第2 Willowの「5分」は何を意味するのか1 特定の計算実験と比較条件2 量子ビット数だけで暗号を破る能力は決まらない第3 影響を受ける暗号と用途を分ける1 RSA・楕円曲線暗号と電子署名2 AESまで同じ説明で扱わない第4 「今集め,将来解読する」リスク1 秘密を守る期間が長い情報2 保存期間と秘密保持が必要な期間第5 耐量子暗号(PQC)とは何か1 量子コンピューターを買うための標準ではない2 令和6年に承認された三つの標準3 「永久に破られない」という保証ではない第6 企業・法律事務所が準備する順序1 情報と暗号の利用箇所を棚卸しする2 提供事業者には対象範囲を具体的に尋ねる3 契約・費用・検証を移行計画につなぐ第7 電子契約の長期保存で確認すること1 秘密の保持と署名の検証は別の問題2 長期にわたり証拠を確認できるか第8 よくある質問1 AIによるサイバー攻撃と同じ問題なのか2 暗号化されていれば,長期保管しても安全なのか3 まず何から始めればよいのか第9 出典
第1 量子コンピューターの話が企業法務に関係する理由
1 今すぐ全ての暗号が破られるという話ではない
量子コンピューターの発展は,現在使われている暗号の一部に,将来の大きな影響を及ぼし得る。
しかし,「量子コンピューターが計算実験で優れた成績を出した」という発表と,「企業の通信や電子契約に使われている暗号が解読された」という事実は異なる。
対象となる暗号方式,必要な計算機の能力及び実験で解いた問題を分けて読む必要がある。
企業や法律事務所にとっての問いは,実用化の年を言い当てることよりも,長く秘密を守る必要のある情報と,変更に時間のかかるシステムを把握できているかである。
暗号方式の移行に備える作業には,情報システム部門だけでなく,情報の保有部門,法務,調達及びサービス提供事業者が関わる。
2 本記事の対象と資料
本記事は,令和8年11月2日までに確認したGoogle,米国国立標準技術研究所(NIST),金融庁及び電子署名に関する政府の公表資料に基づき,暗号への影響と準備の考え方を整理する。
令和6年のWillow発表は,計算実験と実務上の安全性を区別するための例として取り上げる。
特定製品の安全性や,量子コンピューターによる個別の被害を認定するものではない。
第2 Willowの「5分」は何を意味するのか
1 特定の計算実験と比較条件
Googleは,令和6年12月9日のWillowに関する発表で,ランダム回路サンプリングというベンチマークの計算を5分未満で行ったと説明した。
同社は,この計算を当時の有力なスーパーコンピューターで行う場合に必要な時間を,10の25乗年と推計して比較している。
これはGoogleの評価と推計に基づく比較であり,その年数にわたり実際に計算させた結果ではない。
ランダム回路サンプリングは,量子計算の能力を評価するための特定の課題である。
この数値から,企業の業務処理,配送経路の最適化又は暗号解読が,一律に同じ倍率で高速化すると読み替えることはできない。
出典はGoogleのWillow発表である。
2 量子ビット数だけで暗号を破る能力は決まらない
同発表は105量子ビットのチップと,量子誤り訂正の進展を説明している。
量子計算では誤りへの対応が重要であり,チップの量子ビット数と,長い計算を実行するための能力は同じ指標ではない。
「105量子ビットだから,特定の鍵長のRSAを解読できる」といった対応関係を,この発表だけから導くことはできない。
第3 影響を受ける暗号と用途を分ける
1 RSA・楕円曲線暗号と電子署名
十分な能力を持つ量子コンピューターが実現した場合,Shorのアルゴリズムは,RSAや楕円曲線に基づく暗号技術の安全性を支える問題に影響を及ぼす。
この問題は,秘密の通信だけに限られない。
通信で使う鍵を共有する仕組みや,電子署名にも関係する。
同じサービスでも,通信内容を暗号化する部分,その鍵を確立する部分,相手を認証する部分,保存文書に署名する部分で,使われる技術が異なる。