目次第1 この記事の対象と結論第2 絶対的無輸血と相対的無輸血1 二つの方針の意味2 医師は絶対的無輸血に応じる義務を負わない第3 裁判例が求める説明1 最高裁平成12年2月29日判決―方針を説明しなかったこと自体が違法2 東京高裁平成10年2月9日判決―説明の内容・時期・担い手3 大阪地裁平成17年1月28日判決―輸血を拒む患者にはより詳細な説明を第4 説明文書と同意書の設計1 病院の方針を文書にして示す2 拒む範囲は製剤ごとに確認する3 説明する事項4 免責証書の位置付けと文言5 説明の時期・担い手・記録6 意思表示できない救急の場面7 未成年の患者第5 出典・参考資料1 法令2 裁判例3 行政機関の通知4 医学会等の指針
第1 この記事の対象と結論
宗教上の理由で輸血を拒む患者に対し,多くの医療機関は,できる限り輸血をしないで治療するが,輸血以外に救命手段がない事態になれば輸血するという「相対的無輸血」の方針を採っている。
本記事は,医療機関の側から,この方針を採る場合に患者へ何を説明し,どのような書面を取り交わせばよいかを,裁判例,法令,医学会の指針及び行政資料に基づいて整理するものである。
医療機関の顧問弁護士,医事担当者及び患者側の代理人を読者として想定している。
基準日は令和8年9月20日である。
エホバの証人が令和8年9月18日に他人の血液に由来する主要な成分の扱いを変更したこと自体と,子どもへの輸血をめぐる手続は,別稿「エホバの証人の輸血方針の変更(令和8年9月)と宗教的輸血拒否の法的枠組み―成人患者の意思確認,同意書及び子どもへの輸血」で扱っており,本記事では判断能力のある成人の患者を中心に扱う。
結論を先に示すと,次のとおりである。
①医師は,患者が求める「絶対的無輸血」(どのような事態でも輸血しない)に応じる義務を負わないが,応じないのであれば,病院の方針を手術の前に説明して,その病院で治療を受けるかどうかを患者に選ばせる必要がある。
②輸血を拒む患者には,輸血をしないことで高まる危険を含め,通常より詳細かつ正確な説明が求められた裁判例がある。
③患者が差し入れる免責証書は,説明が不十分であった場合の責任まで免れさせるものとは扱われていない。
④拒む範囲は患者ごとに異なり得るので,同意書は製剤ごとに意思を確認できる形にしておくことが考えられる。
第2 絶対的無輸血と相対的無輸血
1 二つの方針の意味
(1) 裁判例による定義
東京高裁平成10年2月9日判決(平成9年(ネ)第1343号,高民集51巻1号1頁)は,輸血以外に救命手段がない事態になっても輸血をしないことを「絶対的無輸血」,手術に当たりできる限り輸血をしないが,輸血以外に救命手段がない事態になった場合には輸血をすることを「相対的無輸血」と呼んだ。
同判決は,絶対的無輸血は生命の維持よりも輸血をしないことに優越的な価値を認めるものであるのに対し,相対的無輸血は輸血をしないことよりも生命の維持に優越的な価値を認めるものであり,両者の間には質的に大きな違いがあるとしている。
(2) 医療機関の多くは相対的無輸血を採っている
日本輸血・細胞治療学会ガイドライン委員会の「輸血療法実践ガイド」(令和8年2月)11頁は,相対的無輸血について,患者の意思を尊重し可能な限り無輸血治療に努めるが,輸血以外に救命手段がないと判断された場合には患者の同意が得られなくても輸血を実施するという考え方であり,現在多くの医療機関の基本的な方針となっていると思われるとしている。
同頁は,相対的無輸血の立場を取る医療機関の多くが,輸血の可能性が予期される治療について方針を患者と家族に事前にかつ具体的に説明し,患者が意識不明で意思表示ができない状況で輸血が唯一の救命手段と判断された場合は緊急避難的に輸血を実施するとしていること,時間的余裕があり患者が絶対的無輸血を強く希望する場合には,無輸血治療を専門とする他の医療機関への転院を推奨するとしていることも紹介している。
このガイドは,厚生労働省が令和8年3月24日付けの医薬局長通知(医薬発0324第2号)で「輸血療法の実施に関する指針」等を廃止した際に,その内容を整理・統合したものとして周知を求めたものである。
2 医師は絶対的無輸血に応じる義務を負わない
(1) 治療方針は医師が決める
前記の東京高裁判決は,医師はその専門知識及び能力に基づき良心に従って医療内容を決定すべきであり,患者の治療内容に対する注文は通常は希望の表明にすぎず,医師が明示に承諾した場合でなければ,医師の方針と抵触する合意が成立したとは認めるべきでないとした。
そして,絶対的無輸血の治療に応じるかどうかは医師の倫理観,生死観によるものであり,患者が医師に良心に反する治療方法を採ることを強制することはできないとしている。
その上で,同判決は,医師が説明義務を負うことはこれとは別の問題であるとしている。
なお,同判決は,当事者双方が熟慮した上で絶対的無輸血の合意をした場合には公序良俗に反して無効とする必要はないとの見解も示しているが,本件では合意の成立自体を否定しており,最高裁判決はこの点に触れていない。
(2) 宗教のみを理由とする診療拒否との関係
医師法19条1項は,診療に従事する医師は,診察治療の求めがあった場合には,正当な事由がなければ,これを拒んではならないと定めている。
厚生労働省医政局長の令和元年12月25日付け通知「応招義務をはじめとした診察治療の求めに対する適切な対応の在り方等について」(医政発1225第4号)は,患者の宗教等のみを理由に診療しないことは正当化されないが,宗教上の理由等により結果として診療行為そのものが著しく困難であるといった事情が認められる場合はこの限りではないとしている(記2(2)④)。
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