第1 本記事の対象と結論
1 対象と基準日
交通事故の損害賠償では,日弁連交通事故相談センター東京支部の『民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準』(いわゆる「赤い本」)の基準が,慰謝料等の額を決める目安として広く使われている。
本記事は,交通事故以外の事故や事件で人が死亡し,又は負傷した場合に,この基準が請求や判決でどのように使われているかを,裁判例から整理する。
裁判例は,令和8年9月28日に裁判所ウェブサイトの裁判例検索と判例データベース(判例秘書)で「赤い本」「赤本」「損害賠償額算定基準」等の語を検索し,判決の全文を確認したものに限って紹介する。
赤い本の基準の具体的な数値そのものは,本記事では,判決が引用している範囲でしか触れない。
2 結論
①交通事故以外の事件でも,入通院慰謝料については,赤い本の算定表(別表Ⅰ・Ⅱ)を参考にして額を決めた判決が少なくない。
保育園で起きた食物アレルギーの事故について,福岡地方裁判所令和6年4月26日判決は,算定表が「交通事故訴訟以外の訴訟等の損害の算定においても裁判実務上広く用いられている」ことなどから,参考にすることは許容されるとした。
労働災害によるうつ病,暴行による傷害,医療事故についても,判決の中で算定表を参考にした例がある。
②他方,交通事故の基準より高い慰謝料を認めた判決もある。
故意の犯罪による被害では,交通事故の基準の約2倍の慰謝料を認めた判決や,交通事故の基準は加害者と被害者が入れ替わり得る過失の事故を前提にしていると述べて,それをはるかに超える慰謝料を認めた判決がある。
医療事故では,患者が医師を信頼して身を委ねていることから,交通事故より慰謝料が高くなる場合もあり得るとした判決がある。
③身体の傷害を前提にしない慰謝料(原発事故による避難生活の慰謝料)については,赤い本の傷害慰謝料と同列に論じることは困難とした判決がある。
④交通事故以外の事件で賠償を請求し,又は争うときは,赤い本の基準を出発点としつつ,事件の性質(故意か過失か,当事者の間に契約や信頼の関係があったか,身体の傷害を前提にする損害か)から,基準をそのまま使うべきか,増額や別の考え方をとるべきかを主張することになる。
第2 参考にしてよいとされた例
1 保育園での食物アレルギーの事故
福岡地方裁判所令和6年4月26日判決(令和4年(ワ)第3980号)は,保育園で食物アレルギーのある園児に原因となる食材を含む給食を誤って出した事故が2回起きた事案である。
原告は,入通院の日数に比べて負担が大きかったとして,赤い本の傷害慰謝料の算定表を用いるのは相当でないと主張した。
判決は,この算定表について,「相応の合理性及び客観性を備えていると評価されており、交通事故訴訟以外の訴訟等の損害の算定においても裁判実務上広く用いられているものであることに照らすと、事故により被害者が被った精神的苦痛は事案により様々であることを踏まえても、上記算定表を本件各事故のような保育園で生じた事故による園児の慰謝料を算定するに当たり参考とすることは許容されるというべきである」とした。
もっとも,判決は,算定表を形式的に当てはめたわけではない。
判決自身が,「当裁判所は上記算定表を形式的に当てはめず、同表における1日通院及び2日入院の基準額よりも高額な慰謝料を認めている。」と述べている。
算定表を出発点にしながら,事故の内容に応じて額を調整する使い方である。
2 労働災害によるうつ病
福岡地方裁判所令和7年7月16日判決(令和4年(ワ)第2711号,判例秘書の判例番号 L08051053)は,運送会社の長距離トラックの運転手が,会社の安全配慮義務違反によってうつ病を発病したとして損害賠償を求めた事案である。
判決は,傷害慰謝料について,「原告のうつ病による入通院期間は、入院219日、通院1789日であり、赤い本別表Ⅰを参考として、傷害慰謝料は409万2000円とするのが相当である。」とした。
東京地方裁判所令和4年2月22日判決(令和元年(ワ)第35109号)も,長時間労働によるうつ病の事案で,入通院慰謝料と後遺障害慰謝料を認めた。
この事件では,被告が実際に通院した日数の3倍を通院期間とみなして計算すべきであると主張したのに対し,判決は,「通院期間である54箇月を基礎とするのが相当であり、これを大幅に短縮し、実通院日数の3倍を基礎として算定するのは相当ではなく」とした。
精神疾患のように通院が長く続く傷病では,通院期間の数え方が慰謝料の額を大きく左右する。
3 暴行による傷害
東京地方裁判所平成31年3月19日判決(平成30年(ワ)第15527号,判例秘書の判例番号 L07432787)は,暴行によって鼻骨等を骨折した被害者の損害賠償の事案である(刑事手続に付随する損害賠償命令の手続から民事訴訟に移行したもの)。
判決は,通院慰謝料について,「同通院日数を3.5倍した約1か月に相当する通院慰謝料28万円(赤い本の別表Ⅰ)を本件暴行と相当因果関係を有する損害と認めるのが相当である。」とした。
故意の暴行でも,事案によっては算定表をそのまま参考にしている。
4 医療事故
前橋地方裁判所平成26年12月26日判決(平成22年(ワ)第970号,判例秘書の判例番号 L06950732)は,リンパ節を摘出する手術で神経を損傷した医療事故の事案である。
判決は,入通院慰謝料について,「平成二一年版損害賠償額算定基準(赤本)の入通院慰謝料別表Ⅰをもとに、入院一か月、通院六か月で算出した。」とした。
東京高等裁判所平成23年2月24日判決(平成20年(ネ)第5546号,判例秘書の判例番号 L06620104)は,手術後の医療事故の事案で,入院雑費の日額について,「平成11年当時の交通事故による損害賠償額算定基準(いわゆる『赤い本』)の基準からみて,この金額が不当であるとはいえない。」とした。
慰謝料以外の費目でも,赤い本の基準が額の相当性を判断する物差しとして使われている。
5 航空機事故
名古屋地方裁判所平成15年12月26日判決(平成7年(ワ)第4179号,中華航空エアバス式B1816機事故損害賠償請求事件)は,航空機事故の死亡者の遺族が高額の慰謝料を求めた事案で,「本件事故による被害が交通事故その他の人身事故と質的に異なるものということはできず,原告らの主張は余りに過大であるというべきであって,採用できない。」とした。
この判決は,赤い本という名前は出していないが,死亡慰謝料を一家の支柱について2600万円等とし,逸失利益の生活費控除率については,一般に相当とされている交通事故の賠償の算定基準によることとした。
第3 交通事故の基準より高い慰謝料が認められた例
1 故意の犯罪による被害
札幌地方裁判所平成16年5月13日判決(平成14年(ワ)第1271号)は,少年らが強盗の目的で暴行した事件の被害者の損害賠償の事案である。
判決は,「本件事件は,故意に基づく重大かつ悪質な刑事事件であることからすれば,入通院慰謝料は,通常の交通事故の場合を基準として認定することは相当でなく,その約2倍にあたる260万円と認めるのが相当である。」とし,後遺障害慰謝料も交通事故の場合の2倍とした。
福岡高等裁判所令和元年12月13日判決(令和元年(ネ)第399号)は,暴力団の構成員が元警察官を拳銃で銃撃した事件の損害賠償の事案である。
加害者側は,赤本によれば慰謝料は400万円を超えないと主張したが,判決は,「過失によって惹起されいずれの者も加害者にも被害者にもなり得ることを前提とする交通事故における算定基準に基づく金額をはるかに超える慰謝料が発生したものというべきである。」として,慰謝料1000万円を認めた。
交通事故の基準が過失の事故を前提にしていることを,基準から離れる理由として明示した判決である。
2 医療事故
東京地方裁判所平成18年7月26日判決(平成17年(ワ)第5832号)は,帝王切開の後に腹腔内出血の発見が遅れて母親が死亡した医療事故の事案で,本人と遺族の慰謝料を合計2700万円とした。
判決は,この額が交通事故等による同じ年齢・生活状況の女性の死亡の場合に通常支払われる慰謝料の総額を300万円程度上回るものであるとしたうえで,「医師の注意義務違反の内容と程度及び患者側の受けた損害の内容と程度によっては、患者側の精神的苦痛に対する慰謝料の額が交通事故等の場合よりも高額なものとなる場合もあり得るというべきである。」とした。
その理由として,交通事故では事故の前に当事者の間に法律関係がないのが通常であるのに対し,医療事故では患者と医師の間に契約関係があり,患者は医師を信頼して身を委ねているので,医師に対する信頼を裏切られたことによる精神的苦痛が加わる,と述べている。
この事件の控訴審である東京高等裁判所平成19年9月20日判決(平成18年(ネ)第4253号等,判例秘書の判例番号 L06220824)も,同じ理由を述べる一方で,交通事故でも加害者の過失が悪質な場合等には通常より高額の慰謝料となり得るとして,「一概に,医療事件における場合と交通事故等における場合とで,慰謝料水準が異なるということはできず,具体的事案における慰謝料額は,当該事案における諸般の事情を総合考慮して判断すべきものというほかない。」とした。
そのうえで,この事件では医師が患者との信頼関係に反した程度が高いとして,通常より高額の慰謝料を算定することは事案に即した判断であるとした(慰謝料の総額は維持し,遺族の間の配分を変更した)。
医療事故であることだけで当然に増額されるのではなく,過失の態様と信頼関係に反した程度を具体的に主張する必要があることが分かる。
第4 赤い本と同列に扱えないとされた例
原発事故による避難者の損害賠償について,横浜地方裁判所平成31年2月20日判決(平成25年(ワ)第3707号等,福島第一原発事故損害賠償請求事件)は,ふるさとを失ったことによる慰謝料の額を考えるに当たり,比較の対象として赤い本の死亡慰謝料や後遺障害慰謝料の額を挙げ,「交通事故による死亡者も,何ら理由もなく生命を突然奪われたという点において,原発事故による死亡者とその精神的損害の額を別異に解すべき理由はない。」と述べた。
他方で,同じ判決は,避難生活に伴って続く慰謝料については,赤い本の基準は身体の傷害を前提に治療期間を主な要素として算定するものであるとして,「赤い本が定める傷害慰謝料と,本件において避難生活に伴い継続的に発生する慰謝料とを同列に論じることは困難といわざるを得ない。」とした。
福島地方裁判所郡山支部令和3年7月30日判決(平成27年(ワ)第255号)も,基準となる額を先に定める手法には交通事故の賠償実務と同様の合理性があるとしつつ,避難生活を入院と同じに扱うべきだという主張については,「行動の自由までが失われたとはいえないから,行動の自由の失われる入院慰謝料と同列に評価することはできない。」として退けた。
赤い本の傷害慰謝料の算定表は,身体の傷害と入通院を前提にした物差しであり,それ以外の精神的苦痛にそのまま当てはめることには限界がある。
第5 請求し,又は争うときの注意点
1 費目ごとに基準との関係を示す
本記事で見た判決でも,交通事故以外の事件の当事者の多くが,入通院慰謝料・後遺障害慰謝料・死亡慰謝料・葬儀費用・入院雑費等の費目ごとに,赤い本の基準を出発点とした額を主張していた。
その場合も,事件の性質から基準を上回るべき事情(故意の犯罪であること,加害者と被害者が入れ替わり得ない関係であること,信頼関係や契約関係があったこと,事故後の対応等)があれば,費目ごとに具体的に主張する。
逆に,被告の側では,事件の性質が交通事故と質的に異ならないこと(航空機事故の判決)を指摘して,基準を大きく超える請求を争うことになる。
2 通院期間の数え方と版
通院期間の数え方(実際に通院した日数を基礎にするか,通院期間の全体とするか)は,交通事故でも争いになるが,精神疾患のように通院が長く続く事件では特に影響が大きい(東京地方裁判所令和4年2月22日判決)。
また,赤い本は版ごとに基準が改訂されるので,どの年の版によるかを明示する必要がある。
判決も,「平成二一年版」「平成11年当時」「平成30年版」のように版や時点を示して引用している。
3 判決が基準の名前を出さないこともある
裁判所は,赤い本の名前を出さずに「交通事故の場合」「当時の基準」と書いて同じ水準の額を認めることがある。
本記事で紹介した判決のほかにも,当事者が赤い本の基準で請求し,裁判所がその額を採用した例は多いと考えられるが,本記事では判決の文中で基準との関係に触れたものに限った。
第6 関連記事
死亡事故の損害賠償額は「命の値段」ではない―慰謝料,逸失利益,葬儀費用及び過失相殺の読み方
交通事故の慰謝料が増額される事情―飲酒運転・無免許・ひき逃げ・事故後の態度と立証資料
交通事故のインプラント治療費はどこまで損害になるか―赤い本講演録2025の論評
第7 出典
1 裁判所ウェブサイトに掲載された裁判例
①福岡地方裁判所令和6年4月26日判決(令和4年(ワ)第3980号,損害賠償請求事件)
②東京地方裁判所令和4年2月22日判決(令和元年(ワ)第35109号,損害賠償請求事件)
③名古屋地方裁判所平成15年12月26日判決(平成7年(ワ)第4179号,中華航空エアバス式B1816機事故損害賠償請求事件)
④札幌地方裁判所平成16年5月13日判決(平成14年(ワ)第1271号,損害賠償請求事件)
⑤福岡高等裁判所令和元年12月13日判決(令和元年(ネ)第399号)
⑥東京地方裁判所平成18年7月26日判決(平成17年(ワ)第5832号,損害賠償請求事件)
⑦横浜地方裁判所平成31年2月20日判決(平成25年(ワ)第3707号等,福島第一原発事故損害賠償請求事件)
⑧福島地方裁判所郡山支部令和3年7月30日判決(平成27年(ワ)第255号,原状回復等請求事件)
2 判例秘書で確認した裁判例(裁判所ウェブサイト未掲載)
①福岡地方裁判所令和7年7月16日判決(令和4年(ワ)第2711号,地位確認等請求事件,判例秘書の判例番号 L08051053)
②東京地方裁判所平成31年3月19日判決(平成30年(ワ)第15527号,損害賠償請求事件,判例秘書の判例番号 L07432787)
③前橋地方裁判所平成26年12月26日判決(平成22年(ワ)第970号,損害賠償請求事件,判例秘書の判例番号 L06950732)
④東京高等裁判所平成23年2月24日判決(平成20年(ネ)第5546号,損害賠償請求控訴事件,判例秘書の判例番号 L06620104)
⑤東京高等裁判所平成19年9月20日判決(平成18年(ネ)第4253号・第4878号,損害賠償請求控訴,同附帯控訴事件,判例秘書の判例番号 L06220824)