第1 本記事の対象と結論
1 結論
時効によって消滅した債権でも,その債権が時効で消滅する前に相手方の債権と相殺に適する状態(相殺適状)になっていた場合には,その債権を自働債権として相殺することができる(民法508条)。
相手方が消滅時効を援用した後でも,この要件を満たせば相殺の効力は認められる。
最高裁平成25年2月28日判決は,民法508条が適用されるためには,消滅時効が援用された自働債権が「その消滅時効期間が経過する以前に」受働債権と相殺適状にあったことを要するとした。
そして,受働債権が分割払の貸金のように弁済期の定めのある債権である場合には,受働債権の債務者(相殺をしようとする者)が期限の利益を放棄することができたというだけでは足りず,期限の利益の放棄又は喪失等により弁済期が現実に到来していることを要するとした。
したがって,自分の債権(例えば過払金返還請求権)の時効が迫っているのに,相手方に対する自分の債務(例えば分割払の借入金)の弁済期がまだ来ていない場合には,時効期間が経過する前に,期限の利益を放棄するなどして弁済期を現実に到来させ,相殺の意思表示をしておく必要がある。
2 本記事の対象と調査基準日
本記事は,時効によって消滅した債権を自働債権とする相殺(民法508条)を扱う。
相殺の要件や効果の全体,訴訟上の相殺の抗弁の既判力等は扱わない。
調査基準日は令和8年9月19日である。
条文はe-Gov法令検索(法令API)で取得した現行条文及び令和2年3月31日時点の条文と照合し,裁判例は裁判所ウェブサイトの裁判例検索で判決全文を確認した。
消滅時効全般の論点は,ハブ記事の消滅時効に関するメモ書きで整理している。
第2 民法508条の要件と趣旨
1 条文
民法508条は,「時効によって消滅した債権がその消滅以前に相殺に適するようになっていた場合には、その債権者は、相殺をすることができる。」と定める。
この条文は,平成29年法律第44号による改正の前後で文言が変わっていない。
相殺適状について,民法505条1項本文は,「二人が互いに同種の目的を有する債務を負担する場合において、双方の債務が弁済期にあるときは、各債務者は、その対当額について相殺によってその債務を免れることができる。」と定める。
相殺は当事者の一方から相手方に対する意思表示によってし(民法506条1項),その意思表示は双方の債務が互いに相殺に適するようになった時にさかのぼって効力を生ずる(同条2項)。
2 趣旨
平成25年判決は,民法508条の趣旨を「当事者の相殺に対する期待を保護する」ことにあると述べている。
双方の債権が相殺適状になれば,当事者は,いつでも相殺できる以上,改めて自分の債権を行使しなくても清算されたものと考えがちである。
その期待を,時効の完成によって裏切らないようにするのが民法508条である。
3 要件の整理
民法508条による相殺が認められるための要件は,次のように整理できる。
①自働債権が時効によって消滅したこと(相手方が消滅時効を援用したこと)。
②自働債権の消滅時効期間が経過する以前に,自働債権と受働債権とが相殺適状にあったこと(民法505条1項の要件を満たしていたこと)。
③相殺の意思表示をすること(民法506条1項)。
④相殺が禁止される場合に当たらないこと(民法505条1項ただし書,民法509条等)。
①について,時効の効果は援用によって生ずる(民法145条)。
民法508条は,時効が援用されて自働債権が消滅したとされる場合に,なお相殺を許すものである。
②の相殺適状の時点は,時効期間が「経過する以前」でなければならず,時効期間の経過後に初めて相殺適状になった場合には民法508条は適用されない。
第3 最高裁平成25年2月28日判決
1 事案
最高裁判所第一小法廷平成25年2月28日判決(平成23年(受)第2094号,民集67巻2号343頁)の事案は,次のとおりである。
借主は,貸金業者との間で,平成7年4月から平成8年10月29日まで利息制限法所定の制限を超える利息の約定で継続的な金銭消費貸借取引を行い,同日時点で18万0953円の過払金が発生していた。
借主は,平成14年1月に別の貸金業者から457万円を借り入れ,平成14年3月から平成29年2月まで毎月分割弁済し,支払を遅滞したときは当然に期限の利益を喪失する旨を約した。
平成15年1月に過払金の相手方の貸金業者がこの別の貸金業者を吸収合併し,借主に対する貸主の地位を承継した。
借主は平成22年7月1日の返済期日の支払を遅滞し,同日の経過をもって期限の利益を喪失した。
借主は,同年8月17日,過払金返還請求権等を自働債権とし,貸付金残債権を受働債権として相殺の意思表示をし,貸金業者は,同年9月28日,過払金返還請求権について,取引終了時から10年が経過したとして消滅時効を援用した。
原審は,借主は期限の利益を放棄しさえすれば相殺することができたのであるから,合併によって債権債務が対立した平成15年1月6日の時点で相殺適状にあったとして,民法508条による相殺を認めた。
2 判示
最高裁は,民法505条1項が相殺適状につき「双方の債務が弁済期にあるとき」と規定していることから,その文理に照らせば,自働債権のみならず受働債権についても弁済期が現実に到来していることが相殺の要件とされていると解されるとした。
また,受働債権の債務者がいつでも期限の利益を放棄することができることを理由に相殺適状にあると解することは,その債務者が既に享受した期限の利益を自ら遡及的に消滅させることとなって相当でないとした。
その上で,「既に弁済期にある自働債権と弁済期の定めのある受働債権とが相殺適状にあるというためには,受働債権につき,期限の利益を放棄することができるというだけではなく,期限の利益の放棄又は喪失等により,その弁済期が現実に到来していることを要する」と判示した。
そして,民法508条の趣旨に照らせば,同条が適用されるためには,消滅時効が援用された自働債権はその消滅時効期間が経過する以前に受働債権と相殺適状にあったことを要すると解されるとした。
本件では,相殺適状になったのは貸付金残債権の期限の利益が喪失した平成22年7月1日の経過時であり,その時点で過払金返還請求権の消滅時効期間は既に経過していたから,民法508条は適用されず,借主の相殺は効力を有しないとした。
最高裁は,相殺の効力を認めた原判決を破棄し,根抵当権設定登記の抹消を求める本訴請求を棄却し,貸金業者の反訴請求(貸付金の残額等)については審理を尽くさせるため原審に差し戻した。
3 判決から導かれる実務上の注意
平成25年判決の事案で,借主が過払金返還請求権の消滅時効期間(取引終了から10年)が経過する前に期限の利益を放棄して相殺の意思表示をしていれば,結論は異なった可能性がある。
期限の利益は放棄することができる(民法136条2項本文)が,同項ただし書は「これによって相手方の利益を害することはできない」と定めているので,利息付きの借入金について期限の利益を放棄する場合には,弁済期までの利息の扱いが問題となり得る。
弁済期が現実に到来しているかどうかが基準とされた以上,「いつでも相殺できたはずだ」という事情は民法508条の場面では考慮されないと考えておくべきである。
過払金返還請求権の消滅時効の起算点は,過払金返還請求権の消滅時効はいつから進行するか―取引終了時とした最高裁平成21年1月22日判決で扱う。
第4 除斥期間への類推適用(最高裁昭和51年3月4日判決)
最高裁判所第一小法廷昭和51年3月4日判決(昭和50年(オ)第485号,民集30巻2号48頁)は,改正前民法637条所定の期間が経過した請負契約の目的物の瑕疵修補に代わる損害賠償請求権を自働債権とし,請負人の報酬請求権を受働債権とする相殺について,民法508条の類推適用があると判示した。
同判決は,改正前民法637条1項の期間(引渡しから1年)が除斥期間であることを前提としつつ,その期間経過前に請負代金請求権と損害賠償請求権とが相殺適状に達していたときは,期間経過後であっても注文者は相殺をすることができるとした。
理由として,請負代金支払義務と目的物引渡義務は対価的牽連関係に立ち,瑕疵修補に代わる損害賠償請求権は実質的・経済的には請負代金を減額して等価関係をもたらす機能を有すること,注文者が両債権は対当額で消滅したものと信じて権利を行使しないまま期間が経過しても,そのために注文者に不利益を与えるのは酷であり,公平の見地からその信頼は保護されるべきこと,このことは期間が時効期間であるか除斥期間であるかで結論を異にすべき合理的理由がないことを挙げた。
同判決は,これと異なる大審院判例を変更している。
現行民法637条は,期間制限を「知った時から一年以内」の通知に改めた。
現行法の下で,通知期間を徒過した契約不適合による損害賠償請求権を自働債権とする相殺に民法508条が類推適用されるかについて判示した最高裁判例は,調査基準日時点で確認できなかったが,昭和51年判決の理由付けは現行法にも当てはまり得ると考えられる。
契約不適合責任の期間制限は,契約不適合責任の期間制限―1年以内の通知,5年・10年の消滅時効及び旧瑕疵担保責任の判例で扱う。
第5 具体例と注意点
1 日付による具体例
具体例①として,AがBに対し,弁済期を令和3年4月30日とする売買代金債権を有し,BがAに対し,弁済期を令和3年6月30日とする貸金債権を有していたとする。
双方の債権は令和3年6月30日に相殺適状となる。
Aの売買代金債権は,Aが弁済期を知っていれば,令和3年4月30日から5年の経過により消滅時効が完成し得る(民法166条1項1号)。
その後にBが貸金の支払を請求し,Aが相殺を主張したのに対してBが売買代金債権の時効を援用しても,時効期間の経過前に相殺適状にあったから,Aは民法508条により相殺することができる。
具体例②として,Bの貸金債権が分割払で,最終弁済期が令和10年6月30日であったとする。
Aの売買代金債権の時効期間が経過する前に,Bの貸金債権の全部について弁済期が現実に到来していなければ,平成25年判決によれば,Aは時効期間経過後に民法508条による相殺をすることができない。
Aとしては,時効期間の経過前に,期限の利益を放棄して相殺の意思表示をするか,売買代金債権について訴えの提起等によって時効の完成を妨げておく必要がある。
2 相殺が禁止される場合
民法508条は時効による消滅という障害を除くだけであり,相殺禁止の規定の適用を免れさせるものではない。
例えば,悪意による不法行為に基づく損害賠償の債務や,人の生命又は身体の侵害による損害賠償の債務の債務者は,相殺をもって債権者に対抗することができない(民法509条)。
民法509条等の相殺禁止については,施行日前に債権が生じた場合の経過措置がある(平成29年法律第44号附則26条2項)。
3 時効期間の判断と経過措置
民法508条の要件②では,自働債権の消滅時効期間がいつ経過したかを判断する必要がある。
自働債権が施行日(令和2年4月1日)前に生じた場合(施行日以後に生じた場合で,その原因である法律行為が施行日前にされたときを含む。)には,その消滅時効の期間は改正前民法による(平成29年法律第44号附則10条4項)。
改正前民法の職業別の短期消滅時効や商法旧522条の商事消滅時効の適用がある債権では,時効期間の経過時点が大きく前にずれることがあるので注意を要する。
経過措置の詳細は,消滅時効は改正前民法と改正後民法のどちらで判断するか―附則10条・35条の経過措置と振り分け表で扱う。
4 訴訟での主張
訴訟では,相手方の請求に対して,時効消滅した自働債権による相殺を抗弁として主張することが多い。
この場合,相殺の抗弁を主張する側は,自働債権の発生・弁済期と,その消滅時効期間の経過前に受働債権の弁済期が現実に到来していたことを主張立証することになる。
相殺の抗弁の既判力や二重起訴との関係は,相殺の抗弁に関するメモ書き―既判力,二重起訴の禁止及び相殺の担保的機能で扱っている。
第6 関連記事
①ハブ記事:消滅時効に関するメモ書き
②相殺の抗弁に関するメモ書き―既判力,二重起訴の禁止及び相殺の担保的機能
③過払金返還請求権の消滅時効はいつから進行するか―取引終了時とした最高裁平成21年1月22日判決
④契約不適合責任の期間制限―1年以内の通知,5年・10年の消滅時効及び旧瑕疵担保責任の判例
⑤消滅時効は改正前民法と改正後民法のどちらで判断するか―附則10条・35条の経過措置と振り分け表
⑥消滅時効を援用できるのは誰か―保証人・物上保証人・第三取得者,後順位抵当権者及び詐害行為の受益者
第7 出典・参考資料
1 法令
①民法136条,145条,166条,505条,506条,508条,509条(e-Gov法令APIで令和8年9月19日に取得した現行条文),改正前民法505条,508条(令和2年3月31日時点)
②民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)附則10条,26条
2 裁判例
①最高裁判所第一小法廷昭和51年3月4日判決(昭和50年(オ)第485号,民集30巻2号48頁)
②最高裁判所第一小法廷平成25年2月28日判決(平成23年(受)第2094号,民集67巻2号343頁)