第1 この記事の対象と結論
1 この記事の対象
信託銀行の遺言信託を利用した遺言者が亡くなると,信託銀行は保管していた遺言書を相続人等に開示し,その後,遺言執行者として相続手続を進めるのが一般的な流れである。
もっとも,遺言書で信託銀行が遺言執行者に指定されていても,遺言書を開示した時点で,その銀行が遺言執行者として任務を開始しているとは限らない。
本記事は,信託銀行がいつ遺言執行者に就任するのかを,民法の用語である「就職」を用いて,遺言書での指定,死亡連絡と遺言書の開示,就職の審査,就職の承諾と通知及び任務の遂行という段階に分けて説明する。
本記事は,令和8年9月25日時点でe-Gov法令検索に掲載されている民法の条文,裁判所ウェブサイトに掲載された最高裁判所の判決,法務省の公表資料,立案担当者の解説書並びに信託銀行及び信託協会の公開案内に基づいて作成した。
2 結論
遺言執行者として任務を行う義務が生じる基準は,遺言書の開示ではなく,指定された者が就職を承諾した時である(民法1007条1項)。
他方で,相続人が相続財産の処分その他遺言の執行を妨げるべき行為をすることができないという制限(民法1013条1項)について,最高裁判所は,指定された者が就職を承諾する前であっても及ぶとしている(最高裁昭和62年4月23日第一小法廷判決)。
そのため,遺言書の開示から就職の承諾までの間は,信託銀行がまだ遺言執行者として執行事務を始めていない一方で,相続人も遺言の内容に反する処分を自由にはできない期間となる。
相続人側は,遺言書の開示日,就職を承諾した日,就職通知書の日付及び遺言の内容の通知を別々に確認し,就職の判断が長引く場合には民法1008条の催告を検討することになる。
第2 指定から執行完了までの5段階
1 5段階の整理
信託銀行が遺言執行者に指定された場合の流れを,本記事では次の5段階に整理する。
このうち②と③は,指定された信託銀行が就職を承諾する前の段階である。
| 段階 | 主な出来事 | 民法上の位置付け | 相続人側が確認すること |
|---|---|---|---|
| ①遺言書で指定 | 遺言者が公正証書遺言で信託銀行を遺言執行者に指定し,銀行が遺言書を保管する | 遺言で遺言執行者を指定することができる(1006条1項)。遺言の効力は遺言者の死亡の時から生ずる(985条1項) | 遺言書の写し,遺言信託の約定書 |
| ②死亡連絡・遺言開示 | 通知人が死亡を連絡し,銀行が相続人等に遺言書を開示する | 就職の承諾前。ただし,相続人の処分の制限(1013条)は既に及ぶ | 開示を受けた日,開示を受けた相続人等の範囲 |
| ③就職の審査 | 相続人の確定,財産の変動,遺言内容の実現可能性を銀行が調査する | 就職の承諾前。承諾するか辞退するかの判断過程 | 審査の見込み期間,提出を求められた資料 |
| ④就職承諾・就職通知 | 銀行が就職を承諾し,相続人に就職を通知する | 承諾により直ちに任務を行う義務が生じ(1007条1項),任務の開始時に遅滞なく遺言の内容を通知する(同条2項) | 就職を承諾した日,通知書の日付,遺言の内容の記載の有無 |
| ⑤財産調査・換価・分配・完了報告 | 財産調査,財産目録の作成・交付,換価・名義変更・分配,完了の報告 | 財産目録の作成・交付(1011条1項),遺言の執行に必要な一切の行為をする権利義務(1012条1項) | 財産目録,執行の対象となる財産の範囲,費用 |
表の各段階は,次の2で紹介する信託銀行の公開案内に記載された流れを,民法の条文に対応させて並べたものである。
銀行ごとの手続の細部や所要期間は,遺言信託の約定書及び銀行からの個別の案内で確認することになる。
就職した後の財産目録,換価・名義変更,税務等の具体的な進み方は,信託銀行が遺言執行者に就任した後の手続とスケジュールで説明している。
①の段階で遺言者と家族が確認しておくべき費用や辞退の条件は信託銀行の遺言信託を利用する遺言者と家族の注意事項で,⑤の段階で株式・投資信託等を売却して分配する際の問題は遺言執行者が相続株式・有価証券を売却して分配する際の実務上の問題点で扱っている。
遺言で清算金の一部を信託へ拠出するよう定めている場合は,遺言執行者の就職とは別に受託者の引受けも確認する必要があり,その手順は清算型遺言の清算金から信託を設定する場合で説明している。
2 信託銀行の公開案内での書き方
(1) 開示と就職を別の項目にしている例
三菱UFJ信託銀行の「遺言信託[遺心伝心]」の手続の流れの案内は,遺言の執行の段階として「ご逝去のご通知」,「遺言書の開示」,「遺言執行者への就職」及び「財産調査へのご協力」を順に別の項目として掲げている。
同案内は,通知人から逝去の通知を受けると相続人等関係者に保管している遺言書を開示するとした上で,就職については「相続人確定・財産変動等、遺言内容の実現性を調査・確認のうえ、遺言執行者に就職いたします。」と記載している。
この案内の上でも,遺言書の開示と遺言執行者への就職の間には,相続人の確定や遺言内容の実現性の調査という段階が置かれている。
(2) 開示と就任を一つの項目にまとめている例
三井住友信託銀行の遺言信託の案内は,「遺言書のご披露と遺言執行者就任」を一つの項目とし,遺言書の内容を相続人・受遺者に披露した「その後」に遺言執行者に就任すると記載している。
信託協会の遺言信託の案内も,相続開始後の流れとして,信託銀行等が遺言書の内容を相続人などに披露し,遺言執行者となって執行業務を始めることを一つの項目で説明している。
みずほ信託銀行の遺言執行引受予諾業務の案内は,相続開始の通知を受けると相続人・受遺者に遺言執行者に就職する旨を連絡して執行を開始するとしつつ,「遺言執行が著しく困難な場合は、遺言執行者への就職を辞退させていただくこともあります。」と記載している。
このように,開示(披露)と就職(就任)を一続きの流れとして書く案内があるため,これを読んだ相続人が,遺言書の開示を受けた日を就職の日と受け止めやすい。
もっとも,三井住友信託銀行の案内も,就任を披露の「その後」と記載しており,開示と就職が同じ時点であるとしているわけではない。
銀行から示される予定表で「遺言開示」,「就職通知」,「財産調査」及び「財産目録交付」が続けて記載されていても,それぞれが別の手続であることに変わりはない。
第3 就職の承諾が任務開始の基準となること
1 民法1007条の定め
(1) 就職の承諾と任務の開始
民法1007条1項は,「遺言執行者が就職を承諾したときは、直ちにその任務を行わなければならない。」と定めている。
任務を行う義務が生じる時点は,遺言が効力を生ずる遺言者の死亡の時(民法985条1項)でも,遺言書が開示された時でもなく,指定された者が就職を承諾した時に結び付けられている。
就職を承諾した遺言執行者が,遺言の執行に必要な一切の行為をする権利義務(民法1012条1項)に基づいて執行事務を進め,遅滞なく財産目録を作成して相続人に交付する(民法1011条1項)という順序になるため,本記事では,遺言執行者としての本格的な執行権限が動き始める基準を就職の承諾と整理する。
指定された者は就職を承諾するかどうかを判断することができ,承諾前に辞退することについて家庭裁判所の許可を要するとする規定は置かれていない。
(2) 任務開始時の遺言の内容の通知
民法1007条2項は,「遺言執行者は、その任務を開始したときは、遅滞なく、遺言の内容を相続人に通知しなければならない。」と定めている。
この項は平成30年法律第72号による民法改正で設けられたものであり,法務省の新旧対照条文でも改正前の欄は「(新設)」とされている。
同項が通知を求めているのは「遺言の内容」であり,就職を承諾した旨の通知について定めた規定ではない。
信託銀行から届く就職通知書が同項の通知を兼ねているかどうかは,通知書に遺言の内容が記載され,又は添付されているかで確認することになる。
2 開示や資料提出は就職の承諾を意味しないこと
遺言書の開示,遺言の内容と今後の予定の説明,相続人の確定や財産の変動を調べるための戸籍謄本・財産資料の提出は,前記の三菱UFJ信託銀行の案内でいえば「遺言執行者への就職」より前の段階に当たる。
これらの手続が行われたことだけから,信託銀行が就職を承諾したと判断することはできない。
相続人側が資料を提出したことも,信託銀行が就職を承諾するかどうかを判断する材料を提供したにとどまる。
就職を承諾したかどうかは,承諾した日と就職通知書の日付を銀行に書面で確認するのが確実である。
第4 就職の承諾前でも相続人の処分は制限されること
1 最高裁昭和62年4月23日判決
最高裁判所第一小法廷昭和62年4月23日判決(昭和61年(オ)第264号,民集41巻3号474頁)は,遺贈の目的とされた不動産について相続人がした処分の効力等が争われた第三者異議訴訟の上告審判決である。
同判決は,相続人が民法1013条に違反して遺贈の目的不動産を第三者に譲渡し,又は第三者のために抵当権を設定してその登記をしたとしても,その処分行為は無効であり,受遺者は遺贈による所有権取得を登記なくして処分行為の相手方である第三者に対抗することができるとした。
その上で,同条にいう「遺言執行者がある場合」とは,「遺言執行者として指定された者が就職を承諾する前をも含むものと解するのが相当である」とし,相続人の処分行為が就職の承諾前にされた場合であっても,その行為は「その効力を生ずるに由ないものというべきである」とした。
2 承諾前でも制限される理由
同判決は,民法1012条1項及び1013条が「遺言者の意思を尊重すべきものとし、遺言執行者をして遺言の公正な実現を図らせる目的に出たもの」であるとし,このような法の趣旨に照らして,就職の承諾前も「遺言執行者がある場合」に含まれると判断した。
指定された者が就職を承諾するまでには,前記の③の審査のために一定の期間がかかる。
その間に相続人が遺言の内容に反して相続財産を処分できるとすれば,就職した遺言執行者が遺言を実現しようとしたときには目的の財産が失われていることになりかねず,本記事では,同判決はこうした事態を防ぐ趣旨に立つものと理解する。
したがって,信託銀行がまだ執行事務に着手していない段階でも,相続人が遺言の対象となった財産を売却したり担保に入れたりすることは,民法1013条による制限を受ける。
なお,同判決は就職の承諾前にされた処分を対象とするものであり,指定された者が最終的に就職を辞退した場合の扱いまでを述べたものではない。
3 現行民法1013条2項ただし書
(1) 改正で設けられた善意の第三者の保護
同判決の当時の民法1013条には,現在の1項に当たる規定しかなかった。
平成30年法律第72号による改正で2項及び3項が設けられ,現行の2項は「前項の規定に違反してした行為は、無効とする。ただし、これをもって善意の第三者に対抗することができない。」と定めている。
この改正は,一部の規定を除き令和元年7月1日に施行され,法務省の説明によれば,施行日前に開始した相続については原則として改正前の規定が適用される。
現行法の下では,相続人が就職の承諾前に遺言の対象財産を処分した場合も,その処分は同項本文により無効とされ,相手方が善意の第三者に当たるときは,その者に無効を対抗することができないことになる。
(2) 「善意」の意味
立案担当者の解説は,同項ただし書によって治癒されるのは相続人に処分権限がなかったことに限られるとした上で,ここでの「善意」は,遺言執行者がおり,その財産の管理処分権が遺言執行者にあることを知らなかったことを意味することになると考えられると説明している(堂薗幹一郎・野口宣大編著『一問一答 新しい相続法』商事法務,2019年,173頁~174頁)。
同書は,ただし書が適用されても,その第三者が相続人から取得した権利を当然に他の第三者に対抗できるわけではないとも説明している(同書174頁)。
就職の承諾前の段階で,第三者が遺言執行者の指定を知っていたが就職の有無を知らなかった場合をどう扱うかについて,本記事で確認した資料は特に述べていない。
4 制限が及ぶ範囲
(1) 特定の財産に関する遺言
遺言が相続財産のうち特定の財産に関するものである場合,民法1011条から1013条までの規定は,その財産についてのみ適用される(民法1014条1項)。
そのため,遺言の対象となっていない財産についてまで,民法1013条による処分の制限が当然に及ぶわけではない。
また,三菱UFJ信託銀行の案内は,遺言執行の対象を,遺産のうち遺言者が遺言執行の対象として指定した相続財産に限るとしており,銀行が実際に手続を行う財産の範囲は,遺言書と約定書の双方で確認することになる。
(2) 相続人の債権者による権利行使
民法1013条3項は,同条1項及び2項の規定は,相続人の債権者(相続債権者を含む。)が相続財産についてその権利を行使することを妨げないと定めている。
立案担当者の解説は,これに当たるものとして,相続債権者等による差押え等の強制執行や相殺の意思表示等を挙げている(前記『一問一答 新しい相続法』174頁)。
同書によれば,この規定は,相続債権者等の権利行使の有効性が,遺言執行者の有無という相続債権者等が知り得ない事情によって左右されないようにするためのものである(同書174頁)。
第5 相続人側が確認し,働きかけられること
1 日付を分けて確認する
(1) 区別して記録する日付
就職の有無を確認するときは,次の日付を区別して記録しておくと,後に辞退の申入れ,催告又は家庭裁判所への申立てを検討するときの基礎になる。
①死亡を連絡した日
②遺言書の開示を受けた日
③信託銀行が就職を承諾した日
④就職通知書の日付及び相続人に届いた日
⑤遺言の内容の通知(民法1007条2項)がされた日
⑥財産目録が交付された日
(2) 予定と実際の区別及び相続放棄の期間
銀行の予定表や案内状にこれらの日付が続けて書かれている場合でも,③から⑤までが現に到来したのか,予定にとどまるのかを書面で確認する。
就職の判断を待つ間も,相続人が相続の承認又は放棄をすべき期間(自己のために相続の開始があったことを知った時から3か月以内)は進行する(民法915条1項本文)。
財産の内容が分からないまま期間が迫る場合は,家庭裁判所に期間の伸長を請求することを検討することになる(同項ただし書)。
2 民法1008条の催告
(1) 条文の内容
民法1008条は,「相続人その他の利害関係人は、遺言執行者に対し、相当の期間を定めて、その期間内に就職を承諾するかどうかを確答すべき旨の催告をすることができる。この場合において、遺言執行者が、その期間内に相続人に対して確答をしないときは、就職を承諾したものとみなす。」と定めている。
催告をすることができるのは相続人に限られず,利害関係人も含まれる。
期間内に確答がないときの効果は,辞退ではなく,就職の承諾の擬制である。
(2) 催告を使う場面
催告は,信託銀行の就職の判断が長引き,早く執行事務を始めてもらいたい場合の手段となる。
反対に,信託銀行に辞退してほしいと考えている場合に催告をすると,期間内に確答がなければ就職を承諾したものとみなされ,辞退を求める余地を自ら狭めることになりかねない。
後日の証明のため,催告は,定めた期間と催告をした日が分かる書面で行うことが考えられる。
信託銀行に辞退を申し入れる方法や,就職の前後で扱いが異なる点は,信託銀行に遺言執行者を辞退・辞任してもらう方法で説明している。
3 辞退された場合の家庭裁判所による選任
指定された信託銀行が就職を辞退した場合は遺言執行者がないことになり,家庭裁判所は,利害関係人の請求によって遺言執行者を選任することができる(民法1010条)。
遺言執行者を置かずに相続人等が協力して遺言の内容を実現する方法を含め,辞退後の手続の選び方は,清算型遺言(財産を換金して分ける遺言)の実現方法で説明している。
家庭裁判所が選任した遺言執行者の報酬は,家庭裁判所が選任した遺言執行者の報酬の目安で扱っている。
4 就職後の辞任には家庭裁判所の許可が必要であること
就職を承諾した後は,遺言執行者は,正当な事由があるときに,家庭裁判所の許可を得て,その任務を辞することができるにとどまる(民法1019条2項)。
遺言執行者が任務を怠ったときその他正当な事由があるときは,利害関係人が家庭裁判所に解任を請求することもできるが(同条1項),いずれも家庭裁判所の判断を経る手続である。
このため,信託銀行による執行を望まない事情があるときは,就職の承諾前の段階で銀行に意向を伝えておくかどうかが,その後の手続の負担を左右することになる。
遺言執行者が就職した後に相続人として注意すべき点は,遺言執行者が指定されている場合の相続人の注意点で説明している。
第6 出典
1 法令
① e-Gov法令検索・民法(915条,985条,1006条,1007条,1008条,1010条~1014条,1019条)
2 裁判例
① 最高裁判所第一小法廷昭和62年4月23日判決(昭和61年(オ)第264号,民集41巻3号474頁)
3 法務省の公表資料
① 法務省「民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律について(相続法の改正)」
② 法務省「民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律新旧対照条文」(8頁(PDF10頁),民法1007条・1013条)
③ 法務省「経過措置について」
4 文献
① 堂薗幹一郎・野口宣大編著『一問一答 新しい相続法―平成30年民法等(相続法)改正,遺言書保管法の解説』(商事法務,2019年)173頁~174頁
5 信託銀行及び業界団体の公開案内
① 三菱UFJ信託銀行「遺言信託[遺心伝心]お手続きの流れ」
② 三井住友信託銀行「遺言信託の仕組みと流れ」
③ みずほ信託銀行「遺言執行引受予諾業務」
④ 一般社団法人信託協会「遺言信託」