第1 AIを使ったかより,要求の内容を確認する
従業員から,法律用語や判例の引用を含む長い要求書面が届いても,AIで作成されたという理由だけで請求を否定してはならない。
反対に,整った文章や多数の引用だけで,記載された事実や請求額が正しいと認めることもできない。
会社が確認すべき対象は,要求の内容,具体的な事実,証拠,法的根拠,金額及び期限である。
AI使用の有無が確定していない書面にも,同じ確認手順を使える。
本記事は,中小企業の経営者,人事・労務担当者が書面を受け取った時点から回答準備までを整理するものである。
残業代,ハラスメント,解雇等について個別の請求が成立するかは,事実と適用法令に基づき別途判断する。
以下の受付票や確認表は実務上の提案であり,法律が定める必須様式ではない。
第2 受領した日に保全・期限・担当を確認する
1 原書面と受領経緯を保存する
メール本文,添付ファイル,送信者・宛先・受領日時,封筒,配達記録及び関連するやり取りを保存する。
紙の書面をPDFにした場合も,紙原本の所在を残す。
内容を整理する作業用の写しと,受領したままの資料を分ける。
勤怠,賃金,評価,配置,チャット等の関連記録について,通常の保存期限や自動削除が迫っていないかを確認し,必要な範囲の保全を担当者へ依頼する。
会社に有利な資料だけを選ばず,反対の事実を示す資料も残す。
閲覧者は対応に必要な者に限る。
私物端末や私的アカウントの調査は,会社の資料保全と同じ権限でできると考えず,対象・方法・根拠を先に確認する。
2 相手の希望回答日と手続上の期限を分ける
| 届いたもの | 最初に確認すること |
|---|---|
| 従業員本人又は代理人からの要求書 | 要求内容,受領日,希望回答日,既にした回答,交渉や契約上の約束 |
| 裁判所からの呼出状・答弁書催告状等 | 裁判所名,事件番号,書類全体,受領日,提出期限,期日及び対応を依頼する担当 |
| 労働基準監督署・労働局等からの連絡 | 機関・担当者,手続の種類,確認事項,指定期限及び資料の提出範囲 |
相手方が設定した希望回答日と,裁判所等が指定した提出期限は性質が違う。
しかし,希望回答日だから放置してよいという意味ではない。
契約,既存の合意,紛争の経過及び安全確保の必要性を確認し,対応方針を決める。
労働審判規則14条は「労働審判官は、答弁書の提出をすべき期限を定めなければならない。」と定める。
裁判所からの書類が届いた場合は,従業員への受領連絡で手続上の回答を済ませたと扱わず,指定期限を独立して管理する。
3 資料がそろう前でも緊急事項を伝える
裁判所等の期限が迫る場合,懲戒・解雇・配置変更を予定している場合,心身の安全や証拠の消失に関わる場合は,資料が全部そろうまで相談を待たない。
期限,予定する措置及び手元にある書類を先に弁護士へ示す。
受付担当,資料を集める担当,対外回答の承認者及び代替者を決める。
被申告者本人だけに相談対応や調査結果の決定を任せることが適切かも確認する。
第3 長い書面を確認表に分解する
1 要求・事実・証拠・法律を混ぜない
| 確認する項目 | 書き出す内容 |
|---|---|
| 要求 | 支払,調査,是正,処分撤回,資料開示等の求めを分ける |
| 事実 | 主張される日時,行為者,場所及び具体的な行為 |
| 証拠 | 添付の有無,資料の所在及びその資料で確認できる範囲 |
| 法的根拠 | 法令・裁判例等の原典,適用時点及び要求との関係 |
| 金額 | 期間,単価,数量・時間,計算,既払額及び重複 |
| 会社の確認結果 | 確認できた点,争いがある点及び現時点で不明な点 |
| 既存の説明・回答 | 既に確認・回答した事項とその記録 |
| 今回初めて示された情報 | 新しい具体的事実,資料又は要求の有無 |
| 必要な追加確認 | 判断に関わる不足事項,確認先及び担当 |
| 回答・次の連絡 | 今回回答できる部分,確認中の部分及び実行できる連絡予定 |
書面の順番に従って反論文を作る前に,要求ごとに一つずつ対応させる。
同じ事実が何度も書かれている場合は,出現箇所を残してまとめる。
要約によって,相手の条件や例外,請求対象期間を落とさない。
2 引用は原典へ戻る
法令はe-Gov等の原文で,法令名,条項,施行日及び対象となる行為の時点を確認する。
裁判例は裁判所,判決等の日付,事件番号,原文及び引用箇所を照合する。
実在する判例でも,事実関係や判断した論点が違えば,同じ結論を当てはめられるとは限らない。
引用先が見つからない場合は,「原文未確認」として追加情報を求める。
見つからないことだけで架空と確定せず,書面全体の請求も一括して無効と扱わない。
別のAIが同じ回答をしたことも,原典確認の代わりにはならない。
第4 会社側の資料と照合する
1 賃金・労働時間に関する要求
雇用契約・労働条件通知書,就業規則・賃金規程,対象期間の勤怠,業務指示,メール・チャット,給与計算及び支払記録を対応させる。
打刻,パソコンの使用記録,本人の申告等の意味は同じではなく,一つの記録だけで全労働時間を確定しない。
計算の点検では,対象期間,基礎となる賃金,時間数,適用する率,控除・既払額等について,どこが争点かを整理する。
定額の手当があることだけで,残業代の支払が不要と判断しない。
具体的な計算と法的評価は資料を示して相談する。
2 ハラスメントに関する要求
いつ,どこで,誰からどの言動を受けたという相談かを確認し,相談者,行為者とされる者及び必要な第三者から事実関係を確かめる。
相談者の心身の状態やプライバシーへの配慮,安全確保と調査の公正さを両立させる必要がある。
厚生労働省の令和2年2月10日雇均発0210第1号通達は,パワーハラスメントに該当するか微妙な場合も広く相談の対象に含めることを説明している。
法律用語の誤りが含まれることと,相談に対応する必要性は分けて判断する。
調査体制と記録管理は,内部通報・ハラスメント調査の進め方を参照されたい。
第5 受領連絡と実質的な回答を分ける
1 確認中の段階で結論を約束しない
受領連絡では,受領した書面,担当窓口,確認する事項及び次の連絡の予定を具体的に伝える。
次のような形が考えられるが,実際に確認できる日程と,既にした説明や契約に合わせる必要がある。
「○月○日付の書面及び添付資料を受領しました。記載された要求について,対象期間の記録等を確認しています。連絡窓口は○○です。○月○日までに,確認状況又は回答予定をご連絡します。」
これは支払や責任を認める文案でも,法的効果を一律に否定する文案でもない。
追加資料を求める場合は,何の確認に必要かを伝える。
相手方の指定日までに実質回答ができない場合も,裁判所等の期限が別にあるかを確認し,実行できる予定と対応方針を決める。
2 回答は確認結果と要求を対応させる
認める事実,説明が食い違う事実,まだ確認できない事実を分け,要求ごとの会社の判断と根拠資料を整理する。
民間の回答書面での「確認できない」と,訴訟等の認否の効果は同じではない。
裁判手続での認否・提出書面は別途検討する。
担当者の独断で全面否認,支払約束,権利放棄を求める合意又は処分を行わず,必要な社内承認と専門家の確認を経る。
回答後は送付した版,送付日時・方法,追加確認事項及び次の期限を保存する。
3 確認できた部分から回答する場合の文例
全ての要求について同時に結論を出せない場合は,確認できた事項と確認中の事項を分けて回答する方法がある。
次の文例は法定書式ではなく,実際の確認状況に合わせて用いるものである。
○月○日付の書面及び資料を確認しました。
要求事項のうち,○○については,○○の記録及びご説明を確認した結果,現時点では○○と判断しています。
ご指摘の○○の事情についても,○○という理由から,この判断を変更する事情とは考えていません。
一方,○○については,判断に必要な○○の確認を続けており,○月○日までに回答又は確認状況をご連絡します。
上記の判断に関わる未提出の具体的な資料がある場合は,その内容をお知らせください。
判断を維持する場合は,申出全体について一括して「新しい事実はない」と書くよりも,争点と確認した資料を特定し,結論に影響しないと考えた理由を示す方が説明しやすい。
判断に重要な新資料が提出された場合には,その影響を改めて確認する。
4 会社の確認作業を重複させない進め方
必要な質問は,確認したい事項と理由が分かる形でまとめる。
既に提出された資料や回答済みの事項を担当者間で共有し,同じ質問を別々の部署から繰り返さないようにする。
対外的な受付窓口をまとめることと,社内の確認・判断を受付担当者だけで行うことは別である。
第2の3で決めた担当・承認者の役割を使い,申出の対象者自身の対応が問題となっている場合には,確認体制の公正さも点検する。
同じ主張が繰り返された場合は,既に回答した対象事項と回答日を示し,今回新たに確認する事項があるかを整理する。
具体的な新資料や安全上の問題を確認せずに一律に対応を打ち切る方法は適切ではない。
ハラスメント調査後の追加確認の考え方は,同僚間のパワハラが疑われたときの会社対応の第9も参照されたい。
第6 AI使用を理由とする不利益取扱いを避ける
労働基準法104条2項は,監督機関への申告を理由とする「解雇その他不利益な取扱」を禁止する。
これは監督機関への申告についての規定であり,すべての社内要求書に同じ条項が当然に適用されるという意味ではない。
パワーハラスメントに関する相談等についても,前記厚生労働省通達は,これを理由とする解雇その他不利益な取扱いの禁止を説明する。
AIを使った書面であっても,何を申し出たものかを実質で確認する。
労働契約法15条は,懲戒について,客観的に合理的な理由を欠き,社会通念上相当と認められない場合に無効となることを定める。
AIを使ったこと又は法的根拠を取り違えたことだけで,懲戒が当然に正当化されるわけではない。
業務上の秘密の外部入力,威迫等の具体的行為が問題となる場合は,その事実,規程,必要性,態様及び処分の相当性を,権利行使への対応と区別して検討する。
要求内容の調査と,別の行為に関する調査を混ぜて結論を先に決めない。
外国の例では,オーストラリアの労使紛争を扱うフェアワーク・コミッションのガイダンスノートが,生成AIを使ったことを伝えても,要件を守っている限り書面の中身の扱いは変わらないとしている(第26項)。
同コミッションが委託した調査では,アンケートに答えた不当解雇等の事件の相手方の57%が,申立人が生成AIを使っていると感じたと答えている。
ガイダンスノート第26項は同コミッションに出す書面についての外国の定めであり,日本の会社の取扱いを直接定めるものではないが,AIを使ったかどうかではなく内容で判断するという本記事第1の考え方と同じ方向にあるといえる。
その内容は,オーストラリアの労使紛争で生成AIの利用開示が義務にで整理している。
第7 顧問弁護士への相談で用意するもの
①受領した書面と添付,封筒・メール等の受領記録
②会社が既に送った回答と当事者間のやり取り
③要求ごとの確認表と時系列
④契約・規程・勤怠・賃金等の原資料と所在
⑤裁判所・行政機関等の書類,期限及び予定する人事措置
⑥会社として実現したいこと,決裁者,担当・代替者
最初の相談で,助言だけか,回答書作成,交渉,調査又は裁判対応まで依頼するかを確認する。
顧問契約があっても,すべての作業が含まれるとは限らない。
相談メールを送っただけで,提出期限の管理や相手方への連絡が受任されたと扱わない。
詳細な資料を共有する前に送付方法・受任の可否を確認する。
AIへ整理を依頼する場合も,従業員や関係者の情報を無制限に入力せず,必要性,契約,保持・学習・共有条件を確認する。
相談時期と依頼範囲は,中小企業はいつ弁護士に相談すべきかを参照されたい。
第8 出典と説明の範囲
本記事の法令・行政資料・裁判所規則は令和8年10月13日に確認した。
AIで作成された従業員の要求書面を受け取る会社の手順を直接定めた特別な法律又は裁判例として紹介するものではない。
受領・整理・社内承認・引継ぎの手順は,資料の確認と紛争対応のための実務上の提案である。
①e-Gov法令検索・労働契約法15条:https://laws.e-gov.go.jp/law/419AC0000000128
②e-Gov法令検索・労働基準法104条:https://laws.e-gov.go.jp/law/322AC0000000049
③厚生労働省・令和2年2月10日雇均発0210第1号通達(第1の1):https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00tc4752&dataType=1&pageNo=1
④裁判所・労働審判規則14条~16条:https://www.courts.go.jp/toukei_siryou/kisokusyu/minzi_kisoku/roudou/index.html
⑤厚生労働省・職場におけるハラスメントの防止:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/seisaku06/
⑥Fair Work Commission・Guidance note: Use of generative artificial intelligence in Commission cases(第26項。令和8年10月25日確認):https://www.fwc.gov.au/documents/resources/guidance-note-use-of-generative-ai-in-commission-cases.pdf
⑦Fair Work Commission・GenAI user research Final Report(令和8年8月18日付け。4頁。令和8年10月25日確認):https://www.fwc.gov.au/documents/resources/fwc-gen-ai-use-for-dismissal-cases-final-report-2026-08-18.pdf