第1 統計を選ぶ前に,何を確かめるか
1 実収入と統計による推計を分ける
交通事故の逸失利益,養育費又は婚姻費用の検討で「平均給与」を参照するときは,まず,何を確かめようとしているかを明らかにする必要がある。
現在の実収入,事故がなければ得られた将来収入,就労によって得ることのできる収入,世帯の家計状況は,それぞれ異なる問題である。
統計は比較や推計の補助資料であり,平均額を示しただけで当事者の年収又は将来収入が確定するものではない。
給与所得者の実収入については,源泉徴収票,給与・賞与明細,課税資料及び勤務先の資料を確認する。
裁判所の養育費・婚姻費用算定表の説明も,給与収入について源泉徴収票の「支払金額」等を確認する方法を説明している。
資料がない場合,資料の対象年が古い場合,転職・休職・副業等がある場合は,不足する情報を特定した上で統計との比較を行うことになる。
2 本記事の対象と基準日
本記事は,令和8年10月4日に確認した国税庁,厚生労働省,総務省及び裁判所の公表資料を基に,統計を取り違えないための確認手順を説明するものである。
個別事件でどの統計・区分を採用すべきかという判断は,事件の争点と証拠関係によって異なる。
統計の公表年だけで選択せず,対象年,観察期間,集計の単位及び金額の定義まで確認する必要がある。
第2 民間給与実態統計と賃金センサスの違い
1 民間給与実態統計の「平均給与」
国税庁の令和7年分民間給与実態統計調査によると,1年を通じて勤務した給与所得者の平均給与は487万円である。
これは,民間の事業所に勤務する給与所得者についての集計であり,全日本人の所得,公務員を含む全就業者の収入,個人事業主の事業所得又は世帯年収の平均ではない。
調査上の用語の説明では,給与は給料・手当と賞与から構成され,給与所得控除前の収入金額である。
非課税の通勤手当等は含まれないため,手取り額とも,支給項目を区別しない給与明細の総支給額とも,無条件に一致するとは限らない。
複数の勤務先がある人の実年収を確認するときは,各勤務先の資料を集め,重複計上や集計漏れを防ぐことが必要である。
2 賃金センサスの月額と賞与
賃金センサスは,厚生労働省の賃金構造基本統計調査を指す。
令和7年調査の概要によると,令和7年6月分の賃金等を調査し,賞与・期末手当等は原則として令和6年1月から12月までの1年間を対象としている。
同じ調査の中でも,月額と賞与の観察期間は一致していない。
概況の用語の定義にいう「賃金」は,6月分の所定内給与額の平均であり,超過労働給与を除いた所得税等控除前の金額である。
詳細表には異なる給与項目があるため,「所定内給与額」なのか「きまって支給する現金給与額」なのか,年間賞与等を加えるのかを,採用する表の見出しで確かめる必要がある。
概況の月額を単に12倍した金額を,賞与を含む年間給与と同じものとして扱ってはならない。
| 確認点 | 民間給与実態統計 | 賃金構造基本統計調査 |
|---|---|---|
| 主な見方 | 民間給与の年間額・分布 | 労働者の属性別の賃金・賞与等 |
| 令和7年の期間 | 年間給与。487万円は1年を通じて勤務した人の平均 | 6月の賃金等と,原則として前年の年間賞与等 |
| 金額の注意 | 給料・手当と賞与。給与所得控除前 | 概況の賃金は所定内月額。詳細表の給与項目を確認 |
| 選択時の注意 | 雇用形態・企業規模等の詳細表を確認 | 年齢・学歴・雇用形態・就業形態等の区分を確認 |
調査そのものの対象範囲と,概況で集計された範囲にも違いがある。
例えば令和7年賃金構造基本統計調査の概況は,調査対象全体のうち10人以上の常用労働者を雇用する民営事業所について集計している。
概要図,概況及び詳細表を,すべて同じ範囲の数字として比較しないことが重要である。
3 正社員と一般労働者は同じ区分ではない
賃金構造基本統計調査では,「正社員・正職員」と「正社員・正職員以外」は雇用形態の区分であり,「一般労働者」と「短時間労働者」は就業形態の区分である。
一般労働者は短時間労働者に該当しない労働者を指すので,一般労働者の平均を正社員だけの平均と読み替えることはできない。
雇用形態と勤務時間の両方を確認する必要がある。
国税庁の令和7年分詳細表一覧には,第6表及び第7表に企業規模別の正社員のデータもある。
概況の図に区分別の数字が掲載されていないことと,詳細表にもデータがないことは別である。
必要な組合せの表があるかは,表名とシート名まで確認する必要がある。
第3 平均・中央値と将来収入の読み方
1 平均額は「多くの人の年収」とは限らない
平均は集計対象全体の給与額を給与所得者数で除した値であり,給与分布が偏っていれば,人数の多い給与帯や中央値とは異なる。
国税庁の令和7年分第7表について,1年を通じて勤務した給与所得者の男女合計の人数を給与階級の低い順に累積すると,中央値は400万円超500万円以下の階級に含まれる。
これは本記事で公式表から計算した結果であり,厳密な中央値の金額を487万円又は450万円と確定できるものではない。
割合を複数の階級から求める場合は,丸められた構成比を足すより,元の人数と分母から計算する方が丸め誤差を避けられる。
どの人を分母としたか,給与階級の境界が「超」「以下」「未満」のどれかも明示する必要がある。
2 年齢別平均は同じ人を追跡した結果ではない
ある年の30歳台と50歳台の平均給与を比較しても,30歳の人が20年後にその差だけ昇給することが証明されるわけではない。
異なる世代,職業,企業,勤務時間等の構成の違いが含まれ得るためである。
勤続年数別の平均にも,その勤続年数まで働き続けた人の構成や,途中で退職した人が集計から外れる影響があり得る。
若年者の将来収入を検討する場合は,勤務先の給与表,昇給・昇格制度,本人の職歴,資格,勤務状況及び具体的な職業経路と結び付けることが重要である。
年齢,性別又は企業規模の平均差だけから,個人の能力又は将来の収入経路を決めることはできない。
第4 事件の種類に応じた使い方
1 養育費・婚姻費用の収入推計
本人の実収入を示す資料がある場合は,まずその対象年,給与・賞与の範囲,副業及び転職等の事情を確認する。
資料不足のため統計を補助にする場合は,職種,雇用形態,勤務時間,年齢等の対応を説明し,判明している本人の事情と整合するかを検討する。
全国平均だけを示して当事者の年収がその額であると主張しても,個別事情との対応は説明されない。
資料の不提出,実収入の不明及び潜在的稼働能力は,区別して検討すべき問題である。
統計平均の上昇は,個別の合意又は裁判で定められた支払額が当然に変更されたことを示すものでもない。
収入資料の確認と手続については,年収不明の場合の養育費及び収入資料不提出の場合の婚姻費用を参照されたい。
2 交通事故の逸失利益
逸失利益では,統計の区分選択と,その収入を将来得る見込みの説明とを分けて検討する必要がある。
現実収入と統計賃金を比較する場合も,賞与や勤務時間の扱いを揃え,事故と対応する統計年及び採用理由を示すことが重要である。
若年労働者の後遺障害逸失利益では,将来の増収可能性と基礎収入の選択を説明している。
裁判例を引用するときは,採用された平均額の結論だけでなく,事故が死亡事故か後遺障害事案か,本人の就労事情及び判断の理由を本文で確認する。
別の事件の採用額を機械的に移すことや,死亡事案の生活費控除を後遺障害の算定へ持ち込むことは避ける必要がある。
本記事は統計の定義と確認手順を扱うものであり,個別の統計区分の採否に関する判例秘書の網羅的な再照合を行ったものではない。
3 財産分与・相続と世帯の貯蓄統計
総務省の家計調査・貯蓄負債編の定義では,貯蓄・負債は二人以上の世帯について調査され,世帯の貯蓄と負債は別に集計される。
現金保有や不動産を含む総財産又は特定人の基準日財産とは異なる。
生命保険等は払込保険料の累計であり,事件で確認する解約返戻金と同じ評価額ではない。
高収入でも貯蓄の少ない世帯があるという分布だけで,特定人の浪費,資産隠し又は保有額を認定することはできない。
個別の財産調査では,基準日の口座残高,取引履歴,保険会社の解約返戻金資料,借入残高等を確認する。
入出金と運用益の区別については,証券口座の残高増加の検証を参照されたい。
第5 主張・説明に使う前の確認事項
①何を確かめるのか。実収入,将来収入,稼働能力又は基準日財産のどれか。
②どの統計の,どの表・シート・区分か。個人と世帯を取り違えていないか。
③対象年と観察期間はいつか。月額・賞与・年額,税や勤務時間の定義を確認したか。
④平均又は給与階級の中央値を,本人の収入と同一視していないか。
⑤統計と本人の事情を結ぶ資料があるか。複数試算を示す場合,前提の違いを説明しているか。
⑥裁判例を使う場合,判決本文の事実・理由・適用範囲まで確認したか。
以上は,統計を証拠や説明資料として使う際の確認手順である。
適切な統計を選ぶことと,その統計を当該事件で採用することの法的根拠を示すことは,別々に検討する必要がある。
第6 出典
①国税庁令和7年分民間給与実態統計調査・結果概要,調査の概要・用語の説明,詳細表一覧,第7表。中央値の所在階級は本記事で人数を累積して計算した。
②厚生労働省令和7年賃金構造基本統計調査・調査の概要及び主な用語の定義。
③総務省令和7年家計調査・貯蓄負債編の調査概要・用語。
④裁判所養育費・婚姻費用算定表の説明。