第1 若年労働者の基礎収入に関する基本原則
交通事故で後遺障害が残った給与所得者の逸失利益は,原則として事故前の現実収入を基礎とする。
もっとも,若年の被害者は職歴が短く,事故時の収入が将来の稼働能力を十分に示していないことがある。
そこで,おおむね30歳未満の若年労働者について,事故時の収入が賃金センサスの全年齢平均賃金を下回っていても,将来平均賃金程度を得る蓋然性が認められるときは,全年齢平均賃金を基礎収入とする取扱いが問題となる。
年齢だけで自動的に平均賃金を採用するルールではなく,将来の増収可能性を具体的事情から認定する問題である。
第2 現実収入と年齢別平均賃金の比較
1 現実収入が年齢別平均賃金と同程度の場合
事故時の現実収入が同年齢層の平均賃金と同程度である場合,その職業・勤務先に通常期待できる昇給を含めても,全年齢平均賃金を上回る蓋然性が当然に認められるわけではない。
全年齢平均賃金を採用するには,安定した昇給制度,資格取得,昇進可能性その他の特別な事情が必要となる。
2 現実収入が年齢別平均賃金を大きく下回る場合
収入が低い理由を確認する必要がある。
就職直後,試用期間,非正規雇用,修業期間,転職準備,家族事情又は一時的な景気要因であれば,事故時収入だけでは将来の稼働能力を過小評価することがある。
他方,長期間同じ賃金水準で勤務し,昇給又は転職の具体的見込みが乏しい場合には,全年齢平均賃金をそのまま採用しにくい。
3 現実収入が年齢別平均賃金を上回る場合
同年齢層の平均を上回るという事実だけで,全年齢平均賃金を超える収入を長期にわたり得る蓋然性が認められるわけではない。
公務員等の明確な給与表,勤務先の安定した賃金・昇給規程,専門資格に基づく賃金体系,又は家業承継の具体的計画など,収入の継続性を裏付ける資料が必要である。
第3 基礎収入の選択肢
1 事故前年の現実収入
雇用が安定し,事故前年の収入が通常の稼働状況を示す場合の出発点である。
賞与,時間外手当及び各種手当が一時的なものか継続的なものかを確認する。
2 全年齢平均賃金
若年で職歴が短く,事故がなければ平均賃金程度の収入に到達する蓋然性が高い場合に用いられる。
年齢,学歴,資格,職歴,雇用形態,勤務先の規模・安定性,勤務態度,昇給実績,転職可能性,健康状態及び家族状況を総合考慮する。
3 全年齢平均賃金の一定割合
全年齢平均賃金そのものを得る蓋然性までは認めにくいものの,事故時収入を将来にわたり固定するのも不合理な場合,全年齢平均賃金の一定割合を基礎とする方法が考えられる。
割合は年齢だけで決めず,事故時収入と年齢別平均賃金の差,増収を阻んでいた事情が一時的かどうか及び具体的な職業経路によって説明する必要がある。
4 期間を分ける方法
事故時から一定期間は現実収入又は年齢別平均賃金を用い,その後は全年齢平均賃金又はその一定割合を用いる方法もあり得る。
将来の昇給時期又は資格取得時期について具体的な証拠がある場合に,段階的な収入上昇を表現しやすい。
第4 立証資料
1 勤務先関係
雇用契約書,就業規則,賃金規程,給与表,昇給・昇格基準,賞与規程,過去の給与明細,源泉徴収票及び在籍者の昇給実績を収集する。
小規模事業者では,決算書,事業の継続性及び被害者の役割も確認する。
2 本人の職歴及び能力
履歴書,卒業証明書,成績証明書,資格証明書,研修受講歴,人事評価,表彰,担当業務及び事故前に進めていた資格取得又は転職活動の記録を用いる。
単なる将来希望ではなく,事故前に開始していた客観的行動を示すことが重要である。
3 健康及び生活状況
事故前の傷病,欠勤,家事・育児・介護による就業制限及び居住地の労働市場を確認する。
収入の低さが稼働能力そのものによるのか,一時的な生活事情によるのかを区別するためである。
第5 賃金センサスを利用する際の注意点
1 統計区分を明示すること
厚生労働省の賃金構造基本統計調査を用いる場合,調査年,性別,学歴,企業規模,産業,年齢階級及び一般労働者・短時間労働者の別を明示する。
単に「平均賃金」と記載するだけでは,比較対象が適切かを検証できない。
国税庁の令和7年分民間給与実態統計調査の平均給与487万円は,1年を通じて勤務した民間給与所得者の年間給与であり,賃金センサスの全労働者・全年齢の平均賃金と同じ指標ではない。
賃金センサスの概況にいう「賃金」は6月分の所定内給与額であり,超過労働給与を除いた月額である。詳細表の給与項目及び年間賞与等を確認し,月額を12倍しただけの金額と賞与込みの年間給与を混同しない。
「正社員・正職員」は雇用形態,「一般労働者」は短時間労働者以外という就業形態の区分であり,両者は同じではない。比較する統計の対象,給与項目及び勤務時間の扱いを揃える必要がある。
年齢別・勤続年数別の平均は,同じ人の昇給経路を追跡した結果ではない。将来収入の主張には,勤務先の給与表,昇給制度及び本人の職業経路との対応を説明する。統計の違いと確認手順は,損害賠償・養育費で使う賃金統計の選び方を参照されたい。
2 事故年との対応
原則として事故時に利用可能な統計又は事故年に対応する統計を用いるが,どの年の統計を用いたかを明らかにする。
物価・賃金水準の変動が大きい場合,後年の統計を当然に遡及適用せず,選択理由を説明する必要がある。
3 男女計又は男女別の選択
男女計平均賃金を用いるか,男女別平均賃金を用いるかは,将来の職業選択可能性,学歴,職歴及び具体的な就労見込みに照らして検討する。
統計区分の選択が結論を左右するため,複数の試算を示して争点を可視化することが有用である。
第6 計算と主張の組み立て
1 基本式
後遺障害逸失利益は,一般に,基礎収入×労働能力喪失率×就労可能期間に対応する中間利息控除係数によって算定する。
基礎収入の争いと,喪失率・喪失期間の争いを混在させず,それぞれの根拠を示す。
2 複数試算
①現実収入,②全年齢平均賃金の一定割合,③全年齢平均賃金の三つを用いた試算を並べると,各前提が損害額に与える影響を確認できる。
主位的主張と予備的主張を区別し,いずれの金額も統計年度,喪失率,期間及び係数を明示する。
第7 裁判例の読み方
裁判例は,「30歳未満だから全年齢平均賃金」という単一基準ではなく,職歴,雇用形態,昇給可能性及び事故時収入と統計賃金との差を個別に検討している。
裁判所ウェブサイト掲載判決にも,若年者について事故時収入より高い全年齢平均賃金を用いたものがあるが,結論だけでなく,その事案で認定された学歴,職業及び将来見込みを確認する必要がある。
他の事案の平均賃金採用を,証拠関係の異なる事件へ機械的に移植することはできない。
第8 参考資料及び確認範囲
なお,以下の裁判所ウェブサイト掲載判決は,22歳の女性の死亡事故について判断した名古屋高等裁判所の判決である。
死亡事故の基礎収入に関する判断理由と本件の就労事情を確認した上で参考にすべきであり,同判決の生活費控除を後遺障害逸失利益の算定に持ち込むことはできない。
本記事は,日弁連交通事故相談センター東京支部編『民事交通事故訴訟・損害賠償額算定基準2024年版』下巻101頁以下の講演録,裁判所ウェブサイト掲載の名古屋高裁判決(死亡事故の基礎収入)及び厚生労働省の賃金構造基本統計調査を中心に整理したものである。
令和8年9月27日,判例秘書INTERNETにより,講演録の一覧表に掲載された67判決を,裁判所,判決日及び事案の識別語で個別に検索した。このうち65判決は判決全文を確認した。
名古屋地裁平成29年10月26日判決及び横浜地裁平成22年12月1日判決は,識別語を変え,最後に識別語を外して検索しても0件であり,判決全文を確認できなかった。これは,今回の判例秘書検索で本文を確認できなかったことを示すにとどまり,判決が存在しないことを意味しない。
裁判例一覧は傾向把握のための資料であり,個別事件では,事故年に対応する統計表と各判決の学歴,職歴,雇用形態,昇給可能性及び証拠関係を確認する必要がある。
一般的な算定式及び立証資料については,交通事故の後遺障害逸失利益も参照されたい。