第1 判決の結論と本記事の対象
東京地裁令和8年9月30日判決は,声もパブリシティ権の保護対象となり得るという一般論を示した一方,津田健次郎がTikTokの運営会社に求めた投稿記事の削除については,全請求を棄却した。
棄却理由は,口頭弁論終結前に削除対象のデータがなくなっていたことであり,本件音声の権利侵害を認めた判断でも,生成AIによる声の模倣を適法とした判断でもない。
本記事は,令和8年10月4日を調査基準日として,公表判決の事案,棄却理由及び判断されなかった範囲を説明するものである。
原音声や公表されていない訴訟資料の鑑定は対象に含めず,本判決の確定状況も未確認である。
第2 投稿内容,請求及び当事者の主張
1 投稿者と被告は異なる
(1) 運営会社に対する請求
原告は,声優,俳優及びナレーターとして活動する津田健次郎であり,被告は動画投稿サイトTikTokを運営するシンガポール法人TikTok Pte. Ltd.である。
氏名不詳の投稿者が「八海」というアカウントを用い,令和6年7月から令和7年9月までに188件の記事を投稿したが,本件で削除を請求された相手は,この投稿者ではなく運営会社である。
(2) 投稿内容と削除請求の根拠
各記事は,映像及び字幕に,都市伝説,心霊現象等の雑学を扱うナレーションを組み合わせた動画であった。
原告は,その声が自分の声に類似するなどとして,不正競争防止法3条又はパブリシティ権に基づく侵害排除請求権によって削除を求めており,本件で損害賠償を求めたわけではない。
2 音声の類似性と学習元について何が示されたか
(1) 原告と被告の主張
原告は,低音の響きや抑揚等が共通し,音声比較分析によって類似性が裏付けられると主張した。
これに対し,被告は,普遍的な男性の声であり,原告の声に類似すると直ちにはいえないなどと争っており,判決の当事者主張欄は,裁判所による解析結果の採用又は否定を記載したものではない。
(2) 友人の声を学習したとの説明
アカウントからリンクされた外部サイトには,原告の声を無断で学習させたものではなく,声まねが上手い友人の声をAIに学習させたデータを使った旨の説明があった。
判決が前提事実として記載したのは説明の存在であり,実際の学習素材がその説明どおりであったと判断したものではない。
第3 削除請求が棄却された理由
1 削除と口頭弁論終結の時系列
(1) アカウント削除から判決まで
本件投稿者は,令和8年5月29日にアカウントを削除した。
裁判所は,その後30日以内に復旧申請がなかったため,6月28日の経過をもって,本件各記事を含むアカウントデータが被告のサーバから削除されたと認定した。
| 令和8年の日付 | 判決に記載された出来事 |
|---|---|
| 5月29日 | 投稿者がアカウントを削除 |
| 6月28日の経過 | 復旧申請がなく,対象データがサーバから削除されたと認定 |
| 7月3日 | 口頭弁論終結 |
| 9月30日 | 判決言渡し,全請求棄却 |
(2) 口頭弁論終結前の対象消滅
裁判所は,仮に被告に削除義務が生じ得るとしても,口頭弁論終結時までに削除対象がなくなっている以上,これ以上削除すべき義務を負わないとした。
この判断は,本件の特定の投稿記事を削除する請求についてのものである。
2 削除対象の存否と証拠の評価
(1) 訴えの利益ではなく請求権の存否
被告は,既に削除されていれば訴えの利益がないと主張したが,裁判所は,削除対象の存否は実体上の削除請求権の存否の問題であるとした。
主文は請求棄却であり,訴えの利益を欠くとして訴えを却下した事件と説明するのは正確ではない。
(2) 本件アカウントに関する資料の重視
裁判所は,本件データの削除に関する証拠が,被告の内部規則や公表された利用ポリシー等と整合すると評価した。
一方,原告が挙げた一般的なデータ保持の報道等は,本件アカウントの削除手続に直接関連するものではなく,認定を左右しないとした。
この証拠評価から,あらゆるサービスのバックアップやログが必ず消去されるとの一般論は導けない。
本件の認定を争う資料と,サービス全体の保存傾向を述べる資料とを区別して読むことになる。
3 判断されなかった争点
(1) 個別のパブリシティ権侵害と運営会社の義務
裁判所は,削除対象がなくなったことを理由に請求を棄却し,その余の争点をこれ以上判断しないと明示した。
したがって,本件音声が原告の声の利用に当たるか,専ら顧客吸引力を利用していたか,又は運営会社が侵害主体として削除義務を負うかについて,本判決から個別の結論を補うことはできない。
(2) 不正競争防止法の商品等表示と混同
不正競争防止法では,2条1項1号は周知の商品等表示の使用等による混同を,2号は著名な商品等表示の自己の商品等表示としての使用等を問題とする。
声を聞いて本人を思い出すことと,その声が商品又は営業の出所を示す表示として使われることは区別され,本件についてこれらの要件が満たされたと判断されたわけではない。
第4 声のパブリシティ権と著作権の境界
1 顧客吸引力と「専ら」の限定
(1) 声について示された一般論
本判決は,声も氏名や肖像等と同様に個人の人格の象徴であり,顧客吸引力を有する場合があるとした。
その上で,専らその顧客吸引力を利用する目的で,本人の承諾なく声を使用する行為は,パブリシティ権を侵害するという一般論を示した。
最高裁平成24年2月2日判決は,氏名,肖像等の顧客吸引力を排他的に利用する権利をパブリシティ権とし,侵害となる典型例を挙げている。
その内容は,①独立した鑑賞対象の商品等として使う場合,②商品等に付して差別化を図る場合,③広告として使う場合などであり,専ら顧客吸引力の利用を目的とするという限定が付されている。
(2) 無断の商業的利用を全て違法とするものではない
同最高裁判決は,報道,論説,創作等における正当な表現行為として受忍すべき利用もあるとした。
ピンク・レディーの写真を掲載した当該ダイエット記事については,写真が記事内容を補足する目的で使われたと評価し,専ら顧客吸引力を利用する目的とはいえないとして違法性を否定した。
したがって,無断で使ったことや収益を得る媒体であることだけで,パブリシティ権侵害が決まるわけではない。
この法理と他の裁判例の比較は,パブリシティ権の要件と裁判例で詳しく扱っている。
2 本人の声の識別と実際の録音の利用
(1) 法務省報告書の本人識別の整理
法務省が公表した令和8年8月の検討会取りまとめ報告書は,声の類似程度に加え,使用に際して付された本人を想起させる情報を総合し,顧客が本人の声であると識別できるかによって評価するとの整理を示す。
科学的な音声分析も一つの考慮要素であり,その結果だけを決定的なものとする整理ではない。
同報告書は,通常のものまねと,本人が発声したものと誤解される利用も区別している。
これは検討会による解釈指針であり,本件の学習元や音声の侵害性を認定した資料でも,裁判所を拘束する新たな法律でもない。
(2) 声そのものへの著作権法上の保護
文化審議会の法制度に関するワーキングチームは,声優の実演を録音したものそのものではないAI模倣の場面について,声そのものには著作権法上の権利が及ばないと整理した。
同資料は,パブリシティ権や一般不法行為による保護の可能性を残しており,著作権法上の保護対象でないことから,利用全体が適法と決まるわけではない。
(3) 実演を録音した素材を利用する場合
実際の実演を録音又は送信可能化する行為については,著作権法91条及び92条の2に定める実演家の権利が問題となる。
各条の例外や許諾等も確認することになり,声質に似せた合成音声だけの問題と,既存の実演録音を利用した問題を同じものとして扱わない。
学習,生成,提供及び公開の各段階や,他の人格的利益を含む全体の整理は,AIによる声・肖像の無断模倣を参照されたい。
第5 削除請求と今後の確認事項
1 過去の損害賠償と別の投稿への請求
(1) 過去の利用についての損害賠償
本件は特定の投稿記事の削除を求めた事件であり,過去の利用についての損害賠償を判断したものではない。
民法709条に基づく賠償では,故意・過失,権利又は法律上保護される利益の侵害,損害及び因果関係が問題となり,対象データの削除だけから過去の責任もなくなったと結論付けることはできない。
(2) 別の投稿と将来の侵害
本件の対象データが消去されたとの認定は,第三者による別の投稿や,将来の再利用まで不存在と判断したものではない。
別の差止め又は予防を検討する場合には,相手方,対象行為,適用する権利及び侵害のおそれを改めて具体化することになる。
2 権利者側が確認する音声と削除状態
(1) 音声と表示文脈の保存
権利者側が本人識別や利用目的を検討する際には,音声・動画だけでなく,タイトル,説明欄,本人名・役名,映像及び広告への導線も保存対象として検討する。
取得日時,URL及び投稿の識別情報を併せて記録する方法は,音声の似ている部分だけを切り出すより,どのような文脈で利用されたかを後から説明しやすい。
(2) 削除の段階と個別の保管状況
削除請求では,公開画面で見えなくなった状態,復旧可能な状態及びサーバから消去された状態を分けて確認する。
内部の削除・復旧記録を権利者側が当然に取得できるとは限らないため,まず公開画面の状態,運営者の回答及び公表ポリシーを確認し,残る争点が対象データの存否にあるかを見極める方法が考えられる。
第6 出典・参考資料
1 法令
①民法709条(e-Gov法令検索,令和8年10月4日基準)
②不正競争防止法2条1項1号・2号及び3条(e-Gov法令検索,同日基準)
③著作権法91条及び92条の2(e-Gov法令検索,同日基準)
2 裁判例
①東京地方裁判所令和8年9月30日判決(令和7年(ワ)第70635号,投稿記事削除請求事件,裁判所ウェブサイト)1頁~8頁(PDFも同頁,公表版の別紙投稿記事目録は省略)
②最高裁判所第一小法廷平成24年2月2日判決(平成21年(受)第2056号,民集66巻2号89頁,裁判所ウェブサイト)3頁~4頁(PDFも同頁)
3 検討会報告書・審議会の検討経過
①法務省公表・肖像,声等の無断利用による民事責任の在り方に関する検討会「肖像,声等の無断利用による民事責任の在り方に関する検討会取りまとめ報告書―生成AIによるパブリシティ権侵害等に関する解釈指針―」(令和8年8月)26頁~30頁(PDF28頁~32頁)
②文化審議会著作権分科会政策小委員会・法制度に関するワーキングチーム「令和6年度法制度に関するワーキングチームの検討の経過等について」(令和7年2月28日)1頁~2頁(PDFも同頁)