第1 判決の概要
1 事件と主文
大阪地方裁判所第8刑事部は,大阪府内の特別養護老人ホームで入所者2人に暴行を加えたとして傷害致死罪と傷害罪に問われた被告人について,いずれの事件でも被告人が犯人であると認め,懲役10年を言い渡した(大阪地裁令和8年3月16日判決(令和5年(わ)第5274号))。
未決勾留日数中630日がその刑に算入された。
求刑は懲役10年であった。
判決書の末尾には,裁判長裁判官として辛島明裁判官の氏名が記載されている。
2 二つの事件と争点
一つ目の事件(判示第1)は,令和2年12月20日午後10時10分頃から翌21日午前3時頃までの間に,入所中の被害者(当時89歳)の胸部を何らかの方法で強く圧迫するなどの暴行を加えて胸骨及び肋骨多発骨折の傷害を負わせ,令和3年3月2日,肋骨多発骨折による胸郭動揺に起因する慢性呼吸不全により死亡させたというものである。
二つ目の事件(判示第2)は,令和5年3月10日午後9時49分頃から翌11日午前6時35分頃までの間に,別の入所者(当時92歳)の左顔面を手で殴り,全治まで約10日間を要する顔面打撲挫傷を負わせたというものである。
いずれの事件でも,暴行によって傷害が生じたこと(事件性)は弁護人も特に争わず,争点は被告人が犯人かどうかであった。
被告人は,この施設で夜勤の介護士として勤務していた。
第2 傷害致死事件の犯人性
1 受傷時間帯の推定
判決は,法医学の医師の証言により,被害者の受傷時間帯を21日午前0時頃から午前4時頃までと推定した。
この証言は,医師の経験や専門知識に基づき,被害者の具体的な検査数値等を踏まえたものとして信用できるとされた。
判決は,午前0時「頃」の範囲として,遅出勤務者の勤務終了時刻である20日午後10時10分頃より前は考え難いとした。
2 犯行の機会があった者
判決は,入居者はいずれも常時介護が必要な高齢者であり,夜勤の介護士らに気付かれずに被害者の居室に立ち入って犯行に及ぶことは考え難いとした。
外部者についても,施設の外部出入口等は基本的に施錠されており,外部者の犯行を示す痕跡もないことから,現実的には想定し難いとした。
職員については,遅出勤務者はタイムカードの記録から勤務終了後速やかに退出したと認められ,犯行の可能性はほぼ除外された。
受傷時間帯に施設内にいたのは,被告人のほか,別のユニットの夜勤者2人と宿直員であった。
判決は,宿直員には被害者の居室に立ち入る理由が見いだせず,1階のユニットの夜勤者も多忙で自身の担当でない居室にあえて立ち入る理由は乏しいとした。
その結果,犯行を行った可能性がある者は,午前4時頃に被害者の居室に立ち入っていた別ユニットの夜勤者か,被害者のユニットの夜勤者であった被告人に,ほぼ限られるとした。
3 別ユニットの夜勤者の証言
別ユニットの夜勤者は,被告人が午前3時から休憩に入る際に申送りを受けたが,被害者についての申送りはなかったこと,午前3時50分頃にナースコールで被害者の居室に入ると被害者が胸の痛みを訴えたため,バイタルを測定したこと,居室に来た被告人に状況を説明すると,被告人が「さっきも言ってた」というようなことを言ったことを証言した。
判決は,バイタルを測定したことを被告人も認めていること,別のユニットの夜勤者に相談の連絡をしたこと,直後の午前4時9分と午前4時11分に施設外の看護師の友人へ被害者の様子を伝えるメッセージを送信していることなどから,この証言を信用できるとした。
4 被告人の対応
検察官は,被告人が介護記録ソフトに失禁対応等の時間をさかのぼらせて記録したと主張したが,判決は,被告人の説明が直ちに不合理とまではいえないとして,そのように断定することはできないとした。
他方で,判決は,被告人の「さっきも言ってた」という発言は,被告人が午前3時に休憩に入る前の時点で被害者が胸の痛みを訴えていたという意味としか考え難いとした。
高齢者の胸の痛みの訴えは休憩に入る際に申し送るべき事柄であり,別の入所者については申送りをしていたのに,被害者の訴えについては申送りをした形跡がないとされた。
また,被告人は,午前4時頃のやり取りの後に,被害者の訴えについて曖昧な内容を介護記録ソフトに記録するにとどまっていた。
公判での被告人の供述も,記録より更に曖昧であったり,胸が痛いと被害者が言っていたことを伝えたかどうかという重要な部分で変遷したりしていたため,信用性は乏しいとされた。
判決は,被告人が休憩前に被害者の胸の痛みを知っていたのに当然なすべき対応をしなかったことは,うっかりしていたなどでは説明がつかず,被告人自身が胸の痛みを生じさせる行動をしたことを強くうかがわせると判断した。
5 総合評価
判決は,入居者や外部者の犯行を具体的に示す事情はなく,宿直員と1階の夜勤者には現実的に犯行を想定し難く,別ユニットの夜勤者についても,証言の信用性に疑いはなく,相談の連絡や友人へのメッセージの送信は,その者が犯人であるとするとかなり不自然であるとした。
その上で,消去法的な立証の危険性をいう弁護人の主張に十分配慮しても,被告人が犯人であることは相当強く推認できるとした。
さらに,被告人が胸の痛みを生じさせる行動をしたことを強くうかがわせる事情も加わることから,これらの事情は「被告人が本件の犯人でないとしたならば合理的な説明が著しく困難な事実関係に当たる」として,被告人を傷害致死の犯人と認めた。
第3 傷害事件の犯人性
1 受傷時間帯と犯行の機会
判決は,夕食の際に介護士2人が被害者の顔面に怪我がないことを見ていたことと,翌朝午前6時35分頃に左目の発赤等が確認されたことから,受傷時間帯を概ね10日午後9時頃から11日午前6時35分頃までの間と特定した。
被告人は,10日の出勤後,二つのユニットの夜勤者を兼ねていた。
早出勤務の職員と調理補助の職員は,出勤時刻から現実的に犯行の機会がなかったとされた。
宿直員や他のユニットの職員についても,被害者の居室にあえて立ち入って暴行を加えたとは考え難いとされた。
被告人の出勤時まで勤務していた遅出の介護士についても,その証言に不自然な点がなく,被告人自身が午後10時頃の巡回で被害者が良眠していたと記録していることから,犯行は考え難いとされた。
2 被害者の発言の信用性
被害者は,傷が見つかった日以降,介護主任,看護師及び面会に来た娘に対し,男に殴られたという趣旨の発言をしていた。
判決は,3人の証言が主要な部分で一致していることから,これらの証言を基本的に信用できるとした。
その上で,被害者の認知症はそれほど重度ではなかったという医師の証言等を踏まえ,殴った相手の身長や年代については厳密でない可能性があるものの,相手が男であったという部分と,夜中に居室でトイレに行こうとしたら施設の職員が来て手で殴られたという部分は,十分信用できるとした。
3 被告人の対応と総合評価
判決は,被告人が傷を見つけた後に貼った絆創膏を貼り直さなかった理由についての供述が場当たり的であることや,翌朝に血中酸素濃度は測定しながら傷を踏まえたバイタルを測定せず,傷の悪化を記録や事故報告書に記載していないことなどから,被告人の供述は相当疑わしいとした。
そして,他の者の犯行が現実的に想定し難いことと,被害者の発言が信用できることを合わせ,傷害事件についても,被告人が犯人でないとしたならば合理的な説明が著しく困難な事実関係に当たるとして,被告人を犯人と認めた。
第4 量刑の理由
判決は,傷害致死の暴行により被害者の胸骨と左右4本ずつの肋骨が骨折しており,胸部に相当強い力が加えられたと認めた。
暴行が1回であったとしても,高齢者の身体の枢要部である胸にそのような暴行を加えること自体が非常に危険で悪質であり,被害者の生命が失われるという極めて重大な結果が生じたとした。
被告人は,特別養護老人ホームで高齢者を介護する立場にありながら,自力で起き上がることもできない被害者に一方的に暴行を加えたものとされた。
傷害の事件についても,全治期間は約10日間であったものの,高齢者の顔面の左目付近を殴るという態様は危険で,決して軽視できないとされた。
判決は,さらに,被告人が傷害致死の暴行後に重傷を負った被害者に有効な処置をせず,その2年余り後に傷害の事件に及んだこと,公判で謝罪の言葉や反省の態度が見られないことを指摘した。
そして,前科がないことを踏まえても再犯のおそれは否定できないとし,同種事案の量刑傾向も参照して,懲役10年とした。
いずれの犯行も,拘禁刑を導入した刑法等の一部を改正する法律(令和4年法律第67号)の施行前の行為である。
そのため,判決は,施行前にした行為の処罰はなお従前の例によるとする刑法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律(令和4年法律第68号)441条1項により,改正前の刑法205条(傷害致死)・204条(傷害)を適用し,懲役刑を言い渡している。
第5 出典
大阪地裁令和8年3月16日判決(令和5年(わ)第5274号)
同判決の判決書(裁判所HPのPDF)
刑法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律(e-Gov法令検索)
辛島明裁判官(51期)の経歴