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ポツダム宣言第10項の民主化条項は何を変えたか―人権指令、治安維持法廃止とGHQ検閲

第1 ポツダム宣言第10項は何を定めたか

1 条文の文言と構造

本記事は,生成AIを用いて米国務省公刊外交文書(FRUS)及び国立国会図書館・国立公文書館所蔵の一次資料を横断的に確認し,ポツダム宣言第10項が定めた民主化条項が,人権指令,治安維持法廃止,GHQ検閲という3つの占領政策とどう接続していたかを検証した上で構成した。

第10項の英語正文は次のとおりである。

We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation,but stern justice shall be meted out to all war criminals,including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech,of religion,and of thought,as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

外務省仮訳は「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論,宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」である。

条文は,(1)日本人を民族として奴隷化し又は国民として滅亡させる意図はないという前置き,(2)戦争犯罪人には個別に厳重な処罰を科すという要求,(3)日本国政府に民主主義的傾向の復活強化を妨げる障害の除去を義務付ける要求,(4)その帰結として確立されるべき言論・宗教・思想の自由と基本的人権の尊重,という4つの要素から成る。
第10項第1文(戦争犯罪人処罰)と東京裁判の法的構造については別稿「ポツダム宣言第10項と東京裁判」で扱っているため,本記事では第2文・第3文(民主化条項)を中心に扱う。

2 起草過程――米国原案から英国修正案へ

第10項の文言は,ポツダム会談に至る過程で書き換えを経ている。
1945年7月2日,スティムソン陸軍長官がトルーマン大統領に提出した草案の時点で,戦犯処罰・民主化奨励・自由と人権の確立という3要素は既に同一パラグラフ内に併存していたが,民主化条項(第2文)は「Democratic tendencies found among the Japanese peoples shall be supported and strengthened.」(日本国民の間の民主主義的傾向は支持・強化されるべし)という,連合国側が支援するという受動的な表現であった。
7月24日にバーンズ国務長官がチャーチル首相に手交した米国代表団案でも,この受動的な表現のまま維持されていた。

これに対し英国代表団は,「The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people.」(日本国政府は,日本国民の間の民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし)という修正案を提示した。
主語を「日本国政府」とし,日本政府自身に障害除去の作為義務を課す構文への書き換えである。
この英国側修正案の文言が,会談最終盤(7月24日以降)に採用され,7月26日の最終確定稿にそのまま反映された。
第1文(戦犯処罰)と第3文(言論・宗教・思想の自由,基本的人権)はスティムソン草案以来,実質的な変更を経ていない。

3 当時の「基本的人権」という語の理解

大日本帝国憲法下では,個人の権利は「臣民ノ権利」として規定され,法律ノ範囲内という留保が伴う,主権者たる天皇の恩恵的な権利保障であった。
これに対し第10項が求める「基本的人権」は,人が生来的に有するという含意を持つ語であり,法律による制限を前提とした「臣民ノ権利」とは,権利の性質決定における出発点が異なる。

この理解の相違は,1946年2月の日本政府の対応にも表れている。
憲法問題調査委員会(松本委員会)は,天皇が統治権を総攬するという原則を変更しないことを前提に,人民の自由・権利の保護を強化するという「松本四原則」に基づき改正試案を作成し,2月8日にGHQへ提出した。
GHQはこの改正案の「立案の根本趣旨を承認し得ない」として拒否し,2月13日にGHQ草案を日本政府に手交した。
天皇主権を前提とした枠内での権利保護強化という発想と,GHQが求めた国民主権を基礎とする人権観との隔たりが,この経過に表れている。

第2 人権指令(SCAPIN-93)――治安維持法廃止への道

1 指令の内容

1945年10月4日18時,日本政府(中央連絡事務所経由)に「政治的,公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件」(SCAPIN-93,通称「人権指令」)が交付された。
指令は,治安維持法・思想犯保護観察法を含む15法令の廃止,特別高等警察(特高)を含む秘密警察機関の廃止,拘禁・保護観察下にある者の即時釈放(実施期限は同月10日),内務大臣以下警察幹部の罷免,1945年10月15日までの実施状況の報告を命じた。

指令の前日(10月3日),山崎巌内務大臣は外国人記者に対し,思想警察は活動を継続し天皇制に反対する共産主義者は治安維持法により引き続き逮捕する旨を述べており,この発言との対比で指令の即応性が際立つ。

2 東久邇宮内閣の総辞職と政治犯釈放

東久邇宮内閣は,指令の履行に踏み切れず,1945年10月5日に総辞職を決断した。
公式には「終戦事務が一段落した」ことが理由とされたが,後年には稔彦王自身がGHQの強権的な指令への対応の困難を理由として挙げたとも伝えられている。
もっとも,この後年の説明の一次典拠は今回確認できておらず,同時代の公式発表とは区別して理解する必要がある。

1945年10月9日,幣原喜重郎内閣が成立し,同月10日午前10時,府中刑務所の門が開き,徳田球一,志賀義雄ら政治犯が釈放された。
同日午後には「自由戦士出獄歓迎人民大会」が開催され,釈放を歓迎する集会とデモが行われた。
幣原内閣は,1945年10月15日,昭和20年勅令第575号により,治安維持法及び思想犯保護観察法を正式に廃止した。

第3 治安維持法の内容と廃止

1 制定と拡張

治安維持法(大正14年法律第46号)は,1925年5月12日施行の全7条の法律として出発し,「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ」た者を10年以下の懲役又は禁錮に処すると定めていた。
1928年(昭和3年)6月29日,田中義一内閣は,衆議院での審議未了を経て,大日本帝国憲法第8条に基づく緊急勅令(勅令第129号)により,最高刑を死刑又は無期懲役に引き上げ,結社の構成員でない者にも処罰を広げる「目的遂行罪」を新設した。
1941年(昭和16年)3月10日の全面改正(法律第54号)は,条文数を全65条に増やし,刑の執行後もなお再犯のおそれが顕著な場合に拘禁を命じ得る予防拘禁制度と,二審制・弁護人の司法大臣指定という特別な刑事手続を導入した。

治安維持法による検挙者数・死者数は,研究者によって示す数値が異なる。
荻野富士夫の集計は検挙68,274人・起訴6,550人とし,1976年の不破哲三衆議院議員の国会発言に基づく数値は検事局送致75,681人・獄死1,503人とするなど,複数の系統が並立しており,一つの確定値には収斂していない。
数値を用いる場合は,検挙・送致・起訴・獄死という集計対象の違いを踏まえる必要がある。

2 廃止の法的経緯

治安維持法は,法律の改正ではなく勅令によって廃止された。
昭和20年勅令第575号は,「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号,通称ポツダム緊急勅令)を根拠として,1945年10月15日に公布・施行され,治安維持法及び思想犯保護観察法を廃止した。
ポツダム緊急勅令そのものの一般的な仕組みについては,別稿「日本国憲法外で法的効力を有していたポツダム命令」で詳述しているため,本記事では治安維持法廃止という個別の適用例として位置づけるにとどめる。

廃止後は,1945年10月17日勅令第579号(大赦令,対象26万4,403人)及び1946年11月3日勅令第511号(大赦令,対象4万4,623人)により,多数の対象者が恩赦された。
これらの大赦令の対象人員・沿革は別稿「戦後の政令恩赦及び特別基準恩赦」で扱っている。

第4 廃止後になお残る課題――横浜事件と名誉回復の限界

治安維持法違反者に対する包括的な名誉回復立法・国家賠償法は,今日まで成立していない。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟等による国家賠償法制定を求める請願は,国会に繰り返し提出されているが,請願の域を出ていない。

個別事件としての事実上の名誉回復を図った例が,横浜事件である。
1942年から1945年にかけて,神奈川県警特高が,雑誌編集者ら多数を治安維持法違反の嫌疑で検挙し,拷問による苛烈な取調べを行った事件で,複数人が獄死したとされる。
第三次再審請求を経て,2006年2月9日,横浜地方裁判所は,治安維持法の廃止等を理由に,無罪ではなく免訴の判決を言い渡した。
2008年,最高裁判所は元被告側の上告を棄却し,刑事再審手続はここで終了した。

東京高等裁判所平成30年10月24日判決(平成28年(ネ)第3783号,国家賠償請求控訴事件)は,横浜事件の遺族らが国に損害賠償を求めた事件について,控訴を棄却した。
同判決は,国家賠償法附則6項の「従前の例による」という文言を,同法施行日(昭和22年10月27日)より前の公務員の権力的行動について国が賠償責任を負わないとする趣旨と解し(いわゆる国家無答責の法理),特高警察官による検挙・取調べも,裁判官による有罪判決も,この法理の下で国の賠償責任を生じさせないと判断した。
同判決はさらに,担当の検察官・予審判事・裁判官が1945年9月の時点で治安維持法を適用したことの違法性について,次のように判示している。

ポツダム宣言受諾後も,昭和21年に日本国憲法の各種草案やこれに対する進駐軍(GHQ)の意見が明らかになるまでは,ポツダム宣言第10項(日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礎ヲ除去スヘシ。言論,宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ。)がどのように具体化されるかは,予想できなかったというべきである。(中略)治安維持法に関しては,昭和20年10月15日に全廃されたから,その後にこれを適用すれば違法なことは明らかである。しかしながら,当時は激動の時代であって,全廃の1か月前である昭和20年9月の時点においては,治安維持法が今後どのように改廃されるかが予想できなかったとしても,やむを得ないところである。

すなわち同判決は,第10項が宣言された1945年7月26日の時点で,その民主化条項が具体的にどう実施されるかは同時代人にとって予測困難であったという理解を前提に,全廃(10月15日)より前の治安維持法適用を,違法とまでは断定できないと判断した。
「免訴」という帰結自体,治安維持法の廃止という法的経緯そのものが,実体判断(無罪か有罪か)に立ち入らない手続的な打ち切りをもたらしたことを示しており,2010年7月15日,横浜地方裁判所は,別途の刑事補償請求手続において元被告5人につき事実上の無罪と認める決定をした。

第5 「言論の自由」を掲げながらの検閲

1 プレスコードと検閲機構

第10項が言論・宗教・思想の自由の確立を掲げた1945年7月26日から2か月足らず後,GHQは1945年9月10日にSCAPIN-16(「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」),同年9月19日にSCAPIN-33(プレスコード,正式名”PRESS CODE FOR JAPAN”)を発した。
SCAPIN-16は表題こそ「自由」を掲げるが,連合国及び占領軍への批判並びに大東亜戦争の被害への言及を制限する内容を含んでいたとされる。
プレスコードは,虚偽又は破壊的な連合国批判の禁止,占領軍への不信・憤激を招く記述の禁止,事実に即した記事作成の要求等を定めた。

検閲の実務は,参謀第二部(G-2)傘下の民間検閲支隊(CCD)が担った。
CCDは1944年11月の統合参謀本部指令に淵源を持ち,フィリピン等太平洋戦域から日本へ移動してきた組織であり,検閲対象は郵便・電信電話から新聞・出版・放送・映画にまで及んだ。
新聞・通信社の事前検閲は1948年7月に廃止されて事後検閲へ移行し,事後検閲も1949年10月に相次いで縮小・終了した。
郵便・電信電話の検閲は1952年3月22日(昭和27年法律第7号)に廃止され,占領期の指令全体は同年4月28日の平和条約発効により失効した。

2 統制の実例

プレスコードの正式発令(9月19日)に先立つ1945年9月18日,原爆の使用を国際法違反・戦争犯罪と評した鳩山一郎の談話を掲載した朝日新聞は,48時間の発行停止処分を受けた。
体系だった規則が確立する前から,GHQ批判・原爆=戦争犯罪論は事実上禁圧されていたことになる。

広島高等裁判所令和3年7月14日判決(令和2年(行コ)第10号,「黒い雨」被爆者健康手帳交付請求等控訴事件)は,1947年12月に作成された「広島原子爆弾被害調査報告(気象関係)」について,「連合国軍総司令部のプレスコードにより昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結まで公表が制約され」,1953年5月に至ってようやく公表された旨を事実認定として示している。
原爆に関する報道・調査が一律に禁止されたわけではなかったが,公表の時期そのものが検閲によって長期にわたり制約された実例である。

3 学説上の対立構造

「言論の自由の確立」を掲げた宣言と,占領当局自身による検閲という一見矛盾する事実については,単一の通説はない。
文芸評論家の江藤淳は,『閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』(1989年)において,検閲の存在への言及自体を禁じた二重構造が,占領終了後も自主検閲・タブーの内面化として作用し続けたと論じ,これを戦争についての罪悪感を日本人に植え付ける計画(いわゆるWGIP論)と結び付けた。

これに対し,同時代の憲法学者(田中英夫,小林直樹ら)は,日本国憲法が長期間改正されなかったのは検閲由来のタブーのためではなく,独立後の複数回の総選挙を通じて得られた国民多数の支持の結果であるとして反論した。
メディア史研究者の山本武利は,江藤の議論が戦前・戦中の日本自身の検閲との歴史的連続性を無視していると批判した。
歴史学者の賀茂道子らは,江藤の実証内容の当否そのものより,その主張がなぜ学術的批判にもかかわらず一部の言説に取り込まれ影響力を保ち続けたのかという,言説の社会的受容過程を分析する視座を示している。
これらは相互に排他的な主張ではなく,占領当局の建前,江藤の批判,これへの反証,言説の受容過程分析という,異なる次元の議論が並存している状態として理解するのが適切である。

出典・参考資料

1 法令・条約

①ポツダム宣言(1945年7月26日,米英中三国宣言)第10項
②治安維持法(大正14年法律第46号,1925年5月12日施行)
③治安維持法中改正ノ件(昭和3年勅令第129号,1928年6月29日)
④治安維持法(昭和16年法律第54号,1941年3月10日全部改正)
⑤「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号,1945年9月20日)
⑥治安維持法廃止等ノ件(昭和20年勅令第575号,1945年10月15日)
⑦大赦令(昭和20年勅令第579号,1945年10月17日/昭和21年勅令第511号,1946年11月3日)
⑧連合国占領軍の為す郵便物,電報及び電話通話の検閲に関する件を廃止する法律(昭和27年法律第7号)

2 占領指令

①SCAPIN-93「政治的,公民的及ビ宗教的自由ニ対スル制限ノ撤廃ニ関スル件」(人権指令,1945年10月4日)
②SCAPIN-16「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(1945年9月10日)
③SCAPIN-33「日本ニ与フル新聞遵則」(プレスコード,1945年9月19日)

3 裁判例

東京高等裁判所平成30年10月24日判決(平成28年(ネ)第3783号,国家賠償請求控訴事件,裁判所ウェブサイト
広島高等裁判所第3部令和3年7月14日判決(令和2年(行コ)第10号,「黒い雨」被爆者健康手帳交付請求等控訴事件,裁判所ウェブサイト

4 公文書・歴史資料

①Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, The Conference of Berlin (The Potsdam Conference), 1945, Vol. I, Document 589, 592, 594(第10項起草過程)
②同Vol. II, Document 1244(米国代表団案),Document 1245(英国代表団修正案),Document 1382(最終確定稿)
③国立国会図書館「史料にみる日本の近代」SCAPIN-93仮訳
④名古屋大学法学研究科SCAPIN-DB(SCAPIN-93,SCAPIN-16,SCAPIN-33各原文)
⑤国立公文書館デジタルアーカイブ(治安維持法廃止令勅令575号の作成経緯,大赦令各原本)

5 文献

①多谷洋平「江藤淳と1980年代初頭の憲法論争――占領期言論検閲をめぐる主張と知識人の反応に着目して」立命館産業社会論集第60巻第1号(2024年)227頁~242頁
②江藤淳『閉された言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋,1989年)
③山本武利『占領期メディア分析』(法政大学出版局,1996年)
④荻野富士夫『検証 治安維持法:なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』(平凡社新書)

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※本記事中の判例及び法令の引用は,読みやすさのため句読点を「,」に統一した。仮名遣い・漢字等の表記は原典のままである。