メインコンテンツへスキップ
       

ポツダム宣言第6項と公職追放――軍国主義勢力の除去から追放解除まで(AI作成)

第1 ポツダム宣言第6項は何を定めたか

1 条文の文言と構造

本記事は,生成AIを用いて米国務省公刊外交文書(FRUS)及び国立国会図書館・国立公文書館所蔵の一次資料を横断的に確認し,ポツダム宣言第6項が要求した軍国主義勢力の除去が,実際にどのような指令・法令によって公職追放という制度に具体化され,どのような経過で解除されていったのかを検証した上で構成した。
第6項の英語正文は「There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest,for we insist that a new order of peace,security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.」である。
外務省仮訳は「吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和,安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」である。

条文は,日本国国民を欺いて世界征服に導いた「者」の権力・勢力を除去の対象とし,除去によってこの条項は完結する構造を取っている。
これは,同じ宣言の第10項後段が「民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙」を除去の対象とし,除去の後に「復活強化」という別の積極的な過程を予定しているのと対照的である(第10項の民主化条項については別稿で扱っている)。
第6項の理由節「無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ…新秩序カ生シ得サル」は,第7項冒頭の「右ノ如キ新秩序カ建設セラレ…ニ至ルマテハ…占領セラルヘシ」と”new order”(新秩序)の語で条文上明示的につながっており,第6項が占領(第7項)の理由付けの一部を成していることが読み取れる。

2 起草過程――第12項とは対照的に争点化しなかった条項

第6項は,1945年7月2日にスティムソン陸軍長官がトルーマン大統領に提出した草案(Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, The Conference of Berlin, 1945, Vol. I, Document 592)の段階で,既にほぼ最終形に達していた。
同じ草案に含まれていた皇室存続の確約条項(後の第12項)は,ハル元国務長官やマクリーシュ国務次官補から強い懸念が示され,最終的に全文削除される激しい経過をたどったが,第6項についてはこうした議論の記録が今回の調査範囲では見当たらなかった。
7月26日の最終発出稿でも,第6項の文言はスティムソン草案からほとんど変わっていない。

第6項自体は「軍国主義」という語を定義しておらず,「日本国国民ヲ欺瞞シ…過誤ヲ犯サシメタル者」という行為主体への言及にとどまる。
起草過程の周辺文書をみると,1945年6月29日付のブリーフィングペーパーは「死に物狂いの軍国主義者(die-hard militarists)」という表現を用い,第4項は「我儘ナル軍国主義的助言者」(militaristic advisers)という語を用いており,いずれも特定の役職者・党派を指す修辞として使われている。
「軍国主義」の法的・組織的な定義は,宣言発出から約2か月後の1945年9月,米国政府の対日占領政策文書(SWNCC150/4/A)で初めて具体化され,教育制度からの排除(思想・実践面)と団体指導者の公職からの排除(人的面)の両方を含む政策概念として扱われるようになる。

第2 誰が,どの基準で追放されたか

1 人権指令とSCAPIN-548・550

1946年1月4日,連合国最高司令官総司令部(GHQ)は,公職追放の直接の根拠となる2本の指令を発した。
一つはSCAPIN-548「ある種類の政党,協会,結社その他の団体の廃止」であり,超国家主義団体等の解散を命じるものである。
もう一つがSCAPIN-550「好ましくない人物の公職よりの除去に関する覚書」であり,こちらが公職追放の本体である。
SCAPIN-550は冒頭で第6項をほぼ逐語で引用し,これを履行するための措置として日本政府に一定の者の公職からの除去を命じた。
同日付でSCAPIN-549も発せられているが,これは奄美大島の地位に関する無関係の指令であり,公職追放とは主題を異にする。

2 追放基準――附属書AのA~G分類

SCAPIN-550には附属書A(Appendix A)が付されており,追放対象を次の7分類で規定していた。

①戦争犯罪人(War Criminals)
②本職の陸海軍職員,特高警察関係員,陸海軍省官吏(Career military and naval personnel)
③極端な国家主義的団体,暴力主義的団体,秘密愛国団体の有力分子(Influential Members of Ultra-nationalistic, Terroristic or Secret Patriotic Societies)
④大政翼賛会,翼賛政治会,大日本政治会の活動における有力分子(Persons Influential in the Activities of IRRA, IRAPS, and the Political Association of Great Japan)
⑤日本の発展政策に関係した金融機関並びに開発機関の役員(Officers of Financial and Development Organizations)
⑥占領地の行政長官(Governors of Occupied Territories)
⑦その他の軍国主義者及び極端な国家主義者(Additional Militarists and Ultra-Nationalists)

この分類は,軍人(②)と超国家主義団体の関係者(③④)を中心としつつ,金融・開発機関の役員(⑤)や占領地行政長官(⑥)といった,従軍していない民間人や官僚にも及ぶ広い射程を持っていた。
末尾の⑦「その他の軍国主義者及び極端な国家主義者」は,前記6分類のいずれにも明示的に該当しない者を包括する条項であり,この包括性が,後年の追放範囲の運用上の拡大解釈の余地を生んだと考えられる。

3 国内実施の仕組みと拡大

日本国内での実施は,1946年2月28日の昭和21年勅令第109号「就職禁止,退官,退職等ニ関スル件」に始まった。
これは1947年1月4日,SCAPIN-550発出のちょうど1年後に,昭和22年勅令第1号「公職に関する就職禁止,退職等に関する勅令」による全部改正で強化された。
勅令第1号第3条はSCAPIN-550附属書Aの規定を直接参照する構造を取っており,日本側が独自の追放基準を再定義するのではなく,GHQの指令をそのまま国内法の適用対象として組み込む方式であったことが分かる。

同日公布の昭和22年勅令第2号は,中央・都道府県・市町村の3段階で公職適否審査委員会を設置し,その審査対象として「市町村長や町内会・部落会等の長の適格性」を明記していた。
これは,1947年の追放が中央政界・軍・団体幹部だけでなく,地方社会の末端にまで及ぶ制度上の仕組みが整えられたことを示す一次資料である。

経済界・報道界への拡大についても,内閣・内務省令第一号の別表が1947年を通じて随時改正され,例えば同年3月には別表第二第九号に映画関係企業が追加されるなど,対象組織が個別に指定・追加されていった実例を確認できる。

第3 追放の規模と日本社会への影響

1 総数と対象分野

1952年(昭和27年)の国会答弁は,公職追放の指定を受けた総数を「約20万名」と説明しており,これは複数の解説記事が示す「20万3,660人」という数字ともおおむね一致する。
対象分野は幅広く,衆議院では解散時議員466名のうち381名が追放され,貴族院では807名全員が罷免された。
これとは別に,教職追放(1946年5月の勅令に基づく別建ての制度)では審査対象約130万人のうち約7,000人が不適格と判定されており,教職追放は公職追放(SCAPIN-550体系)とは制度上別個のものである点に注意を要する。

なお,追放者を職業別(軍人・官僚・政治家等)に細分化した具体的な人数の内訳を示す資料も一部で流布しているが,独立した裏付けが取れなかったため,本記事ではこれを採用していない。
数値を扱う際は,集計の時点(指定時点か,解除後の残存数か)と対象範囲(追放全体か,特定のカテゴリーに限るか)が資料ごとに異なりうる点を踏まえる必要がある。

2 鳩山一郎の追放と吉田政権の成立

公職追放が日本の政界に与えた影響を具体的に示す事例が,1946年5月4日の鳩山一郎追放である。
鳩山は日本自由党総裁として組閣目前だったが,GHQから追放の通知を受け,代わって吉田茂が指名され,同月22日に第1次吉田茂内閣が成立した。
鳩山の盟友であった三木武吉・河野一郎ら新国会議員8人も同時に追放されており,鳩山自身はその後5年余りの浪人生活を強いられることになる。

吉田はその後,1949年の総選挙で,公職追放によって不在となった旧勢力の枠を埋める形で各省庁出身の若手官僚を大量に擁立し,圧勝した。
この人材群は「吉田学校」と呼ばれ,大蔵官僚出身で1949年に初当選した池田勇人が直後に蔵相へ抜擢されたことや,1948年に官房長官に就任した佐藤栄作が後に長期政権を築いたことなど,追放によって生じた世代交代が戦後保守政治の担い手を大きく入れ替えたことを示している。
もっとも,これらの政治的展開は公職追放という制度的事実の後に生じたものとして広く記述されているにとどまり,追放がなければ生じなかったという反実仮想的な因果関係までを一次資料で確定することはできない。

第4 追放解除と「逆コース」

1 政策転換の起点と朝鮮戦争

追放解除は,当初は個別の誤認是正として始まった。
1947年3月に設置された第一次公職資格訴願審査委員会は,1948年5月の廃止までに1,471件の訴願を処理し,148名の追放処分取消しと4名の追放解除を認めている。

これに対し,政策としての追放解除の起点は1948年10月7日のNSC13/2(米国家安全保障会議文書)の承認であり,米国の対日占領政策が「改革」から「安定」の路線へ転換したことに求められる。
具体的な解除が動き出したのは1950年である。
同年10月,岡崎勝男官房長官がGHQに旧陸軍若手将校の追放解除該当者を報告し,まず200名前後の解除が決定・発表された(この人数は資料によって開きがあり,本記事では確実な範囲にとどめる)。
この時期は,1950年6月25日の朝鮮戦争勃発と重なっており,学術研究(増田弘の実証研究)は,この突発的な事態を契機としてマッカーサーが留保していた追放解除への態度を軟化させたと説明している。
興味深いのは,同じ1950年6月6日,マッカーサーが日本共産党中央委員の公職追放(レッドパージの公的発動)を指令している点であり,旧軍人・翼賛政治家という「右」の勢力の解除と,共産党幹部という「左」の勢力への新たな追放が,同じ占領管理機構によって対象を逆にしながら同時並行で進んだことになる。
もっとも,この学術研究自身が「単純な因果関係とはいえない」と留保を付けており,政策の構造的な転換は既に1948年のNSC13/2まで遡る点を踏まえると,朝鮮戦争を追放解除の唯一の原因として断定することは史料に照らして適切でない。

2 平和条約発効による終了

1951年4月,マッカーサーが解任されリッジウェー大将が後任となったことを機に,追放問題の再検討権限が日本政府へ委ねられ,解除が本格的に加速した。
石橋湛山は1951年6月に,鳩山一郎は同年8月に,それぞれ追放を解除されている。
岸信介はA級戦犯容疑者として1945年9月から巣鴨拘置所に収監され1948年12月に不起訴のまま釈放された後も公職追放は継続しており,1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効まで解除されなかった。

平和条約発効と同時に施行された昭和27年法律第94号は,公職追放を定めていた勅令第1号を含む一連の法令を廃止し,占領管理法令としての追放制度そのものを終わらせた。
参議院本会議での政府説明によれば,発効前の時点で総追放者約20万名のうち約19万2千名は既に個別に解除されており,残っていたごく少数(訴願手続未了の者や戦争犯罪関係者を含む)についても,この廃止法の施行と同時に一括して追放の効力を失った。
解除後,鳩山・石橋・岸の3名はいずれも内閣総理大臣に就任しており,公職追放とその解除が,戦後保守政界の人的構成を長期にわたり規定したことがうかがえる。

第5 裁判例が示す非司法審査性

裁判所は一貫して,公職追放の該当性判断が日本の裁判所の審査権の外にあるという立場を取り続けた。
最高裁判所大法廷昭和23年9月24日判決(昭和23年(オ)第9号,民集2巻10号250頁)は,選挙の当選無効が争われた事件の判決理由の冒頭で第6項を条文番号とともに逐語引用し,「公職追放は,ポツダム宣言に掲げられているところであり…連合国最高司令部の占領統治としては最も重要な政策の一面である」と述べて,追放が占領統治の根幹に位置付けられる措置であることを明言している。

最高裁判所大法廷昭和24年6月13日判決(昭和23年(れ)第1862号,刑集3巻7号974頁)は,「裁判官が連合国側の正当な要求に従うべきことは,ポツダム宣言の受諾にもとずく当然の法的要請である」と判示し,以後の多数の判例から繰り返し引用されるリーディングケースとなった。
この非司法審査性の理論は,公職追放そのものだけでなく,別建ての制度である教職追放にも及んでいる。
最高裁判所大法廷昭和25年10月25日判決(昭和24年(れ)第2029号,刑集4巻10号2134頁)は,教職不適格者としての指定の効力が争われた事件で,前記昭和24年判決及び最高裁判所大法廷昭和25年2月1日判決を引用し,教職追放についても日本の裁判所の裁判権が及ばないと判示した。

追放処分そのものの効力を正面から争おうとした事件も,同じ壁に突き当たっている。
最高裁判所第一小法廷昭和25年7月6日判決(昭和24年(オ)第79号,集民3号529頁)は,参議院議員が公職追放覚書該当者としての指定の無効確認を求めた訴えについて,指定行為の無効を審判する権限は日本の裁判所に属しないとして,訴えそのものを退けている。
これらの判例が示す非司法審査性の理論は,最高裁判所大法廷昭和25年2月1日判決及び最高裁判所大法廷昭和35年4月18日決定という別稿「日本国憲法外で法的効力を有していたポツダム命令」で扱った判例群とも共通しており,占領期の対日管理法令全般に及ぶ広い射程を持つ法理であったことが分かる。

出典・参考資料

1 法令・条約

①ポツダム宣言(1945年7月26日,米英中三国宣言)第6項,第7項
②SCAPIN-548「ある種類の政党,協会,結社その他の団体の廃止」(1946年1月4日)
③SCAPIN-550「好ましくない人物の公職よりの除去に関する覚書」及び附属書A(1946年1月4日)
④昭和21年勅令第109号「就職禁止,退官,退職等ニ関スル件」(1946年2月28日)
⑤昭和22年勅令第1号「公職に関する就職禁止,退職等に関する勅令」(1947年1月4日)
⑥昭和22年勅令第2号(公職適否審査委員会組織規則,1947年1月4日)
⑦昭和27年法律第94号「公職に関する就職禁止,退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(1952年4月28日施行)

2 裁判例

最高裁判所大法廷昭和23年9月24日判決(昭和23年(オ)第9号,民集2巻10号250頁,裁判所ウェブサイト)
最高裁判所大法廷昭和24年6月13日判決(昭和23年(れ)第1862号,刑集3巻7号974頁,裁判所ウェブサイト)
最高裁判所大法廷昭和25年10月25日判決(昭和24年(れ)第2029号,刑集4巻10号2134頁,裁判所ウェブサイト)
最高裁判所第一小法廷昭和25年7月6日判決(昭和24年(オ)第79号,集民3号529頁,裁判所ウェブサイト)

3 公文書・歴史資料

①Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, The Conference of Berlin (The Potsdam Conference), 1945, Vol. I, Document 589, 592(第6項起草過程)
②国立国会図書館「史料にみる日本の近代」5-7 公職追放(SCAPIN-548・550の解説及び原文)
③国立国会図書館「日本国憲法の誕生」United States Initial Post-Surrender Policy for Japan(SWNCC150/4/A)
④第13回国会衆議院内閣委員会議事録(1952年3月26日,国立国会図書館国会会議録検索システム)
⑤第13回国会参議院本会議議事録(1952年4月16日,国立国会図書館国会会議録検索システム)

4 文献

①増田弘「公職追放令の終結と追放解除(二):一九四七年~一九五二年」法学研究71巻2号(1998年)33頁~92頁
②増田弘「公職追放令の終結と追放解除(三・完):一九四七年~一九五二年」法学研究71巻3号(1998年)21頁~71頁

5 関連記事

日本国憲法外で法的効力を有していたポツダム命令
ポツダム宣言第10項の民主化条項は何を変えたか―人権指令、治安維持法廃止とGHQ検閲

※本記事中の判例及び法令の引用は,読みやすさのため句読点を「,」に統一した。仮名遣い・漢字等の表記は原典のままである。