弁護士に対する懲戒請求が不懲戒又は審査不相当になったとしても,そのことだけで請求者に不法行為責任が生じるわけではない。
最高裁平成19年4月24日第三小法廷判決(平成17年(受)第2126号,民集61巻3号1102頁)は,懲戒請求が事実上又は法律上の根拠を欠き,請求者がそれを知り,又は通常人であれば普通の注意により知り得たのにあえて請求するなど,制度の趣旨目的に照らし相当性を欠く場合に,不法行為が成立するとした。
本記事では,最高裁の法廷意見と田原睦夫裁判官の補足意見を分け,不当な懲戒請求に対応した弁護士が保存すべき記録を整理する。
第1 懲戒請求権と不法行為責任の関係
弁護士法58条1項は,何人も,弁護士又は弁護士法人について懲戒事由があると思料するときは,その事由の説明を添えて所属弁護士会に懲戒を求めることができると定める。
この制度は,広く一般の人に懲戒請求権を認め,弁護士会の自律的懲戒権限が適正に行使され,制度が公正に運用されることを期したものである。他方,根拠のない請求は,対象弁護士の名誉・信用を侵害し,弁明の負担を生じさせる。
したがって,「請求できること」と「根拠を欠く請求について民事責任を負わないこと」は同じではない。
第2 最高裁平成19年4月24日判決の判断基準
同最高裁判決は,懲戒請求者が,対象弁護士に懲戒事由があることを事実上及び法律上裏付ける相当な根拠について調査・検討すべき義務を負うとした。
その上で,次の事情があるときは,違法な懲戒請求として不法行為を構成すると判示した。
- 懲戒請求が事実上又は法律上の根拠を欠くこと
- 請求者が根拠を欠くことを知っていたこと,又は通常人であれば普通の注意により知り得たこと
- それにもかかわらずあえて懲戒を請求するなど,制度の趣旨目的に照らし相当性を欠くこと
不懲戒又は審査不相当という結果は,一つ目の事情を検討する資料にはなり得るが,直ちに二つ目と三つ目まで証明するものではない。
第3 判断の順序
- 請求対象事実を特定する。 誰が,いつ,どの行為をしたと主張されたかを,懲戒請求書と添付資料から固定する。
- 事実上の根拠を確認する。 請求者の資料が主張事実を支えるか,反対資料があるかを検討する。
- 法律上の根拠を確認する。 主張事実が真実でも,弁護士法56条1項その他の懲戒事由に当たり得るかを検討する。
- 請求者の認識又は過失を検討する。 請求時に入手できた資料,専門性,対象事件への関与及び反対資料の提示状況を確認する。
- 全体としての相当性を検討する。 請求の目的,反復,訂正後の対応,異議申出又は公表の有無等を含め,制度の趣旨目的に照らして判断する。
- 損害と因果関係を検討する。 名誉・信用の毀損,精神的負担,対応費用又は業務への影響が,どの行為から生じたかを分ける。
第4 最高裁判決の事案と結論
同判決の事案では,対象弁護士が民事訴訟を土地管轄のある裁判所へ提起した行為について懲戒請求等がされた。最高裁は,その訴訟提起が法律上も事実経過からも正当であり,品位を失うべき非行に当たるはずはないとして,懲戒請求等が事実上・法律上の裏付けを欠くことは明らかであるとした。
請求者は通常人として普通の注意を払えば根拠を欠くことを知り得たとされ,請求書を作成して代理人として関与した弁護士も,法律実務の専門家として認識し得る立場にあったとされた。
法廷意見は,懲戒請求等と,異議申出を棄却する裁決に対する取消訴訟の提起について不法行為責任を認め,精神的損害に対する慰謝料50万円を相当とした。これは当該事案の確定事実に基づく金額であり,他事件の相場を示すものではない。
第5 田原睦夫裁判官の補足意見
以下は法廷意見そのものではなく,田原睦夫裁判官の補足意見の要旨である。
- 懲戒請求の事実が第三者に知られるだけでも,対象弁護士の業務上・社会的信用に大きな影響を与えるおそれがある。
- 根拠のない請求でも,反論・反証活動や誤解の解消に相当のエネルギーを要する。
- 綱紀委員会の調査に付されると,手続終了まで登録換え又は登録取消しの請求が制限され,身分に重大な制約が生じる。
- 特に弁護士が請求者又は代理人として関与する場合,根拠のない請求が弁護士自治の基盤を傷つけ得ることを自覚し,慎重に対応すべきである。
虚偽の事由に基づく懲戒請求が虚偽告訴罪に該当すると解されるとの記載も,法廷意見ではなく同補足意見に置かれている。
第6 損害と因果関係の立証資料
損害賠償請求を検討する場合,次の資料を懲戒手続の記録とは別に整理する。
- 懲戒請求書,追加書面,異議申出書及び関連する通知
- 答弁書作成,資料調査,関係者聴取及び出頭に要した日時と作業記録
- 外部弁護士への相談費用その他の支出
- 登録換え・登録取消し又は業務計画への具体的影響
- 請求の事実又は内容が第三者へ伝わった範囲と,その証拠
- 依頼の減少,契約への影響その他の信用毀損を示す資料
- 反復的な請求,ウェブ公開,SNS投稿又は報道の記録
- 不懲戒決定,審査不相当議決その他の手続結果
請求対応に時間を使ったというだけで,その全てが損害として認められるとは限らない。どの違法行為により,どの損害が生じたかを具体化する必要がある。
第7 懲戒手続への答弁と損害賠償請求を分けること
綱紀委員会への答弁書の目的は,対象事実,規範,証拠及び情状を示し,懲戒委員会に審査を求めることが相当かの判断資料を提供することである。請求者への損害賠償請求を威嚇的に記載することは,この目的と一致しない場合がある。
答弁書では請求理由ごとの反論に集中し,不法行為請求を検討する記録は別ファイル・別時系列で保存する。初動と答弁書の具体的構成は,弁護士が懲戒請求を受けたときの初動と綱紀委員会への答弁書の書き方(AI作成)を参照されたい。
第8 刑法172条との関係
刑法172条は,人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で虚偽の申告をした者を虚偽告訴等の罪として処罰する。
民事上の不法行為と刑法172条は,要件,証明の程度及び手続が異なる。懲戒請求が不相当であることだけから犯罪成立を断定せず,申告内容の虚偽性,目的及び故意を個別に検討する。
第9 下級審の認容例と資料の確認範囲
本記事では,e-Govの現行弁護士法・民法・刑法と,裁判所ウェブサイト掲載の最高裁平成19年4月24日判決全文を一次資料として確認した。
その後,令和8年9月28日に,判例秘書で下級審の判決を個別に確認した。慰謝料の額は事案ごとに大きく異なるが,確認できた例は次のとおりである。
- 横浜地裁平成31年4月11日判決(平成31年(ワ)第364号,判例秘書の判例番号 L07450407)は,インターネット上のブログの運営者から入手した同一内容の用紙で数百名の者がした懲戒請求について,被告らが懲戒理由の有無を調査,検討した形跡はみられないとして不法行為を認め,被告6名にそれぞれ33万円(慰謝料30万円及び弁護士費用3万円)の支払を命じた。慰謝料の考慮事情として,業務上の信用への影響,反論等の負担,身分的制約のほか,事件受任の際の利益相反関係の確認等の事務負担も挙げている。
- 東京地裁平成19年6月25日判決(平成18年(ワ)第26028号・第28956号,判例秘書の判例番号 L06232754)は,弁護士が依頼者の代理人として行政書士会に懲戒請求をしたことを逆恨みした行政書士が,面談を強要し,弁護士の実家の両親に電話やファクシミリを送り,ブログに虚偽告訴罪の嫌疑がある旨を記載したうえ,弁護士会に懲戒を申し立てた事案で,慰謝料150万円を認めた。
- 東京地裁平成28年11月15日判決(平成28年(ワ)第1665号,判例秘書の判例番号 L07132531)は,長期にわたり反復された懲戒請求と紛議調停の申立てがいずれも不法行為に当たるとして,慰謝料140万円の支払を命じた。判決の別紙には,原告の弁護士が対応に費やした時間の表(日時・所要時間・作業内容)が付されている。
同一書式による大量の懲戒請求については,控訴審で認容額が減額された例もある(弁護士の懲戒請求権が何人にも認められていることの意義で紹介している東京高裁令和元年5月14日判決)。これらの例からは,高額の慰謝料は,懲戒請求そのものよりも,反復や懲戒請求以外の言動を含む一連の行為の評価によるものと考えられる。第6の作業記録は,この算定の資料にもなる。
不法行為による損害賠償の請求権は,被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から3年間行使しないときは,時効によって消滅する(民法724条1号)。綱紀委員会の議決を待つ間も,時効の管理が必要である。
なお,上記3件以外の下級審の網羅的な調査はしていない。
第10 出典・関連記事
④ 最高裁平成19年4月24日第三小法廷判決(平成17年(受)第2126号,民集61巻3号1102頁)
⑥ 弁護士会の懲戒手続―綱紀委員会・懲戒委員会と異議申出(AIリライト)
⑧ 森英明・絹川泰毅「最高裁民事破棄判決等の実情(上)―平成十九年度」判例時報2009号3頁以下(二次資料)
⑨ 平成19年度最高裁民事破棄判決等の実情―57件から学ぶ破棄理由と訴訟実務(AI作成)
⑩ 横浜地裁平成31年4月11日判決,東京地裁平成19年6月25日判決,東京地裁平成28年11月15日判決(いずれも判例秘書で本文を確認)