第1 結論
令和元年6月30日までに開始した相続へ適用される旧法の遺留分減殺訴訟では,裁判所が当事者に代わって「現物返還ではなく金銭で解決する」と選択することはできない。
受遺者又は受贈者が旧民法1041条の価額弁償を選択し,裁判所が定める額を速やかに支払う意思を表明してその額の確定を求めた場合,裁判所は,その額が支払われなかったことを条件として現物返還請求を認容する条件付判決をすることができる。これは単純な「引換給付判決」ではない。
他方,受遺者又は受贈者が価額を弁償する旨を表明しただけで,遺留分権利者が価額弁償請求権を行使していない場合,裁判所は無条件の金銭支払を命じることができない。金銭請求権を確定的に取得するには,遺留分権利者による権利行使の意思表示が必要である。
第2 本記事が扱う旧法事案
平成30年法律第72号附則2条により,令和元年7月1日の施行日前に開始した相続には原則として従前の例が適用される。本記事は,旧民法1031条以下の遺留分減殺請求と旧民法1041条の価額弁償を扱う。
令和元年7月1日以後に開始した相続では,民法1046条により当初から遺留分侵害額に相当する金銭請求権が生じるため,本記事の物権的減殺,現物返還及び価額弁償の抗弁という構造は適用されない。
第3 価額弁償の抗弁の基本構造
旧法の遺留分減殺請求には物権的効力があり,減殺の意思表示によって,侵害の限度で目的物の所有権又は共有持分が遺留分権利者へ帰属する。したがって,訴訟の出発点は現物返還又は持分移転登記である。
旧民法1041条は,減殺を受ける受遺者又は受贈者に,目的物の価額を弁償して返還義務を免れる選択肢を与えた。価額弁償は裁判所の裁量による代償分割ではなく,受遺者又は受贈者が行使する抗弁である。
第4 訴訟の三つの分岐
| 当事者の意思表示 | 権利関係 | 判決の形 |
|---|---|---|
| 受遺者等が価額弁償の抗弁を出さない | 遺留分権利者は現物の権利を有する | 現物返還・持分移転登記 |
| 受遺者等が裁判所の定める額を速やかに支払う意思を表明し,額の確定を求める | 支払までは現物返還請求権が残る | 不払を条件とする現物返還の条件付判決 |
| さらに遺留分権利者が価額弁償請求権を行使する | 現物の権利を遡って失い,金銭請求権を確定的に取得する | 金銭支払判決 |
第5 平成9年最高裁判決の条件付判決
最高裁平成9年2月25日第三小法廷判決(平成6年(オ)第1746号,民集51巻2号448頁)は,受遺者が事実審口頭弁論終結前に,裁判所が定めた価額を速やかに支払う意思を表明し,その額の確定を求めたときは,その主張を価額弁償の抗弁として扱うことができるとした。
同判決が示した主文は,受遺者が裁判所の定めた額を支払わなかったことを条件として,遺留分権利者の現物返還請求を認容するものである。支払と登記を同時履行とする通常の引換給付とは,条件の置き方が異なる。
第6 遺留分権利者が価額弁償請求権を行使した場合
最高裁平成20年1月24日第一小法廷判決(平成18年(受)第1572号,民集62巻1号63頁)は,受遺者等が価額を弁償する旨を表明し,遺留分権利者が価額弁償請求権を行使したとき,遺留分権利者は目的物の所有権及び現物返還請求権を遡って失い,これに代わる価額弁償請求権を確定的に取得するとした。
最高裁令和7年7月10日第一小法廷判決(令和6年(受)第2号)は,受遺者が価額弁償の意思を表明していても,遺留分権利者が価額弁償請求権を行使していない場合,裁判所は無条件の金銭支払を命じることができないと明確にした。
第7 裁判所の釈明・鑑定と当事者の選択
裁判所が,価額弁償の可能性,評価基準時,鑑定の要否又は和解による金銭解決について見解を示すことはある。しかし,その釈明・争点整理・証拠採否だけで,受遺者等の価額弁償の抗弁又は遺留分権利者の価額弁償請求権行使がされたことにはならない。
訴訟記録上は,誰が,いつ,どの意思表示をし,どの請求又は抗弁として陳述したかを区別する必要がある。裁判所が現在価額の鑑定を検討しているという事情だけから,現物返還の法律関係が金銭債権へ変わったと扱うことはできない。
第8 価額弁償額の評価基準時
最高裁昭和51年8月30日第二小法廷判決(昭和50年(オ)第920号,民集30巻7号768頁)は,現実に価額弁償がされる場合はその時の目的物価額により,訴訟で裁判所が額を定める場合はこれに最も近い事実審口頭弁論終結時の価額によるとした。
この基準時は,遺留分侵害の有無及び減殺割合を計算する相続開始時評価とは別である。地価が相続開始後に上昇又は下落していても,両者の評価目的を混同してはならない。
第9 主張立証で確認すべき事項
実務上は,①相続開始日,②減殺の意思表示と到達日,③減殺によって取得した権利の内容,④受遺者等の価額弁償の意思表示,⑤裁判所の定める額を速やかに支払う意思と額の確定を求める陳述,⑥遺留分権利者による価額弁償請求権行使,⑦評価対象,評価時点及び評価資料を時系列で整理する。
準備書面では,「価額弁償の抗弁」「条件付判決を求める陳述」「価額弁償請求権を行使する意思表示」を同じものとして記載せず,主体,時点及び法律効果を分ける必要がある。
第10 関連記事及び出典
評価基準時の全体像は,旧法事案の遺留分減殺請求における遺産の評価基準時を参照されたい。減殺請求後に換地処分があった土地については,相続開始後に遺留分減殺請求をし,その後に換地処分があった土地の評価基準時(AI作成)で説明している。
法令は,e-Gov法令検索・民法(令和元年6月30日時点)の旧民法1041条及び平成30年法律第72号附則2条を確認した。裁判例は,上記の最高裁昭和51年8月30日,平成9年2月25日,平成20年1月24日及び令和7年7月10日の各判決を確認した。調査基準日は令和8年9月29日である。