第1 結論とこの記事の対象
契約を結ぶ際に重要な前提を誤解していたとしても,それだけで契約の効力が失われるわけではない。現在の民法95条では,錯誤の内容,契約判断への影響,基礎事情の表示,重大な過失とその例外を分けて確認する。取消しの通知,期間及び第三者との関係も別の検討である。
契約を作る段階では,前提となる事情だけでなく,その事情が事実と違っていた場合に誰がどの不利益を負担するかを決め,交渉の記録と契約条項を対応させることが重要である。本記事は企業間の売買,保証その他の契約の点検を想定し,令和8年10月9日時点の条文と公表判決に基づいて説明する。契約書の点検方法は実務上の提案であり,特定の条項を入れれば必ず取消しが認められるという趣旨ではない。
第2 最初に意思表示の時点を確定する
錯誤の規定は令和2年4月1日の民法改正施行により,効果が無効から取消しへ変更された。平成29年法律第44号附則6条1項は,施行日前にされた意思表示には改正前の規律を適用すると定める。相談日や紛争発覚日が現在であることだけで,現行民法95条を適用してはならない。
契約締結日,変更合意日,保証又は債務引受けの合意日をそれぞれ記録し,効力を争う意思表示を特定する。複数の契約が組み合わされている場合は,どの契約の誰の意思表示に誤認があり,誰が相手方であるかを分ける。一つの契約について説明がされたことだけで,他の契約の相手方にも同じ前提が表示されたと扱わない。
第3 錯誤取消しを順に確認する
1 何を誤認していたか
民法95条1項1号は意思表示に対応する意思を欠く錯誤を,同項2号は法律行為の基礎とした事情について認識が真実に反する錯誤を扱う。契約をする意思自体はあっても,その判断の前提となった事実を誤解していた場合は,後者が問題となる。
契約時の認識と当時の真実を,資料を付けて対比する。単に将来の売上や価格が期待どおりにならなかったという話と,契約当時に存在した事実を誤認していたという話は分ける。予測の根拠となった資料が誤っていたのか,予測に伴う危険を引き受けたのかを確認する必要がある。
2 契約判断への影響と重要性
その誤認に基づいて意思表示をしたことと,誤認が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要であることが必要である。法務省の改正説明資料も,錯誤がなければ意思表示をしなかったという関係と,客観的な重要性を区別して説明している。
金額差だけでなく,取引の目的,価格の算定方法,負担する義務,見返りとなる給付を確認する。社内の決裁資料は契約判断への影響を示す資料になり得るが,相手方へ表示したことまで当然に証明するものではない。
3 法律行為の基礎であることを表示したか
基礎事情の錯誤を理由に取り消すには,その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていた必要がある(民法95条2項)。事情を話題にしたこと,相手方が事情を知っていたこと,その事情を契約の基礎とする旨が伝わっていたことを混同しない。
契約書,提案書,価格算定資料,メール,修正履歴及び議事録を並べ,誰がいつ何を伝え,相手方がどう応答したかを確認する。契約書に明記されていない場合も,交渉全体から判断されるが,表示や認識の評価が争われやすくなる。
4 重大な過失と例外
錯誤が表意者の重大な過失による場合は,原則として取り消せない。ただし,相手方が錯誤を知り又は重大な過失で知らなかった場合と,相手方も同一の錯誤に陥っていた場合は例外となる(民法95条3項)。
同一の錯誤は,重大な過失による取消制限の例外である。双方が誤解していたことだけで,錯誤の重要性や基礎事情の表示まで不要になるわけではない。相手方の別の誤解や,漠然とした期待の共有を,同一の錯誤と扱わないことも必要である。
調査できた資料,問い合わせの内容,受けた説明,確認に必要な専門知識及び警告となる情報を保存する。「専門家に相談しなかった」という一つの事情だけで結論を決めず,契約時に要求される注意を具体的に検討する。
第4 信用保証の判決から学べることとその限界
最高裁判所第三小法廷平成28年1月12日判決(平成26年(受)第266号)は,主債務者が反社会的勢力でないと誤認した信用保証協会の保証について,改正前民法95条による錯誤無効を否定した。
判決は,動機が表示されていても,当事者の意思解釈上,法律行為の内容となったと認められなければ要素の錯誤はないとした。その上で,金融機関と信用保証協会が業として取引し,事後に属性が判明する事態を想定して取扱いを定めることが可能であったのに,契約等にその定めがなかった事情などを検討している。保証債務の免責の抗弁等をさらに審理させるため,原判決を破棄して差し戻したものである。
この判決は改正前の信用保証取引に関する判断である。現行民法95条2項の表示要件を直接判断した判決ではなく,全ての契約で相手方が無効を受け入れる合意まで必須であると一般化してはならない。
実務上の教訓は,重要な事情を共有していたことと,誤認が判明した場合の契約上の取扱いを決めていたことを別に確認する点にある。事業判断の前提を明示するだけでなく,表明保証,履行の条件,解除,価格調整又は補償の条項として処理する選択肢を検討する。
第5 契約書と交渉記録に残す事項
次の表は,条文と判決を踏まえた契約点検のための整理である。全ての取引に同じ条項を要求するものではない。
| 確認すること | 残す資料・条項 | 注意点 |
|---|---|---|
| 前提の内容と基準日 | 契約書,調査資料,資料の版・取得日 | 将来の予測と現在の事実を区別する |
| 前提が価格・給付へ与えた影響 | 見積書,価格算定表,決裁資料 | 社内資料だけでは相手方への表示を示せない |
| 相手方へ伝えた内容 | メール,議事録,契約修正履歴 | 誰に伝え,どの合意に関係するかを特定する |
| 前提が違った場合の扱い | 表明保証,条件,解除・調整・補償条項 | 自動失効,解除権,損害賠償等の効果を分ける |
| 調査と情報提供の分担 | 質問票,回答,確認依頼,留保の記録 | 資料不足を未確認のまま事実と断定しない |
契約締結前に,事業担当者が前提と根拠資料を挙げ,法務担当者が相手方に伝わる表現と不一致時の処理を点検する。価格や権利帰属を大きく左右する事項が未確認であれば,確認完了を履行の条件にするか,条件変更や締結延期を決裁者へ提示する。
売買と保証又は債務引受けを組み合わせる場合は,それぞれの当事者,対価,成立条件及び効力否定時の清算を対応させる。一方の契約について錯誤を主張すれば,別の契約の効力も自動的に失われるという前提で契約書を作らない。
第6 誤認が判明した後の初動
契約時の資料と全ての草案を保存し,真実を知った日,その根拠資料,既にした履行,相手方の処分及び第三者の関与を確認する。取消しを主張する対象と理由,契約条項に基づく解除等を主張する対象と理由を分ける。
取消しは,確定した相手方に対する意思表示により行い,通知の到達も確認する(民法97条・123条)。取消権には追認可能時から5年及び行為時から20年の期間制限がある(同法126条)。追認や法定追認によって取消しができなくなることもあるため,誤認の発覚後に履行を続ける前に,民法124条・125条との関係を検討する。
取り消された行為は初めから無効であったものとみなされ,原状回復が問題となる(民法121条・121条の2)。ただし,善意無過失の第三者には錯誤取消しを対抗できない(同法95条4項)。通知だけで返金や登記の回復まで完了するわけではない。財産の転売や処分が迫る場合は,返還請求,登記手続請求及び保全の必要性を早い段階で弁護士へ相談する。
第7 関連記事
①財産分与の錯誤取消しと不動産の転売―課税の誤解,民法95条4項の第三者と登記,取消し後の買主
②遺産分割協議における錯誤取消し―旧法の要素の錯誤,裁判例と実務対応
③令和元年司法試験民事系科目第1問の模範解答と評価項目―出題の趣旨・採点実感から抽出した68項目と5段階の重み付け
③は試験当時の改正前民法を扱う答案であり,現行法の取消しの規律と区別して参照する。
第8 出典と確認範囲
①e-Gov法令検索「民法」:令和8年10月9日を基準とする施行版の95条,97条,121条,121条の2及び123条~126条。
②法務省「民法の一部を改正する法律(債権法改正)について」:施行日の案内と,同ページ掲載の平成29年法律第44号附則6条1項(PDF実頁129頁)。
③法務省「民法(債権関係)の改正に関する説明資料」:錯誤の要件及び効果に関するPDF実頁37・38頁(印字36・37頁)。資料中の「現行条文」は改正前を指すため,現在の条文と区別した。
④最高裁判所第三小法廷平成28年1月12日判決:平成26年(受)第266号,保証債務履行請求事件。判決全文6頁,特に理由4・5を確認した。
条文及び上記判決の内容と,契約点検・証拠保存に関する実務上の提案は区別している。判決を他の契約へ参照する際は,契約の性質,交渉経過及び危険の分担を具体的に確認する必要がある。