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遺産分割協議における錯誤取消し―旧法の要素の錯誤,裁判例と実務対応(AI作成)

第1 この記事の対象と最初に確認すべきこと

1 現在は「錯誤無効」ではなく「錯誤取消し」である

遺産分割協議は,共同相続人全員の意思表示によって成立する法律行為であり,民法の錯誤規定が適用される。もっとも,令和2年4月1日以後にされた意思表示には現行の民法95条が適用されるため,法律上の効果は当然の無効ではなく,取り消すことができるというものである。

これに対し,令和2年3月31日以前にされた意思表示には,民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)附則6条により旧民法95条が適用される。旧法下の裁判例が「要素の錯誤による無効」と述べているのはこのためであり,現在の事件でその結論だけを読み替えることはできない。

適用法を分ける基準は,被相続人の死亡日ではなく,問題となる相続人が遺産分割協議の意思表示をした日である。被相続人が令和2年4月1日より前に死亡していても,協議が同日以後であれば現行法を検討する。

2 結果が不満になっただけでは取り消せない

遺産分割協議の後に,財産が見付かった,売却価格が予想より高かった,税負担が生じた,又は扶養等の約束が履行されなかったという結果だけでは錯誤取消しにならない。問題となるのは,協議時に存在した事実についてどのような認識違いがあり,その認識が協議の具体的な前提として他の共同相続人に示され,真実を知っていれば通常その合意をしなかったといえるかである。

新たな財産が少額で,先行協議がそれ以外の財産だけを確定的に分ける趣旨であれば,先行協議を維持して新発見財産だけを追加分割するのが通常である。他方,提示された一覧が遺産の全部であるとの共通前提があり,重大な財産が漏れていたため配分全体の均衡が崩れる場合には,協議全体の取消しが問題となる。

3 本記事の射程

本記事は,私的な遺産分割協議を錯誤で取り消す場面を中心に,現行法の要件,旧法裁判例の参照方法,必要な証拠,訴訟・調停,相続放棄及び税務との関係を扱う。家事調停で成立した合意又は確定した遺産分割審判には別の手続問題があるため,私的協議と同一に扱うことはできない。

以下は一般的な法情報であり,個別事案に対する法的助言ではない。協議日,取消原因を知った日,財産処分又は登記の日によって期限及び第三者関係が変わるため,具体的事件では資料に基づく個別検討を要する。

第2 現行民法95条による判断の順序

1 錯誤には二つの類型がある

民法95条1項は,①意思表示に対応する意思を欠く錯誤と,②法律行為の基礎とした事情についての認識が真実に反する錯誤を定める。遺産分割では,「預金解約の書類だと思って署名した」という協議書の性質に関する誤認が①の候補となり,「この財産一覧が遺産の全部である」「債務は存在しない」「不動産にはほとんど価値がない」という前提事実の誤認が②の候補となる。

寄与分,特別受益,将来の扶養又は家業承継をどの程度評価するかは,当事者の合意によって決められる部分を含む。後から別の評価が可能と分かっただけでは,客観的事実についての認識が真実に反していたとは限らない。特別受益の主張・立証方法で問題となる評価上の争いと,錯誤取消しの前提事実の誤認とは区別すべきである。

2 錯誤は重要なものでなければならない

錯誤は,法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものでなければならない。本人が真実を知っていれば同意しなかったという主観面だけでなく,財産全体に占める差額,法定相続分による取得可能額,実際の取得額,協議の目的等からみて,その認識違いが分割内容を左右する程度であったかを検討する。

遺産分割は共同相続人内部の集団的な自己決定であるため,通常の取引と同じ強さで客観的重要性を要求すべきでないとの学説もある。他方,後記の東京高裁令和6年3月14日判決は,少なくとも1150万円以上の財産的価値を取得できた可能性を知っていれば「通常人」は相続分を放棄する合意をしなかったと合理的に推認できるとした。現行法の実務では,主観的な後悔だけでなく,通常の相続人にとっても分割を変える程度の差であることを具体化するのが安全である。

3 基礎事情は他の共同相続人に表示されていなければならない

基礎事情の錯誤による取消しは,その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていた場合に限られる。表示は協議書への明記に限られず,遺産目録,残高証明,不動産査定書,税額試算,メール,協議時の説明又は録音等から黙示に認められることがある。

例えば,「この目録が全遺産であることを前提に二分の一ずつ取得する」「債務がないとの回答を前提に協議する」「マンションの手取り価額がほぼゼロであるから相続分を放棄する」という因果関係が他の共同相続人に伝わっていれば,表示を基礎付けやすい。反対に,本人だけが内心で期待していた税効果,価格上昇又は将来の厚意は,表示されない動機にとどまりやすい。

4 重大な過失があると原則として取り消せない

錯誤が表意者の重大な過失による場合,原則として取消しはできない。遺産分割では,預貯金の残高証明,不動産査定,登記事項証明,債務照会,税額試算等を取得できたか,協議期間がどの程度あったか,資料開示を求めたか,弁護士・税理士等がどの範囲で関与したかが問題となる。

ただし,民法95条3項は,相手方が錯誤を知り,又は重大な過失により知らなかった場合と,相手方が表意者と同一の錯誤に陥っていた場合を例外とする。共同相続人が三人以上いるときに,そのうち一人だけが誤説明を知り,他の者が知らなかった場合の「相手方」をどう捉えるかについては,遺産分割の多面当事者性を正面から扱った公刊裁判例が乏しく,事案ごとの検討を要する。

5 取消通知,期間及び第三者を別々に確認する

錯誤が成立しても,自動的に協議の効力が消えるわけではない。取消しの意思を他の共同相続人に明確に伝える必要があり,後の到達争いを避けるには,取消対象の協議,錯誤の内容及び取消しの意思を特定した書面を用いるのが実務的である。

民法126条により,取消権は追認をすることができる時から5年間行使しないとき,又は行為の時から20年を経過したときに時効によって消滅する。さらに,取消原因となる状況が消滅し,取消権を知った後に明示又は法定追認が成立すれば,その後の取消しが妨げられることがある。

取り消された行為は初めから無効であったものとみなされるが,民法95条4項は善意かつ無過失の第三者への対抗を制限する。協議後に不動産が売却され,抵当権が設定され,又は差押えを受けた場合には,取消しの成否だけでなく,第三者の取得時期,認識,登記及び民法909条ただし書との関係を別に検討する。

第3 誤認の類型別にみる裁判例

1 存在を知らなかった遺言

最高裁平成5年12月16日第一小法廷判決は,特定の土地について分割方法を定めた遺言の存在を相続人全員が知らず,その遺言と異なる遺産分割協議をした事案を扱った。最高裁は,遺言の内容が明確に分割方法を定めており,その存在を知っていれば特段の事情がない限り同じ協議をしなかった蓋然性が極めて高いとして,「要素の錯誤がないとはいえない」と判示し,原判決を破棄して差し戻した。

この判決は,協議の無効を最高裁が最終確定したものではなく,錯誤を否定した原審判断を維持できないとしたものである。また,発見された遺言が偽造,意思能力欠如又は方式違反により無効かという争いは,遺言を前提とする協議の錯誤とは別問題である。遺言自体の効力を争う場合は,公正証書遺言の効果的な無効主張方法で整理した証拠構造も検討対象となる。

2 遺産目録から預貯金又は株式が漏れていた場合

東京地裁平成27年4月22日判決・平成25年(ワ)第8188号・判例時報2269号27頁は,多額の預金引出し及び六銘柄の株式等が協議書から漏れていた事案で,ほぼ全財産が記載されているとの共通前提があったとして,旧法下の錯誤無効を認めた。裁判所HPには掲載されていないが,日本税務研究センターの判例記事検索で事件番号,判決日及び掲載誌を確認できる。

広島高裁松江支部平成2年9月25日決定・家庭裁判月報43巻3号88頁は,預金が実際には約2434万円であったのに約1900万円と説明されていた事案で,法定相続分,実際の取得額及び約534万円の差額等を考慮し,旧法下の要素の錯誤を認めた。これらの事例からは,漏れた財産が存在するだけでなく,全財産であるとの共通前提と配分への具体的影響が重要であることが分かる。

他方,協議書に「後日判明した財産及び債務は一定割合で取得又は負担する」という条項を置いた場合,当事者が財産漏れの可能性を想定してリスクを配分したと評価されることがある。国税不服審判所平成24年9月7日裁決も,このような条項を自ら加えた事情を,後日判明財産に関する錯誤を否定する方向で考慮した。

3 不動産等の価額を誤認した場合

東京高裁昭和59年9月19日判決・東京高等裁判所民事判決時報35巻8・9号161頁・判例タイムズ544号131頁は,時価約2500万円の不動産を約1293万円ないし1559万円と誤信した点の重要性を認めた一方,弁護士二人が関与し,十四回の調停期日を重ね,調査機会が十分にあったとして重大な過失を認め,旧法下の無効主張を許さなかった。価格差が大きくても,調査機会を利用しなかった事情が結論を左右し得ることを示す。

これに対し,東京高裁令和6年3月14日判決・2024WLJPCA03146004は,他の相続人からマンションは1000万円にも満たず,諸費用を控除すればほとんど残らないとの説明を受けて相続分を放棄したところ,後に2300万円で売却された事案で,現行民法95条による取消しを認めたと紹介されている。同判決は,少なくとも1150万円以上の財産的価値を取得できた可能性の重要性と,誤った基礎事情が相手方自身の説明内容であったことによる表示を認めた。この判決は裁判所HP未掲載であり,判旨は全日本不動産協会「Vol.117 遺産分割協議の錯誤取消し」による紹介に基づくため,裁判書全文を確認できる事件では全文との照合を要する。

東京高裁平成28年5月17日判決・平成27年(ネ)第5825号は,寄与分の提示は当事者の主張としてあり得ること,資料の精査が必要なら再協議を求められたこと,不動産価額の差が遺産全体との関係で大きな影響を与えないこと等から錯誤を否定したと紹介されている。単なる評価意見の相違か,相手方が作り出した具体的な誤った前提か,差額が配分を左右するか,調査機会があったかが分岐となる。

4 多額の相続債務を知らなかった場合

大阪高裁平成10年2月9日決定・平成10年(ラ)第54号・家庭裁判月報50巻6号89頁は,遺産を妻及び長男に取得させる協議の後に多額の債務が判明した事案を扱った。同決定は,遺産分割協議が相続財産の処分として法定単純承認に当たり得るとしつつ,多額の債務を知っていれば当初から相続放棄をしたと考えられる事情の下では,協議が要素の錯誤により無効となり,単純承認の効果も生じない余地があるとして原審判を取り消し,家庭裁判所に差し戻した。錯誤無効及び放棄の有効性を最終確定した決定ではない点に注意を要する。

高松高裁平成20年3月5日決定・平成20年(ラ)第12号・家庭裁判月報60巻10号91頁は,農協に債務の有無を照会して「ない」との回答を得た後,残元金約7500万円の保証債務が判明した事案である。同決定は,債務調査を尽くしたこと,債権者側の誤回答及び債務の巨額性を重視し,法定単純承認の効果を否定して相続放棄申述を受理した。

もっとも,熟慮期間の経過という法定効果に錯誤法理を適用できるか,現行民法95条2項の表示を誰に対して要求するか,民法919条の特別な取消期間とどう整合させるかには理論上の問題が残る。「債務を知らなければいつでも放棄できる」という一般則ではない。遺産分割が法定単純承認となる場面と熟慮期間については,相続の法定単純承認の実務も参照されたい。

5 税負担又は法的効果を誤認した場合

東京地裁平成11年1月22日判決・判例時報1685号51頁は,相続税申告期限までに協議書を作らなければ多額の無申告加算税等が生じるとの誤った説明を信じて協議に応じた事案で,その説明内容が協議の動機として表示され,取得額への影響も重大であったとして,旧法下の錯誤無効を認めた。税務上の期待が内心にとどまった事案ではなく,具体的な誤説明が協議の前提として共有された事案である。

これに対し,後から節税方法を知った,予定した特例を使えなかった,又は税額が予想より多かったという事情だけでは足りない。税務上の効果を錯誤として主張する場合も,協議時の具体的な税額試算,説明者,説明内容,表示,真実の税効果及び配分への影響を特定する必要がある。

6 協議書の意味を誤解したとの主張と将来の約束

「預金手続の書類だと思った」「形式上必要な署名だと思った」という主張は,協議書の標題及び内容,説明の有無,草案の交付,協議回数,読み合わせ,専門家関与並びに署名後の税務申告及び登記と整合するかによって判断される。内容が明確な協議書を受け取り,長期間の協議を経て署名し,その後も協議に沿った行動をした場合には,抽象的な理解不足の供述だけで錯誤を認めさせることは難しい。

また,「遺産を取得させる代わりに将来扶養する」という約束が後に履行されなかったことは,通常は協議後の債務不履行であり,協議時の認識違いとは別である。最高裁平成元年2月9日第一小法廷判決・民集43巻2号1頁は,遺産分割協議を債務不履行によって法定解除することを否定している。もっとも,合意時から履行意思がなかった場合又は約束の内容自体を誤認していた場合には,詐欺又は錯誤の別の構成が問題となり得る。

7 裁判例を分ける事実

取消し又は旧法上の無効を認める方向に働くのは,①相手方の具体的な誤説明又は資料の欠落,②財産全体に比して大きな差額,③全財産又は無債務であるとの共通前提,④真実を知れば配分が変わることの明確な対応関係,⑤通常行うべき調査をした記録である。

反対に,否定する方向に働くのは,①単なる相場予測又は評価意見の違い,②漏れた財産が少額で先行協議から分離できること,③後日判明財産条項によるリスク配分,④長い協議期間と十分な調査機会,⑤専門家の関与,⑥協議書及び税務書類と矛盾する本人供述,⑦協議後に初めて生じた事情である。いずれも一事情だけで決まるのではなく,協議時点の情報と行動を総合して判断される。

第4 錯誤取消しを主張立証するための証拠

1 最初に時系列を固定する

最初に,被相続人の死亡日,遺言の作成・発見日,遺産目録及び評価資料の作成日,各協議日,署名押印日,真実を知った日,裏付け資料の取得日,取消通知の発信・到達日,登記・売却・担保設定・差押えの日,相続税申告及び税務調査の日を一つの時系列にする。

協議後に発生した事情は,原則として協議時の錯誤を基礎付けない。他方,協議時に既に存在していた債務又は財産を後から知った場合には,認識した日だけでなく,その事実が協議時にも存在していたことを残高証明,契約書,登記,取引履歴等で示す必要がある。

2 認識した数字と真実の数字を対比する

「遺産が少ないと思った」という表現では,重要性を判断できない。協議時に認識していた財産・債務の額,真実の額,差額,法定相続分による取得可能額及び実際の取得額を対比し,その差が具体的な配分にどう影響したかを示す。

不動産については,相続開始時,協議時及び後の売却時を分ける。売却価格は協議時価額を推認する資料になり得るが,市場変動,修繕,賃貸状況又は売却条件が異なれば同じ価額とは限らないため,協議時点に近い査定書,周辺成約事例又は収益資料を併用する。

3 基礎事情の表示を資料で示す

表示の証拠となるのは,遺産目録,残高証明,通帳写し,取引履歴,証券残高,不動産査定書,固定資産評価証明,税額試算,協議書草案,メール,メッセージ,録音及び議事メモ等である。単に資料を提出するだけでなく,誰が,誰に,いつ,どの数字又は事実を示し,それを前提にどの配分へ同意したかが分かるように整理する。

相手方が資料を保有している場合も,直ちに文書提出命令等を前提とすべきではない。まず依頼者保有のメール,既に交付された目録,金融機関又は法務局から通常取得できる資料及び税務申告関係書類を確認し,なお特定の文書の存在と立証上の必要性が具体化した段階で,任意開示,弁護士会照会,調査嘱託又は文書提出命令の要件と費用を検討する。

4 重大な過失への反論を準備する

取消しを求める側は,残高証明を取得した,金融機関又は債権者に照会した,査定を依頼した,資料開示を求めた,又は期限のため十分な調査ができなかったという経過を保存する。相手方が資料を独占し,誤った回答をした場合には,開示要求及び回答の記録が,錯誤だけでなく重大な過失の否定にも役立つ。

専門家が関与していた場合は,関与の事実だけで結論を決めず,依頼範囲と実際に提供された資料を確認する。税理士が申告書作成だけを依頼され,不動産査定又は債務調査を担当していなかった場合と,全財産調査を含む委任を受けていた場合とでは,注意義務の評価が異なり得る。

5 相手方の反論を先に検討する

相手方からは,①その事情は表示されていない内心の動機である,②差額は分割全体を変えるほど重要でない,③容易に調査できたのに調べなかった,④後日判明財産条項によりリスクを引き受けた,⑤真実を知った後に協議を履行して追認した,⑥第三者が既に権利を取得した,⑦主張する損失は協議後の事情による,という反論が想定される。

訴訟では,取消しを求める者が錯誤,重要性,基礎事情の表示及び取消しの意思表示を具体化し,相手方が重大な過失を基礎付ける事情を主張し,取消権者が相手方の悪意・重大な過失又は共通錯誤を再反論するという構造が基本となる。評価語を重ねるのではなく,各要件に対応する時点付きの事実を配置する必要がある。

第5 取消しを実現する手続とその効果

1 取消通知だけで解決しない場合

他の共同相続人が取消し及び原状回復に応じる場合は,再度の協議,金銭返還及び登記手続を合意できる。他方,錯誤の有無又は返還範囲を争う場合は,協議の効力確認,所有権確認,金銭返還又は登記請求等の民事訴訟を,具体的な権利関係に応じて選択する。

請求を「遺産分割協議の取消し」だけに抽象化すると,確認の利益又は給付請求との関係が問題となる。現在の登記名義,処分された財産,受領した代償金及び最終的に実現したい状態を確認し,効力確認と具体的な給付請求の組合せを設計する。

2 共同相続人全員を当事者にする必要がある

大阪高裁平成5年3月26日判決・平成4年(ネ)第1135号は,遺産分割協議の無効確認請求は共同相続人全員との間で合一に確定する必要がある固有必要的共同訴訟であると判示した。同判決は,第一審で欠けていた相続人が控訴審で共同訴訟参加することにより当事者の欠缺を補正できるともした。

現行法の錯誤取消しであっても,協議全体の効力を争う以上,共同相続人の一部だけとの間で矛盾する効力判断を確定させることは避けるべきである。訴えを提起する前に,当時の相続人とその後の承継人を戸籍及び相続関係資料で確定する。

3 調停前置と協議失効後の再分割

家事事件手続法244条及び257条により,家庭に関する事件について訴えを提起しようとする場合は,原則として先に家事調停を申し立てる。調停を経ずに訴えを提起した場合,裁判所は相当でないと認める場合を除き,事件を家事調停に付す。

先行協議の取消し又は無効が確定しても,遺産の帰属が自動的に新しい配分へ確定するわけではない。共同相続人全員で改めて協議し,合意できなければ家庭裁判所の遺産分割調停又は審判で分割する。効力争いの民事訴訟と,効力否定後の具体的分割を区別する必要がある。

4 原状回復,登記及び第三者

現行民法121条により,取り消された行為は初めから無効であったものとみなされ,同法121条の2により給付の返還が問題となる。預金又は代償金が費消されている場合,不動産が売却されている場合,収益又は費用が生じている場合には,返還対象及び価額償還を個別に整理する。

不動産の登記を戻す場合も,取消しの通知だけで登記が当然に書き換わるわけではない。登記名義人の協力を得るか,登記手続請求を行う必要があり,第三者が関与していれば,民法95条4項及び909条ただし書等による保護の有無を検討する。処分又は差押えが迫っているときは,訴訟に先立つ保全処分の必要性を検討する。

5 全体取消し,追加分割及び一部処理を分ける

遺産分割は全員の合意を要するため,一人の意思表示が有効に取り消されれば,通常はその者を除いて同じ協議全体を維持できない。他方,錯誤が特定財産だけに関係し,残余部分を維持する意思及び可分性が認められる場合には,先行協議を維持した追加分割又は当該財産部分だけの処理が問題となる。

遺産とされた財産が実際には被相続人の所有でなかった場合も,その財産が分配全体の中核であれば全体取消しが問題となるが,重要でなければ当該部分の失効又は民法911条の共同相続人間の担保責任による調整があり得る。全体か一部かを決める一律の最高裁基準は確認できず,協議書の文言,財産価額及び配分の関連性に依存する。

第6 相続放棄及び税務との交錯

1 遺産分割と法定単純承認は別の争点を生む

遺産分割協議によって相続財産の帰属を確定させる行為は,民法921条1号の相続財産の処分として,法定単純承認に当たり得る。後に多額の債務が判明した事件では,協議の錯誤取消しだけでなく,単純承認の効果を否定できるか,民法915条の熟慮期間をいつから起算するか,放棄申述を受理できるかが別に問題となる。

債務が疑われる段階では,積極財産を処分せず,熟慮期間内に相続放棄又は限定承認を検討し,調査が間に合わなければ家庭裁判所へ期間伸長を申し立てることが優先される。協議を先に成立させてから錯誤で救済を求める方法は,前記の高裁決定が示すように事実依存であり,安全な代替策ではない。

2 協議の取消しと承認・放棄の取消しは期間が違う

遺産分割協議の錯誤取消しには民法126条の5年・20年が問題となる。これとは別に,相続の承認又は放棄を総則の規定によって取り消す場合は,民法919条3項の追認可能時から6か月・承認又は放棄時から10年という期間があり,同条4項により家庭裁判所への申述を要する。

遺産分割協議が取り消されたから直ちに相続放棄が有効になるとは限らず,相続財産の処分,熟慮期間及び取消申述をそれぞれ検討する。債権者から請求を受けている場合は,放棄申述が受理されてもその効力が後の民事訴訟で争われ得ることも踏まえる。

3 任意のやり直しは税務上の錯誤取消しとは限らない

共同相続人全員が合意して先行協議を解除し,再分割すること自体は民法上妨げられない。しかし,先行協議に真の取消原因がないまま財産を再配分すれば,税務上は当初の取得者から新取得者への贈与又は交換として課税されることがある。

国税不服審判所平成17年12月15日裁決は,後の再協議を錯誤無効に基づくものと主張した事案で,原協議の錯誤を認めず,財産移転を贈与と評価する処分を維持した。また,同審判所平成24年9月7日裁決は,後日判明財産等を一定割合で分ける条項を置いた事情から,その後に判明する財産の可能性を想定していたとして錯誤を否定した。

再協議書に「錯誤により取り消す」と記載するだけでは,課税庁がその法的評価に拘束されるわけではない。原協議時の具体的な認識違い,表示,重要性,取消時期,財産移転の実態及び税務調査との前後関係を,民事上の効力と税務上の更正の双方について検討する必要がある。

第7 相談を受けたときの初動と停止基準

1 直ちに確認し保存するもの

最初に,協議書原本,押印に用いた印鑑証明書,協議前後の全草案,遺産目録,通帳・残高証明,証券残高,不動産資料,債務資料,税額試算,メール,メッセージ及び録音を確保する。真実を知った日とその根拠資料,既に行った売却・登記・送金,相手方及び第三者の現在の処分予定も確認する。

取消期間,追認,第三者への処分又は相続放棄の熟慮期間が迫る場合は,完全な調査を待たず,取消通知,処分禁止等の保全,相続放棄申述又は熟慮期間伸長の要否を先に判断する。ただし,取消通知は後の主張と矛盾しないよう,対象協議及び主要な錯誤内容を特定する。

2 低負担の調査から始める

依頼者保有資料と協議時の時系列を固めた後,法務局の登記事項証明,固定資産関係資料,取引金融機関の残高・取引履歴,証券会社資料,確定申告書及び被相続人宛て郵便物等を確認する。相手方しか保有しない資料については,存在と内容の手掛かりを作ってから任意開示を求める。

不動産鑑定,大量の金融記録分析又は証人尋問は,協議時価額又は説明内容が結論を左右し,低負担の資料ではなお解明できない場合に限って進める。何が判明すれば重要性又は重大な過失の評価が変わるかを先に定め,費用だけが増える調査を避ける。

3 訴訟へ進む条件と進まない条件

訴訟を検討しやすいのは,錯誤の内容が特定でき,協議時に既に存在した事実を客観資料で示せ,その基礎事情の表示と配分への大きな影響を説明でき,取消期間内で,第三者関係を含む回復可能性がある場合である。相手方の誤説明又は資料独占が記録されていれば,重大な過失への反論も組み立てやすい。

反対に,内心の期待だけで表示の証拠がない,差額が小さく先行協議から分離できる,協議後の相場変動又は約束不履行だけである,十分な調査機会を意図的に放棄した,真実を知った後に長期間履行を続けた,又は第三者関係により実質的な回復が困難である場合は,錯誤訴訟以外の追加分割,担保責任,履行請求又は合意解決を検討する。

第8 旧法裁判例の射程と現在の未解決点

1 旧法裁判例は事実評価に参照価値がある

本記事で取り上げた裁判例の多くは旧民法95条の「要素の錯誤」を適用したものであり,現行法の取消期間,第三者保護及び基礎事情の表示を直接判断したものではない。それでも,何が分割を左右する重要な事情か,価額差を遺産全体との関係でどう見るか,調査機会及び専門家関与から重大な過失をどう認定するかという事実評価には参照価値がある。

旧法判例が用いた「動機が法律行為の内容となった」という表現を,現行民法95条2項の「基礎とされていることが表示されていた」に機械的に置き換えることはできない。現行事件では,誰に対するどのような表示があったかを,条文に沿って改めて主張する必要がある。

2 現行法下の公刊事例はまだ限られる

現行民法95条を遺産分割協議に適用した近時の中心例として確認できるのは東京高裁令和6年3月14日判決であるが,裁判所HPには掲載されていない。現行法下では,複数の共同相続人の一部だけが錯誤又は悪意であった場合の処理,一人の取消しが協議全体に及ぼす範囲及び一部取消しの可否について,公刊裁判例の蓄積が十分とはいえない。

また,相続債務に関する法定単純承認へ現行の錯誤規定をどう適用するか,調停合意自体の錯誤をどの手続で争うか,新発見財産又は非遺産財産について追加分割・担保責任・錯誤取消しをどう使い分けるかも,原因と請求形式に応じた個別検討を要する。古い裁判例の結論又は一つの判例紹介だけで一般化しないことが重要である。

第9 出典・参考資料

1 法令

民法(明治29年法律第89号)95条,97条,121条,121条の2,123条~126条,907条,909条,911条,915条,919条及び921条(e-Gov法令検索)。

民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)附則6条(e-Gov法令検索)。

家事事件手続法(平成23年法律第52号)244条,257条及び268条(e-Gov法令検索)。

2 裁判例・裁決

最高裁判所第一小法廷平成5年12月16日判決(平成2年(オ)第1828号,裁判集民事170号757頁,判例時報1489号114頁,判例タイムズ842号124頁,裁判所ウェブサイト)。

②東京高等裁判所昭和59年9月19日判決(東京高等裁判所民事判決時報35巻8・9号161頁,判例タイムズ544号131頁。裁判所HP未掲載。田村洋三・小圷眞史編著『実務相続関係訴訟 第3版』及び松原正明『全訂第2版 判例先例 相続法Ⅱ』で判旨を確認)。

③広島高等裁判所松江支部平成2年9月25日決定(家庭裁判月報43巻3号88頁。裁判所HP未掲載。田村洋三・小圷眞史編著『実務相続関係訴訟 第3版』で判旨を確認)。

大阪高等裁判所平成5年3月26日判決(平成4年(ネ)第1135号,遺産分割協議無効確認請求・同参加事件,裁判所ウェブサイト)。

⑤大阪高等裁判所平成10年2月9日決定(平成10年(ラ)第54号,家庭裁判月報50巻6号89頁,判例タイムズ985号257頁。裁判所HP未掲載。松原正明『全訂第2版 判例先例 相続法Ⅱ』及び能登真規子「債務の相続と単純承認の錯誤」で書誌・判旨を確認)。

⑥東京地方裁判所平成11年1月22日判決(判例時報1685号51頁。裁判所HP未掲載。田村洋三・小圷眞史編著『実務相続関係訴訟 第3版』で判旨を確認)。

⑦高松高等裁判所平成20年3月5日決定(平成20年(ラ)第12号,家庭裁判月報60巻10号91頁。裁判所HP未掲載。能登真規子「債務の相続と単純承認の錯誤」掲載の決定要旨で確認)。

⑧東京地方裁判所平成27年4月22日判決(平成25年(ワ)第8188号,判例時報2269号27頁。裁判所HP未掲載。日本税務研究センター判例記事検索及び専門書で書誌・判旨を確認)。

⑨東京高等裁判所平成28年5月17日判決(平成27年(ネ)第5825号。裁判所HP未掲載。東京相続サポートセンターの判例紹介及び商用判例検索で書誌・判旨を確認)。

⑩東京高等裁判所令和6年3月14日判決(2024WLJPCA03146004。裁判所HP未掲載。全日本不動産協会「Vol.117 遺産分割協議の錯誤取消し」で判旨を確認。裁判書全文は未確認)。

⑪最高裁判所第一小法廷平成元年2月9日判決(民集43巻2号1頁。遺産分割協議の債務不履行による法定解除を否定。裁判所HP未掲載。裁判書原本PDFは未確認であり,大塚正之『家族法コンメンタール 民法相続編』及び裁判所HP掲載の後続判決中の引用で判旨を確認)。

⑫最高裁判所第一小法廷平成2年9月27日判決(昭和63年(オ)第115号,民集44巻6号995頁。共同相続人全員による合意解除及び再分割を法律上妨げないとしたもの。裁判所HP未掲載。裁判書原本PDFは未確認であり,大塚正之『家族法コンメンタール 民法相続編』で判旨を確認)。

国税不服審判所平成17年12月15日裁決(裁決事例集70号259頁,国税不服審判所)。

国税不服審判所平成24年9月7日裁決(国税不服審判所)。

3 文献・ウェブ資料

①田村洋三・小圷眞史編著『実務相続関係訴訟 第3版―遺産分割の前提問題等に係る民事訴訟実務マニュアル』(日本加除出版,2020年)316頁~318頁。

②潮見佳男『詳解相続法』(弘文堂,2018年)285頁~287頁。

③大塚正之『家族法コンメンタール 民法相続編』(日本評論社,2016年)111頁~113頁。

④松原正明『全訂第2版 判例先例 相続法Ⅱ―相続の効力』(日本加除出版,2022年)495頁~503頁。

⑤岡口基一『要件事実マニュアル第6版 第1巻 総論・民法1』(ぎょうせい,2020年)249頁~255頁。

⑥志和・髙橋綜合法律事務所編『遺産分割協議書チェックのポイント―「問題がある協議・条項」とその改善例』(新日本法規,2024年)73頁~76頁・214頁~218頁・230頁~240頁。

⑦能登真規子「債務の相続と単純承認の錯誤―高松高決平成20年3月5日家月60巻10号91頁」滋賀大学経済学部研究年報(2010年)207頁~227頁(滋賀大学学術情報リポジトリPDF)。