第1 受任直後に判断する事項
1 先に期限と経済的利益を確認する
公正証書遺言の無効を争う場合,最初に行うべき作業は,認知症の資料を広く集めることではなく,相続関係,遺産の内容,遺言による権利移転の状況,依頼者が得る可能性のある利益及び期限を確認することである。
遺言無効確認だけでなく,所有権確認,登記抹消,遺産分割その他の請求が必要となることがあり,相手方も,遺言執行者の有無及び遺言の執行状況によって異なる。
最高裁昭和31年9月18日判決(昭和29年(オ)第875号,民集10巻9号1160頁)は,遺言執行者を相手として相続財産に対する持分の確認を求めることができるとした一方,最高裁昭和51年7月19日判決(昭和51年(オ)第17号,民集30巻7号706頁)は,受遺者への登記が完了した不動産の抹消登記請求では受遺者を被告とすべきものとした。
したがって,遺言の効力だけを抽象的に検討するのではなく,現在の権利状態を変えるために必要な請求と当事者を先に特定する必要がある。
また,遺留分侵害額請求権は,相続の開始及び遺留分を侵害する贈与又は遺贈があったことを知った時から1年間行使しないときは時効によって消滅し,相続開始時から10年を経過したときも消滅する(民法1048条)。
遺言無効の調査中であっても,遺留分を代替的に請求する可能性があれば,期間内に相手方へ意思表示を到達させる必要があり,家庭裁判所への調停申立てだけでは相手方に対する意思表示にならない点に注意を要する。
2 証拠収集を4段階に分ける
平均的な規模の法律事務所では,利用可能性の低い証拠を網羅的に探すより,低負担で結論を変え得る資料から順に取得する方が合理的である。
| 段階 | 主な作業 | 次へ進む基準 |
|---|---|---|
| 第1段階 | 期限保全,遺言書・戸籍・登記・財産資料の確認 | 訴訟等によって得られる経済的利益が作業負担に見合う |
| 第2段階 | 作成日前後に範囲を絞った診療・介護記録,既存資料及び公証人への限定照会 | 無効原因を具体化できる資料又は説明の空白がある |
| 第3段階 | 時系列表と証拠評価表の作成,請求・争点・不足証拠の特定 | 特定の不足証拠が結論を左右する可能性が高い |
| 第4段階 | 証拠保全,提訴前照会・処分,訴訟上の申立て,専門家意見 | 手続の要件,費用及び期間に見合う証拠価値がある |
第2段階までで遺言時の判断能力を否定する資料が乏しく,作成経緯にも具体的な不自然さがなく,方式違反を疑う客観的事情もない場合は,高額な鑑定等へ進まず,遺留分,遺産の範囲又は生前処分に争点を切り替えることも検討対象となる。
第2 無効原因を証拠から選別する
1 遺言能力
民法963条は,遺言者が遺言をする時にその能力を有することを求めている。
遺言能力は,診断名又は認知機能検査の点数だけで決まるものではなく,遺言時の精神状態,遺言内容の難易,財産及び親族関係の理解,従前の意向との整合,作成の動機並びに作成過程を総合して判断される。
成年後見の開始,要介護認定又は認知症の診断があることだけで遺言が無効になるものではなく,反対に,公正証書を作成できたことだけで遺言能力が証明されるものでもない。
遺言能力を争う側は,遺言日の前後における具体的な言動と生活機能を時系列に並べ,当該遺言の内容を理解し,その結果を判断できたかという法的評価へ接続する必要がある。
2 口授及び作成方式
令和7年10月1日以後の現行法では,民法969条が証人2人以上の立会い及び遺言者による遺言の趣旨の口授を定め,公証人による記録,読み聞かせ又は閲覧,承認及び署名等の手続は公証人法40条等に置かれている。
最高裁昭和51年1月16日判決(昭和50年(オ)第859号,集民117号1頁)は,遺言者が公証人の質問に対して言語による陳述をせず,単に肯定又は否定の挙動を示しただけの事案について,口授があったとはいえないとした。
もっとも,最高裁昭和43年12月20日判決(昭和43年(オ)第298号,民集22巻13号3017頁)は,あらかじめ用意された原稿を公証人が読み聞かせた後,遺言者が同じ趣旨を口授し,承認して署名押印した事案について,方式違反ではないとした。
したがって,案文を弁護士又は親族が準備したこと,公証人の問いに「はい」と答えた場面があること又は手続の順序が通常と異なることだけでは足りず,遺言者がどの内容をどの程度自ら述べたかを具体的に確認する必要がある。
公正証書の本文に方式を履践した旨が記載されている場合,抽象的に口授を否認するだけで証拠上有利になるとは限らないため,発話困難を示す当日の記録,意思疎通の状況,関係者の説明の不一致その他の客観的な端緒が重要となる。
3 証人の資格及び立会い
証人の欠格事由は民法974条に定められているが,欠格者が同室にいたという事実だけで当然に無効になるものではない。
最高裁平成13年3月27日判決(平成10年(オ)第1037号,集民201号653頁)は,所定の証人が立ち会っている場合,欠格者の同席によって遺言内容が左右され,又は真意に基づく遺言が妨げられたなどの特段の事情がない限り,遺言は無効にならないとした。
また,最高裁平成10年3月13日判決(平成9年(オ)第218号,集民187号429頁)は,押印時に証人1人が席を外したという方式上の問題があっても,当該事案の具体的事情の下では遺言の効力を否定しなかった。
方式上の不備を主張するときは,手続上の相違を発見するだけでなく,その相違が本人の真意の確認という方式の目的を損なったかまで検討する必要がある。
4 署名代行は直ちに偽造ではない
公正証書遺言では,遺言者が署名できないとき,公証人がその理由を付記して署名に代えることが認められており,日本公証人連合会もその取扱いを案内している。
したがって,遺言者本人の署名がないことを自筆証書遺言の偽造又は筆跡の問題と同じように扱うことはできず,公証人による代署の要件及び記載を先に確認すべきである。
筆跡鑑定を検討するのは,公正証書上の本人署名が実際に誰によってされたかが争点となり,比較可能な同時期の資料があり,その判断が結論に影響する場合に限るのが相当である。
5 後の遺言又は生前処分
後の有効な遺言が前の遺言と抵触し,又は遺言後の生前処分その他の法律行為が遺言と抵触するときは,抵触部分について前の遺言が撤回されたものとみなされる(民法1023条)。
これは先行遺言の「無効原因」ではないため,遺言能力又は方式違反と混同せず,どの遺言又は処分が有効であり,どの範囲が抵触するかを別に整理する必要がある。
公正証書遺言については,相続開始後,法律上の利害関係を有する者が平成元年以後に作成された遺言公正証書の有無等を検索できるため,日本公証人連合会の遺言検索制度を第1段階で確認する価値が高い。
第3 低負担の資料から収集する
1 依頼者側の既存資料
最初に,遺言公正証書,相続関係資料,不動産登記,預貯金その他の財産資料,従前の遺言,遺言者が作成した手紙・日記・メモ,受診歴及び介護サービス事業者の一覧を集める。
資料の量を増やすこと自体を目的とせず,遺言日,遺言案の作成時期,公証人との面談日,重要な診療日,入退院,介護認定及び財産処分を一つの時系列に置く。
親族の陳述は有用であるが,利害関係による評価の偏りが問題になりやすいため,受診記録,連絡履歴,金融取引,第三者の業務記録その他の客観資料と対応させる。
2 診療記録
診療記録は重要であるが,全診療科の全期間を一律に取得すると,費用と読解作業が増える一方,遺言時の状態との関係が薄い資料が大半を占めることがある。
まず遺言日前後を中心に,認知機能,意識状態,精神症状,服薬,入退院及び日常生活能力と関係する診療科・期間へ対象を絞り,記載の推移に応じて前後へ広げる方法が現実的である。
厚生労働省の「診療情報の提供等に関する指針」は,患者本人が死亡した場合の診療情報について,配偶者,子,父母及びこれらに準ずる者からの開示申立てを扱う一方,患者本人の生前の意思,名誉及び第三者の利益にも配慮するものとしている。
したがって,相続人又は代理人であることだけで当然に全記録を取得できると断定せず,各医療機関の手続,申請者の資格,対象期間,費用及び不開示理由を確認する必要がある。
3 介護記録及び要介護認定資料
介護記録,認定調査票及び主治医意見書は,遺言者の日常の意思疎通,金銭管理,見当識及び介助状況を示すことがある。
もっとも,要介護認定は介護の必要度を判定する制度であり,遺言能力を直接判定する制度ではないため,認定区分又は定型欄だけで結論を出さず,自由記載及び遺言日前後の具体的な観察内容を確認する。
病院,施設,居宅介護支援事業者,訪問介護事業者及び市区町村は別々の記録を保有し得るため,誰がどの期間のどの資料を保有しているかを一覧にしてから申請する。
4 公証人への限定照会
公証人に対する最初の照会は,遺言者の発言を逐語的に再現するよう求めるのではなく,①作成日及び場所,②事前相談の相手方と情報源,③本人と直接確認した時期・方法,④証人及び同席者,⑤署名代行の有無,⑥当時作成したメモその他の資料の存否,という客観事項に絞る方が回答を得やすい。
公証人が手控え,録音,写真その他の資料を常に作成又は保存しているとの一般的な根拠は確認できないため,特定の記録が存在することを前提に手続を進めず,まず存否を確認する。
作成に関与した弁護士,証人又は親族への照会も,結論又は評価を求めるのではなく,面談日時,出席者,発言,提示資料及び案文変更の経緯を分けて尋ねる。
第4 強制的又は高負担の収集手段
1 弁護士会照会
弁護士法23条の2による照会は,所属弁護士会が申出を適当でないと認めるときは拒絶できる制度であり,照会先から必ず回答又は全資料の開示を得られる制度ではない。
任意開示の申請資格がない,必要な資料を特定できるが保有者の通常手続では取得できない,又は訴訟準備のため照会の必要性を具体的に説明できる場合に,第2段階の手段として検討する。
対象期間及び質問を広くし過ぎると,必要性,相当性又は第三者の秘密を理由として採用・回答の可能性が下がるため,証明しようとする事実との対応を明示する。
2 証拠保全
民事訴訟法234条の証拠保全は,あらかじめ証拠調べをしなければその証拠を使用することが困難となる事情がある場合の手続である。
医療記録又は介護記録があるというだけで当然に利用する手続ではなく,保存期間の満了が迫っている,改変又は散逸の具体的危険がある,対象者の状態から早期尋問が必要であるなどの保全の必要性を疎明しなければならない。
任意開示で同じ資料を取得できる場合は,まずその手段を検討し,証拠保全は取得不能又は消失危険が具体化した資料に限定するのが現実的である。
3 提訴前の証拠収集処分
民事訴訟法132条の4の処分は,提訴予告通知等を前提とし,予定される訴えで立証に必要であり,自ら収集することが困難な証拠について,裁判所が相手方の意見を聴き,不相当な負担等も考慮して判断する制度である。
申立期間も限られ,通知,相手方の特定,立証趣旨及び資料の特定を要するため,受任直後の標準的な収集手段として並列に挙げるのではなく,任意収集後に残った決定的な空白を埋める場合に検討する。
4 訴訟提起後の申立て
訴訟提起後は,文書送付嘱託,調査嘱託,文書提出命令,証人尋問その他の手段があるが,いずれも申立てをすれば当然に採用されるものではない。
例えば,民事訴訟法226条の文書送付嘱託は,所持者に文書の送付を嘱託する制度であり,当事者が法令上の手続によって正本又は謄本を求めることができる文書には利用できない。
各申立てでは,証明対象,文書の表示・趣旨,所持者,必要性,秘密又は個人情報との関係及び代替手段の有無を具体化する必要がある。
公証人又は証人の尋問は,文書で残らない作成時の応答を確認するため有用な場合があるが,先に争点と質問を絞らなければ,記憶の限界と尋問時間の負担だけが大きくなる。
第5 集めた資料の評価方法
1 時系列表と証拠評価表を分ける
時系列表には,日付,出来事,資料名,作成者及び該当頁だけを記載し,その事実が有効又は無効のどちらに働くかという評価は別の証拠評価表に記載する。
この二つを分けることで,不利な診療記載又は反対方向の証言を落とすことなく,事実と主張を区別できる。
証拠評価表では,①遺言時の認知・精神状態,②遺言内容の理解に必要な事項,③従前の意向,④作成の発意,⑤案文作成及び公証人との意思疎通,⑥遺言後の言動,⑦反対方向の事情,の順に整理する。
2 公正証書の証拠価値を分解する
民事訴訟法228条2項により,公文書はその方式及び趣旨によって公務員が職務上作成したものと認めるべきときは真正に成立した公文書と推定される。
もっとも,公正証書が真正に作成されたことと,その記載から遺言時の能力,発言の詳細又は周囲からの影響が当然に確定することは別の問題である。
無効を主張する側は,公正証書であるという理由だけで断念する必要はないが,定型的な方式記載に反する主張をする以上,反対方向の具体的証拠が必要である。
3 認知機能検査と専門家意見
認知機能検査は実施時期,実施条件,質問別の回答及び検査者の所見まで確認し,合計点だけを有効・無効の基準として使用しない。
脳画像は器質的変化を示すことがあるものの,画像所見から特定日の遺言内容の理解を直接判断できるとは限らないため,診療経過及び生活状況を補助する資料として扱う。
死後の専門家意見を求める場合は,結論を先に依頼するのではなく,対象時点,確認してほしい医学的事項,提供資料及び反対方向の資料を明示する。
記録が乏しく,専門家が一般論しか述べられない場合,又は専門家意見がなくても法的評価が可能な場合は,費用をかけて意見書を取得する効果が小さい。
第6 訴訟提起及び争点の絞り込み
1 請求と被告を執行状況から決める
遺言無効確認の訴えを提起するか,現在の権利又は登記に関する給付・確認請求を提起するかは,遺言の執行状況と紛争を一回で解決できる範囲を踏まえて決める。
遺言執行者,受遺者,相続人その他の関係者を一律に全員被告とするのではなく,各請求について判決の効力を及ぼす必要がある者を検討する。
2 方式違反と遺言能力を混同しない
方式違反を争う場合は,当日の手続のどの段階が欠けたかを特定し,遺言能力を争う場合は,遺言内容を理解できなかったことを示す事実を特定する。
複数の主張を併合することはできるが,口授がなかったとの主張,遺言者が自ら同じ趣旨を述べたが理解できなかったとの主張及び第三者が内容を決めたとの主張は,事実関係によって緊張関係を生じるため,主位的・予備的関係を明確にする。
3 和解又は方針変更の基準を持つ
収集資料が相互に矛盾し,遺言時に近い公証人及び第三者の記録が有効方向で一致する場合は,無効確認に固執せず,遺留分侵害額,遺産の範囲,生前贈与,特別受益その他の争点を再検討する。
反対に,遺言直前の複数の客観資料が意思疎通困難を示し,案文作成者と利益を受ける者が重なり,公証人の説明にも具体性又は一貫性がない場合は,追加資料の取得又は尋問に費用を投じる合理性が高まる。
訴訟の見通しだけでなく,遺産額,仮差押えその他の保全の必要性,相手方の資力,証拠収集費用及び解決までの期間を依頼者へ説明し,どの段階で続行又は停止を判断するかを共有する必要がある。
第7 デジタル化後の公正証書遺言
公証制度のデジタル化は令和7年10月1日に施行され,法務大臣の指定を受けた公証人が作成する公正証書は,原則として電磁的記録で作成される仕組みへ移行した。
公証人法40条3項による映像・音声の送受信を伴う方法は,嘱託人の申出があり,公証人が相当と認めるときに利用できるものであり,公正証書遺言については日本公証人連合会が,公証役場へ出向くことが困難な事情等があり,本人確認及び意思確認に支障がない場合の取扱いを案内している。
したがって,遠隔方式で作成されたというだけで本人確認又は口授が弱いとはいえず,反対に,映像・音声の通信を用いたというだけで会話の録画,アクセスログその他の訴訟用資料が当然に保存されているともいえない。
遠隔方式が問題となる事案では,適用時の法令,利用を相当とした事情,遺言者・証人・公証人の所在,画面外の同席者,通信状況及び保存資料の存否を個別に確認する必要がある。
第8 出典・参考資料
1 法令及び公的指針
① e-Gov法令検索「民法」(963条,969条,973条,974条,1022条,1023条及び1048条)
② e-Gov法令検索「公証人法」(40条)
③ e-Gov法令検索「民事訴訟法」(132条の4,226条,228条及び234条)
④ e-Gov法令検索「弁護士法」(23条の2)
⑤ 厚生労働省「診療情報の提供等に関する指針」
2 公証実務
① 日本公証人連合会「遺言」
② 日本公証人連合会「遺言公正証書の検索・謄本請求」
③ 法務省「公正証書の作成に係る一連の手続のデジタル化について」
3 裁判例
① 最高裁昭和31年9月18日判決・昭和29年(オ)第875号・民集10巻9号1160頁(裁判所ウェブサイト)
② 最高裁昭和43年12月20日判決・昭和43年(オ)第298号・民集22巻13号3017頁(裁判所ウェブサイト)
③ 最高裁昭和51年1月16日判決・昭和50年(オ)第859号・集民117号1頁(裁判所ウェブサイト)
④ 最高裁昭和51年7月19日判決・昭和51年(オ)第17号・民集30巻7号706頁(裁判所ウェブサイト)
⑤ 最高裁平成10年3月13日判決・平成9年(オ)第218号・集民187号429頁(裁判所ウェブサイト)
⑥ 最高裁平成13年3月27日判決・平成10年(オ)第1037号・集民201号653頁(裁判所ウェブサイト)