目次
第1 本記事の対象と結論の要点
1 アルツハイマー型の診断だけでは無効にならない
本記事は,アルツハイマー型認知症の診断を受けた人が作成した公正証書遺言について,相続人等が無効を主張する場合の論点整理と立証の重心を扱う。本記事は,AIを用いて,法令,裁判例及び学会の診療ガイドラインの原典を確認しながら作成した。民法3条の2は,意思表示をした時に意思能力を有しなかった法律行為を無効とし,民法963条は,遺言者が遺言をする時においてその能力を有しなければならないと定める。したがって,問題となるのは診断名の有無ではなく,遺言作成時に,その遺言の内容と結果を理解して判断できたかである。アルツハイマー型認知症は,2010年代前半の全国調査による認知症疾患の頻度で67.6%を占めて最も多く,次いで血管性認知症が19.5%,レビー小体型認知症及び認知症を伴ったパーキンソン病が4.3%であるとされている(日本神経学会監修『認知症疾患診療ガイドライン2017』第1章)。診断が付いている人の母数が大きいということは,診断名だけでは遺言能力を否定できない事案が多数含まれるということでもある。
2 既存記事との役割分担
無効原因の全体像,当事者及び請求の組立て,立証責任並びに証拠収集の段階的な進め方は,公正証書遺言の効果的な無効主張方法で扱っている。認知の変動を中核的特徴とするレビー小体型認知症に固有の問題は,レビー小体型認知症と公正証書遺言の無効主張で扱っている。本記事は,これらと重複しない範囲で,アルツハイマー型認知症に固有の三つの問題,すなわち,診断名と重症度が乖離しやすいこと,会話の外形が保たれるために口授が形骸化しやすいこと,及び進行性であることを前提とした反論の攻防に対象を絞る。
3 争点は作成時点の程度に絞り込まれる
裁判例を通覧すると,アルツハイマー型認知症の事案で結論を分けているのは,診断名でも認知機能検査の点数でもなく,遺言作成時点の重症度と,遺言に至る意思形成が本人自身のものであったかである。名古屋高等裁判所平成14年12月11日判決(平成13年(ネ)第376号・裁判所ウェブサイト掲載)では,遺言者の認知症がアルツハイマー型か脳血管性かが控訴審まで詳細に争われたが,裁判所は病型を確定させることなく,「本件遺言書作成当時,Aの痴呆は中等度であったが重度に近いものであって,本件遺言の内容を理解し判断する能力,すなわち遺言能力はなかったものと認めるのが相当である」として,程度の認定によって結論を導いた。無効を主張する側は,病型論争にではなく,作成時点の程度と作成経緯に資源を集中すべきである。
第2 診断名と重症度を区別する
1 診断名は重症度を語らない
アルツハイマー型認知症という診断が診療録にあることは,遺言作成時の認知機能の水準を示さない。東京地方裁判所令和7年8月7日判決(令和5年(ワ)第10398号・裁判所HP未掲載・LLI/DB判例秘書登載)は,90歳で死亡した遺言者について,相続人が重度のアルツハイマー型認知症であったと主張した事案である。同判決は,初診時に「アルツハイマー型認知症」及び「軽度認知障害」が病名登録されたことを認定しつつ,安静時脳血流SPECT検査の所見が「積極的にAD・DLBなどの後方型認知症を支持する定型的な集積低下分布は認められない」(判決の引用者注により,ADはアルツハイマー型認知症,DLBはレビー小体型認知症を指す。)というものであり,その後「軽度認知機能障害」「MCIレベル」と診断されていたこと,及びその後も認知症が明らかに進行した所見は見当たらず同診断が継続していたと考えられることを指摘して,重度であったとは認めず,請求を棄却した。診断名が独り歩きしている事案があることを前提に,画像所見と診断の推移を診療録で確認する必要がある。
2 処方薬の適応範囲から重症度の上限を検討する
抗認知症薬の処方があることは,治療により判断能力が回復していたことを意味しない。コリンエステラーゼ阻害薬及びメマンチンは,『認知症疾患診療ガイドライン2017』第6章が進行を遅らせる薬剤として位置付けるものであり,服薬していたことから判断能力が回復していたと推論することはできないからである。他方で,処方薬の適応範囲は,重症度の上限を検討する材料になり得る。前記東京地方裁判所令和7年8月7日判決は,処方されていた認知症治療薬について,軽度及び中等度のアルツハイマー型認知症における認知症症状の進行抑制のために処方されることがある医薬品であることに言及している。本記事では,用量が増量されたことをもって重度化の証拠とすることはできず,むしろ適応の範囲が重症度を限界付ける方向に働き得ると整理する。
3 バイオマーカーは重症度の判定に用いない
アルツハイマー型認知症では,近年,脳脊髄液及び血液のバイオマーカーが臨床に入っており,抗アミロイドβ抗体薬の治療要否を判断する検査として保険収載されたものがある。もっとも,認知症関連6学会監修『認知症に関する脳脊髄液・血液バイオマーカーの適正使用ガイドライン』第3版(2025年3月31日)は,不適切な使用として「認知症の重症度の判定」を明示的に挙げている。したがって,検査結果が陽性であることを根拠に遺言作成時に重度であったと主張することも,正常域であることを根拠に重症度を否定することも,いずれもガイドラインの想定する用法を超える。バイオマーカーから言えるのは病理の存在にとどまり,遺言作成時の判断能力の水準は別途立証しなければならない。なお,抗アミロイドβ抗体薬の対象は,同ガイドラインによれば,アルツハイマー病による軽度認知障害及び軽度認知症とされているため,作成に近接する時期に投与記録があれば,その時点で軽度であったことを示す資料になり得る。
4 生物学的な診断基準への移行がもたらす影響
国際的には,アルツハイマー病を,無症状の段階で神経病理学的変化が現れることをもって始まる生物学的な過程として定義し,中核的なバイオマーカーの異常のみで診断を確立し得るとする改訂診断基準が2024年に公表されている。この考え方の下では,認知機能が保たれている段階でも診断が付き得ることになる。もっとも,前記の適正使用ガイドラインは,この改訂診断基準について,今後実臨床でその有用性を検証していく必要があるとしており,日本の診断実務の基準は引き続き前記『認知症疾患診療ガイドライン2017』にある。本記事では,診断名から遺言能力を推論する主張は,国内の実務においても今後いっそう成り立ちにくくなると整理する。
第3 進行性を前提とした立証と反論
1 進行速度から作成時点の程度を推認する
アルツハイマー型認知症は潜行性に発症して緩徐に進行し,『認知症疾患診療ガイドライン2017』第6章は,MMSEが年間3.3点から3.4点ずつ減少し軽症例ほど遅いこと,及び平均生存期間がおよそ10年であることを示している。同章が掲げるDSM-5の基準は,ほぼ確実なアルツハイマー病の要件として「着実に進行性で緩徐な認知機能低下で,進行が止まることはない」ことを挙げている。検査の実施日と遺言作成日がずれている場合には,この進行速度を用いて作成時点の水準を推認する余地がある。ただし,これは個体差の大きい平均値であり,推認には幅があることを前提に,作成日に近い診療録及び介護記録の具体的な行動記載と併せて用いるべきである。
2 「作成当日は状態が良かった」との反論への対応
進行性であることを根拠に,作成当日だけ能力が回復していたという反論は成り立たないと断定することは適切でない。国際的には,重度認知症の患者において,特に死亡前後の時期に予期しない明晰さが現れる現象が研究対象とされており,米国の研究機関が2018年に国際研究集会を開催し,後期段階の認知症の一部の現れが一時的に可逆的であるという仮説が提唱されている。もっとも,この仮説は提唱者自身が体系的な確認を条件としている段階にあり,報告されている現象も,介護者の記述によれば言語的な意思疎通が一時的に良くなり,かつ短く予期しない性質のものであるとされている。財産の範囲,推定相続人及び処分の帰結を理解する能力が回復することを示すものではないため,本記事では,この反論に対しては,一般論で応酬するのではなく,作成時刻に近い客観的記録と実際の問答によって作成時の状態を示すべきものと整理する。
3 入院中の出来事は重症度の裏付けとして弱い
入院中に見当識障害,不穏状態又はせん妄が記録されていることは,作成時の重症度を直ちに示さない。前記東京地方裁判所令和7年8月7日判決は,入院時の不穏状態や身体抑制の方針について,「一般に入院時には,体調の悪化や投薬の影響等によって意思疎通の困難,見当識障害や不穏状態が生じる場合があることは患者が重度の認知症にり患していなくてもあり得る」と述べている。もっとも,『認知症疾患診療ガイドライン2017』第6章は,せん妄がしばしばアルツハイマー型認知症に合併すること,及び抗不安薬や抗コリン作用のある薬剤等がせん妄を来しやすいことを指摘している。せん妄を主張するのであれば,一般論ではなく,作成日前後の身体状態,投与薬剤の種類と投与時刻,及び急性の発症と症状の変動を示す記録によって具体化する必要がある。
第4 認知機能検査及び認定資料の限界
1 カットオフ値だけでは判断されない
『認知症疾患診療ガイドライン2017』第2章は,MMSEについて一般に23点以下,HDS-Rについて一般に20点以下を認知症の疑いとするカットオフ値が使われているとしつつ,「いずれの評価法を用いる場合においても,各評価法のカットオフ値だけで異常かどうか判断する」のではなく,病前能力や診察時の心身の状態を十分考慮して病前と比べてどう変化したかを捉える必要があるとしている。同ガイドライン第5章は,意思能力の評価について,認知機能に着目したアプローチではMMSE等が用いられるが「意思能力との関連に関するエビデンスは不十分である」と明記し,さらに意思能力の判定が意思決定の対象となる内容・要求水準によっても変化し得るとしている。点数から遺言能力を導く主張は,この二つの記述により双方向から制約を受ける。
2 合計点よりも遂行機能と言語性記憶に着目する
海外では,軽度から中等度のアルツハイマー型認知症の患者と健常対照を対象に,遺言能力の四要素,すなわち遺言の性質及び目的の理解,自己の財産の範囲の想起,推定相続人の記憶,及び合理的な処分計画を課題として測定した研究が行われている。この研究では,遺言能力の成績と最も強く相関したのは全般的な認知機能の合計点ではなく,遂行機能及び言語性記憶の指標であり,全般的認知機能の総合点がより高い被験者の方が遺言能力の障害が重いという逆転例も報告されている。要素別では,合理的な処分計画と自己の財産の範囲の想起が最も崩れやすいとされている。これは,日本の裁判実務が重視する遺言内容の合理性及び財産の範囲の認識という考慮要素と対応しており,無効を主張する側は,検査の合計点を争うのではなく,段取りや計画に関する具体的な行動記載と,遅延再生の障害を示す記載を診療録から拾うべきである。もっとも,同研究は,臨床的な障害が法的構成としての遺言能力の欠如を必ずしも意味しないこと,及び対象者の中に遺言能力が保たれていた者が含まれていたことも明記している。
3 自立度判定及び認定調査資料は決め手にならない
要介護認定に関する資料は,介護の必要度を判定する目的で作成されるものであり,遺言能力を判定する文書ではない。東京地方裁判所令和7年12月19日判決(令和4年(ワ)第9386号・裁判所HP未掲載・LLI/DB判例秘書登載)は,アルツハイマー型認知症及びパーキンソン病の診断があり,HDS-Rが18点,要介護3,認定調査員による認知症高齢者の日常生活自立度がⅢb,金銭の管理,買い物及び簡単な調理がいずれも「全介助」,「日常の意思決定」が「日常的に困難」と判定されていた遺言者について,二通の公正証書遺言のいずれについても遺言能力を欠くものではないと判断した。前記東京地方裁判所令和7年8月7日判決も,自立度がⅣと判定された時期があった一方でその後Ⅱaと判定されていることなどから,入院時の出来事や自立度判定等の評価をもって作成当時に重度であったことを裏付ける事情とは認められないとしている。認定資料は客観的状況を示す間接事実として用いるにとどめ,主戦場を別に置く必要がある。
第5 口授を独立の争点として設計する
1 会話の外形が保たれることが口授を形骸化させる
アルツハイマー型認知症では,中核となるのは出来事記憶の障害であり,『認知症疾患診療ガイドライン2017』第6章は,記憶障害を捉えるには遅延再生課題が最も鋭敏でヒントを与えても正解が出にくい一方,遠隔記憶が比較的保たれること,及び病識の低下と取り繕い反応という特徴的な対人行動がみられることを指摘している。すなわち,財産の帰趨という新しい事項を理解し保持する能力が失われていても,短い受け答えの外形は保たれる。この特性は,公正証書遺言の作成場面において,公証人の問いに対する「はい」やうなずきだけで手続が進行しやすいという形で現れる。民法969条1項2号は,遺言者が遺言の趣旨を公証人に口授することを方式として要求しているから,能力の重い立証を経ずに方式違反として争える余地がある。
2 うなずきのみで作成された事例
広島高等裁判所平成14年8月27日判決(平成13年(ネ)第24号・裁判所ウェブサイト掲載)は,遺言者が「高度のアルツハイマー病,パーキンソン氏病」と診断され,痴呆症状が著明で日常生活において全介助を要し,会話不能で自発的な行動が全くない状態にあり,長谷川式知能検査は氏名及び生年月日すら回答できず施行不能であった事案である。同判決は,公証人が相続人から聞いていた遺言内容を口述したところ,遺言者から自発的な発言は全くなかったが「うなずいたように思い」公正証書を作成し,署名は公証人が代筆し,押印は同行した書記が印鑑を持たせて介添えして行ったという経緯を認定した。そのうえで,遺言者は「自己の財産状態及びその処分についての認識判断能力を全く備えていなかったことが明らかである」とし,うなずいたり嫌悪の情を示したとしても「せいぜい感覚的な快不快の表現が可能であったというにとどまり,一般的な行為の内容を理解し意思表示をすることは全く不可能」であったと判断した。
3 財産ごとに本人が述べたかを確認する
口授の有無は,遺言者が自分の言葉で財産の処分の骨子を述べたかによって分かれる。前記東京地方裁判所令和7年8月7日判決は,受益者側の親族が単独で公証人と面談して文案を確定させ,遺言者は作成当日に初めて文案を提示されたという主張がされた事案であるが,遺言の内容が理解の困難なものとは認められないことや重度のアルツハイマー型認知症であったとは認められないことを踏まえ,遺言者が遺言の趣旨を公証人に口授したという要件を満たすと判断した。したがって,案文を第三者が用意したという外形だけでは足りない。公証人又は証人に対しては,どの財産について,誰に取得させると本人が述べたのか,公証人の問いに対する回答が受遺者の氏名や財産の特定を含む本人の言葉であったのかを,項目ごとに確認する必要がある。
第6 遺言能力を争う場合の立証の重心
1 作成経緯の自律性が結論を左右する
近時の裁判例で能力を肯定する決め手となっているのは,遺言に至る意思形成が本人自身のものであったことを示す具体的事実である。前記東京地方裁判所令和7年12月19日判決は,遺言者が自ら原案をパソコンで作成させたうえ手書きで加筆していたこと,同内容で公正証書遺言を作りたいとして弁護士と面談し同弁護士による意思の確認を経ていたこと,長男夫婦が入院中に通って話し相手になったことにより愛着を強めたという事実経過から遺言内容の変遷が自然に説明できること,及び最初の公証役場では原案と異なる遺言をしたうえで後に原案の内容に戻すというやり取りの中で自ら判断していたことを挙げている。無効を主張する側は,この裏返し,すなわち原案を誰が作成したのか,本人が修正を加えた形跡があるのか,本人だけで意思を確認した時間があったのかを立証の中心に据えるべきである。
2 内容が合理的でも能力が肯定されるとは限らない
遺言内容が合理的であることは能力を肯定する方向の事情であるが,これは決め手ではない。前記名古屋高等裁判所平成14年12月11日判決は,「なお,本件遺言の内容自体に特に不合理な点はないが,これまで認定の本件遺言のなされた経緯に照らすと,そのことからただちにAに遺言能力があったといえないことは,いうまでもないことである」と述べている。内容の合理性が問題となるのは,その内容を本人が理解して選択したといえる経緯が併存する場合であり,経緯の側に疑いがあるときには,内容が自然であることが能力を推認させる力は弱まる。相手方が内容の自然さを強調する場合には,その内容に至る意思形成の過程を正面から争点化する必要がある。
3 受益者側が用意した資料が不利に働くことがある
受益者側が能力を立証する目的で作成した録音や録画は,かえって能力を否定する材料になることがある。前記名古屋高等裁判所平成14年12月11日判決は,作成直前の会話を録音した資料について,遺言者の発言が「相手の話に乗って受動的に受け答えしているものであったり,前後の脈絡なく過去のできごとについて話し出すなど,その思考過程が不明であって」,能力を肯定する趣旨には採用できないとした。また同判決は,作成直後に付添人に対して「選挙してきた」と述べた事実について,当日選挙があったことをうかがわせる証拠がないことから取りつくろいとみることはできないとして,能力を否定する方向の事情に位置付けている。相手方が提出した資料についても,全体を通読して発言の質を検討すべきである。
4 主治医の意見は診療の実態によって評価される
医師の意見書や証言は,肩書や結論だけで採用されるわけではない。前記名古屋高等裁判所平成14年12月11日判決は,遺言能力を肯定する趣旨の主治医の判断について,まだら痴呆に対する認識を誤り,痴呆が不可逆的な障害である点の認識が不十分であることを指摘したうえ,意思疎通ができるかどうかを診断することができるほど日常的にある程度の時間を使って問診をしていたかどうか疑問を抱かざるを得ないとして採用しなかった。他方,前記東京地方裁判所令和7年8月7日判決は,重度である旨を記載した鑑定書について,その診察が遺言作成後である令和4年10月10日に行われたものであることを指摘している。医師の意見を用いる場合には,専門分野,診療録による裏付け,診察の時期及び問診に費やした時間を確認しておく必要がある。
第7 無効主張に付随して検討する事項
1 相続欠格の主張
遺言能力を欠く状態を利用して公正証書遺言を作成させた場合には,遺言の無効にとどまらず,相続欠格の主張が成り立つことがある。民法891条5号は,相続に関する被相続人の遺言書を偽造し,変造し,破棄し,又は隠匿した者を相続人となることができない者としている。前記広島高等裁判所平成14年8月27日判決は,「被相続人が事理弁識能力を欠き意思表示できない状態にあることを利用して,相続人が発議し,遺言公正証書を作成させたような場合も,民法891条5号所定の遺言書の偽造に当たると解される場合があるというべきである」としたうえ,同号所定の行為をした場合であっても,その行為が相続に関して不当な利益を目的とするものでなかったときは相続欠格者に該当しないと解するのが相当であるとし,当該事案では相続欠格者に該当すると判断した。遺言が無効となる場合の効果は法定相続への回帰にとどまるが,相続欠格が認められれば,主導した相続人を相続から排除することができるため,重度の事案では併せて検討する価値がある。
2 遺言者の生存中に無効確認の訴えを提起することはできない
親族が遺言の存在を知った時点で遺言者がなお生存している場合であっても,遺言無効確認の訴えによって解決することはできない。最高裁判所平成11年6月11日第二小法廷判決(平成7年(オ)第1631号・集民193号369頁・裁判所ウェブサイト掲載)は,遺言者がアルツハイマー型老人性痴呆である旨の鑑定の結果に基づき心神喪失の常況にあるとして禁治産宣告を受け,病状に回復の見込みがない事案において,「遺言者が心神喪失の常況にあって,回復する見込みがなく,遺言者による当該遺言の取消し又は変更の可能性が事実上ない状態にあるとしても」,受遺者とされた者の地位の性質が変わるものではないとして,生存中の無効確認の訴えを不適法とした。回復の見込みがないという事情は例外を基礎付けないから,生存中の局面では,後見等の開始の申立てや財産管理の枠組みで対応することになる。
3 適用される条文の時点を確認する
公正証書遺言の方式は,令和5年法律第53号により改正され,令和7年10月1日に施行されている。改正後の民法969条1項が定めるのは,証人二人以上の立会いがあること及び遺言者が遺言の趣旨を公証人に口授することであり,従前の同条3号から5号までが定めていた筆記,読み聞かせ及び署名押印は公証人法へ移された。読み聞かせ又は閲覧及び承認は,現行では公証人法40条1項に定めがある。したがって,作成日が施行日より前の遺言については改正前の条文により,施行日以後の遺言については改正後の民法969条及び公証人法により検討する必要がある。前記東京地方裁判所令和7年8月7日判決も,適用する民法を令和5年法律第53号による改正前のものと明示している。本記事は一般的な実務情報を提供するものであり,個別事件における法的又は医学的判断を示すものではない。
第8 出典・参考資料
1 法令
①e-Gov法令検索・民法(3条の2,891条,963条及び969条)
②e-Gov法令検索・公証人法(40条)
③民事関係手続等における情報通信技術の活用等の推進を図るための関係法律の整備に関する法律(令和5年法律第53号。令和5年6月14日公布,公正証書遺言の方式に関する部分は令和7年10月1日施行)
2 裁判例
①最高裁判所平成11年6月11日第二小法廷判決(平成7年(オ)第1631号・集民193号369頁・裁判所ウェブサイト掲載)
②名古屋高等裁判所平成14年12月11日判決(平成13年(ネ)第376号・裁判所ウェブサイト掲載)
③広島高等裁判所平成14年8月27日判決(平成13年(ネ)第24号・裁判所ウェブサイト掲載)
④東京地方裁判所令和7年8月7日判決(令和5年(ワ)第10398号・裁判所HP未掲載・LLI/DB判例秘書登載)
⑤東京地方裁判所令和7年12月19日判決(令和4年(ワ)第9386号・裁判所HP未掲載・LLI/DB判例秘書登載)
3 医学資料
①日本神経学会監修『認知症疾患診療ガイドライン2017』(第1章,第2章,第5章,第6章。目次)
②日本認知症学会ほか監修『認知症に関する脳脊髄液・血液バイオマーカーの適正使用ガイドライン』第3版,2025年3月31日(原本PDF)
③Gerstenecker A, Martin RC, Hebert K, Triebel K, Marson DC, “Cognitive Correlates of Impaired Testamentary Capacity in Alzheimer’s Dementia”, Archives of Clinical Neuropsychology, 2022, 37巻6号1148頁~1157頁
④Jack CR Jr ほか, “Revised criteria for diagnosis and staging of Alzheimer’s disease: Alzheimer’s Association Workgroup”, Alzheimer’s & Dementia, 2024, 20巻8号5143頁~5169頁
⑤Mashour GA ほか, “Paradoxical lucidity: A potential paradigm shift for the neurobiology and treatment of severe dementias”, Alzheimer’s & Dementia, 2019, 15巻8号1107頁~1114頁
⑥Eldadah BA, Fazio EM, McLinden KA, “Lucidity in dementia: A perspective from the NIA”, Alzheimer’s & Dementia, 2019, 15巻8号1104頁~1106頁
⑦Ramirez M ほか, “The lucidity in dementia experience: perspectives from family and professional caregivers”, Age and Ageing, 2024, 53巻8号afae174