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ポツダム宣言受諾後の降伏準備|河辺使節団・マニラ会談から連合軍進駐まで(AI作成)

第1 この記事が扱う降伏準備の範囲

本記事は,昭和20年(1945年)8月14日のポツダム宣言最終受諾通告後,日本が正式降伏と連合軍の本土進駐をどのように準備したかを扱うものである。
中心となる期間は,使節派遣を求める連合国側メッセージが発せられた8月14日から,河辺使節団のマニラ会談,国内の部隊移動,厚木・横須賀への進駐を経て,降伏文書が調印された9月2日までである。

結論を先に述べると,河辺虎四郎中将を代表とする使節団は,降伏条件を再交渉し,又は降伏文書に署名する全権団ではなかった。
使節団の任務は,連合国軍最高司令官とその随伴軍が正式降伏を受理する場所へ到着できるように取決めを行い,日本軍の配置等の情報を提出し,連合国側の要求文書を日本へ持ち帰ることであった。

日付降伏準備の段階
8月14日連合国側が停戦,兵力配置情報を携えた使節の派遣及び正式降伏受理のための取決めを求めた。
8月16日日本側の照会に対し,マニラで降伏文書に署名する任務ではないことが示された。
8月18日河辺に限定された権限を与える信任状が作成された。
8月19日~20日河辺使節団がマニラで日本軍の情報を提出し,進駐準備文書を受領した。
8月21日以降日本側が進駐予定地域からの部隊移動,武装解除,復員及び連絡体制の準備を進めた。
8月28日連合軍の先遣隊が厚木へ到着した。
8月30日主力部隊とマッカーサーが厚木へ到着し,横須賀にも米海兵隊が上陸した。
9月2日東京湾の米戦艦ミズーリ号上で降伏文書が調印された。

第2 河辺使節団は何のために派遣されたか

1 8月14日の連合国側メッセージ

米国政府が連合国を代表して発した8月14日付メッセージは,日本側に対し,①日本軍の戦闘を速やかに停止し,停止が実効を生ずる日時を連合国軍最高司令官へ知らせること,②日本軍の配置及び指揮官に関する情報を携えた使節を直ちに派遣すること,③最高司令官と随伴軍が指定地へ到着して正式降伏を受理できるよう,最高司令官が指示する取決めを行う権限を使節に与えることを求めた。
この文言は,米国政府の公刊文書集に収録された8月14日付バーンズ国務長官書簡で確認できる。

マッカーサーは8月15日,使節を17日にマニラへ派遣するよう日本側へ指示した。
日本側は準備時間が足りないとして日程変更を求めるとともに,使節が受領する「降伏実施上の要求」の意味を照会し,マッカーサー司令部は8月16日,マニラで降伏文書へ署名することは使節の任務に含まれないと回答した。

2 河辺の信任状は正式降伏の署名全権ではなかったこと

8月18日付の河辺に対する信任状は,スイス政府を介して8月16日に伝達された米国政府メッセージ第2項に従い,連合国軍最高司令官が指示する取決めを天皇に代わって行う権限を与えるものであった。
信任状には昭和天皇の署名と国璽があり,陸軍大臣,海軍大臣及び外務大臣が副署していることを,連合国軍総司令部翻訳通訳部が刊行した使節団提出文書集第1部のVJ-1で確認できる。

この権限は,9月2日に降伏文書へ署名した重光葵及び梅津美治郎の権限とは別である。
当時資料には軍使,使節又は全権等の呼称が混在するが,法的な役割を判断するには呼称ではなく信任状の委任範囲を見る必要がある。

3 陸軍・海軍・外務省から成る16人の使節団

使節団は河辺を代表とする16人であり,陸軍,海軍及び外務省の担当者で構成された。
前記提出文書集の名簿とトルーマン大統領図書館の写真記録は,16人の日本側使節が8月19日にマニラのニコルス飛行場へ到着したことを示している。

第3 緑十字機で木更津から伊江島・マニラへ向かった経路

1 白地に緑十字を付けた2機

8月19日朝,使節団は,白く塗装して機体と翼に緑十字を付け,武装を外した海軍の中型爆撃機2機に分乗し,木更津飛行場を出発した。
緑十字は,停戦後に連合国側の指示を受けて飛行する日本機を識別し,攻撃を避けるための標識であった。

2 伊江島で米軍C-54へ乗り換えたこと

2機は沖縄の伊江島に着陸し,使節団員は米軍の輸送機C-54へ乗り換えた。
同機は同日18時頃,マニラ南方のニコルス飛行場へ到着し,ウィロビー少将を長とする一行が使節団を出迎えた。

伊江島からマニラまでの機体を「DC-4」とする説明も見られるが,C-54はDC-4を基礎とする軍用輸送機であり,米軍の公的写真記録はC-54と特定している。
本記事では,同時代の運用上の名称に即してC-54と記載する。

3 帰路の不時着について資料が一致しない点

使節団は8月20日13時にマニラを出発し,往路と同じ経路で日本へ向かったが,主要な使節を乗せた機体は浜松付近の海岸へ不時着した。
公的戦史によれば,使節団は予定より約7時間遅れてマニラ会談の結果を政府へ報告した。

不時着の原因については,公的戦史の脚注と日本側回想の説明が一致しない。
同時代の事故報告を確認できていないため,本記事では不時着の事実までを記載し,燃料枯渇又は機体故障のいずれかに確定しない。

第4 マニラ会談で誰と会い,何を提出したか

1 会談相手はサザランド参謀長らであったこと

使節団は8月19日夜から20日にかけて,マッカーサー司令部のサザランド参謀長らと会談した。
マッカーサー本人は会談に出席しておらず,ウィロビーが使節団を案内し,サザランドが協議を主導したことを,『マッカーサー報告』第14章が明記している。

会談場所についても,『マッカーサー報告』と提出文書集の序文はマニラ市庁舎と記載する。
そのため,本記事では「マッカーサー本人とマニラ・ホテルで降伏条件を交渉した」とは説明せず,「マニラ市庁舎でマッカーサー司令部の幕僚と降伏実施の手順を協議した」と整理する。

会談時の映像は,昭和館デジタルアーカイブの「フィリピン、マニラでの日本軍の降伏の準備」で確認できる。
同映像の目録は,米国立公文書記録管理院の映像資料番号を111-ADC-879 C-6と特定している。

2 兵力配置・飛行場・艦船・捕虜に関する提出資料

日本側が提出した資料は,進駐日程だけに関するものではない。
連合国軍総司令部翻訳通訳部は,資料を第1部第2部に編成して刊行した。

第1部には,河辺の信任状と派遣命令のほか,主要都市の空襲被害,陸軍航空戦力,国内の飛行場,海軍の戦力・編制・配置,海軍が収容する連合国捕虜,捕虜・民間抑留者の統計及び送還計画が収録されている。
第2部には,陸海軍の飛行場,南方の捕虜分布,捕虜収容所と就労場所,関東以西の基地及び日本・中国・満洲・朝鮮・台湾・東南アジア等の兵力配置を示す地図が収録されている。

これらは,連合軍が安全に進駐し,日本軍の武装解除と各戦域の降伏を進め,捕虜・民間抑留者を保護するための基礎情報であった。
使節団の任務を「進駐日を決める会談」だけに縮小して理解することはできない。

3 日本側の武装解除を前提とする漸進的進駐への調整

『マッカーサー報告』は,会談の結果,日本政府と大本営の協力を前提に,日本側が各地の部隊を武装解除した後,連合軍が指定地域へ段階的に進駐する構想へ調整されたと記載する。
連合軍要員が日本軍全体を直接に武装解除するのではなく,日本側が武装解除と復員を実施し,連合軍がこれを監督する方式である。

もっとも,この調整は,ポツダム宣言の受諾条件又は降伏文書の基本条項を再交渉したことを意味しない。
また,日本の行政機構を利用する占領政策全体がこの一回の会談だけで決まったと因果関係を単純化することもできない。

第5 日本側がマニラで受領した文書

1 連合国軍最高司令官の要求と三つの案

会談の終了時,河辺は,①「連合国軍最高司令官の要求」,②天皇がポツダム宣言受諾と停戦を布告する文書の案,③降伏文書案,④一般命令第一号案を受領した。
これらは,正式降伏の手続,連合軍の安全な進駐及び日本軍の戦域別降伏を,国内で具体化するための文書であった。

2 期限別に示された進駐準備

公刊された「連合国軍最高司令官及び随伴軍の進入に関する要求」は,次のとおり実施期限を分けて日本側の準備を定めていた。
ここに掲げる日本語は,公定訳としてではなく,原文の実施事項を本記事で要約したものである。

実施期限主な要求
8月24日18時軍用・民間航空機の地上又は水上待機,艦船の保全と原則航行停止,潜水艦の浮上・黒旗掲揚,捕虜・民間抑留者の保護及び収容所の「PW」表示
8月25日18時東京湾進入路の機雷・障害物除去,航路標識と水先業務の維持,艦艇の不動化,沿岸砲・対空砲等の無力化,東京湾内船艇の武装解除
8月26日8時日本船による大島沖での米艦隊迎接,相模湾への誘導,東京湾用水先案内人12人及び機雷・海底防御等を示す海図の提供
8月27日18時横須賀海軍基地の進駐準備,初期明渡区域からの戦闘部隊退去,宿舎・野営地及び公益設備の準備
8月28日6時厚木で協議に応じる大本営要員並びに現地に通じた案内者及び通訳125人の準備

要求は,飛行場又は宿舎を用意するだけの儀礼的なものではなかった。
航空・海上戦力の停止,港湾と進入路の安全化,基地の明渡し,捕虜救援及び連絡要員の確保を一体として実施させる内容であった。

3 一般命令第一号案の受領と正式発令の違い

マニラで日本側が受領した一般命令第一号は,9月2日に正式発令される文書の案であった。
同命令は,各地の日本軍指揮官がどの連合国側指揮官へ降伏するかを定めるものであり,8月20日の案の受領と9月2日の正式発令を同一の出来事として扱うことはできない。

同様に,8月20日に降伏文書案を持ち帰ったことは,正式降伏が同日に成立したことを意味しない。
日本側と連合国側の代表が降伏文書へ署名したのは9月2日である。

第6 連合軍進駐のため日本が行った国内準備

1 大陸命第1387号による進駐地域からの部隊移動

大本営陸軍部は8月21日,大陸命第1387号を発した。
同命令は,「聯合軍ハ八月二十六日以降本土ニ進駐ヲ開始ス」とした上,進駐する連合軍との紛争の発生を絶対に防止し,降伏実施について日本側の誠意を示すことを方針としていた。

命令は,東京湾・厚木方面を中心とする第1地域の部隊を8月25日正午までに,鹿屋方面に対応する第2地域の部隊を8月30日正午までに,それぞれ進駐予定地域外へ移動させることを定めた。
この部隊移動は,連合軍が武装した日本軍部隊と接触する危険を減らすための国内措置であった。

2 大陸指第2549号による復員準備と武装解除

同日付の大陸指第2549号は,原則として8月23日から部隊の移動を始め,先遣隊の進出に支障となる部隊については8月25日正午までに準備を終えることを指示した。
移動先はなるべく復員に便利な地域とされ,進駐地域に残す人員は最小限とし,残置者はすべての武器を解除して軍刀だけを携行するものとされた。

この二つの文書は,進駐予定地域を空けることと,内地部隊の武装解除・復員準備が同時に進められたことを示す日本側の一次資料である。
日本側は単に連合軍の到着を待ったのではなく,会談で受領した要求に合わせて部隊配置と装備の状態を変更した。

3 終戦連絡事務局の設置

対連合軍連絡のため,8月26日には終戦連絡事務局官制が勅令第496号として公布された。
日本法令索引によれば,同官制は10月1日の勅令第550号により全部改正されており,本記事では8月26日に連絡機構が制度化された事実までを扱い,その後の組織改編や個別権限には立ち入らない。

第7 進駐日はなぜ二度延びたか

1 マニラ会談で認められた3日の準備期間

『マッカーサー報告』によれば,河辺は,日本の軍人と民間人が進駐にどう反応するか予測できないとして,進駐開始前に追加の準備期間を求めた。
サザランドは3日を認め,初期上陸の目標日は8月25日から28日へ移され,厚木への先遣隊到着は8月26日とされた。

これは,降伏条件を変更したのではなく,連合軍との衝突を避けるために,部隊移動,武装解除及び受入れ準備の実施時間を調整したものである。
河辺の要請によって生じた日程変更は,次に述べる台風による延期とは別である。

2 台風による48時間の延期

その後,日本本土周辺の台風により,日本側の受入れ準備と連合軍の航空・海上作戦に支障が生じた。
8月26日に予定された厚木先遣隊の到着は28日へ,主力部隊とマッカーサーの到着は30日へ繰り下げられた。

8月23日の公表段階では,天候が許せば8月28日に厚木・横須賀へ進駐し,8月31日に降伏文書を調印する予定とされていたが,実際の調印日は9月2日となった。
したがって,進駐延期の理由をすべて河辺の要請又は台風の一方だけに帰すことは正確でない。

第8 厚木・横須賀への連合軍進駐

1 8月28日の厚木先遣隊

8月28日午前9時,通信及び工兵要員約150人から成る連合軍先遣隊が厚木飛行場へ着陸した。
約3時間後には38機の輸送機が到着し,警備兵力,燃料その他の物資を運び込んだ。

先遣隊の任務は,その後に続く大量の輸送機を受け入れるため,通信及び飛行場運用の設備を整えることであった。
これは,8月15日の玉音放送とは別の段階であり,日本本土への連合軍進駐が実際に始まった日である。

2 8月30日の主力部隊・マッカーサー・横須賀上陸

主力の空輸は8月30日午前6時に始まり,同日夕刻までに第11空挺師団の戦闘装備を持つ兵員約4200人が厚木周辺へ展開した。
マッカーサーは同日14時過ぎ,C-54「バターン号」で厚木へ到着し,自動車で横浜の一時的な司令部へ向かった。

同じ8月30日,米第6海兵師団第4海兵連隊戦闘団は横須賀海軍基地へ上陸した。
厚木からの空路進駐と横須賀からの海路進駐は,東京湾周辺の要地を確保する一体の初期進駐であり,いずれも大きな衝突なく実施されたと公的戦史は記録している。

3 9月2日の降伏文書調印との違い

9月2日,東京湾の米戦艦ミズーリ号上で,日本側の重光葵と梅津美治郎が降伏文書へ署名した。
同じ日,大本営は一般命令第一号を発し,各戦域における日本軍の降伏先と実施手順を指示した。

8月14日は最終受諾通告,8月15日は玉音放送,8月28日は進駐開始,8月30日は主力部隊とマッカーサーの到着,9月2日は降伏文書調印の日である。
「終戦」又は「降伏」を一つの日付だけで説明すると,外交上の受諾,国民への公表,軍事占領の開始及び正式降伏という異なる段階が混同される。

第9 関連記事

①ポツダム宣言発表から8月10日・14日・15日・9月2日までの全体時系列は,ポツダム宣言の発表から宣言受諾及び降伏文書調印までの経緯で扱っている。
②受諾通告と連合国側回答がスイス・スウェーデンを介して伝達された経路は,ポツダム宣言受諾はどのように連合国へ伝えられたかで扱っている。
③宮城事件,玉音盤奪取及び厚木航空隊事件は,ポツダム宣言受諾に軍はどう抵抗したかで扱っている。
④9月2日以後の戦域別降伏,武装解除及び復員は,日本軍の降伏完了はいつかで扱っている。

出典・参考資料

1 公文書・歴史資料

General Headquarters, United States Army Forces, Pacific, Office of the Assistant Chief of Staff, G-2, Translator and Interpreter Service, “Documents Submitted to the Supreme Commander for the Allied Forces by the Japanese Mission to Negotiate Surrender, Manila, 19 August 1945, Part I”(1945年8月21日。序文B頁,名簿G頁,VJ-1~VJ-9・資料上1頁~88頁,PDF4頁・9頁~99頁)
General Headquarters, United States Army Forces, Pacific, Office of the Assistant Chief of Staff, G-2, Translator and Interpreter Service, “Documents Submitted to the Supreme Commander for the Allied Forces by the Japanese Mission to Negotiate Surrender, Manila, 19 August 1945, Part II”(1945年8月21日。VJ-10~VJ-14・資料上1頁~23頁,PDF4頁~33頁)
United States Department of State, “Surrender of Japan”(米国政府印刷局,1946年。8月14日付メッセージ,連合国軍最高司令官の要求及び降伏文書,79頁~93頁)
「大陸命第1387号」(昭和20年8月21日,防衛省防衛研究所所蔵,アジア歴史資料センターRef.C15010208000,全8画像)
「大陸指第2549号」(昭和20年8月21日,防衛省防衛研究所所蔵,アジア歴史資料センターRef.C12120731600,全7画像)

2 公的戦史・映像・写真・法令索引

General Headquarters, Far East Command, “Reports of General MacArthur, Vol. I, The Campaigns of MacArthur in the Pacific, Chapter XIV: Japan’s Surrender”(米国政府印刷局,1966年,445頁~454頁)
昭和館デジタルアーカイブ「フィリピン、マニラでの日本軍の降伏の準備」(米国立公文書記録管理院原資料111-ADC-879 C-6,1945年8月)
Harry S. Truman Presidential Library & Museum, “Members of the Japanese Delegation Arrive at Nichols Field, Manila, Philippines”(1945年8月19日撮影,Accession Number 2014-3340)
日本法令索引「終戦連絡事務局官制 昭和20年8月26日勅令第496号」(国立国会図書館)