第1 この記事が扱う対象
1945年9月2日,東京湾上の米戦艦ミズーリ号上で,日本側代表(重光葵外相,梅津美治郎参謀総長)と連合国代表(マッカーサー元帥ほか9か国代表)が降伏文書に調印した。しかし,この一通の文書によって太平洋・大陸・南方の各地にいた日本軍が同時に武器を置いたわけではない。実際には,同日発出された「一般命令第一号」に基づき,各戦域の日本軍指揮官が指定された連合国側指揮官へ個別に現地降伏文書を提出するという手続が,9月2日から11月30日にかけて順次行われた。本記事は,この9月2日の調印から各戦域における現地降伏の完了に至る経緯を,米国立公文書館(NARA),国立公文書館アジア歴史資料センター(JACAR),米国務省歴史局(FRUS),オーストラリア戦争記念館,英国立公文書館,内閣府北方対策本部等の一次資料に基づき整理するものである。生成AIを用いて各一次資料を横断的に確認し,通説として流布している記述との異同を検証した上で構成した。
降伏文書の受諾に至る経緯(8月10日の申入れから国体護持問題を経て9月2日の調印まで)は,別稿「ポツダム宣言の発表から降伏文書調印までの経緯」及び「ポツダム宣言受諾時の国体護持」で扱っており,本記事では立ち入らない。また,ポツダム宣言の受諾が国際法上「無条件降伏」といえるかという論点は「ポツダム宣言で日本は無条件降伏したのか」で扱っている。本記事が対象とするのは,これらの論点そのものではなく,9月2日の調印後,実際に各戦域の日本軍がいつ・どこで・誰に対して降伏したのか,そして「降伏の完了」をいつと捉えるべきかという,時系列と現地の経緯である。対象地域は太平洋・東南アジア・中国大陸・朝鮮半島・満洲・千島列島に及ぶ。1945年9月2日から同年11月30日までに行われた主要な戦域別の現地降伏を中心に扱い,内地の武装解除及び海外部隊の復員・引揚げの完了時期についても第6で触れる。なお,通信途絶等により終戦を知らずに戦闘・潜伏を続けた個々の残留日本兵(1974年に投降した小野田寛郎氏等)は,組織的な軍の降伏とは性質を異にするため,本記事の対象に含めない。
第2 降伏文書と一般命令第一号
1 1945年9月2日の降伏文書
降伏文書は,日本側では重光葵外相が天皇及び日本国政府の代表として,梅津美治郎参謀総長が大本営代表として署名し,連合国側ではマッカーサー連合国最高司令官のほか,米・中華民国・英・ソ連・豪・加・仏・蘭・新の各国代表が署名した。米国連邦法令集(United States Statutes at Large)は,本文書を条約ではなく「条約以外の国際約束」として収録しており,批准手続を経ずに署名と同時に効力を生じる形式であったことがわかる。文書の骨子は,日本国天皇,日本国政府及び大本営が7月26日のポツダム宣言の条項を受諾すること,大本営及び日本国政府に対しすべての日本国軍隊及び日本の支配下にある軍隊の無条件降伏を命じること,そして天皇及び日本国政府の国家統治の権限を,降伏条項実施のため連合国最高司令官の制限の下に置くことにある。文書全文は米国立公文書館の展示解説ページ及び米国連邦法令集第59巻1733頁で確認できる。
2 一般命令第一号による戦域別の降伏先の指定
降伏文書と同じ1945年9月2日,大本営は天皇の命により「一般命令第一号」を発した。この命令は,米統合参謀本部が起草し,8月17日にトルーマン大統領が承認したもので,前文は,9月2日の降伏文書(天皇による全日本軍の連合国への降伏)に基づいて発せられる旨を明記している(原文:“Pursuant to the provisions of the Instrument of Surrender signed by representatives of the Emperor of Japan…2 September 1945”)。すなわち一般命令第一号自体が,法的な権原を降伏文書に依存する従属文書として位置づけられていた。その内容は,各戦域の日本軍指揮官がどの連合国側指揮官に降伏すべきかを地域ごとに指定するものであり,中国(満洲を除く)・台湾・仏印北緯16度以北は蒋介石総統,満洲・北緯38度以北の朝鮮・樺太・千島列島はソ連極東軍最高司令官,ビルマ・タイ・仏印南部・マラヤ・スマトラ・ジャワ等は東南アジア連合軍最高司令官(マウントバッテン卿),ボルネオ・英領ニューギニア・ビスマルク諸島・ソロモン諸島はオーストラリア軍最高司令官,日本委任統治諸島・小笠原諸島・その他太平洋諸島は米太平洋艦隊最高司令官(ニミッツ),日本本土・北緯38度以南の朝鮮・琉球・フィリピンは米太平洋陸軍最高司令官(マッカーサー)が,それぞれ降伏を受理するものとされた。一般命令第一号の全文は,外務省特別資料部編の公式文書集を底本とする東京大学東洋文化研究所の「世界と日本」データベースで確認できる。この命令の下で,各戦域で個別の現地降伏調印式が行われることになった。
第3 戦域別の現地降伏一覧
一般命令第一号に基づき実施された主な現地降伏は,次のとおりである。日付は現地における調印日又は主要な進駐日を示す。
| 月日(1945年) | 戦域・地域 | 場所 | 日本側 | 連合国側 |
|---|---|---|---|---|
| 8月22日 | マーシャル諸島ミリ環礁 | USSレヴィ艦上 | 志賀正則大佐(第66警備隊) | H.B.グロウ大佐(米) |
| 9月2日 | トラック諸島 | USSポートランド艦上 | 麦倉俊三郎中将(第31軍),原忠一中将(第4艦隊) | ジョージ・D・マレー中将代理(米) |
| 9月3日 | フィリピン | バギオ,キャンプ・ジョン・ヘイ | 山下奉文大将,大河内傳七中将 | エドモンド・H・リーヴィー少将(米) |
| 9月3日 | 小笠原諸島(父島) | USSダンラップ艦上 | 立花芳夫中将(小笠原兵団長) | ジョン・H・マグルーダー・ジュニア代将(米) |
| 9月4日 | ウェーク島 | USSレヴィ艦上 | 酒井原繁茂少将(第65警備隊) | ローソン・H・M・サンダーソン准将(米) |
| 9月6日 | ラバウル(南東方面) | HMSグローリー艦上 | 今村均大将(第8方面軍),草鹿任一中将(南東方面艦隊) | ヴァーノン・スターディー中将(豪) |
| 9月7日 | 沖縄・南西諸島 | 読谷 | 納見敏郎中将(第28師団)ほか | 米第10軍 |
| 9月8日 | ブーゲンビル島 | 豪第2軍団司令部(トロキナ) | 神田正種中将(第17軍),鮫島具重中将(第8艦隊) | スタンリー・サヴィッジ中将(豪) |
| 9月9日 | 中国戦区 | 南京,中国陸軍総司令部大礼堂 | 岡村寧次大将(支那派遣軍) | 何応欽上将(蒋介石特派代表) |
| 9月9日 | 朝鮮半島(北緯38度以南) | 京城,朝鮮総督府庁舎 | 上月良夫中将,山口儀三郎,阿部信行総督 | ジョン・R・ホッジ中将,T・C・キンケイド(米) |
| 8月30日~9月16日 | 香港 | 香港総督府 | 岡田梅吉少将,藤田類太郎中将 | セシル・ハーコート少将(英) |
| 9月12日 | 東南アジア方面(南方軍) | シンガポール市庁舎 | 板垣征四郎大将(寺内寿一元帥代理) | ルイス・マウントバッテン卿(英) |
| 9月25日 | 仏印南部 | サイゴン | 沼田多稼蔵中将 | ダグラス・グレーシー少将(英) |
| 9月28日 | 仏印北部 | ハノイ旧総督府 | 土橋勇逸中将(第38軍) | 盧漢(中国第1方面軍) |
| 10月1日 | 蘭領東インド(ジャワ) | ジャカルタ | 長野祐一郎中将(第16軍) | フィリップ・クリスチソン中将(英,AFNEI) |
| 10月21日 | スマトラ | 現地 | 田辺盛武中将(第25軍) | H.M.チェンバース少将ほか(英) |
| 10月25日 | 台湾 | 台北公会堂 | 安藤利吉大将 | 陳儀(中華民国台湾省行政長官) |
この一覧のうち,主要な現地降伏の経緯と,資料上の留意点を第4で扱う。満洲・千島列島・南樺太は,単一の正式な降伏調印式が確認されていないという点で性質が異なるため,第5で別に扱う。
第4 主要な現地降伏の経緯
1 フィリピン――山下奉文大将の降伏(9月3日)
フィリピンにおける降伏文書は,1945年9月3日午後0時10分(現地時間),ルソン島バギオのキャンプ・ジョン・ヘイで署名・受理された。日本側署名者は山下奉文陸軍大将(フィリピンにおける帝国陸軍最高指揮官)及び大河内傳七海軍中将(同海軍最高指揮官)であり,米側で受理・署名したのはマッカーサー元帥本人ではなく,その代理としてエドモンド・H・リーヴィー少将(在フィリピン西太平洋米陸軍副司令官)であった。文書上も,太平洋方面米陸軍総司令官の代理として受理する形式が取られている(原文:“For the Commander-in-Chief, United States Army Forces, Pacific”)。米国立公文書館が所蔵する降伏文書原本の画像は,同館のカタログページで確認できる。
2 ラバウル――今村均大将の降伏(9月6日)
今村均大将の降伏地については,蘭領東インド(ジャワ,バタビア)で降伏したという記述が一部に見られるが,これは事実と異なる。今村は開戦時の1941年11月に第16軍司令官としてジャワ攻略を指揮したものの,1942年11月には第8方面軍司令官へ転任してラバウル(ニューブリテン島)に着任しており,1945年の終戦時にはジャワの部隊を指揮していない。今村が実際に降伏したのは,1945年9月6日,ラバウル沖に停泊した英空母グローリー艦上であり,相手はオーストラリア第一軍司令官ヴァーノン・スターディー中将であった。オーストラリア戦争記念館が所蔵する1945年撮影の複数の公式写真には,いずれも「NEW BRITAIN, 1945-09-06. GENERAL HITOSHI IMAMURA, COMMANDER JAPANESE EIGHTH AREA ARMY, SIGNS THE INSTRUMENT OF SURRENDER ON BOARD HMS GLORY OFF RABAUL」との説明が付されており,日付・場所・所属部隊が一致する。写真は同館のコレクションページで閲覧できる。1945年当時に蘭領東インド(ジャワ)の日本軍を代表したのは第16軍司令官の長野祐一郎中将であり,同軍は1945年10月1日にジャカルタで降伏している。
3 東南アジア方面――シンガポールでの南方軍の降伏(9月12日)
東南アジア方面の日本軍(南方軍)の降伏文書は,1945年9月12日,シンガポール市庁舎評議会室で調印された。南方軍総司令官の寺内寿一元帥は病(脳卒中)のため出席できず,代理として第7方面軍司令官の板垣征四郎大将が署名し,連合国側はルイス・マウントバッテン卿(東南アジア連合軍最高司令官)が受理した。このシンガポールでの調印に先立ち,1945年9月4日には,シンガポール島守備隊のみを対象とする予備的な現地降伏がHMSサセックス艦上で行われている。降伏文書の対象範囲は,一般命令第一号第I項(c)(1)により,アンダマン・ニコバル諸島,ビルマ,タイ,仏印南部,マラヤ,スマトラ,ジャワ等に及んだ。文書全文は,イェール大学ロースクールAvalon Projectのアーカイブページで確認できる。なお,寺内元帥本人は病のため9月12日の式典を欠席したが,1945年11月30日,サイゴンで改めてマウントバッテン卿に対し正式に降伏している。
4 中国戦区――南京での降伏(9月9日)と台湾受降(10月25日)
中国戦区の降伏文書(「降書」)は,1945年9月9日午前9時,南京の中国陸軍総司令部大礼堂で調印された。日本側署名者は支那派遣軍総司令官の岡村寧次大将,中国側は蒋介石の特派代表である何応欽上将であり,対象地域は中国大陸(満洲を除く),台湾及び仏印北緯16度以北であった。この降伏文書に基づき,台湾については同年10月25日,台北公会堂(現・台北市中山堂)で,台湾総督兼第10方面軍司令官の安藤利吉大将と,台湾省行政長官の陳儀との間で受降が行われた。もっとも,10月25日の受降が台湾の主権の法的な帰属を確定させるものであったかについては見解が分かれており,日本政府はサンフランシスコ平和条約により台湾の権原を放棄したのみで,台湾の法的地位について独自の認定を行う立場にないとの見解を国会答弁で維持している。この論点は「ポツダム宣言第8項の意味――カイロ宣言,領土処理とサンフランシスコ平和条約」で扱っているため,本記事では10月25日の受降を軍事的な現地降伏の履行として位置づけるにとどめる。
5 朝鮮半島(北緯38度以南,9月9日)
北緯38度以南の朝鮮における降伏文書は,1945年9月9日午後4時,京城(現・ソウル)の朝鮮総督府庁舎第一会議室で調印された。日本側署名者は,上月良夫中将(朝鮮北緯38度以南の陸空軍高級指揮官,第17方面軍司令官兼朝鮮軍管区司令官),山口儀三郎(同海軍最高級指揮官,鎮海警備府司令官)及び阿部信行(朝鮮総督)の3名であり,連合国側はジョン・R・ホッジ中将(在朝鮮米国軍司令官)及びT・C・キンケイド(米海軍代表)であった。調印式は開式から約25分で終了したことが,当日発行の号外新聞の記事に記録されている。
6 香港――署名者をめぐる資料の齟齬(8月30日~9月16日)
香港では,1945年8月30日にセシル・ハーコート少将率いる英艦隊がビクトリア・ハーバーに進入して再進駐し,正式な降伏調印式は同年9月16日,香港総督府で行われた。香港の降伏受理権をめぐっては,一般命令第一号の文言上「中国内」に位置づけられる香港について英国が受理権を主張し,米国務省の外交文書(FRUS)によれば,8月18日から27日にかけて英・米・中の間で調整が行われ,最終的に蒋介石がハーコート少将への受理権限の委任を確認したという経緯がある。
正式調印式の日本側署名者について,資料間に齟齬がある。ロンドンの国立海事博物館が所蔵する現物の降伏文書には,岡田梅吉少将及び藤田類太郎中将がハーコート少将に対し自身及び指揮下の全部隊を無条件に降伏させる旨の記載があり(原文:“We, Major General Umekicki Okada and Vice Admiral Ruitaro Fujita…do hereby unconditionally surrender ourselves and all forces under our control to Rear Admiral Cecil Halliday Jepson Harcourt”),同館の所蔵資料ページで確認できる。帝国戦争博物館(IWM)が所蔵する当日の写真キャプションも同じ2名を署名者としている。他方,国立公文書館アジア歴史資料センター(JACAR)の公式年表は,同日の項目に「第23軍司令官の田中久一中将が,香港にて英軍ハーコート少将との間で降伏文書に調印」と記載している。第23軍司令官であった田中久一中将については,同じ9月16日に広州の中山紀念堂で中国第2方面軍司令官の張発奎上将に降伏文書へ署名したと報じる中国語資料が複数存在し,田中が広州と香港の双方に同時に所在したとは考え難い。現物文書の記載が岡田・藤田の両名である以上,香港総督府における署名者はこの2名とみるのが相当であり,JACAR年表の記載は,指揮系統上の責任者(田中)と実際の現地署名者(岡田・藤田)を混同した簡略化である可能性が高いと考えられるが,防衛省防衛研究所が所蔵する第23軍関係の原資料による最終的な確認には至っていない。
7 仏領インドシナ・蘭領東インド
仏領インドシナは,一般命令第一号により北緯16度線を境に南北で担当が分かれた。北部(中国軍担当)では,1945年9月28日,ハノイの旧総督府で日本軍第38軍司令官の土橋勇逸中将が中国陸軍第1方面軍司令官の盧漢に降伏し,南部(英軍担当)では,1945年9月25日,サイゴンで南方軍総参謀長の沼田多稼蔵中将が英第20インド師団長のダグラス・グレーシー少将に降伏した。蘭領東インドでは,前記のとおり,第16軍司令官の長野祐一郎中将が1945年10月1日,ジャカルタでフィリップ・クリスチソン中将(東南アジア連合軍蘭印方面部隊)に降伏し,スマトラでは第25軍司令官の田辺盛武中将が同年10月21日に降伏している。
第5 満洲・千島列島・南樺太――9月2日以降もなお継続した作戦
1 関東軍の停戦と武装解除
満洲の関東軍については,上記のような単一の正式な降伏調印式が行われたことを示す資料は見当たらない。大本営の停戦命令は1945年8月16日夕方に関東軍総司令部(新京)へ到達し,山田乙三総司令官は同日夜に停戦を決定したが,ソ連側はこれを正式な降伏とは認めず,前線での攻撃を継続した。満洲全域を実務的に拘束する現地停戦の枠組みが定まったのは同年8月19日で,関東軍総参謀長の秦彦三郎中将とソ連極東軍総司令官のアレクサンドル・ワシレフスキー元帥との間で口頭の停戦協定が成立した(文書化はされていない)。防衛省防衛研究所が所蔵する関連資料には,この合意の内容として「明二〇日一一時迄ニ一切ノ戦闘行動ヲ停止シ武器ヲ交付ス」との記載がある。武装解除はおおむね同年8月末までに完了したとされるが,部隊・地域ごとに時期のばらつきがあり,例えば敦化守備隊は8月19日にソ連軍の進駐と同時に現地で武装解除されている。山田総司令官本人がソ連軍に身柄を拘束されたのは9月5日である。
2 千島列島・南樺太におけるソ連軍の占領継続
千島列島・南樺太では,9月2日の降伏文書調印後もソ連軍による占領作戦が継続した。占守島では,1945年8月18日未明,日本の降伏表明後にもかかわらずソ連軍が上陸を開始し,同月21日まで戦闘が続いた末に停戦・降伏し,23日に武装解除が行われている。これは太平洋戦争における最後の本格的な地上戦とされる。日本国政府(内閣府北方対策本部)の公式説明は,「1945年8月28日から9月5日にかけて,択捉,国後,色丹及び歯舞群島の四島を次々に占領した」というものであり,国後島・色丹島への上陸は9月1日,歯舞群島の占領完了は9月5日と,いずれも9月2日の降伏文書調印の前後にあたる。公式説明は内閣府の北方領土問題に関するページで確認できる。千島列島の占領がこの時期にまで及んだ経緯及びその後の領土問題への影響は,「ポツダム宣言第8項の意味」で扱っている。
第6 「降伏完了」はいつか――三つの層で理解する
「日本軍の降伏(武装解除)はいつ完了したか」という問いには,単一の答えがない。米陸軍が編纂した公刊戦史『Reports of General MacArthur』は,複数の局面を区別している。本記事では,これを三つの層に整理して示す。
第一は,現地降伏調印の完了である。第3・第4・第5で見たとおり,主要な戦域の現地降伏調印は1945年9月2日から11月30日までの約3か月で行われた。マッカーサー元帥は1945年10月15日,GHQ声明で,日本全土の日本軍がこの日をもって復員(武装解除)を完了しその存在を停止したこと,及び外地戦域の部隊を含め約700万の武装兵力が武器を置いたことを宣言している(原文:“Today the Japanese Armed Forces throughout Japan completed their demobilization and ceased to exist as such…Approximately seven million armed men, including those in the outlying theaters, have laid down their weapons.”)。
第二は,実質的な武装解除の完了である。内地では,陸軍が10月までに90パーセント以上,海軍は9月10日時点で約82パーセントの兵力を復員させ,12月までに国内の全軍事力が復員されたとされる(原文:“All military forces in Japan were demobilized by December”)。陸軍省・海軍省の廃止及び第一・第二復員省への改組は,1945年12月1日に行われた(昭和20年勅令第675号・第680号)。
第三は,復員・引揚げの完了である。復員行政機構(復員庁)は1947年10月15日の解散時点でなお業務半ばであり,最終的な復員機関の消滅は1948年5月31日であった。米陸軍公刊戦史は,最後の将兵が帰還して初めて復員が完了したとみなしうる旨を明記している(原文:“Only when the last Japanese servicemen had been returned to Japan could the demobilization of the Japanese armed forces be considered completed”)。満洲・ソ連占領地域の抑留者(約90万人)は,1948年7月末時点でなお43万6千人しか帰還しておらず,最終的な大量帰還は1956年の日ソ共同宣言を待つことになった。米陸軍公刊戦史はインターネットアーカイブで全文を閲覧できる。
このように,「調印の完了」「武装解除の完了」「復員・引揚げの完了」という三つの局面は,それぞれ数週間から十年余りまで大きく幅がある。通信途絶等により終戦を知らずに戦闘・潜伏を続けた個々の残留日本兵(1974年3月に投降した小野田寛郎氏,同年12月に投降した中村輝夫氏等)は,これらいずれの局面とも異なる,組織的な軍の降伏とは区別される個別の現象として扱われている。
第7 現地降伏文書の法的性質――9月2日文書の履行行為
各戦域で行われた現地降伏文書は,9月2日の降伏文書とは別個独立の降伏行為ではなく,同文書の履行・執行を目的とする文書として位置づけられていた。この点は,東南アジア方面の現地降伏文書(1945年9月12日,シンガポール)自身の文言に明確に表れている。同文書は,9月2日の降伏文書及び一般命令第一号を引用した上で,本文書はこれらを補完するものでありこれらを一切代替するものではない旨を定めていた(原文:“complementary…and which it in no way supersedes”)。一般命令第一号自体も,前文において9月2日の天皇による降伏に基づいて発せられるものと明記しており(原文:“pursuant to the surrender…by the Emperor”),一般命令第一号及びこれに基づく各戦域の現地降伏文書が,法的な権原を9月2日の降伏文書から引き出す従属的な文書であったことが読み取れる。この法技術には欧州戦域に先例があり,1945年4月29日にカゼルタ(イタリア)で署名されたドイツ軍南西方面の現地降伏文書も,本文書はドイツ全体に適用される連合国の一般的な降伏文書から独立しており,これによって取って代わられる旨を定めていた(原文:“independent of, without prejudice to, and shall be superseded by any general instrument of surrender…applicable to Germany and the German armed forces as a whole”)。
出典・参考資料
1 公文書・歴史資料
①Japanese Instrument of Surrender(米国立公文書館展示解説)
②United States Statutes at Large, Vol.59, p.1733, “Instrument of Surrender”(govinfo.gov)
③一般命令第一号(Directive No.1)(「世界と日本」データベース,東京大学東洋文化研究所・田中明彦研究室,底本は外務省特別資料部編『日本占領及び管理重要文書集第1巻基本篇』)
④Instrument of Surrender of the Japanese and Japanese-Controlled Armed Forces in the Philippine Islands(米国立公文書館,NAID 6943527)
⑤Instrument of Surrender of Japanese Forces Under the Command or Control of the Supreme Commander, Japanese Expeditionary Forces, Southern Regions, 12 September 1945(The Avalon Project, Yale Law School)
⑥”NEW BRITAIN, 1945-09-06. General Hitoshi Imamura…”(Australian War Memorial, Collection C51506)
⑦”Japanese Surrender: surrender of the Japanese forces at Hong Kong…16 September 1945″(Royal Museums Greenwich)
⑧アジア歴史資料センター(JACAR)「終戦80周年インターネット特別展 縮みゆく帝国日本―降伏・復員・引揚―」序章・第5章(中国)・第6章(満洲)・第7章(台湾)・第8章(朝鮮)
⑨アジア歴史資料センター(JACAR)「公文書に見る終戦-復員・引揚の記録-」年表
⑩Reports of General MacArthur: Volume I Supplement, MacArthur in Japan: The Occupation: Military Phase, Chapter V(米陸軍省,Internet Archive)
2 政府資料
①内閣府北方対策本部「3ステップで理解する北方領土問題」
3 文献
①千々和泰明「戦後日米関係の前史としての太平洋戦争終結」『戦史研究年報』第26号(防衛省防衛研究所,2023年3月)8頁~20頁(PDF)