第1 7月26日のポツダム宣言の発表及びその後の放送
1 この記事で扱う時系列と関連する論点
ポツダム宣言の発表から降伏文書調印までの流れは,次のとおりです。
①1945年7月26日 米国,英国及び中国がポツダム宣言を発表しました。
②8月10日 日本政府は,宣言が天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まないとの了解を付して,宣言の条件を受諾する用意があると連合国へ申し入れました。
③8月11日 米国政府は,米国,英国,ソ連及び中国の四国を代表して,日本側の申入れに回答しました。
④8月14日 日本政府は,四国回答を受けた上で,宣言の条項を受諾する旨を連合国へ最終通告しました。
⑤8月15日 8月14日付の終戦の詔書が玉音放送され,受諾決定が国内に公表されました。
⑥9月2日 日本側及び連合国側の代表が降伏文書に署名しました。
ポツダム宣言の「受諾日」を一つの日付で示す場合,本記事では,宣言が天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まないとの了解について,その正しさを明確に示すよう求めた8月10日の申入れではなく,日本政府がバーンズ回答を受けて8月14日付の最終受諾通告を発した8月14日を受諾日として扱います。8月15日は8月14日付の終戦の詔書が玉音放送された日であり,9月2日はポツダム宣言の条項を受諾する旨を記載した降伏文書に日本側及び連合国側の代表が署名した日です。
ポツダム宣言全13項の概要は,ポツダム宣言とは何か――全13項の内容を簡単に説明を参照してください。日本がポツダム宣言を受諾するに至った要因は,日本はなぜポツダム宣言を受諾したのか|原爆・ソ連参戦・国体護持・二度の聖断で扱っています。ポツダム宣言の平和条約発効後の効力,現行ポツダム命令及び占領期に生じた法的効果は,ポツダム宣言は現在も有効か――平和条約,現行ポツダム命令及び残存効果で扱っています。個別論点は,ポツダム宣言を早く受け入れていたら,受け入れなかったらどうなったか,ポツダム宣言で日本は無条件降伏したのか,ポツダム宣言受諾時の国体護持とは及びポツダム宣言第8項の意味で扱っています。また,宣言の文言が発表に至るまでにどのように起草されたかは,ポツダム宣言の起草過程――天皇条項はなぜ削除されたかで扱っています。天皇条項が削除されずに残っていた場合の反実仮想は,ポツダム宣言に天皇条項があれば昭和20年7月26日の発表直後の早期受諾が現実的だったかで扱っています。
8月10日及び14日の通告がスイス・スウェーデンを介して連合国へ伝えられた経路は,ポツダム宣言受諾はどのように連合国へ伝えられたか|スイス・スウェーデン経由の往復文書とスイスの仲介で扱っています。
9月2日の降伏文書調印後,各戦域の日本軍がいつ,どこで,誰に降伏したかは,日本軍の降伏完了はいつか――一般命令第一号と戦域別の武装解除・復員で扱っています。
不戦条約の条文,成立交渉,国家実行,戦後裁判及び現在の締約国は,不戦条約の内容,成立経緯及び現在の全締約国で扱っています。
両国の統治構造,戦時動員,権利保障,軍の統帥及び司法を含む比較は,ナチス法制と大日本帝国憲法下の日本法制――統治構造・戦時動員・権利・司法の比較で扱っています。
2 ポツダム会談の開催地とポツダム宣言の名称
(1) 昭和20年7月17日から8月2日にかけて,ソ連の占領地域となったドイツ・ポツダムに米英ソの3カ国の首脳が集まり,ドイツの占領管理,ヨーロッパの戦後処理及び対日戦等を協議するため,ポツダム会談が実施されました。宣言本文の末尾には発表地として「Potsdam」と記されており,この地名から「ポツダム宣言」と呼ばれています。
なお,この会談の開催地がなぜドイツのポツダムに定まったのかという選定の経緯は,ポツダム宣言はなぜドイツのポツダムで発表されたのか――開催地選定の経緯で扱っています。
(2) ツェツィーリエンホーフ宮殿は,1913年から1917年にかけて,ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の命により,皇太子ヴィルヘルムと妃ツェツィーリエの住居として建設されました。1990年,同宮殿があるニューガーデンを含む「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」は,ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
(3) ポツダム会談では,米英ソ中仏の外相で構成する外相理事会を設置することが合意されました。ただし,外相理事会が同会談と同時にツェツィーリエンホーフ宮殿で開かれていたわけではありません。第1回会期は,同年9月11日から10月2日までロンドンで開かれました。外相理事会の設置根拠や,占領政策の基本原則・賠償等,会談で合意された実体的な内容の詳細は,別記事の「ポツダム会談とは何か――参加者・日程とポツダム協定の合意内容」で扱っています。
3 7月26日のポツダム宣言の発表
(1) 7月26日午後9時20分(ベルリン時間),米国,英国及び中華民国の3カ国首脳の名でポツダム宣言が発表されました。ソ連はこの時点では発表国ではなく,8月8日の対日宣戦に伴ってポツダム宣言に参加しました。
(2) 蒋介石主席はポツダム会談に参加していませんでしたが,宣言案は電報で送られ,その同意が得られました。チャーチル首相も宣言の発表前に同意していました。宣言原本にはトルーマン大統領が3人分の名を書き入れていますが,これはトルーマン大統領が他国首脳に代わって法的な同意をしたという意味ではありません。なお,英国総選挙は7月5日に投票が行われ,開票結果は7月26日に公表されました。労働党が勝利し,クレメント・アトリーは同日首相に就任しました(英国下院図書館の「General Election Dates 1832-2005」及び英国政府HPの「History of Clement Attlee」参照)。そのため,ポツダム会談は7月25日まで行われた後,26日及び27日は中断し,28日の再開後はアトリー首相が出席しました。
1945年7月26日20:00(BST 7月26日12:00) 英国で7月5日に投票が行われた下院議会総選挙の開票が行われた。26日正午までにクレメント・アトリーが率いる労働党の勝利が確実となり、与党・保守党の敗北とウィンストン・チャーチルの首相退陣が決まった #芙蓉録 pic.twitter.com/4TQFCUk2XC
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) July 26, 2021
(3) ポツダム宣言発表当時の日本の内閣総理大臣は鈴木貫太郎であり,日本政府の当初の反応は,後記第2の2(7月28日の黙殺発言)で扱っています。
4 ポツダム宣言の放送
(1) 7月27日午前5時(東京時間),戦時情報局(OWI)の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まり,重要な部分は午前5時5分から日本語で放送されました。
(2) 同日午前7時,日本語の全文の放送がサンフランシスコ放送で開始されました。これらの送信時刻及びその後に反復放送されたことは,米国務省外交史料集の「The White House Information Officer (Ayers) to the President’s Secretary (Ross)」で確認できます。
(3) 日本側では外務省,同盟通信社,陸軍,海軍の各受信施設が第一報を受信しました。
5 日本軍に関するポツダム宣言の条項
・ 日本軍に関するポツダム宣言の条項は以下のとおりでした。
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス
第2 日本側の当初の反応からソ連対日参戦及び長崎原爆投下まで
1 7月27日のポツダム宣言の公表
(1) 7月27日,日本政府はポツダム宣言の存在を論評なしに公表しました。
(2) 7月28日の新聞報道では,読売新聞で「笑止、対日降伏条件」,毎日新聞で「笑止! 米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などの見出しが用いられました。ただし,新聞社の論調と政府の意思決定との因果関係は別問題ですから,当時の紙面を引用する際には,新聞名,朝刊・夕刊,版及び掲載面を明示する必要があります。
2 7月28日の黙殺発言
(1) 7月28日,鈴木貫太郎首相は,記者会見において,「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず『黙殺』し断固戦争完遂に邁進する」と述べ,7月29日の朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道されました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日」参照)。
(2) 「黙殺」については,同盟通信社が「ignore」と英訳し,ロイター及びAP通信では「reject(拒否)」と報じられました。そのため,日本政府がポツダム宣言を拒否したとの理解を連合国側に強める一因になったと考えられます。
(3) もっとも,原爆使用の準備・命令及びソ連の対日参戦合意・軍事準備は,この記者会見以前から進んでいました。「黙殺」という一語又はその翻訳だけが原爆投下若しくはソ連参戦を決定したとみることはできません。
(4) この「黙殺」の英訳が拒否と解釈された経緯,及びこれを検証する現代の翻訳研究・歴史研究の到達点については,別記事の「ポツダム宣言の『黙殺』は誤訳だったのか」で扱っています。
3 8月6日の広島市への原子爆弾投下
(1) B-29爆撃機エノラ・ゲイは,8月6日午前2時45分(テニアン現地時間。日本時間では午前1時45分)にテニアン島を離陸しました。
(2) 同機は,日本時間午前8時15分17秒に原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下し,原子爆弾は約45秒後に爆発しました。投下後,任務成功を知らせる暗号通信が送信されました(米海軍歴史遺産司令部HPの「H-052-1: The U.S. Navy and the Atomic Bomb」参照)。
(3) エノラ・ゲイは任務後にテニアン島へ帰投し,機長ポール・ティベッツ大佐には殊勲十字章が授与されました(米国立公文書館HPの「509th Composite Group」参照)。
(4) 広島投下後,グローブス将軍の副官ファレル准将らは,攻撃効果を確認した上で,東京地域を含む複数の大都市を「心理的価値が大きい」ことを理由に新たに目標リストへ加えることを軍内部で提言しましたが,この提言は数日後の終戦により実行されませんでした。投下から2日後の8月8日付でテニアン島から発せられた米陸軍航空軍の報告は,広島の犠牲者数について「最も控えめな推計でも10万人」と記載していました(いずれも米国国家安全保障公文書館(The George Washington University)所蔵,ファレル准将「Report on Overseas Operations Atomic Bomb」による。同報告書に日付の記載はなく,同公文書館は1945年9月15日頃の作成と注記しています)。
1945年8月6日08:20
【発:V-82「エノラ・ゲイ」 宛:第509混成群団司令部】
雲量1/10の雲を通して、1機が広島を目視爆撃した。結果良好。
投下時刻は052315Z。対空砲火も敵機の抵抗もなし。
以上
#8月6日 #芙蓉録 pic.twitter.com/0ANP9DpkQJ— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 5, 2021
1945年8月6日13:55 V-82「エノラ・ゲイ」以下センターボード作戦参加機が、テニアン北飛行場に着陸。カール・スパーツ少将より機長ティベッツ大佐に対し殊勲十字章が授与される #8月6日 #芙蓉録 pic.twitter.com/xpOwebODyI
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 6, 2021
4 8月8日のソ連の対日宣戦布告
(1)ア 日本政府は,昭和20年6月18日の最高戦争指導会議構成員会議において和平仲介を対ソ交渉に加えることを決定し,同月22日の御前会議において改めてこのことを確認し,7月10日の最高戦争指導会議構成員会議において近衛文麿 元首相を特使として派遣することを決定しました。
イ ソ連政府からは目的が不明なため特使派遣の受入れの可否を即答できないと回答されたものの,ソ連がポツダム宣言に加わっていないこともあり,日本政府としては,ポツダム宣言発表後もソ連による仲介の可能性に希望を残していました。
(2)ア 昭和16年4月13日にモスクワで調印され,同月25日に発効した日ソ中立条約は,昭和20年4月5日に不延長を通告されたものの,昭和21年4月25日までは有効でした(同条約3条)。
米国務省の外交史料集には,昭和20年7月31日付で,トルーマン大統領からスターリンに宛てることを想定した以下の書簡草案が収録されています。これはソ連の対日参戦が国際法に違反しないことを確定的に説明した正式書簡ではありません(OFFICE OF THE HISTORIANの「[Draft of Letter From President Truman to Generalissimo Stalin]」からの貼り付けです。)。
Dear Generalissimo Stalin: Paragraph 5 of the Declaration signed at Moscow, October 30, 1943 by the United States, the Soviet Union, the United Kingdom and China, provides:
“5. That for the purpose of maintaining international peace and security pending the reestablishment of law and order and the inauguration of a system of general security, they will consult with one another and as occasion requires with other members of the United Nations with a view to joint action on behalf of the community of nations.”
Article 106 of the proposed Charter of the United Nations provides:
“Pending the coming into force of such special agreements referred to in Article 43 as in the opinion of the Security Council enable it to [Page 1334]begin the exercise of its responsibilities under Article 42, the parties to the Four-Nation Declaration, signed at Moscow, October 30, 1943, and France, shall, in accordance with the provisions of paragraph 5 of that Declaration, consult with one another and as occasion requires with other Members of the United Nations with a view to such joint action on behalf of the Organization as may be necessary for the purpose of maintaining international peace and security.”
Article 103 of the Charter provides:
“In the event of a conflict between the obligations of the Members of the United Nations under the present Charter and their obligations under any other international agreement, their obligations under the present Charter shall prevail.”
Though the Charter has not been formally ratified, at San Francisco it was agreed to by the Representatives of the Union of Soviet Socialist Republics and the Soviet government will be one of the permanent members of the Security Council.
It seems to me that under the terms of the Moscow Declaration and the provisions of the Charter, above referred to, it would be proper for the Soviet Union to indicate its willingness to consult and cooperate with other great powers now at war with Japan with a view to joint action on behalf of the community of nations to maintain peace and security.
Sincerely yours,
* AIによる日本語訳は以下のとおりです。
スターリン大元帥閣下:
1943年10月30日にモスクワにおいて、合衆国、ソビエト連邦、連合王国、および中国により署名された宣言の第5項は、次のように規定しています。
「5. 法および秩序が再確立され、かつ、一般的安全保障の制度が開始されるまでの間、国際の平和および安全を維持する目的をもって、国際社会に代わって共同の行動をとるため、相互に、かつ、必要に応じて他の連合国(United Nations)の諸国と協議すること。」
提案されている国際連合憲章の第106条は、次のように規定しています。
「第43条に掲げる特別協定で安全保障理事会の意見において同理事会が第42条に基づく責任の遂行を開始することができると認めるものが効力を生ずるまでの間 [1334ページ]、1943年10月30日にモスクワで署名された四国宣言の当事国およびフランス国は、同宣言第5項の規定に従い、国際の平和および安全を維持するために必要と認められる共同の行動を機構に代わってとるため、相互に、かつ、必要に応じて他の国連加盟国と協議しなければならない。」
同憲章第103条は、次のように規定しています。
「国際連合加盟国のこの憲章に基づく義務と他のいかなる国際協定に基づく義務とが抵触するときは、この憲章に基づく義務が優先する。」
憲章はまだ正式に批准されてはいないものの、サンフランシスコにおいてソビエト社会主義共和国連邦の代表によってこれに同意がなされており、またソビエト政府は安全保障理事会の常任理事国の一つとなる予定です。
上記に挙げたモスクワ宣言の条項および憲章の規定に基づけば、平和と安全を維持するため、国際社会に代わって共同行動をとることを目的として、ソビエト連邦が、現在日本と交戦中である他の大国と協議し協力する意思を示すことは妥当であると私は考えます。
敬具
イ 上記文書は無署名の書簡草案です。米国務省の注記によれば,トルーマン大統領の文書には,この覚書に関するその後の交換記録がありません。他方,レーヒの回想には,トルーマン大統領が7月31日の全体会議でスターリンに手交したとの記載があります。
そのため,手交の有無は史料によって記述が分かれるものとして扱う必要があります。
ウ(ア) 1943年10月30日に米英ソ中によって署名されたモスクワ宣言第5項は,法と秩序の再構築及び集団的安全保障体制の発足までの間,国際の平和及び安全の維持に必要な共同行動をとるため,4国が相互に及び必要に応じて他の連合国と協議する旨を定めたものでした。
(イ) 国際連合憲章は,1945年6月26日にサンフランシスコで署名され,同年10月24日に発効しました。したがって,ソ連が対日攻撃を開始した8月9日の時点では発効していませんでした。
エ 国際連合憲章103条は,国際連合加盟国の憲章上の義務と他の国際協定上の義務が抵触する場合に前者が優先する旨を定めています。しかし,8月9日には憲章自体が未発効であり,上記書簡草案も,日ソ中立条約上の義務が消滅したと法的に結論付けたものではありません。そのため,ソ連の対日参戦が日ソ中立条約に違反しなかったことの根拠として,憲章103条又は上記草案を用いることはできません。
第103条
国際連合加盟国のこの憲章に基く義務と他のいずれかの国際協定に基く義務とが抵触するときは、この憲章に基く義務が優先する。
第106条
第43条に掲げる特別協定でそれによって安全保障理事会が第42条に基く責任の遂行を開始することができると認めるものが効力を生ずるまでの間、1943年10月30日にモスコーで署名された4国宣言の当事国及びフランスは、この宣言の第5項の規定に従って、国際の平和及び安全の維持のために必要な共同行動をこの機構に代ってとるために相互に及び必要に応じて他の国際連合加盟国と協議しなければならない。
(3) 8月8日午後11時,特使派遣に対する回答を得られると期待して面会に赴いた佐藤尚武駐ソ大使に対し,ソ連のモロトフ外務大臣が交付したソ連の宣戦布告文は以下のとおりであって(太平洋戦争とは何だったのかHPの「ソ連-対日宣戦布告文」参照),1945年2月11日署名のヤルタ協定には言及されていませんでした。
ヒットラードイツの敗北ならびに降伏の後、日本は依然として戦争の継続を主張する唯一の大国となった。日本武装兵力の無条件降伏を要求した今年7月26日の三国すなわちアメリカ合衆国、英国ならびに支那の要求は、日本の拒否するところとなった。
従って、極東戦争に対する調停に関するソビエト連邦に宛てられた日本政府の提案は、一切の基礎を失った。調停に関する日本の降伏拒否を考慮し、連合国はソビエト政府に対して日本の侵略に対する戦争に参加し、戦争終結の時期を短縮し、犠牲の数を少なくし、全面的平和をできる限り速やかに克復することを促進するよう提案した。ソビエト政府は連合国に対する自国の義務に従い、連合国の提案を受諾し、本年7月26日の連合各国の宣言に参加した。
ソビエト政府においては自国の政府の右進路が平和を促進し、各国民を今後新たな犠牲と苦難とから救い、日本国民をしてドイツが無条件降伏を拒否した後被った危険と破壊を避けしめ得る唯一の方途と思惟する。
以上に鑑み、ソビエト政府は明日すなわち8月9日よりソビエト連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する。
(4) 駐ソ大使が送ったソ連の対日宣戦布告文に関する公電はソ連当局によって電報局で封鎖されたため,日本の外務省には届きませんでしたから,午前4時頃のソ連の国営タス通信(1992年以降はロシアのイタルタス通信)の報道等により,日本政府はソ連の対日参戦を知りました(産経新聞HPの「対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書」参照)。
1945年8月9日、ナチス・ドイツの東側の同盟国であった日本との戦争で鍵となる戦いとなった、赤軍による満州戦略攻撃作戦が開始された。その一日前の1945年8月8日、米国と英国という、ヒトラーに抗する二つの連合国に対する義務をはたすべく、ソ連は在モスクワ日本大使に、宣戦布告の文書を手交しました pic.twitter.com/cEhgsPqVx7
— 駐日ロシア連邦大使館 (@RusEmbassyJ) August 9, 2020
なお,この投稿はロシア政府側の歴史認識を示す当事者発信であり,日ソ中立条約との関係を含む法的又は歴史的評価の根拠として掲げるものではありません。
5 8月9日のソ連の対日参戦
(1) ソ連は8月8日に日本に宣戦を布告し,翌9日未明,極東ソ連軍が満州への侵攻作戦を開始しました(国立国会図書館の「詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日」及び米海軍歴史遺産司令部HPの「Origins of the Korean War」参照)。
(2) ソ連の対日宣戦布告(8月8日付)は以下のとおりです(日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集(日本国外務省及びロシア連邦外務省が作成した文書です。)30頁)。
ヒットラー独逸ノ壊滅及ヒ降伏後ニオイテハ日本ノミカ引続き戦争ヲ継続シツツアル唯一ノ大国トナレリ、日本兵力ノ無条件降伏ニ関スル本年七月二十六日附ノ亜米利加合衆国、英国及ヒ支那三国ノ要求ハ日本ニヨリ、拒否セラレタリ、コレカタメ極東戦争ニ関シ日本政府ヨリソ連邦ニ対シナサレタル調停方ノ提案ハ総テノ根拠ヲ喪失スルモノナリ日本カ降伏ヲ拒否セルニ鑑ミ連合国ハ戦争終結ノ時間ヲ短縮シ、犠牲ノ数ヲ減縮シ且ツ全世界ニオケル速カナル平和ノ確立ニ貢献スルタメソ連府ニ対シ日本侵略者トノ戦争ニ参加スルヤウ申出テタリ
総テノ同盟ノ義務ニ忠実ナルソ連政府ハ連合国ノ提案ヲ受理シ本年七月二十六日附ノ連合国宣言ニ加入セリ
斯ノ如キソ連政府ノ政策ハ平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸国民ヲ解放セシメ且ツ独逸カ無条件降伏拒否後体験セル如キ危険ト破壊ヨリ日本国民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法ナリトソ連政府ハ思考スルモノナリ右ノ次第ナルヲモツテソ連政府ハ明日即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス
1945年8月9日00:00 極東ソ連軍が対日攻勢作戦を発動。西部よりザバイカル方面軍、東部より第1極東方面軍、東北部より第2極東方面軍がそれぞれ満洲国境を突破し、新京へ向けて進撃を開始する #対ソ防衛戦 #芙蓉録 pic.twitter.com/S1E2dWogdX
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 8, 2021
6 8月9日の長崎市への原子爆弾投下
(1) 8月9日午前11時2分,B-29爆撃機ボックスカーが投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」が長崎市上空で炸裂しました(長崎市「ながさきの平和」HPの「11時2分」参照)。
(2) 同日は,未明にソ連軍の対日攻勢作戦が始まり,午前から日本側の最高戦争指導会議構成員会議及び閣議が開かれていました。長崎への原爆投下は,このような複数の重大事態が重なった時系列の中に位置付ける必要があります。
(3) 当初の第一目標は小倉市でしたが,雲及び煙により視界不良であったため,ボックスカーは第二目標の長崎市へ向かいました。ファレル准将の報告書によれば,爆撃手が目標を視認できたのは「数秒間」にとどまり,実際の爆心は目標地点から約4分の3マイル外れていました。同報告書は,長崎における即死者数を少なくとも39,000人と記録しています(米国国家安全保障公文書館(The George Washington University)所蔵,ファレル准将「Report on Overseas Operations Atomic Bomb」による)。
第3 8月10日の国体護持条件付き受諾申入れ及びバーンズ回答
1 8月10日の国体護持条件付き受諾申入れ
(1)ア 8月9日未明のソ連対日参戦を受けて開催された最高戦争指導会議構成員会議及び閣議では,ポツダム宣言受諾の可否について結論が出ませんでした。
1945年8月9日11:36(ChST 8月9日12:36) 第313航空団司令部がワシントンに長崎市への原子爆弾投下を報告する #8月9日 #芙蓉録 pic.twitter.com/bjfrMPkJSJ
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 9, 2021
イ 翌日午前2時20分頃終了の御前会議(1回目の聖断)及び同日午前4時頃終了の閣議に基づき,日本は,連合国に対し,以下のとおり通告しました(「ポツダム受諾に関する8月10日付日本国政府申入」参照)。
帝国政府ニ於テハ常ニ世界平和ノ促進ヲ冀求シ給ヒ今次戦争ノ継続ニ依リ齎ラサルヘキ惨禍ヨリ人類ヲ免カレシメンカ為速ナル戦闘ノ終結ヲ祈念シ給フ
天皇陛下ノ大御心ニ従ヒ数週間前当時中立関係ニ在リタル「ソヴィエト」聯邦政府ニ対シ敵国トノ平和恢復ノ為斡旋ヲ依頼セルカ不幸ニシテ右帝国政府ノ平和招来ニ対スル努力ハ結実ヲ見ス茲ニ於テ帝国政府ハ
天皇陛下ノ一般的平和克服ニ対スル御祈念ニ基キ戦争ノ惨禍ヲ出来得ル限リ速ニ終止セシメンコトヲ欲シ左ノ通リ決定セリ
帝国政府ハ一九四五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ米、英、支三国政府首脳者ニ依リ発表セラレ爾後「ソ」聯政府ノ参加ヲ見タル共同宣言ニ挙ケラレタル条件ヲ右宣言ハ 天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス
帝国政府ハ右了解ニシテ誤リナキヲ信シ本件ニ関スル明確ナル意向カ速ニ表示セラレンコトヲ切望ス
(2) 外務省が用意した受諾電文案では,不戦条約批准に際して発表した昭和4年6月27日付の帝国政府宣言書(不戦条約1条の「人民の名において」という文言は日本国に限り適用はないという了解を宣言したもの)のように,国体護持についての了解を一方的に言い放つ(天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス)という内容でした。
しかし,結果として,1回目の受諾通告は,国体護持についての明確な保証を連合国側に求める内容となりました(「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」3頁参照)。
(3) 同じ8月10日,米国側でも閣議が開かれていました。商務長官(前副大統領)ヘンリー・ウォレスが残した日記によれば,この閣議でトルーマンは,日本の降伏が近いとの判断の下,以後の原爆使用には大統領自身の明示の許可を要する旨の統制に乗り出したとされます(米国国家安全保障公文書館(The George Washington University)所蔵,Henry A. Wallace日記,1945年8月10日付による。同資料は,同公文書館の特集「The Atomic Bombings of Japan and the End of World War II, 80 Years Later」に収録されています)。
1945年8月10日20:30(EDT 8月10日07:30) アメリカ合衆国の短波放送が同盟通信からモールス信号で送られた「三国宣言受諾ニ関スル件」を受信。AP通信によって全世界へ「日本、ポツダム宣言受諾」が配信される #芙蓉録 pic.twitter.com/jHgZ66JSSh
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 10, 2021
2 8月11日のバーンズ回答
(1)ア 8月11日,米国国務長官のジェームズ・フランシス・バーンズの名前で,連合国は以下のとおり回答しました(いわゆるバーンズ回答です。国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」及び米国務省外交史料集の「The Secretary of State to the Ambassador in the United Kingdom (Winant)」参照)。
① 降伏のときより、天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする。
② 天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し「ポツダム宣言」の諸条項を実施するために必要な降伏条項署名の権限を与え、かつ、これを保障することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸・海・空軍官憲、および、いずれかの地域にあるを問わず、右官憲の指揮の下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、また、降伏条項実施のため最高司令官の要求するであろう命令を発することを要請される。
③ 日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜、および、抑留者を連合国の船舶に速やかに乗船させ、安全なる地域に輸送すべきである。
④ 日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。
⑤ 連合国軍隊は、「ポツダム宣言」に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に駐留するものとする。
イ ①の原文は「the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.」です。
(2) 「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」3頁には以下の記載があります。
第1項では、「天皇の権力が最高司令官に従属するものであることを明確に述べることによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」であり、第4項は、天皇制の存続の可否に言及することなく、単に、天皇制問題を日本国民の意思に委ねるというポツダム宣言第12項(「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし」)を引用したものであり、「すでに約束した以上の約束は何ひとつなかった」
(3) 米国議会図書館所蔵のハリマン文書によれば,バーンズ回答の起草過程でも,ソ連側の同意取付けをめぐり緊張が生じていました。8月10日夜から翌未明にかけて,駐ソ米国大使ハリマンは,英国大使カー及びソ連外相モロトフと会談し,日本の降伏交渉について協議しました。会談中,ハリマンはワシントンから伝達されたバーンズ回答案への支持をソ連側に求め,強い働きかけの末にソ連側の了承を得ましたが,その過程で,日本占領に関しモスクワ側が独自の最高司令官を置くか否かをめぐる緊張が既に生じており,これが後の占領統治権をめぐる米ソの緊張の始まりであったとされます(米国国家安全保障公文書館(The George Washington University)所蔵,Memorandum of Conversation, “Japanese Surrender Negotiations,” August 10, 1945による。同資料は,同公文書館の特集「The Atomic Bombings of Japan and the End of World War II, 80 Years Later」に収録されています)。
占領区域をめぐる緊張は,日本の最終受諾(8月14日)より前,バーンズ回答の起草段階(8月10日)から既に生じていたことになります。
第4 バーンズ回答後,玉音放送までの経緯
1 8月14日の最終受諾通告
(1)ア バーンズ回答第1項の「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施するため適当と認める措置を執る連合国最高司令官(SCAP)の制限の下に置かれるものとする。」という記載に紛糾して8月12日の閣議で結論が出ませんでした。
イ バーンズ回答第1項に関しては,8月13日の最高戦争指導会議構成員会議及び閣議でも結論が出ませんでした。
ウ 8月14日正午終了の御前会議(2回目の聖断)によりポツダム宣言受諾が決定しました。
エ 8月14日午後の閣議を経て,同日付で発布されたポツダム宣言受諾の詔書(「大東亜戦争終結ノ詔書」ともいいますが,いわゆる「終戦の詔書」です。)に基づき,日本政府はポツダム宣言の最終的な受諾を通告しました。
バーンズ回答第4項の「日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。」については,フランスへの依存が強かった国際連盟管理地域であったザール地方につき,1935年1月13日実施の住民投票(投票率98%,そのうちの90.73%がドイツ帰属を希望)に基づき,同年3月1日にドイツに復帰したという前例があったこともあって,決定的な問題とはなりませんでした(「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」8頁参照)。
エ 最終受諾通告は,スイス時間8月14日午後8時10分(日本時間8月15日午前4時10分),在スイス日本公使からスイス政府へ書面で伝達され,その後,スイス政府を通じて米国政府へ送達されました。こうした伝達過程の最中を含む14日夜から15日朝にかけて,熊谷空襲(埼玉県熊谷市),伊勢崎空襲(群馬県伊勢崎市),小田原空襲(神奈川県小田原市)及び土崎空襲(秋田県秋田市土崎港)が実施されました。
ただし,各空襲は既に進行していた航空作戦に基づくものであり,受諾通告の伝達時刻だけを空襲の直接の原因と断定することはできません。
オ 米国東部時間8月14日午後7時(日本時間8月15日午前8時),トルーマン大統領はホワイトハウスで記者会見を開き,日本政府の回答をポツダム宣言の完全な受諾と認めると発表しました。同時に,連合国軍には攻勢作戦の停止を命じたものの,対日戦勝記念日の宣言は正式な降伏文書の調印を待つと説明しました(トルーマン大統領図書館HPの「The President’s News Conference」参照)。
(2) ポツダム宣言受諾通告(米英蘇支四国ニ対スル八月十四日附帝国政府通告)は以下のとおりです(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」参照)。
「ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル八月十日附帝国政府ノ申入並ニ八月十一日附「バーンズ」米国国務長官発米英蘇支四国政府ノ回答ニ関聯シ帝国政府ハ右四国政府ニ対シ左ノ通通報スルノ光栄ヲ有ス
一 天皇陛下ニ於カセラレテハ「ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル詔書ヲ発布セラレタリ
二 天皇陛下ニ於カセラレテハ其ノ政府及大本営ニ対シ「ポツダム」宣言ノ諸規定ヲ実施スル為必要トセラルヘキ条項ニ署名スルノ権限ヲ与ヘ且之ヲ保障セラルルノ用意アリ又 陛下ニ於カセラレテハ一切ノ日本国陸、海、空軍官憲及右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ対シ戦闘行為ヲ終止シ武器ヲ引渡シ前記条項実施ノ為聯合国最高司令官ノ要求スルコトアルヘキ命令ヲ発スルコトヲ命セラルルノ用意アリ
(3)ア 昭和20年8月15日午前4時42分発信の加瀬スイス公使の電文は以下のとおりです(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「米国務長官メッセージ」参照)。
第八八四号
十五日午前三時半外務次官ハ本使ニ対シ米国国務長官ハ在米瑞西公使ニ対シ十四日附帝国政府通告ハ「ポツダム」宣言並ニ十一日附四国回答ニ対スル完全ナル受諾ト認メ米国大統領ノ命ニ依リ別電第八八五号ノ「メッセージ」ヲ帝国政府ニ伝達方依頼セル旨ヲ伝ヘ直ニ帝国政府ニ電報方ヲ求メタリ(了)
イ 昭和20年8月15日午前4時30分発信の在瑞西加瀬公使の電文は以下のとおりです(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「停戦実施方に関する米国政府通告文」参照)。
貴方は左の措置をとられたし
一 日本国軍隊の軍事行動の速急なる停止を指令し連合国最高司令官に右停戦実施の日時を通報すること
二 日本国軍隊及び司令官(複数)の配置に関する情報を有し且連合国最高司令官及び其の同行する軍隊が正式降服受理の為連合国最高司令官の指示する地点に到著し得る様連合国最高司令官の指示する打合を為すべき充分の権限を与えられたる使者(複数)を直に連合国最高司令官の許に派遣すること
三 降伏の受理及びこれが実施の為ダグラス・マッカーサー」元帥が連合国最高司令官に任命せられたる処同元帥は正式降服の時、場所及び其の他詳細事項に関し日本国政府に通報すべし
(4) アメリカ政府は,日本政府の最終的な受諾を受け,トルーマン大統領の指示により,マッカーサー元帥を連合国最高司令官に任命し,日本軍の軍事行動を速やかに停止させるための措置を進めました。トルーマンはアメリカ合衆国大統領であり,連合国最高司令官に任命されたのはマッカーサーです。
1945年8月15日08:00(EDT 8月14日19:00)トルーマン米大統領はホワイトハウスで記者会見を行い、日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、太平洋戦争が終結したことを宣言する #8月15日 #芙蓉録 pic.twitter.com/jRNnnX2szM
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 14, 2021
2 8月15日の玉音放送
(1)ア 8月14日付のポツダム宣言受諾の詔書(いわゆる「終戦の詔書」)は,同日午後11時25分頃から翌日午前1時頃にかけて録音作業等が行われ,8月15日正午にラジオ放送されました(いわゆる「玉音放送」です。)。国立公文書館HPでも,8月14日の閣議で詔書の文言が決定し,同日夜に録音,翌15日正午に放送された経過を確認できます(「昭和20年 終戦の詔書」参照)。
イ 8月14日深夜から翌日朝にかけて,一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件(いわゆる「宮城事件」です。)が発生しました。
(2)ア 終戦の詔書には,阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣の要求により「国体ヲ護持シ得」たと記載されました。「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」10頁には以下の記載があります。
少なくとも陸軍は一連の「降伏交渉」を経て国体護持が可能となったとは考えていなかったが、それを納得させ、武装解除と復員に導くためには、国民や政府ではなく天皇自身が国体を護持しえたという確信を有していることを詔書に示す必要があった。
イ 阿南惟幾陸軍大臣は8月15日午前5時半頃に自刃しました。
(3) 8月15日午前11時30分から午後1時30分にかけて,玉音放送拝聴による中断をはさみつつ,天皇臨席の下,枢密院本会議において,内閣総理大臣及び外務大臣からの報告が実施されました(国立公文書館アジア歴史資料センターHPの「「ポツダム」宣言受諾ニ関スル内閣総理大臣及外務大臣報告」参照)。
3 終戦決定をめぐる先行研究の整理
終戦決定の因果関係を検討する場合,①海上封鎖,通常爆撃,輸送力及び生産力の低下,本土決戦準備の物的脆弱性という長期的な敗戦条件,②広島への原爆投下,ソ連の対日参戦及び長崎への原爆投下という昭和20年8月の短期的な衝撃,③最高戦争指導会議構成員の意見対立,受諾条件及び天皇の判断という意思決定手続を区別する必要があります。戦争を継続する能力が失われつつあったことと,政府が特定の日に降伏を決定したことは,同じ問題ではありません。
広島への原爆投下は,本土決戦を含む戦争継続論を弱め,終戦を正当化する材料となりましたが,8月6日から8日までに政府及び軍部の受諾合意が成立したわけではありません。ソ連の対日参戦は,対ソ和平仲介の可能性を消滅させ,二正面戦争及びソ連軍による占領範囲拡大の危険を現実化しました。もっとも,8月9日の東京での審議は,満洲における関東軍の作戦上の敗北が明らかになる前から始まっているため,ソ連参戦の即時的な効果と,その後の満洲作戦の急速な進展は区別する必要があります。長崎への原爆投下は,既に進行していた意思決定過程に圧力を加えましたが,その報告が誰にいつ伝わり,どの判断を変えたかには史料上明らかでない部分があります。
終戦の要因については,原爆の衝撃を重視する研究,ソ連参戦及び対ソ仲介の破綻を重視する研究,海上封鎖及び本土防衛の脆弱性を重視する研究,並びに国体護持及び政府内部の意思決定手続を重視する研究があります。中谷直司「原爆神話は解体されたのか」は,これらの研究と千々和泰明『誰が日本を降伏させたか』を比較し,原爆投下とソ連参戦の相対的な重みには現在も研究上の合意がないと整理しています。また,鈴木多聞の研究は,終戦の問題を,いつ終戦するかという「時期」,どの経路で終戦するかという「方法」及びどの条件で受諾するかという「条件」に分けて検討しています。
本記事では,海上封鎖,通常爆撃及び軍事的劣勢が敗戦を構造的にし,広島への原爆投下が戦争継続論を弱め,ソ連参戦が対ソ仲介と二正面戦争回避の可能性を失わせ,長崎への原爆投下が進行中の危機を増幅したと整理します。しかし,これらの外的圧力だけで受諾が自動的に決まったのではなく,8月10日及び14日の二度にわたる天皇の判断を経て最終受諾に至りました。米国が原爆を使用した目的,日本の終戦決定に与えた効果及び原爆使用の道徳的評価は,それぞれ別の問題です。反実仮想及び研究上の対立の詳細は,ポツダム宣言を早く受け入れていたら,又は受け入れていなかったらどうなったかで扱っています。
第5 ポツダム宣言受諾から降伏文書調印までの陸海軍内部の経緯
1 8月14日の大本営の指示内容
(1) 御前会議以前に出されたものと推定される,8月14日付の大陸命(大本営による陸軍部隊への最高命令です。)第1380号には,対ソ戦への大本営の対処方針,日本本土周辺の外地各軍の任務分担が示されていたものの,終戦や停戦を暗示する文言はありませんでした。
(2) 午後6時,阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎参謀総長の連名で,陸機密電第六八号「帝国ノ戦争終結二関スル件」が発電され,「御聖断二従ヒ政府及大本営ハ逐次具体的処理ヲ進メラルベキモ停戦二関スル大命ノ発セラルル迄ハ依然従来ノ任務ヲ続行スベキモノトス」などと記載されていました(「日本の敗戦と大本営命令」(リンク先のPDF)8頁及び9頁)。
(3) 「南京1945年 8~9月― 支那派遣軍から総連絡班へ ― 」には以下の記載があります(リンク先のPDF1頁)。
「終戦」当時、日本は陸軍だけで総計547万人の兵力を各地に配しており、ここでとりあげる支那派遣軍のみでも105万6000人に上っていた。これは、長城線以南の中国本土において、ほぼ完全な武器装備ともに、後述するように、敗れたという意識を持たずに存在していた将兵の総数であった。
(4) 「日本の敗戦と大本営命令」には以下の記載があります(リンク先のPDF8頁)。
停戦・降伏近しと思われる弱気な命令を大本営が出せば、出先軍司令部・部隊の中での賛否論争に時間を与え、継戦を主張する一部の強硬部隊が大本営の統制に服さなく恐れがあったからである。停戦は、天皇・大本営の統制力を維持した上で、予告なしに有無を言わさぬ方法でなされなければならなかった。
(5) 連合国側でも,同時期に対応する準備が進められていました。マッカーサー総司令部は,日本政府・大本営が突然崩壊又は降伏する事態に備え,昭和20年7月16日付で作成した占領計画「ブラックリスト作戦」を,同月20日にグアムでの会議で提示していました。同作戦は,日本本土の正規兵力約170万人超及び民間防衛要員約320万人超(朝鮮ではそれぞれ約27万人,約3万5千人)の武装解除を任務の中心に掲げていました。トルーマン大統領が日本の無条件降伏を発表した8月15日,マニラの連合国軍最高司令官総司令部からは,オリンピック作戦(本土上陸作戦)の中止とブラックリスト作戦の初期段階実施を命じる指令,及び天皇に対し戦闘行為の即時停止と東京・マニラ間の無線交信開設を求める指令の二つが,同時に発せられました。もっとも,後者の実現には遅延が生じ,信頼できる通信路の確立には数日を要しました(米国陸軍軍史センター発行,Reports of General MacArthur, MacArthur in Japan: The Occupation: Military Phase, Volume I Supplement,第1章による)。
2 大本営による停戦命令
(1) 8月15日付の大陸命第1381号は,「各軍ハ別ニ命令スル迄各々現任務ヲ続行スヘシ但シ積極進攻作戦ヲ中止スヘシ」というものでしたし,同日付の大海令第47号は「何分ノ令アル迄対米英蘇支積極進攻作戦ハ之ヲ見合ハスベシ」というものでした。
(2)ア 8月16日付の大陸命第1382号及び大海令第48号は,自衛のための戦闘行為を除き,即時戦闘行動の停止を命じるものでした。この日付及び命令の骨格は,国立公文書館アジア歴史資料センターの「公文書に見る終戦-復員・引揚の記録- 年表」でも確認できます。
イ 札幌に司令部を置き,北海道,南樺太及び千島列島を作戦地域としていた第5方面軍は,8月16日,樺太の第88師団に対し,自衛戦闘の実施と南樺太死守を命じました。
(3) 8月17日付の大海令第49号及び8月18日付の大陸命第1385号は,大本営が別に指定する時期をもって全面的な停戦に移行することを予告するものでした。
(4)ア 8月19日付の大陸命第1386号は,第一総軍,第二総軍及び航空総軍(作戦担当地域は北海道を除く日本本土)につき8月22日午前0時以降,一切の武力行使を停止するというものでした。
イ 千島列島最北端の占守島には8月18日にソ連軍が上陸し,8月21日朝に停戦が合意されました(内閣府北方対策本部HPの「歴史」及び防衛研究所の「第13章 鈴木貫太郎内閣と終戦」参照)。
(5)ア 8月22日付の大陸命第1388号は,北海道及び外地の陸軍につき,8月25日午前0時以降,支那派遣軍における局地的自衛の措置を除き,一切の武力行使を停止するというものでした。
イ 8月22日付の大海令第54号は,外地部隊の艦隊司令長官に対し,速やかな全面的停戦を指示するものでした。
ウ 樺太の戦いについては,8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し,同月25日の大泊占領をもって終わりました。
エ 支那派遣軍の場合,中国国民党の政府軍及び中国共産党軍が相克状態にあり,それぞれが日本軍の軍事物資を接収に来たり,抗争を繰り返したりしているという事情がありました(「南京1945年 8~9月― 支那派遣軍から総連絡班へ ― 」(リンク先のPDF10頁)参照)。
オ ソ連軍は8月28日に択捉島へ上陸し,9月1日から5日までの間に国後島,色丹島及び歯舞群島の全てを占領しました(内閣府北方対策本部HPの「歴史」参照)。
(6) 8月22日付の大陸指第2552号は外地の陸軍各軍司令官に対して現地停戦交渉の相手を特定し,同日付の大海令第53号は,日本本土とその近海を作戦区域とする各部隊の自主的な武装解除を命じるものでした。
(7) ポツダム宣言13項は,「吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス」と定めていました。
これを受け,日本側の命令は段階的に発せられました。8月15日の大陸命第1381号及び大海令第47号は積極進攻作戦の中止を命じ,8月16日の大陸命第1382号及び大海令第48号は即時の戦闘停止を命じました。その後,9月2日の降伏文書調印及び一般命令第一号によって,正式な降伏受理,武装解除その他の実施手続が具体化されました。したがって,「9月2日まで降伏又は停戦に関する命令が出されなかった」という意味ではありません。
(8) ドイツの場合,4月30日にヒトラーが自殺し,5月2日にベルリンの戦いが終了し,5月8日午後11時1分(中央ヨーロッパ時間)をもってドイツ軍の軍事行動を停止する内容の降伏文書が効力を生じました。5月23日にはデーニッツ及びその政府の閣僚らが英国軍に逮捕され,6月5日のベルリン宣言により,米英仏ソの4か国がドイツに関する最高権力を引き受けました(ドイツ連邦公文書館HPの「Die Geschäftsführende Reichsregierung Dönitz」及び米国立公文書館HPの「Surrender of Germany (1945)」参照)。
(9) 連合国側の記録によれば,8月16日午後に発せられた停戦命令は,本土では48時間以内,ニューギニア及びフィリピン方面では12日以内に効力を生じさせるという段階的なものでした。命令の徹底に不安があったため,皇族3名がそれぞれ前線の司令官へ直接伝達するために派遣されました。もっとも,全ての部隊が直ちに従ったわけではなく,8月18日には,横須賀海軍航空隊所属の戦闘機14機が,偵察飛行中の米軍機B-32,2機を攻撃し,米軍搭乗員1名が死亡する事件が発生しました。8月19日,日本側の降伏交渉使節団は,伊江島を経由してマニラの連合国軍最高司令官総司令部へ赴き,降伏実施条件について協議しました(米国立第二次世界大戦博物館HPの「V-J Day: The Surrender of Japan」による)。
連合国はカール・デーニッツ大統領らナチス政権の閣僚を逮捕。さらにドイツ国の敗北と中央政府の消滅により、ドイツの主権はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の各国政府が掌握したことを表明する「ベルリン宣言」を6月5日付で発表した。#芙蓉録 pic.twitter.com/iECpA6VDR4
— 残花録 (@Fuyo1945) July 22, 2021
3 降伏文書及び一般命令第一号
(1) 9月2日午前9時4分,東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において,重光葵外務大臣及び梅津美治郎参謀総長が日本側全権として降伏文書に署名し,続いて連合国側代表が署名しました(米国立公文書館HPの「Surrender of Japan (1945)」参照)。
詳しい会場選定の経緯,日本側署名者の資格及び「署名ミス」伝承の検証は,別記事「降伏文書調印式―ミズーリ号での会場選定,署名者及び「署名ミス」の真偽」で扱っています。
(2) 降伏文書には「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」と記載されました。
(3)ア 一般命令第一号は連合国側で起草され,連合国最高司令官の指令に基づき,日本国政府及び大本営が各地の指揮官に発出したものです。日本の大本営が独自に降伏先を決定したものではありません。同命令は,各地域の日本軍の降伏先司令官を次のとおり定めました。
① 日本本土、沖縄、北緯38度線以南の朝鮮、フィリピン:アメリカ合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官
② 日本国委任統治諸島、小笠原その他太平洋の諸島:アメリカ合衆国太平洋艦隊最高司令官
③ 満州、北緯38度線以北の朝鮮、千島列島:ソビエト連邦極東軍最高司令官
④ 中国、台湾、北緯16度以北のフランス領インドシナ:蔣介石
⑤ ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島:オーストラリア陸軍最高司令官
⑥ 上記以外の地域:東南アジア軍司令部最高司令官
イ 支那派遣軍の降伏先は蒋介石が率いる中国国民政府だけであって,中国共産党は除外されていました。
(4) ソ連軍は,8月28日に択捉島を占領し,9月1日から同月5日までの間に国後島,色丹島及び歯舞群島のすべてを占領しました(内閣府北方対策本部HPの「歴史」参照)。
(5) 最高裁大法廷昭和35年4月18日決定(昭和29年(ク)第223号・民集14巻6号905頁)(昭和24年から昭和25年に実施されたレッドパージに関する裁判例です。)は,以下の判示をしています。
平和条約発効前においては、わが国の国家機関及び国民は、連合国最高司令官の発する一切の命令指示に誠実且つ迅速に服従する義務を有し(昭和二〇年九月二日降伏文書五項、同日連合国最高司令官指令一号一二項)、わが国の法令は右指示に牴触する限りにおいてその適用を排除されるものであることは、当法廷の判例とするところである(昭和二六年(ク)一一四号、同二七年四月二日大法廷決定、民集六巻四号三八七頁参照)。
(6) 降伏文書調印式は当初8月31日に予定されていましたが,複数の台風の接近により,マッカーサー最高司令官の判断で9月2日に延期されました。式典に先立つ8月27日から28日にかけて,連合国軍機は捕虜収容所の位置を確認する偵察飛行及び食料・衣料・医薬品の投下(Operation Swift Mercy,数週間で延べ1,000機以上出撃,投下量4,500トン)を実施し,その後14日間で19,000人以上の連合国軍捕虜が解放されました。同じ8月28日には,マッカーサー総司令部及び第11空挺師団から成る前進部隊150名が厚木飛行場に着陸し,ハルゼー提督の第三艦隊が東京湾に入りました。8月29日にはミズーリが東京湾に到着し,翌30日には陸海の部隊が上陸し,マッカーサーは横浜に総司令部を設置しました(米国立第二次世界大戦博物館HPの「V-J Day: The Surrender of Japan」による)。
(7) 調印式当日,東京湾には連合国艦船207隻が展開し,ミズーリは,1853年にペリー提督の艦隊が投錨したのと同じ地点に錨を下ろしました。式典では,ペリー提督の旗艦に掲げられていた星条旗(星の数31)が掲げられました。マッカーサーは午前8時40分に駆逐艦で到着し,日本側代表団は午前8時56分に到着,式典は午前9時2分に開始され,午前9時25分に終了しました。
なお,署名がなされた正確な時刻について,米国立公文書館HPは午前9時4分としていますが,米海軍歴史遺産司令部が公開する1946年2月付の太平洋艦隊司令長官報告書は午前9時8分としており,出典によって幾分異なります(米国海軍歴史遺産司令部HPの「Tokyo Bay: The Formal Surrender of the Empire of Japan」及び米国立第二次世界大戦博物館HPの前掲「V-J Day: The Surrender of Japan」による)。
(8) 降伏文書は,調印後の9月6日,バーナード・ティーレン大佐によってワシントンDCへ運ばれ,翌7日にホワイトハウスでの式典でトルーマン大統領に提示されました。同文書が米国立公文書館に正式に受け入れられたのは,同年10月1日のことです(米国立公文書館HPの「Surrender of Japan (1945)」による)。
1945年9月2日、東京湾に錨を下ろした戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書調印式が行われ、第二次世界大戦は終結した。この後、南京やシンガポール、サイゴンなどで現地軍による正式な降伏と武装解除が行われていく。 #芙蓉録 pic.twitter.com/pbB1m15Ta2
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) September 2, 2021
ソ連の北海道侵攻を阻止
~陸軍中将・樋口季一郎の決断
「神田蘭の日本史列伝」オンライン講演会@ran_kanda昭和20年8月18日
千島列島最北の占守島にソ連軍が襲来
狙いは、樺太と千島列島の全土、そして北海道神田蘭の講談と久野潤先生の解説でお届け
詳しくはhttps://t.co/dPn376Wyjm pic.twitter.com/tyA2w6SBNJ
— 産経Podcast(聴く産経新聞) (@Sankei_Podcast) February 21, 2023
第6 関連記事
ポツダム宣言受諾を誰が決めたか並びに閣議,最高戦争指導会議及び御前会議の役割は,ポツダム宣言受諾は誰が決めたのか――閣議・最高戦争指導会議・御前会議と二度の聖断を参照してください。宣言の起草経緯は,ポツダム宣言の起草過程――天皇条項はなぜ削除されたかを,ポツダム宣言と警告ビラの関係は,ポツダム宣言は原爆投下を予告していたのか――回答期限,投下命令と警告ビラを,それぞれ参照してください。
受諾決定後に生じた宮城事件,玉音盤奪取未遂及び厚木航空隊事件については,ポツダム宣言受諾に軍はどう抵抗したか|宮城事件・玉音盤奪取未遂・厚木航空隊事件と鎮圧までを参照してください。
受諾後の河辺使節団,マニラ会談,進駐準備並びに厚木・横須賀への連合軍進駐については,ポツダム宣言受諾後の降伏準備|河辺使節団・マニラ会談から連合軍進駐までを参照してください。
玉音放送を実際に聞いた米軍人・日系人等の反応と,放送前に広まった降伏ニュースへの反応の違いは,昭和天皇の玉音放送を聞いた連合国関係者の反応を参照してください。