この記事では,1945年7月26日のポツダム宣言発表から,同年8月10日の国体護持条件付き受諾申入れ,8月11日のバーンズ回答,8月14日の最終受諾通告,8月15日の玉音放送を経て,9月2日に降伏文書が調印されるまでを,公文書その他の確認可能な記録に基づき時系列で整理します。第6及び第7は,この経緯を理解するための法制史上の補論です。
目次
第1 7月26日のポツダム宣言の発表及びその後の放送
1 ポツダム会談
2 7月26日のポツダム宣言の発表
3 ポツダム宣言の放送
4 日本軍に関するポツダム宣言の条項
第2 日本側の当初の反応からソ連対日参戦及び長崎原爆投下まで
1 7月27日のポツダム宣言の公表
2 7月28日の黙殺発言
3 8月6日の広島市への原子爆弾投下
4 8月8日のソ連の対日宣戦布告
5 8月9日のソ連の対日参戦
6 8月9日の長崎市への原子爆弾投下
第3 8月10日の国体護持条件付き受諾申入れ及びバーンズ回答
1 8月10日の国体護持条件付き受諾申入れ
2 8月11日のバーンズ回答
第4 バーンズ回答後,玉音放送までの経緯
1 8月14日の最終受諾通告
2 8月15日の玉音放送
第5 ポツダム宣言受諾から降伏文書調印までの陸海軍内部の経緯
1 8月14日の大本営の指示内容
2 大本営による停戦命令
3 降伏文書及び一般命令第一号
第6 補論1―1928年8月署名の不戦条約の「人民ノ名ニ於テ」問題
1 不戦条約の本文
2 帝国政府宣言書
3 日本政府が不戦条約を批准するまでの経緯
第7 補論2―明治憲法に基づく勅令等とヒトラーの総統命令等の比較
1 明治憲法に基づく勅令等の位置付け
2 ヒトラーの総統命令等の位置付け
第8 関連資料,関連記事及び史料利用上の留意点
第1 7月26日のポツダム宣言の発表及びその後の放送
1 ポツダム会談
(1) 昭和20年7月17日から8月2日にかけて,ソ連の占領地域となったドイツ・ポツダムに米英ソの3カ国の首脳が集まり,ドイツの占領管理,ヨーロッパの戦後処理及び対日戦等を協議するため,ポツダム会談が実施されました。
(2) ツェツィーリエンホーフ宮殿は,1917年,当時の皇太子であったヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設された宮殿であり,1990年,宮殿の建物及び庭園は「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の1つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
(3) ポツダム会談では,米英ソ中仏の外相で構成する外相理事会を設置することが合意されました。ただし,外相理事会が同会談と同時にツェツィーリエンホーフ宮殿で開かれていたわけではありません。第1回会期は,同年9月11日から10月2日までロンドンで開かれました。
2 7月26日のポツダム宣言の発表
(1) 7月26日午後9時20分(ベルリン時間)にポツダム宣言が発表されました。
(2) 蒋介石主席はポツダム会談に参加していませんでしたが,宣言案は電報で送られ,その同意が得られました。チャーチル首相も宣言の発表前に同意していました。宣言原本にはトルーマン大統領が3人分の名を書き入れていますが,これはトルーマン大統領が他国首脳に代わって法的な同意をしたという意味ではありません。なお,英国総選挙は7月5日に投票が行われ,開票結果は7月26日に公表されました。労働党が勝利し,クレメント・アトリーは同日首相に就任しました(英国下院図書館の「General Election Dates 1832-2005」及び英国政府HPの「History of Clement Attlee」参照)。そのため,ポツダム会談は7月25日まで行われた後,26日及び27日は中断し,28日の再開後はアトリー首相が出席しました。
1945年7月26日20:00(BST 7月26日12:00) 英国で7月5日に投票が行われた下院議会総選挙の開票が行われた。26日正午までにクレメント・アトリーが率いる労働党の勝利が確実となり、与党・保守党の敗北とウィンストン・チャーチルの首相退陣が決まった #芙蓉録 pic.twitter.com/4TQFCUk2XC
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) July 26, 2021
3 ポツダム宣言の放送
(1) 7月27日午前5時(東京時間),戦時情報局(OWI)の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まり,重要な部分は午前5時5分から日本語で放送されました。
(2) 同日午前7時,日本語の全文の放送がサンフランシスコ放送で開始されました。これらの送信時刻及びその後に反復放送されたことは,米国務省外交史料集の「The White House Information Officer (Ayers) to the President’s Secretary (Ross)」で確認できます。
(3) 日本側では外務省,同盟通信社,陸軍,海軍の各受信施設が第一報を受信しました。
4 日本軍に関するポツダム宣言の条項
・ 日本軍に関するポツダム宣言の条項は以下のとおりでした。
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス
第2 日本側の当初の反応からソ連対日参戦及び長崎原爆投下まで
1 7月27日のポツダム宣言の公表
(1) 7月27日,日本政府はポツダム宣言の存在を論評なしに公表しました。
(2) 7月28日の新聞報道では,読売新聞で「笑止、対日降伏条件」,毎日新聞で「笑止! 米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などの見出しが用いられました。ただし,新聞社の論調と政府の意思決定との因果関係は別問題ですから,当時の紙面を引用する際には,新聞名,朝刊・夕刊,版及び掲載面を明示する必要があります。
2 7月28日の黙殺発言
(1) 7月28日,鈴木貫太郎首相は,記者会見において,「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず『黙殺』し断固戦争完遂に邁進する」と述べ,7月29日の朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道されました(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日」参照)。
(2) 「黙殺」については,同盟通信社が「ignore」と英訳し,ロイター及びAP通信では「reject(拒否)」と報じられました。そのため,日本政府がポツダム宣言を拒否したとの理解を連合国側に強める一因になったと考えられます。
(3) もっとも,原爆使用の準備・命令及びソ連の対日参戦合意・軍事準備は,この記者会見以前から進んでいました。「黙殺」という一語又はその翻訳だけが原爆投下若しくはソ連参戦を決定したとみることはできません。
3 8月6日の広島市への原子爆弾投下
(1) B-29爆撃機エノラ・ゲイは,8月6日午前2時45分(テニアン現地時間。日本時間では午前1時45分)にテニアン島を離陸しました。
(2) 同機は,日本時間午前8時15分17秒に原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下し,原子爆弾は約45秒後に爆発しました。投下後,任務成功を知らせる暗号通信が送信されました(米海軍歴史遺産司令部HPの「H-052-1: The U.S. Navy and the Atomic Bomb」参照)。
(3) エノラ・ゲイは任務後にテニアン島へ帰投し,機長ポール・ティベッツ大佐には殊勲十字章が授与されました(米国立公文書館HPの「509th Composite Group」参照)。
1945年8月6日08:20
【発:V-82「エノラ・ゲイ」 宛:第509混成群団司令部】
雲量1/10の雲を通して、1機が広島を目視爆撃した。結果良好。
投下時刻は052315Z。対空砲火も敵機の抵抗もなし。
以上
#8月6日 #芙蓉録 pic.twitter.com/0ANP9DpkQJ— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 5, 2021
1945年8月6日13:55 V-82「エノラ・ゲイ」以下センターボード作戦参加機が、テニアン北飛行場に着陸。カール・スパーツ少将より機長ティベッツ大佐に対し殊勲十字章が授与される #8月6日 #芙蓉録 pic.twitter.com/xpOwebODyI
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 6, 2021
4 8月8日のソ連の対日宣戦布告
(1)ア 日本政府は,昭和20年6月18日の最高戦争指導会議構成員会議において和平仲介を対ソ交渉に加えることを決定し,同月22日の御前会議において改めてこのことを確認し,7月10日の最高戦争指導会議構成員会議において近衛文麿 元首相を特使として派遣することを決定しました。
イ ソ連政府からは目的が不明なため特使派遣の受入れの可否を即答できないと回答されたものの,ソ連がポツダム宣言に加わっていないこともあり,日本政府としては,ポツダム宣言発表後もソ連による仲介の可能性に希望を残していました。
(2)ア 昭和16年4月13日にモスクワで調印され,同月25日に発効した日ソ中立条約は,昭和20年4月5日に不延長を通告されたものの,昭和21年4月25日までは有効でした(同条約3条)。
米国務省の外交史料集には,昭和20年7月31日付で,トルーマン大統領からスターリンに宛てることを想定した以下の書簡草案が収録されています。これはソ連の対日参戦が国際法に違反しないことを確定的に説明した正式書簡ではありません(OFFICE OF THE HISTORIANの「[Draft of Letter From President Truman to Generalissimo Stalin]」からの貼り付けです。)。
Dear Generalissimo Stalin: Paragraph 5 of the Declaration signed at Moscow, October 30, 1943 by the United States, the Soviet Union, the United Kingdom and China, provides:
“5. That for the purpose of maintaining international peace and security pending the reestablishment of law and order and the inauguration of a system of general security, they will consult with one another and as occasion requires with other members of the United Nations with a view to joint action on behalf of the community of nations.”
Article 106 of the proposed Charter of the United Nations provides:
“Pending the coming into force of such special agreements referred to in Article 43 as in the opinion of the Security Council enable it to [Page 1334]begin the exercise of its responsibilities under Article 42, the parties to the Four-Nation Declaration, signed at Moscow, October 30, 1943, and France, shall, in accordance with the provisions of paragraph 5 of that Declaration, consult with one another and as occasion requires with other Members of the United Nations with a view to such joint action on behalf of the Organization as may be necessary for the purpose of maintaining international peace and security.”
Article 103 of the Charter provides:
“In the event of a conflict between the obligations of the Members of the United Nations under the present Charter and their obligations under any other international agreement, their obligations under the present Charter shall prevail.”
Though the Charter has not been formally ratified, at San Francisco it was agreed to by the Representatives of the Union of Soviet Socialist Republics and the Soviet government will be one of the permanent members of the Security Council.
It seems to me that under the terms of the Moscow Declaration and the provisions of the Charter, above referred to, it would be proper for the Soviet Union to indicate its willingness to consult and cooperate with other great powers now at war with Japan with a view to joint action on behalf of the community of nations to maintain peace and security.
Sincerely yours,
* AIによる日本語訳は以下のとおりです。
スターリン大元帥閣下:
1943年10月30日にモスクワにおいて、合衆国、ソビエト連邦、連合王国、および中国により署名された宣言の第5項は、次のように規定しています。
「5. 法および秩序が再確立され、かつ、一般的安全保障の制度が開始されるまでの間、国際の平和および安全を維持する目的をもって、国際社会に代わって共同の行動をとるため、相互に、かつ、必要に応じて他の連合国(United Nations)の諸国と協議すること。」
提案されている国際連合憲章の第106条は、次のように規定しています。
「第43条に掲げる特別協定で安全保障理事会の意見において同理事会が第42条に基づく責任の遂行を開始することができると認めるものが効力を生ずるまでの間 [1334ページ]、1943年10月30日にモスクワで署名された四国宣言の当事国およびフランス国は、同宣言第5項の規定に従い、国際の平和および安全を維持するために必要と認められる共同の行動を機構に代わってとるため、相互に、かつ、必要に応じて他の国連加盟国と協議しなければならない。」
同憲章第103条は、次のように規定しています。
「国際連合加盟国のこの憲章に基づく義務と他のいかなる国際協定に基づく義務とが抵触するときは、この憲章に基づく義務が優先する。」
憲章はまだ正式に批准されてはいないものの、サンフランシスコにおいてソビエト社会主義共和国連邦の代表によってこれに同意がなされており、またソビエト政府は安全保障理事会の常任理事国の一つとなる予定です。
上記に挙げたモスクワ宣言の条項および憲章の規定に基づけば、平和と安全を維持するため、国際社会に代わって共同行動をとることを目的として、ソビエト連邦が、現在日本と交戦中である他の大国と協議し協力する意思を示すことは妥当であると私は考えます。
敬具
イ 上記文書は無署名の書簡草案です。米国務省の注記によれば,トルーマン大統領の文書には,この覚書に関するその後の交換記録がありません。他方,レーヒの回想には,トルーマン大統領が7月31日の全体会議でスターリンに手交したとの記載があります。
そのため,手交の有無は史料によって記述が分かれるものとして扱う必要があります。
ウ(ア) 1943年10月30日に米英ソ中によって署名されたモスクワ宣言第5項は,法と秩序の再構築及び集団的安全保障体制の発足までの間,国際の平和及び安全の維持に必要な共同行動をとるため,4国が相互に及び必要に応じて他の連合国と協議する旨を定めたものでした。
(イ) 国際連合憲章は,1945年6月26日にサンフランシスコで署名され,同年10月24日に発効しました。したがって,ソ連が対日攻撃を開始した8月9日の時点では発効していませんでした。
エ 国際連合憲章103条は,国際連合加盟国の憲章上の義務と他の国際協定上の義務が抵触する場合に前者が優先する旨を定めています。しかし,8月9日には憲章自体が未発効であり,上記書簡草案も,日ソ中立条約上の義務が消滅したと法的に結論付けたものではありません。そのため,ソ連の対日参戦が日ソ中立条約に違反しなかったことの根拠として,憲章103条又は上記草案を用いることはできません。
第103条
国際連合加盟国のこの憲章に基く義務と他のいずれかの国際協定に基く義務とが抵触するときは、この憲章に基く義務が優先する。
第106条
第43条に掲げる特別協定でそれによって安全保障理事会が第42条に基く責任の遂行を開始することができると認めるものが効力を生ずるまでの間、1943年10月30日にモスコーで署名された4国宣言の当事国及びフランスは、この宣言の第5項の規定に従って、国際の平和及び安全の維持のために必要な共同行動をこの機構に代ってとるために相互に及び必要に応じて他の国際連合加盟国と協議しなければならない。
(3) 8月8日午後11時,特使派遣に対する回答を得られると期待して面会に赴いた佐藤尚武駐ソ大使に対し,ソ連のモロトフ外務大臣が交付したソ連の宣戦布告文は以下のとおりであって(太平洋戦争とは何だったのかHPの「ソ連-対日宣戦布告文」参照),1945年2月11日署名のヤルタ協定には言及されていませんでした。
ヒットラードイツの敗北ならびに降伏の後、日本は依然として戦争の継続を主張する唯一の大国となった。日本武装兵力の無条件降伏を要求した今年7月26日の三国すなわちアメリカ合衆国、英国ならびに支那の要求は、日本の拒否するところとなった。
従って、極東戦争に対する調停に関するソビエト連邦に宛てられた日本政府の提案は、一切の基礎を失った。調停に関する日本の降伏拒否を考慮し、連合国はソビエト政府に対して日本の侵略に対する戦争に参加し、戦争終結の時期を短縮し、犠牲の数を少なくし、全面的平和をできる限り速やかに克復することを促進するよう提案した。ソビエト政府は連合国に対する自国の義務に従い、連合国の提案を受諾し、本年7月26日の連合各国の宣言に参加した。
ソビエト政府においては自国の政府の右進路が平和を促進し、各国民を今後新たな犠牲と苦難とから救い、日本国民をしてドイツが無条件降伏を拒否した後被った危険と破壊を避けしめ得る唯一の方途と思惟する。
以上に鑑み、ソビエト政府は明日すなわち8月9日よりソビエト連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する。
(4) 駐ソ大使が送ったソ連の対日宣戦布告文に関する公電はソ連当局によって電報局で封鎖されたため,日本の外務省には届きませんでしたから,午前4時頃のソ連の国営タス通信(1992年以降はロシアのイタルタス通信)の報道等により,日本政府はソ連の対日参戦を知りました(産経新聞HPの「対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書」参照)。
1945年8月9日、ナチス・ドイツの東側の同盟国であった日本との戦争で鍵となる戦いとなった、赤軍による満州戦略攻撃作戦が開始された。その一日前の1945年8月8日、米国と英国という、ヒトラーに抗する二つの連合国に対する義務をはたすべく、ソ連は在モスクワ日本大使に、宣戦布告の文書を手交しました pic.twitter.com/cEhgsPqVx7
— 駐日ロシア連邦大使館 (@RusEmbassyJ) August 9, 2020
なお,この投稿はロシア政府側の歴史認識を示す当事者発信であり,日ソ中立条約との関係を含む法的又は歴史的評価の根拠として掲げるものではありません。
5 8月9日のソ連の対日参戦
(1) ソ連は8月8日に日本に宣戦を布告し,翌9日未明,極東ソ連軍が満州への侵攻作戦を開始しました(国立国会図書館の「詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日」及び米海軍歴史遺産司令部HPの「Origins of the Korean War」参照)。
1945年8月9日00:00 極東ソ連軍が対日攻勢作戦を発動。西部よりザバイカル方面軍、東部より第1極東方面軍、東北部より第2極東方面軍がそれぞれ満洲国境を突破し、新京へ向けて進撃を開始する #対ソ防衛戦 #芙蓉録 pic.twitter.com/S1E2dWogdX
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 8, 2021
6 8月9日の長崎市への原子爆弾投下
(1) 8月9日午前11時2分,B-29爆撃機ボックスカーが投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」が長崎市上空で炸裂しました(長崎市「ながさきの平和」HPの「11時2分」参照)。
(2) 同日は,未明にソ連軍の対日攻勢作戦が始まり,午前から日本側の最高戦争指導会議構成員会議及び閣議が開かれていました。長崎への原爆投下は,このような複数の重大事態が重なった時系列の中に位置付ける必要があります。
第3 8月10日の国体護持条件付き受諾申入れ及びバーンズ回答
1 8月10日の国体護持条件付き受諾申入れ
(1)ア 8月9日未明のソ連対日参戦を受けて開催された最高戦争指導会議構成員会議及び閣議では,ポツダム宣言受諾の可否について結論が出ませんでした。
1945年8月9日11:36(ChST 8月9日12:36) 第313航空団司令部がワシントンに長崎市への原子爆弾投下を報告する #8月9日 #芙蓉録 pic.twitter.com/bjfrMPkJSJ
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 9, 2021
イ 翌日午前2時20分頃終了の御前会議(1回目の聖断)及び同日午前4時頃終了の閣議に基づき,日本は,連合国に対し,以下のとおり通告しました(「ポツダム受諾に関する8月10日付日本国政府申入」参照)。
帝国政府ニ於テハ常ニ世界平和ノ促進ヲ冀求シ給ヒ今次戦争ノ継続ニ依リ齎ラサルヘキ惨禍ヨリ人類ヲ免カレシメンカ為速ナル戦闘ノ終結ヲ祈念シ給フ
天皇陛下ノ大御心ニ従ヒ数週間前当時中立関係ニ在リタル「ソヴィエト」聯邦政府ニ対シ敵国トノ平和恢復ノ為斡旋ヲ依頼セルカ不幸ニシテ右帝国政府ノ平和招来ニ対スル努力ハ結実ヲ見ス茲ニ於テ帝国政府ハ
天皇陛下ノ一般的平和克服ニ対スル御祈念ニ基キ戦争ノ惨禍ヲ出来得ル限リ速ニ終止セシメンコトヲ欲シ左ノ通リ決定セリ
帝国政府ハ一九四五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ米、英、支三国政府首脳者ニ依リ発表セラレ爾後「ソ」聯政府ノ参加ヲ見タル共同宣言ニ挙ケラレタル条件ヲ右宣言ハ 天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス
帝国政府ハ右了解ニシテ誤リナキヲ信シ本件ニ関スル明確ナル意向カ速ニ表示セラレンコトヲ切望ス
(2) 外務省が用意した受諾電文案では,不戦条約批准に際して発表した昭和4年6月27日付の帝国政府宣言書(不戦条約1条の「人民の名において」という文言は日本国に限り適用はないという了解を宣言したもの)のように,国体護持についての了解を一方的に言い放つ(天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス)という内容でした。
しかし,結果として,1回目の受諾通告は,国体護持についての明確な保証を連合国側に求める内容となりました(「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」3頁参照)。
1945年8月10日20:30(EDT 8月10日07:30) アメリカ合衆国の短波放送が同盟通信からモールス信号で送られた「三国宣言受諾ニ関スル件」を受信。AP通信によって全世界へ「日本、ポツダム宣言受諾」が配信される #芙蓉録 pic.twitter.com/jHgZ66JSSh
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) August 10, 2021
2 8月11日のバーンズ回答
(1)ア 8月11日,米国国務長官のジェームズ・フランシス・バーンズの名前で,連合国は以下のとおり回答しました(いわゆるバーンズ回答です。国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」及び米国務省外交史料集の「The Secretary of State to the Ambassador in the United Kingdom (Winant)」参照)。
① 降伏のときより、天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする。
② 天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し「ポツダム宣言」の諸条項を実施するために必要な降伏条項署名の権限を与え、かつ、これを保障することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸・海・空軍官憲、および、いずれかの地域にあるを問わず、右官憲の指揮の下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、また、降伏条項実施のため最高司令官の要求するであろう命令を発することを要請される。
③ 日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜、および、抑留者を連合国の船舶に速やかに乗船させ、安全なる地域に輸送すべきである。
④ 日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。
⑤ 連合国軍隊は、「ポツダム宣言」に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に駐留するものとする。
イ ①の原文は「the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.」です。
(2) 「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」3頁には以下の記載があります。
第1項では、「天皇の権力が最高司令官に従属するものであることを明確に述べることによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」であり、第4項は、天皇制の存続の可否に言及することなく、単に、天皇制問題を日本国民の意思に委ねるというポツダム宣言第12項(「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし」)を引用したものであり、「すでに約束した以上の約束は何ひとつなかった」
第4 バーンズ回答後,玉音放送までの経緯
1 8月14日の最終受諾通告
(1)ア バーンズ回答第1項の「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施するため適当と認める措置を執る連合国最高司令官(SCAP)の制限の下に置かれるものとする。」という記載に紛糾して8月12日の閣議で結論が出ませんでした。
イ バーンズ回答第1項に関しては,8月13日の最高戦争指導会議構成員会議及び閣議でも結論が出ませんでした。
ウ 8月14日正午終了の御前会議(2回目の聖断)によりポツダム宣言受諾が決定しました。
エ 8月14日午後の閣議を経て,同日付で発布されたポツダム宣言受諾の詔書(「大東亜戦争終結ノ詔書」ともいいますが,いわゆる「終戦の詔書」です。)に基づき,日本政府はポツダム宣言の最終的な受諾を通告しました。
オ 米国時間8月14日午後7時(日本時間8月15日午前8時),トルーマン大統領はホワイトハウスで記者会見を開き,日本政府の回答をポツダム宣言の完全な受諾と認めると発表しました。同時に,連合国軍には攻勢作戦の停止を命じたものの,対日戦勝記念日の宣言は正式な降伏文書の調印を待つと説明しました(トルーマン大統領図書館HPの「The President’s News Conference」参照)。
カ バーンズ回答第4項の「日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。」については,フランスへの依存が強かった国際連盟管理地域であったザール地方につき,1935年1月13日実施の住民投票(投票率98%,そのうちの90.73%がドイツ帰属を希望)に基づき,同年3月1日にドイツに復帰したという前例があったこともあって,決定的な問題とはなりませんでした(「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」8頁参照)。
キ 最終受諾通告は,8月14日午後8時10分(スイス時間。日本時間8月15日午前4時10分),在スイス日本公使からスイス政府へ書面で伝達され,その後,スイス政府を通じて米国政府へ送達されました。こうした伝達過程の最中を含む14日夜から15日朝にかけて,熊谷空襲(埼玉県熊谷市),伊勢崎空襲(群馬県伊勢崎市),小田原空襲(神奈川県小田原市)及び土崎空襲(秋田県秋田市土崎港)が実施されました。ただし,各空襲は既に進行していた航空作戦に基づくものであり,受諾通告の伝達時刻だけを空襲の直接の原因と断定することはできません。
(2) ポツダム宣言受諾通告(米英蘇支四国ニ対スル八月十四日附帝国政府通告)は以下のとおりです(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」参照)。
「ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル八月十日附帝国政府ノ申入並ニ八月十一日附「バーンズ」米国国務長官発米英蘇支四国政府ノ回答ニ関聯シ帝国政府ハ右四国政府ニ対シ左ノ通通報スルノ光栄ヲ有ス
一 天皇陛下ニ於カセラレテハ「ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル詔書ヲ発布セラレタリ
二 天皇陛下ニ於カセラレテハ其ノ政府及大本営ニ対シ「ポツダム」宣言ノ諸規定ヲ実施スル為必要トセラルヘキ条項ニ署名スルノ権限ヲ与ヘ且之ヲ保障セラルルノ用意アリ又 陛下ニ於カセラレテハ一切ノ日本国陸、海、空軍官憲及右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ対シ戦闘行為ヲ終止シ武器ヲ引渡シ前記条項実施ノ為聯合国最高司令官ノ要求スルコトアルヘキ命令ヲ発スルコトヲ命セラルルノ用意アリ
(3)ア 昭和20年8月15日午前4時42分発信の加瀬スイス公使の電文は以下のとおりです(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「米国務長官メッセージ」参照)。
第八八四号
十五日午前三時半外務次官ハ本使ニ対シ米国国務長官ハ在米瑞西公使ニ対シ十四日附帝国政府通告ハ「ポツダム」宣言並ニ十一日附四国回答ニ対スル完全ナル受諾ト認メ米国大統領ノ命ニ依リ別電第八八五号ノ「メッセージ」ヲ帝国政府ニ伝達方依頼セル旨ヲ伝ヘ直ニ帝国政府ニ電報方ヲ求メタリ(了)
イ 昭和20年8月15日午前4時30分発信の在瑞西加瀬公使の電文は以下のとおりです(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」の「停戦実施方に関する米国政府通告文」参照)。
貴方は左の措置をとられたし
一 日本国軍隊の軍事行動の速急なる停止を指令し連合国最高司令官に右停戦実施の日時を通報すること
二 日本国軍隊及び司令官(複数)の配置に関する情報を有し且連合国最高司令官及び其の同行する軍隊が正式降服受理の為連合国最高司令官の指示する地点に到著し得る様連合国最高司令官の指示する打合を為すべき充分の権限を与えられたる使者(複数)を直に連合国最高司令官の許に派遣すること
三 降伏の受理及びこれが実施の為ダグラス・マッカーサー」元帥が連合国最高司令官に任命せられたる処同元帥は正式降服の時、場所及び其の他詳細事項に関し日本国政府に通報すべし
(4) アメリカ政府は,日本政府の最終的な受諾を受け,トルーマン大統領の指示により,マッカーサー元帥を連合国最高司令官に任命し,日本軍の軍事行動を速やかに停止させるための措置を進めました。トルーマンはアメリカ合衆国大統領であり,連合国最高司令官に任命されたのはマッカーサーです。
1945年8月15日08:00(EDT 8月14日19:00)トルーマン米大統領はホワイトハウスで記者会見を行い、日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、太平洋戦争が終結したことを宣言する #8月15日 #芙蓉録 pic.twitter.com/jRNnnX2szM
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2 8月15日の玉音放送
(1)ア 8月14日付のポツダム宣言受諾の詔書(いわゆる「終戦の詔書」)は,同日午後11時25分頃から翌日午前1時頃にかけて録音作業等が行われ,8月15日正午にラジオ放送されました(いわゆる「玉音放送」です。)。国立公文書館HPでも,8月14日の閣議で詔書の文言が決定し,同日夜に録音,翌15日正午に放送された経過を確認できます(「昭和20年 終戦の詔書」参照)。
イ 8月14日深夜から翌日朝にかけて,一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件(いわゆる「宮城事件」です。)が発生しました。
(2)ア 終戦の詔書には,阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣の要求により「国体ヲ護持シ得」たと記載されました。「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」10頁には以下の記載があります。
少なくとも陸軍は一連の「降伏交渉」を経て国体護持が可能となったとは考えていなかったが、それを納得させ、武装解除と復員に導くためには、国民や政府ではなく天皇自身が国体を護持しえたという確信を有していることを詔書に示す必要があった。
イ 阿南惟幾陸軍大臣は8月15日午前5時半頃に自刃しました。
(3) 8月15日午前11時30分から午後1時30分にかけて,玉音放送拝聴による中断をはさみつつ,天皇臨席の下,枢密院本会議において,内閣総理大臣及び外務大臣からの報告が実施されました(国立公文書館アジア歴史資料センターHPの「「ポツダム」宣言受諾ニ関スル内閣総理大臣及外務大臣報告」参照)。
第5 ポツダム宣言受諾から降伏文書調印までの陸海軍内部の経緯
1 8月14日の大本営の指示内容
(1) 御前会議以前に出されたものと推定される,8月14日付の大陸命(大本営による陸軍部隊への最高命令です。)第1380号には,対ソ戦への大本営の対処方針,日本本土周辺の外地各軍の任務分担が示されていたものの,終戦や停戦を暗示する文言はありませんでした。
(2) 午後6時,阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎参謀総長の連名で,陸機密電第六八号「帝国ノ戦争終結二関スル件」が発電され,「御聖断二従ヒ政府及大本営ハ逐次具体的処理ヲ進メラルベキモ停戦二関スル大命ノ発セラルル迄ハ依然従来ノ任務ヲ続行スベキモノトス」などと記載されていました(「日本の敗戦と大本営命令」(リンク先のPDF)8頁及び9頁)。
(3) 「南京1945年 8~9月― 支那派遣軍から総連絡班へ ― 」には以下の記載があります(リンク先のPDF1頁)。
「終戦」当時、日本は陸軍だけで総計547万人の兵力を各地に配しており、ここでとりあげる支那派遣軍のみでも105万6000人に上っていた。これは、長城線以南の中国本土において、ほぼ完全な武器装備ともに、後述するように、敗れたという意識を持たずに存在していた将兵の総数であった。
(4) 「日本の敗戦と大本営命令」には以下の記載があります(リンク先のPDF8頁)。
停戦・降伏近しと思われる弱気な命令を大本営が出せば、出先軍司令部・部隊の中での賛否論争に時間を与え、継戦を主張する一部の強硬部隊が大本営の統制に服さなく恐れがあったからである。停戦は、天皇・大本営の統制力を維持した上で、予告なしに有無を言わさぬ方法でなされなければならなかった。
2 大本営による停戦命令
(1) 8月15日付の大陸命第1381号は,「各軍ハ別ニ命令スル迄各々現任務ヲ続行スヘシ但シ積極進攻作戦ヲ中止スヘシ」というものでしたし,同日付の大海令第47号は「何分ノ令アル迄対米英蘇支積極進攻作戦ハ之ヲ見合ハスベシ」というものでした。
(2)ア 8月16日付の大陸命第1382号及び大海令第48号は,自衛のための戦闘行為を除き,即時戦闘行動の停止を命じるものでした。この日付及び命令の骨格は,国立公文書館アジア歴史資料センターの「公文書に見る終戦-復員・引揚の記録- 年表」でも確認できます。
イ 札幌に司令部を置き,北海道,南樺太及び千島列島を作戦地域としていた第5方面軍は,8月16日,樺太の第88師団に対し,自衛戦闘の実施と南樺太死守を命じました。
(3) 8月17日付の大海令第49号及び8月18日付の大陸命第1385号は,大本営が別に指定する時期をもって全面的な停戦に移行することを予告するものでした。
(4)ア 8月19日付の大陸命第1386号は,第一総軍,第二総軍及び航空総軍(作戦担当地域は北海道を除く日本本土)につき8月22日午前0時以降,一切の武力行使を停止するというものでした。
イ 千島列島最北端の占守島には8月18日にソ連軍が上陸し,8月21日朝に停戦が合意されました(内閣府北方対策本部HPの「歴史」及び防衛研究所の「第13章 鈴木貫太郎内閣と終戦」参照)。
(5)ア 8月22日付の大陸命第1388号は,北海道及び外地の陸軍につき,8月25日午前0時以降,支那派遣軍における局地的自衛の措置を除き,一切の武力行使を停止するというものでした。
イ 8月22日付の大海令第54号は,外地部隊の艦隊司令長官に対し,速やかな全面的停戦を指示するものでした。
ウ 樺太の戦いについては,8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し,同月25日の大泊占領をもって終わりました。
エ 支那派遣軍の場合,中国国民党の政府軍及び中国共産党軍が相克状態にあり,それぞれが日本軍の軍事物資を接収に来たり,抗争を繰り返したりしているという事情がありました(「南京1945年 8~9月― 支那派遣軍から総連絡班へ ― 」(リンク先のPDF10頁)参照)。
オ ソ連軍は8月28日に択捉島へ上陸し,9月1日から5日までの間に国後島,色丹島及び歯舞群島の全てを占領しました(内閣府北方対策本部HPの「歴史」参照)。
(6) 8月22日付の大陸指第2552号は外地の陸軍各軍司令官に対して現地停戦交渉の相手を特定し,同日付の大海令第53号は,日本本土とその近海を作戦区域とする各部隊の自主的な武装解除を命じるものでした。
(7) ポツダム宣言13項は,「吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス」と定めていました。
これを受け,日本側の命令は段階的に発せられました。8月15日の大陸命第1381号及び大海令第47号は積極進攻作戦の中止を命じ,8月16日の大陸命第1382号及び大海令第48号は即時の戦闘停止を命じました。その後,9月2日の降伏文書調印及び一般命令第一号によって,正式な降伏受理,武装解除その他の実施手続が具体化されました。したがって,「9月2日まで降伏又は停戦に関する命令が出されなかった」という意味ではありません。
(8) ドイツの場合,4月30日にヒトラーが自殺し,5月2日にベルリンの戦いが終了し,5月8日午後11時1分(中央ヨーロッパ時間)をもってドイツ軍の軍事行動を停止する内容の降伏文書が効力を生じました。5月23日にはデーニッツ及びその政府の閣僚らが英国軍に逮捕され,6月5日のベルリン宣言により,米英仏ソの4か国がドイツに関する最高権力を引き受けました(ドイツ連邦公文書館HPの「Die Geschäftsführende Reichsregierung Dönitz」及び米国立公文書館HPの「Surrender of Germany (1945)」参照)。
3 降伏文書及び一般命令第一号
(1) 9月2日午前9時4分,東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において,重光葵外務大臣及び梅津美治郎参謀総長が日本側全権として降伏文書に署名し,続いて連合国側代表が署名しました(米国立公文書館HPの「Surrender of Japan (1945)」参照)。
(2) 降伏文書には「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」と記載されました。
1945年9月2日、東京湾に錨を下ろした戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書調印式が行われ、第二次世界大戦は終結した。この後、南京やシンガポール、サイゴンなどで現地軍による正式な降伏と武装解除が行われていく。 #芙蓉録 pic.twitter.com/pbB1m15Ta2
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) September 2, 2021
ソ連の北海道侵攻を阻止
~陸軍中将・樋口季一郎の決断
「神田蘭の日本史列伝」オンライン講演会@ran_kanda昭和20年8月18日
千島列島最北の占守島にソ連軍が襲来
狙いは、樺太と千島列島の全土、そして北海道神田蘭の講談と久野潤先生の解説でお届け
詳しくはhttps://t.co/dPn376Wyjm pic.twitter.com/tyA2w6SBNJ
— 産経Podcast(聴く産経新聞) (@Sankei_Podcast) February 21, 2023
(3)ア 一般命令第一号は連合国側で起草され,連合国最高司令官の指令に基づき,日本国政府及び大本営が各地の指揮官に発出したものです。日本の大本営が独自に降伏先を決定したものではありません。同命令は,各地域の日本軍の降伏先司令官を次のとおり定めました。
① 日本本土、沖縄、北緯38度線以南の朝鮮、フィリピン:アメリカ合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官
② 日本国委任統治諸島、小笠原その他太平洋の諸島:アメリカ合衆国太平洋艦隊最高司令官
③ 満州、北緯38度線以北の朝鮮、千島列島:ソビエト連邦極東軍最高司令官
④ 中国、台湾、北緯16度以北のフランス領インドシナ:蔣介石
⑤ ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島:オーストラリア陸軍最高司令官
⑥ 上記以外の地域:東南アジア軍司令部最高司令官
イ 支那派遣軍の降伏先は蒋介石が率いる中国国民政府だけであって,中国共産党は除外されていました。
(4) ソ連軍は,8月28日に択捉島を占領し,9月1日から同月5日までの間に国後島,色丹島及び歯舞群島のすべてを占領しました(内閣府北方対策本部HPの「歴史」参照)。
(5) 最高裁大法廷昭和35年4月18日決定(昭和29年(ク)第223号・民集14巻6号905頁)(昭和24年から昭和25年に実施されたレッドパージに関する裁判例です。)は,以下の判示をしています。
平和条約発効前においては、わが国の国家機関及び国民は、連合国最高司令官の発する一切の命令指示に誠実且つ迅速に服従する義務を有し(昭和二〇年九月二日降伏文書五項、同日連合国最高司令官指令一号一二項)、わが国の法令は右指示に牴触する限りにおいてその適用を排除されるものであることは、当法廷の判例とするところである(昭和二六年(ク)一一四号、同二七年四月二日大法廷決定、民集六巻四号三八七頁参照)。
連合国はカール・デーニッツ大統領らナチス政権の閣僚を逮捕。さらにドイツ国の敗北と中央政府の消滅により、ドイツの主権はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の各国政府が掌握したことを表明する「ベルリン宣言」を6月5日付で発表した。#芙蓉録 pic.twitter.com/iECpA6VDR4
— 残花録 (@Fuyo1945) July 22, 2021
第6 補論1―1928年8月署名の不戦条約の「人民ノ名ニ於テ」問題
1 不戦条約の本文
(1) 1928年8月27日署名の不戦条約は,ケロッグ・ブリアン条約ともいわれます(アメリカの国務長官フランク・ケロッグとフランスの外務大臣アリスティード・ブリアンの名前にちなんだ名称です。)ところ,その本文は以下のとおりでした。
第一條
締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條
締約國ハ相互間ニ起ルコトアルベキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス
第三條
本條約ハ前文ニ揭ゲラルル締約國ニ依リ其ノ各自ノ憲法上ノ要件ニ從ヒ批准セラルベク且各國ノ批准書ガ總テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約國間ニ實施セラルベシ
2 帝国政府宣言書
・ 昭和4年6月27日付の帝国政府宣言書は「帝國政府ハ千九百二十八年八月二十七日巴里ニ於テ署名セラレタル戰爭抛棄ニ關スル條約第一條中ノ「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」ナル字句ハ帝國憲法ノ條章ヨリ觀テ日本國ニ限リ適用ナキモノト了解スルコトヲ宣言ス」というものでした。
3 日本政府が不戦条約を批准するまでの経緯
(1) アメリカ政府提案の不戦条約案1条の「人民ノ名ニ於テ」という文言につき,日本政府は,アメリカ政府に対し,主権在民は帝国憲法上の解釈として容認し難いと伝えたものの,日本以外に反対した国がありませんでしたし,何らかの文言修正に一度でも応じると他にも修正要求が出て収拾困難になる可能性があったため,アメリカ政府は文言修正に応じませんでした。
その後,アメリカ政府は,日本政府に対し,「in the name of」は「on behalf of」と同義であり,「人民を代表して」と訳し得る旨を説明したアメリカ国務長官覚書(1928年7月6日交付)を交付しました。その後,1928年8月27日,不戦条約はパリで署名されました。
(2) 日本国内での批准に際し,「人民ノ名ニ於テ」という文言には主権在民の観念が示されているため,天皇主権を定める明治憲法に違反するという反対論が根強くあり,枢密院の審議でも紛糾しました。
その一方で,「人民ノ名ニ於テ」という文言は日本国に適用されないという留保付き批准を行って他の締約国が留保を承認しなかった場合,日本は不戦条約に加入できなくなるばかりか,不戦条約自体が成立しなくなる可能性もあった(3条の「各國ノ批准書ガ總テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル」参照)ところ,そのような事態となった場合,軍縮問題や中国問題とかで日本の立場が非常に不利になることが予想されました。
そのため,「了解」(ただし,一方的了解です。)という文言を含む点で留保のような重要な意味を含む宣言ではないことについてアメリカ政府の了承を得た上で,1929年6月26日,宣言付批准とすることで不戦条約の批准が枢密院に於いて承認されました(ただし,枢密院としては,留保付批准という認識でした。)。
そして,1929年6月27日,同日付の帝国政府宣言書とともに,不戦条約について同日付の批准書を作成し,同年7月24日,アメリカ政府のもとに批准書が寄託されました。
(3) 「不戦条約中「人民ノ名ニ於テ」の問題」が非常に参考になります。
第7 補論2―明治憲法に基づく勅令等とヒトラーの総統命令等の比較
1 明治憲法に基づく勅令等の位置付け
(1)ア ①明治憲法8条1項に基づく緊急勅令の場合,法律と同等の効力を有していたものの,明治憲法8条2項に基づき次の会期において帝国議会の承諾を受ける必要がありましたし,②明治憲法9条に基づく勅令の場合,憲法上,法律事項とされていない事項を対象とするに過ぎませんでしたし,法律を変更することはできませんでした。
また,天皇の立法大権の行使には帝国議会の協賛が必要でした(明治憲法37条)。
そして,このような解釈は条文上明らかですから,天皇主権説でも否定はできなかったと思います。
イ 天皇の条約大権の行使に際しては,枢密院(明治憲法56条)の審議及び意見上奏が予定されていました(枢密院官制6条)。
ウ ポツダム宣言受諾及び降伏文書の法的性質については,条約又は国際合意として捉える見解のほか,降伏に伴う特殊な国際法上の行為として捉える見解等があり,必ずしも一義的ではありません。当時の米国務省内部の法律意見は,日本が宣言を受諾すれば国際的合意を構成するとの理解を示していましたが,これだけで国内法上の「条約」として必要な手続が当然に確定するわけではありません。枢密院への諮詢の要否は,当時の政府関係者間でも見解が分かれていたことを踏まえ,国際法上の性質と明治憲法下の国内手続を分けて検討する必要があります。
(2) 明治憲法55条1項は国務大臣が天皇を輔弼してその責めに任ずることを定め,同条2項は法律,勅令その他国務に関する詔勅に国務大臣の副署を要求していました。これらは憲法上明文で定められた要件であり,天皇機関説又は天皇主権説のいずれに立つかによって条文の適用自体がなくなるものではありません。昭和10年の国体明徴声明も明治憲法55条を改正したものではありません。したがって,個別の文書に国務大臣の副署が必要であったかは,当該文書の法的性質と同条の文言に即して検討する必要があります。
(3) 昭和20年8月14日付の終戦の詔書には,鈴木貫太郎内閣総理大臣以下の各国務大臣が副署しています。ここでいう「副署」は,署名を添えることを意味し,「副書」ではありません。詔書の原本及び発布日は,国立公文書館「日本のあゆみ」の「ポツダム宣言を受諾する」で確認できます。
(4) 昭和20年6月,4日間の会期で第87回帝国議会が開かれ,義勇兵役法その他の戦時立法が制定されました。
2 ヒトラーの総統命令等の位置付け
(1)ア 1919年8月14日施行のヴァイマル憲法は,1933年1月30日のヒトラー内閣成立及び同年3月5日のドイツ国会総選挙を経て同月23日に成立した全権委任法その他の措置により,民主的憲法としての実質を失いました。ただし,同憲法が1945年の敗戦と同時に一個の廃止法によって形式的に廃止された,という単純な経過ではありません。
イ 全権委任法に基づき,ドイツ国政府は国会の通常の立法手続によらずに法律を制定できました(1条)。その法律は憲法に反することもできましたが,国会及び国参議院の制度を対象とすることはできず,大統領の権利も影響を受けないものとされました(2条)。政府制定法は首相が作成し,官報で公布するものとされ(3条),外国との条約についても通常の立法機関の同意を要しないものとされました(4条)。
ウ 1934年8月1日制定の「ドイツ国及び国民の国家元首に関する法律」により,大統領職は首相職と統合され,同月2日のヒンデンブルク大統領の死去に伴い,ヒトラーは「総統兼首相」として国家元首と政府首班の権限を集中させました。
(2)ア ナチ体制下では立法権・行政権がヒトラー及び政府に集中し,命令によって既存法秩序が変更される例もありました。ただし,「総統命令」と総称される文書の形式,根拠及び効力は一様ではありません。すべての総統命令について法的根拠,関係大臣の関与及び副署が常に不要であったと一括して断定するのではなく,個別の命令ごとに公布形式,根拠規定及び実際の運用を確認する必要があります。
イ 1939年8月23日署名の独ソ不可侵条約は,1941年6月22日のバルバロッサ作戦の発動(独ソ戦の開始)により失効しました。
ウ 1941年6月6日付の「政治将校の取扱いに関する指針」(いわゆるコミッサール指令です。)では,戦時国際法を無視して,ソ連赤軍の捕虜のうち,政治将校(コミッサール)については原則としてその場で処刑することが命ぜられました。
(3) 1942年4月26日に戦前のドイツにおける最後の国会が開会し,同日に閉会しましたところ,その日の国会決議に関して,ヒトラー全記録549頁には以下の記載があります。
ヒトラー、国会演説で「全権委任、自己神格化、反ボリシェヴィズム」を強調。国会「非常時大権」を承認する。ヒトラーは行政・司法・立法・軍事のすべてにおいて独裁的絶対権を掌握し、自らが法である「最高司法権保有者」となる。身分保障に関する一切の規定は「戦争終結まで効力を停止する」と国会で決議。午後四時二四分に最後の国会閉会。
第8 関連資料,関連記事及び史料利用上の留意点
1(1) 最高戦争指導会議は,小磯内閣発足後の昭和19年8月4日に大本営政府連絡会議を改称して設置された会議です。
(2) 最高戦争指導会議構成員会議は,ドイツ降伏後の昭和20年5月11日以降に首相,外相,陸相,海相,参謀総長及び軍令部総長の6人だけが参加して開催されるようになったものです。
(3) 御前会議は,昭和19年8月19日以降,「御前に於ける最高戦争指導会議」という名称で開催されました。
2 ポツダム宣言はカイロ宣言を引き継いだものです。蒋介石主席はポツダム会談に出席していませんが,宣言案は電報で蒋介石に示され,その同意を得た上で公表されました。起草過程では,ポツダム宣言1項の国名の順番が米英中から米中英に変更されたことも確認できます。
ただし,ポツダム宣言の表題は米英中三国宣言となっていますし,同宣言2項の順番は米英中のままとなりました(米国国務省外交史料参照)。
3 奈良県立図書情報館HPに「「日本の皆様」B29米軍投下ビラ」(昭和20年8月13日の文書)が載っています。
4(1) 「国体護持と「八月革命」─戦後日本の「平和主義」の生成─」9頁には,「我報ノ「ポツダム」宣言受諾申出ニ対スル先方回答ニ関スル件」(発信者は岡本スウェーデン公使であり,8月13日午前2時10分到着)に関して以下の記載があります。
岡本電(13日午前に到着)は、現地新聞に掲載されたバーンズ回答の発出経緯に関するロンドン、ワシントン特電を伝え、天皇制の廃止や無条件降伏を主張するソ連など連合国内部の反対論を、「天皇の地位を認めざれば日本軍隊を有効に統御するものなく、連合国は之が始末になお犠牲を要求せらるべし」として米国政府が押し切ったものであり、それは「米側の外交的勝利」であり、実質的には日本側条件を是認するものであると指摘していた。
(2) 国際法外交雑誌86巻4号(1987年10月)に「帝国政府のポツダム宣言受諾をめぐるスイスの仲介(1945年8月)」が載っています。
5 「敗戦時における公文書焼却の再検討― 機密文書と兵事関係文書 ― 」には「国内でわずかに残存する焼却指示文書を手がかりに、敗戦時の焼却は内務省系統と軍系統の二系統が存在し、焼却対象となったのは内務省系統では法令に基づいた機密文書であり、軍系統では動員関係文書が中心であった」と書いてあります。
6 外務省外交史料館HPに「戦後70年企画 「降伏文書」「指令第一号」原本特別展示 降伏と占領開始を告げる二つの文書」が載っています。
7(1) ポツダム宣言,受諾申入れ,バーンズ回答,最終受諾通告,降伏文書及び一般命令第一号は,作成主体,宛先,作成時期及び法的性質がそれぞれ異なります。訴状,準備書面又は意見書で引用する場合は,これらを一括して「条約」又は「降伏条件」と呼ぶのではなく,どの文書のどの文言から,いかなる法的効果を導くのかを特定する必要があります。
(2) 書証化に当たっては,原文画像,公的機関の翻刻,必要に応じた対訳,文書名,作成日時,発信者,受信者,資料番号及び所蔵機関を一組にします。時刻を争う場合は,日本時間,現地時間及び受信記録上の時刻を区別し,送信時刻と到達時刻を混同しないようにします。
(3) 前記の法的性質を踏まえ,訴訟では,単に「条約だから拘束する」と主張するのではなく,受諾によって負担した具体的義務,降伏文書による再確認及び占領下国内法上の実施根拠を分けて論じる方が安全です。
(4) ソ連の対日参戦の適法性を争点とする場合は,日ソ中立条約の条文,有効期間,廃棄通告及び参戦日時を一次史料で立証します。その上で,ヤルタ協定,事情変更,戦争違法化の射程等の予想される反論と,一般命令第一号が定めた降伏受理先の指定は領土権原の移転を定めたものではないという点を分けて論じる必要があります。
(5) 終戦時点をめぐる主張では,8月14日の国内的な最終決定,スイス・スウェーデン経由の通告,連合国側による到達・受領,部隊に対する停戦命令,9月2日の降伏文書調印を時系列表にします。「戦争終結」「停戦」「降伏」「占領開始」のどの時点が法律要件に当たるかは,適用法令ごとに別途検討します。
(6) 相手方が二次資料,Wikipedia又はSNS投稿を引用した場合は,直ちに内容そのものを否定するのではなく,元資料を特定するよう求め,原文との異同,翻訳の正確性,作成時期及び伝聞過程を反論の中心に据えます。
8 以下の記事も参照してください。
・ 昭和20年8月15日,長崎控訴院が福岡に移転して福岡控訴院となり,高松控訴院が設置されたこと等
・ 裁判官及び検察官の定年が定められた経緯(日本国憲法の制定経緯を含む。)
・ 日本国憲法外で法的効力を有していたポツダム命令
・ 在外財産補償問題
・ 日本の戦後処理に関する記事の一覧
・ 旧ドイツ東部領土からのドイツ人追放,及びドイツ・ポーランド間の国境確定