第1 「誰が決めたのか」に対する結論
1 政治的決着と政府の意思決定を分ける
ポツダム宣言受諾の政治的な行詰まりを解いたのは,昭和20年8月10日未明と同月14日に昭和天皇が示した二度の判断である。
その判断を求める異例の進行を選んだのは鈴木貫太郎首相であり,一条件での受諾案を主張したのは東郷茂徳外相である。
他方,対外的に受諾を通告した主体は日本政府であり,閣議,全閣僚の副署,外務省及び中立国を経た外交文書によって政府の意思が完成した。
したがって,「昭和天皇が二度の判断で政治的決着をつけた」と「日本政府が受諾を決定して通告した」は両立する。
「天皇一人が法的手続を完結させた」,又は「最高戦争指導会議の正式投票が3対3となり,天皇が決裁票を投じた」と説明するのは正確でない。
2 この記事が扱う範囲
この記事は,六人の最高戦争指導会議構成員がなぜ統一方針を作れず,鈴木首相がどのように天皇の判断を求め,その判断が閣議と外交通告へ移されたかを扱う。
ポツダム宣言の全13項は,ポツダム宣言とは何か――全13項の内容を簡単に説明で,宣言発表から降伏文書調印までの全体の時系列は,ポツダム宣言の発表から宣言受諾及び降伏文書調印までの経緯で整理している。
第2 閣議・最高戦争指導会議・御前会議の違い
1 最高戦争指導会議は国務と統帥の調整機関であった
昭和19年8月4日付けの「最高戦争指導会議ニ関スル件」は,同会議の目的を,戦争指導の根本方針を策定し,政略と戦略の調整を図ることとした。
構成員は,内閣総理大臣,外務大臣,陸軍大臣,海軍大臣,参謀総長及び軍令部総長の六人であり,重要事項の審議には天皇が臨席するとされた。
同文書は,構成員の一部が不在のときには決定を行わないとする一方,多数決,議長の決裁票又は可否同数の場合の処理を定めていない。
最高戦争指導会議は,政府と陸海軍の最高首脳が選択肢を調整する場であったが,大日本帝国憲法が列挙した国家機関でも,日本政府に代わって対外通告を発する主体でもなかった。
2 御前会議は独立した法定機関の名称ではない
御前会議とは,天皇が臨席する重要会議を表す呼称であり,常設の憲法機関又は固有の採決手続を意味しない。
昭和20年8月9日深夜から10日未明の会議は,最高戦争指導会議の構成員を中心に開かれたのに対し,同月14日の会議には全閣僚,平沼騏一郎枢密院議長,参謀総長及び軍令部総長らが出席した。
したがって,「御前会議が決めた」とだけ述べると,二つの会議の出席者と役割の違いが隠れてしまう。
いずれの会議でも,天皇の発言は行詰まりを解く決定的な政治的判断となったが,その後に政府の意思決定と対外通告が必要であった。
3 大日本帝国憲法下の天皇と国務大臣
大日本帝国憲法13条は,天皇が宣戦し,講和し,諸般の条約を締結すると定め,55条は,国務大臣が天皇を輔弼して責任を負い,国務に関する詔勅には国務大臣の副署を要すると定めていた。
終戦の詔書の御署名原本には全閣僚が副署しており,国立公文書館の閣議書は,詔書案が8月14日の閣議で修正され,決定された経過を伝えている。
この制度構造から見ても,天皇の判断と国務大臣による政府意思の形成を二者択一にすることはできない。
天皇の判断が政治的な決着点となり,閣議と国務大臣がそれを詔書及び政府の通告へ転換したと整理するのが適切である。
第3 最高戦争指導会議の「3対3」は何を意味するか
1 東郷外相の一条件案
東郷外相は,ポツダム宣言が天皇の国家統治の大権を害する要求を含まないとの了解を付して受諾する案を主張した。
鈴木首相及び米内光政海相もこの案を支持したため,六構成員のうち三人が一条件案の側に立った。
この案は,天皇の地位に関する一点だけを確認し,他の宣言条件を受け入れて戦争を終結させるものであった。
8月10日の対外通告が付した条件の意味と,その後のバーンズ回答との関係は,ポツダム宣言受諾時の国体護持とは――8月10日申入れ,バーンズ回答と天皇の地位で詳しく扱っている。
2 阿南陸相らの四条件案
阿南惟幾陸相,梅津美治郎参謀総長及び豊田副武軍令部総長は,国体護持に加え,武装解除を日本側で行うこと,戦争犯罪人を日本側で処理すること及び保障占領を制限することを求めた。
この四条件案は,連合国による直接的な軍事管理と処罰をできる限り避けようとするものであり,東郷案より広い条件を要求した。
六構成員の意見分布は,一条件案の三人と四条件案の三人に分かれた。
ただし,これは二つの立場への分布を「3対3」と表したものであって,投票結果を記録したものではない。
3 多数決で決められなかった理由
最高戦争指導会議の設置文書には多数決の規定がなく,当時の閣議も全員一致による運営を原則としていた。
国務と統帥の最高責任者が正反対の条件を主張したままでは,首相が通常の議長権限だけで一方を政府方針にすることはできなかった。
鈴木首相は,この行詰まりを打開するため,天皇に判断を求める進行を選んだ。
後世にいう「聖断」は,この例外的な政治的決着を指す語であり,法令に定められた表決方法の名称ではない。
第4 第1の聖断――8月9日深夜から10日未明
1 会議に至るまで
広島への原爆投下,ソ連の対日宣戦と参戦及び長崎への原爆投下が短期間に続き,日本政府は戦争終結の条件を直ちに決める必要に迫られた。
もっとも,受諾判断の背景には,軍事力,空襲,海上封鎖,食糧事情及び国民保全への懸念も重なっており,原爆又はソ連参戦の一要因だけで国内の決定過程を説明することはできない。
日本政府はそれ以前からソ連による和平仲介を期待していたが,ソ連の参戦により,この外交経路は失われた。
対ソ工作の経過は,近衛特使はなぜ実現しなかったのか――ソ連和平仲介と東郷・佐藤電報で扱っている。
日ソ中立条約の効力及びソ連参戦の法的評価は,ソ連の対日参戦は日ソ中立条約違反だったのかで扱っている。
2 鈴木首相が天皇の判断を求めた
参加者関係記録によれば,宮中防空壕で開かれた天皇臨席会議で一条件案と四条件案が改めて述べられた後,鈴木首相は自ら議論を多数決でまとめず,天皇の考えを求めた。
天皇は,東郷外相の一条件案に賛成し,戦争を続ければ国家と国民を保全できないとの趣旨を述べたと記録されている。
この発言により,一条件案で連合国側へ通告する方向が政治的に確定した。
ただし,現存記録は公式の逐語速記録ではないため,天皇の発言を一言一句の確定した引用として扱うべきではない。
3 8月10日は条件付きの受諾申入れであった
日本政府の8月10日付け通告は,ポツダム宣言の条件を受諾する用意があるとしつつ,宣言が天皇の「国家統治ノ大権」を変更する要求を含まないとの了解を明記し,この了解について連合国側の明確な意思表示を求めた。
したがって,この通告は一条件を付した受諾申入れであり,無条件の最終受諾ではない。
この段階では,国内の第1の政治的決着が政府の外交文書へ移されたものの,天皇の地位に関する連合国側の回答が残っていた。
最終受諾に至るには,8月11日の回答と,その回答をめぐる国内の再検討が必要であった。
第5 第2の聖断――8月14日
1 バーンズ回答で対立が再燃した
連合国側の8月11日付け回答は,降伏の時から天皇及び日本政府の国家統治の権限が連合国最高司令官に従属すること,天皇が降伏条項への署名と軍への命令を授権し確保すること及び日本の最終的な政府形態が日本国民の自由に表明された意思によって定められることを示した。
この回答は,天皇の地位を明示的に保障するものではなかった一方,直ちに天皇制の廃止を要求するものでもなかった。
政府内では,回答を受け入れる案と,再照会又は条件追加を求める案が再び対立した。
8月12日と13日の記録は,第1の判断だけでは最終受諾が完成せず,再度の政治的決着を必要としたことを示している。
2 天皇は従前の判断を変えなかった
8月14日午前の天皇臨席会議には,全閣僚,平沼枢密院議長,梅津参謀総長及び豊田軍令部総長らが出席した。
阿南陸相,梅津参謀総長及び豊田軍令部総長が受諾への反対又は強い懸念を述べた後,鈴木首相は再び天皇の判断を求めた。
参加者関係記録によれば,天皇は,8月10日に示した考えを変えず,連合国回答を受け入れて戦争を終結すべきであるとの趣旨を述べた。
将兵の武装解除や戦争犯罪人の処罰は忍び難いが,戦争を続ければ国家,国民及び国体そのものを失うとの認識が,その判断の理由として記録されている。
3 閣議・終戦の詔書・最終通告
第2の判断後,閣議は終戦の詔書案を修正して決定し,天皇の署名に全閣僚が副署した。
日本政府の8月14日付け通告は,ポツダム宣言の条項を受諾し,天皇が政府及び大本営による降伏条項への署名を授権し,全軍に停戦と武装解除を命ずる用意があることを伝えた。
米国政府は,この通告を「完全な受諾」として扱い,正式な降伏手続へ進んだ。
終戦の詔書の放送を阻止しようとした一部将校による宮城事件は,この政府決定後に生じた実施妨害であり,受諾方針を政府として再決定した手続ではない。
8月15日正午の玉音放送は,既に決定・通告された受諾を国民と軍に公表する段階であった。
第6 受諾決定・公表・降伏文書調印を区別する
1 各段階の主体と役割
| 日付 | 段階 | 主な主体 | 意思決定上の役割 |
|---|---|---|---|
| 昭和20年8月9日深夜から10日未明 | 第1の政治的決着 | 昭和天皇,鈴木首相,最高戦争指導会議構成員ら | 一条件案で連合国側へ照会する方向を確定 |
| 同月10日 | 条件付き受諾申入れ | 日本政府,外務省,スイス及びスウェーデン | 天皇の大権に関する了解を付して通告 |
| 同月11日 | 連合国側回答 | 米国,英国,中華民国及びソ連 | 天皇・政府の権限と将来の政体について回答 |
| 同月14日午前 | 第2の政治的決着 | 昭和天皇,鈴木首相,全閣僚,統帥部総長ら | バーンズ回答を受け入れる最終方針を確定 |
| 同月14日 | 政府意思と対外通告の完成 | 閣議,全閣僚,外務省及び日本政府 | 終戦の詔書を決定し,最終受諾を通告 |
| 同月15日 | 国内公表 | 天皇,日本政府及び放送機関 | 終戦の詔書を放送 |
| 同年9月2日 | 正式降伏文書 | 日本側全権及び連合国側代表 | 降伏文書へ署名し,履行義務を文書化 |
2 最も短く答える場合
「誰がポツダム宣言受諾を決めたのか」と問われた場合,政治的な最終判断者は昭和天皇,その判断を求めて会議を進行した責任者は鈴木首相,政府として決定・通告した主体は閣議と日本政府であると答えるのが最も正確である。
最高戦争指導会議は選択肢を審議したが統一できず,御前会議はその行詰まりを天皇臨席の下で解く場となった。
第7 史料を読む際の注意点と関連論点
1 会議記録と開始時刻の限界
8月10日未明と14日の会議について,政府の公式な逐語速記録は確認されていない。
中心となる史料は参加者側の記録及び陸軍内部の日誌であり,記録者の立場,作成経緯及び要約を介しているため,発言の趣旨と逐語引用を区別する必要がある。
第1の天皇臨席会議の開始時刻も,参集,開会又は天皇臨席のどこを起点にするかにより,8月9日午後11時台から10日午前0時台まで記録に差がある。
本記事では,確実な共通範囲である「8月9日深夜から10日未明」と表記し,単一の分刻みに確定していない。
2 「聖断」の意味と記事間の役割分担
「聖断」という語は当時の陸軍内部日誌にも現れるが,大日本帝国憲法又は内閣制度に定められた手続名ではない。
本記事では,二度の天皇発言が合議の行詰まりを解いた政治史上の役割を表す語として用いている。
日本の降伏を「無条件降伏」と呼べる範囲は,ポツダム宣言で日本は無条件降伏したのか――日本国・日本軍・降伏文書の違いで扱っている。
受諾が日本国憲法制定に及ぼした法的意味は,ポツダム宣言と日本国憲法制定の法的連続性――「八月革命説」とその後の学説で,占領期の国内法令の効力は,日本国憲法外で法的効力を有していたポツダム命令で整理している。
第8 出典・参考資料
1 歴史的法令・制度資料
①大日本帝国憲法13条・55条(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」)
②「最高戦争指導会議ニ関スル件」(昭和19年8月4日,JACAR Ref.C12120388000)
③JACAR用語解説「最高戦争指導会議」
④JACAR用語解説「御前会議」
2 日本側の公文書・関係記録
①「政務官会議史料 昭和20.8.8~8.14」8月9日深夜から10日未明の記録(JACAR Ref.C14020184800)
②同8月12日の記録(JACAR Ref.C14020184900)
③同8月13日の記録(JACAR Ref.C14020185000)
④同8月14日の天皇臨席会議記録(JACAR Ref.C14020185100)
⑤「機密戦争日誌」昭和20年8月10日(JACAR Ref.C12120362300)
⑥「機密戦争日誌」昭和20年8月14日(JACAR Ref.C12120362700)
⑦国立公文書館「終戦の詔書―御署名原本」(昭和20年8月14日閣議決定)
⑧JACAR終戦80周年インターネット特別展「公文書に見る終戦―復員・引揚の記録―」第4章
3 外交文書
①日本政府の昭和20年8月10日付け通告(米国国務省『Foreign Relations of the United States, 1945, Volume VI』Document 406)
②連合国側の同月11日付け回答(同Document 412)
③日本政府の同月14日付け最終通告(同Document 440)
④米国政府の同日付け返信(同Document 441)
⑤国立国会図書館「ポツダム宣言受諾に関する往復文書」