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ポツダム宣言受諾はどのように連合国へ伝えられたか|スイス・スウェーデン経由の往復文書とスイスの仲介(AI作成)

第1 この記事が扱う経路と結論

1 「受諾の決定」と「外交上の伝達」を分ける

この記事は,1945年8月10日の条件付き申入れから,同月15日に米国の戦闘停止に関するメッセージがベルンから東京へ打電されるまでの外交伝達を扱う。
日本国内で誰が受諾を決めたかという問題はポツダム宣言の発表から宣言受諾及び降伏文書調印までの経緯に譲り,本記事では,どの文書が,誰から誰へ,どの経路で渡ったのかを整理する。

「ポツダム宣言受諾」という言葉の指す時点は,文脈によって異なる。
少なくとも,①8月10日の条件付き申入れ,②8月11日の四国回答,③8月14日の日本の最終通告,④8月15日以後の戦闘停止手続,⑤9月2日の降伏文書調印を区別しなければ,通信時刻と法的な出来事が混同される。

2 結論―二つの経路を用い,最終往復の中心はスイスであった

日本政府は8月10日,受諾申入れの電報を在スイス加瀬俊一公使と在スウェーデン岡本季正公使へ送った。
その指示は,スイス政府から米国及び中国へ,スウェーデン政府から英国及びソ連へ転送するという分担であり,四連合国に対する通告は二つの中立国経路で行われた。

もっとも,二経路は最後まで対称ではない。
米国が四国を代表して作成した8月11日の回答はスイスを介して日本へ戻り,8月14日の最終通告もベルンからワシントンへ最も詳しく追跡できる形で転送され,その後の戦闘停止に関する米国メッセージもスイスを介して加瀬公使へ渡された。

段階日付主な経路文書の役割
条件付き申入れ8月10日東京→ベルン・ストックホルム→四連合国天皇の国家統治の大権に関する了解を付した申入れ
四国回答8月11日ワシントン→スイス→ベルン→東京米国が四国を代表して発した回答
最終通告8月14日東京→ベルン・ストックホルムポツダム宣言受諾と実施準備の通告
連合国への到達8月14日ベルン→スイス公使館→ワシントン米国が完全な受諾と判断する基礎となった伝達
戦闘停止手続8月15日ワシントン→スイス→ベルン→東京戦闘停止,軍使派遣及び最高司令官指定の指示

第2 なぜスイスとスウェーデンを介したのか

1 日本と連合国の直接交渉ではなかった

1945年8月の受諾交渉は,日本政府が米国政府へ直接電報を送る仕組みではなかった。
東京の外務省は,まずベルンとストックホルムにある日本公使館へ訓令し,日本公使が中立国政府へ書面を手交し,その政府の外交網で連合国側へ転送する方法を採った。

この経路では,日本公使館,中立国の外務当局,中立国の在外公館,連合国政府という複数の機関が一つの通信に関与する。
したがって,「東京発」,「公使館着」,「中立国政府への手交」,「中立国の電報発信」,「連合国政府への到達」は,それぞれ別の時刻である。

2 四連合国への宛先を二つに分けた

8月10日付の日本政府通告は,スイス政府に対して米国及び中国への即時転送を求め,スウェーデン政府に対してソ連及び英国への即時転送を求めた。
この宛先分担は,日本側外交記録に収録された二つの英語通告の末尾に明記されている。

米国の外交文書も同じ分担を記録している。
在ストックホルム米国公使館の8月10日午後1時発の公電は,スウェーデン外相エステン・ウンデーンが英国・ソ連両公使へ申入れを知らせたこと,スイス経路では米国・中国へ通告することを報告しており,日本側記録と符合する。

第3 8月10日の条件付き申入れ

1 東京からベルンとストックホルムへ送られた文書

国立国会図書館が公開する外務省外交記録のテキストでは,8月10日の東京発欄に,東郷茂徳外相から加瀬・岡本両公使への第647号が午前6時45分,第648号が午前7時15分,通告文を含む第649号が午前9時と記録されている。
第649号の英語本文は,ポツダム宣言の条件を受諾する用意があると述べながら,同宣言が天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まないとの了解を付し,その了解について速やかな明示を求めるものであった。

この申入れは,無条件の最終回答ではない。
いわゆる「国体護持」の条件を日本側がどのように示し,四国回答をどう理解したかは,ポツダム宣言受諾と国体護持で扱っている。

2 ベルンから米国・中国へ向かった経路

米国国務省の外交文書集によれば,加瀬公使は8月10日午後6時,スイス政治局のヴァルター・シュトゥッキに日本政府の通告を手交した。
同日付のスイス公使館から米国務長官宛ての覚書は,日本政府がスイスに米国・中国への転送を依頼し,英国・ソ連への伝達はスウェーデンに依頼したと説明している。

日本側の加瀬第868号は,申入れをスイス当局へ手交し,至急転送を求めた旨を東京へ報告した電報である。
国立国会図書館の公開テキストは同電報の発着記録を掲げるものの本文をテキスト化していないため,本文確認にはアジア歴史資料センターが公開する原画像を併用する必要がある。

3 ストックホルムから英国・ソ連へ向かった経路

岡本公使は日本政府の申入れをスウェーデン政府へ渡し,スウェーデン外相ウンデーンが英国・ソ連両公使への伝達を進めた。
米国側のストックホルム発公電には,申入れの英語文とともに,日本の岡本公使,スイスの加瀬公使及び両中立国の宛先分担が記録されている。

日本側外交記録には,岡本第519号の「申入れ手交報告」と第520号の外相との会談報告が収められている。
ただし,公開テキストではこれらの本文が未テキスト化であり,今回確認したスウェーデン側原史料から正確な手交時刻を確定できなかったため,本記事では時刻を断定しない。

第4 8月11日の四国回答が東京へ戻るまで

1 米国が四国を代表して回答した

米国,英国,ソ連及び中国の回答は,ジェームズ・バーンズ米国務長官から,米国が四国を代表する形で発せられた。
回答は,降伏の時から天皇及び日本政府の国家統治の権限が連合国最高司令官に従属すること,天皇が降伏条件への署名と軍隊の戦闘停止・武器引渡しを確保すること,最終的な日本の政府形態が日本国民の自由に表明された意思により定められることなどを示した。

四国回答は,8月10日の日本側了解をそのまま承認したとは書いていない。
日本が付した条件と四国回答の関係を国内でどう評価するかが,8月12日から14日までの再協議につながった。

2 ワシントンからベルンを経て東京へ戻った

米国務省の外交文書によれば,四国回答は8月11日午後9時にベルンへ到着し,午後9時30分に加瀬公使へ手交された。
加瀬公使は午後11時24分に回答全文を東京へ打電しており,日本側外交記録の第876号には,ベルン発,日本時間及び本省着が別々に表示されている。

具体的には,同記録はベルン発を8月11日午後11時24分,日本時間を12日午前7時24分,本省着を12日午後6時40分とする。
同じ一通の電報についても,現地での発信,時差換算及び外務省での受信処理が別の欄に置かれていることが,受諾経路の時刻を読む際の基本となる。

第5 8月14日の最終通告が連合国へ届くまで

1 東京は最終通告を両公使館へ送った

日本側外交記録は,8月14日の最終通告を,同日午後11時発として在スイス公使館へ第352号から第354号,在スウェーデン公使館へ第193号から第195号で送ったことを示す。
最終通告は,ポツダム宣言受諾の詔書が発布されたこと,天皇が日本政府・大本営による必要文書への署名を権限付与し確保する用意があること,軍に戦闘停止,武器引渡しその他の必要な命令を発する用意があることを四国へ知らせる内容であった。

ここでも日本は両公使館を使用したが,確認できた一次資料から在スウェーデン公使が最終通告をスウェーデン政府へ手交した正確な時刻までは確定できない。
これに対し,ベルンからワシントンへ至る経過は,スイス外交文書と米国外交文書の双方に詳細に残っている。

2 ベルンで午後8時10分に四国向け書面が手交された

スイスの公式外交史料集『Documents Diplomatiques Suisses』第16巻に収録されたシュトゥッキの8月15日付覚書は,8月14日午後6時50分,加瀬公使から回答が到着して解読中であるとの電話があり,午後8時に加瀬公使がシュトゥッキを訪ねて回答を渡したと記録する。
同じ史料集の四国向け送信文書は,日本公使が午後8時10分(スイス時間)に書面を手交したと記録しているため,本記事では,訪問・作業開始の午後8時と正式手交の午後8時10分を区別する。

したがって,午後8時10分は,東京の受諾決定時刻でも,ワシントンの米国政府が受け取った時刻でもない。
これはベルンにおいて加瀬公使がスイス当局へ四国向け書面を正式に手交した時刻である。

3 暗号電報と電話が併用された

シュトゥッキは,ベルン駐在の米国公使リーランド・ハリソンと日本側文面を検討し,不明確又は不完全に見える箇所があったため,明文ではなく暗号で転送すると決めた。
スイス政治局の暗号電報は午後9時5分に在ワシントン・スイス公使館へ向けて発信され,午後9時22分にニューヨーク側が受信を確認した。

同じころ,バーンズ国務長官から電話を受けたハリソンは,日本の回答文を電話で読み上げ,別に明文電報を送るよう命じられた。
シュトゥッキ覚書によれば,結果として,ハリソンの明文電報より先に,スイスの暗号電報に基づく文面が在ワシントン・スイス公使から米国側へ渡された。

4 トルーマン大統領はワシントン時間午後7時に発表した

トルーマン大統領は8月14日午後7時の記者会見で,日本政府から同日午後に回答を受領し,ポツダム宣言の完全な受諾とみなしたと発表した。
記者会見記録には,スイス公使館から受けた公式通報の文面も収録されており,ベルンからの伝達が米国の発表に結び付いたことを確認できる。

英国の戦時内閣書記官ノートも,同日午後10時50分(ロンドン時間)の会議で,ベヴィン外相がバーンズのメッセージを読み上げ,ワシントン午後7時の発表に合わせる調整を説明したと記録する。
これは,米国単独の回答ではなく,四国共通の受諾処理として公表時刻が調整されたことを示す。

第6 8月15日に戦闘停止の指示が日本へ戻るまで

1 米国メッセージは再びスイス経路を通った

シュトゥッキ覚書によれば,8月15日午前2時25分,ワシントンのスイス公使館からベルンへ明文電報が到着した。
シュトゥッキは午前3時30分に加瀬公使へ米国のメッセージを正式に手交し,米国政府が8月14日の日本側通告をポツダム宣言と8月11日回答の完全な受諾と理解していることも伝えた。

日本側の加瀬第884号はこの説明を報告し,第885号は,①日本軍に速やかな戦闘停止を命じること,②連合国最高司令官へ軍使を派遣すること,③ダグラス・マッカーサーが連合国最高司令官に指定されたことを伝えている。
受諾通告が連合国へ届いた後も,現実に戦闘を止め,降伏を実施するための別の往復通信が必要であった。

2 無線局の受信と外務省の着信は同じ時刻ではない

スイス側覚書は,加瀬公使の東京向け電報が午前5時に受け付けられ,強い電波障害のため午前7時30分まで送信を試み,午前7時40分に日本側の無線局が受信を確認したと記録する。
他方,日本側外交記録の加瀬第884号は,ベルン発を8月15日午前4時42分,東京着を8月16日午前8時15分と表示している。

両記録の時刻は一致しないが,無線局での受信確認と外務省記録上の本省着が同じ処理段階を示すとは限らない。
確認した資料だけでは差を解消できないため,本記事では一方の時刻に置き換えず,記録主体と処理段階を併記する。

第7 スイスの仲介をどう評価するか

1 シュトゥッキ個人だけでなく外交・通信組織が動いた

ベルンで加瀬公使と直接交渉し,通信方式を判断した中心人物は,スイス政治局外国部長のシュトゥッキであった。
しかし,実際の伝達には,東京の外務省,在スイス日本公使館,スイス政治局,Radio Suisse,在ベルン米国公使館,在ワシントン・スイス公使館及び米国務省が関与した。

スイスの仲介は,一人の外交官が文書を運んだという出来事ではない。
暗号通信,電話,公使館間の手交及び受信確認を組み合わせ,直接の外交回線を欠く当事国間で文書を往復させた制度的な連絡作業であった。

2 仲介国が受諾条件を決定したわけではない

スイスは,日本の条件を採否した当事国でも,四国回答の内容を決めた当事国でもない。
その中心的な役割は,日本側の文面を連合国へ正確かつ迅速に送り,連合国側の回答と実施指示を日本へ戻すことであった。

もっとも,仲介が機械的な転送だけだったわけでもない。
シュトゥッキは,予想される日本回答の到着をワシントンへ事前連絡し,誤った到着情報を訂正し,最終通告を明文で送るか暗号で送るかを判断し,米国が完全な受諾と理解したことを加瀬公使へ補足している。

3 時刻は「誰の時計で,何をしたか」とともに読む

受諾経路の史料には,東京時間,ベルン時間,ワシントン時間及びロンドン時間が混在し,さらに電報の発信,現地局の受信,公使への手交,政府への到達及び公表が別々に記録される。
時刻だけを抜き出して並べると,午後8時10分を米国到達時刻としたり,8月15日の放送時刻を外交上の受諾通告時刻としたりする誤りが生じる。

本記事では,原資料が明示した現地時間を維持し,時差換算によって一つの時刻表に統合していない。
資料に時刻の不一致がある場合も,記録された行為が同じかを確認できない限り,推測で一致させない。

第8 受諾通告,戦闘停止及び降伏文書は別の出来事である

1 外交上の受諾だけで全軍の戦闘が同時に止まったわけではない

1907年ハーグ陸戦規則36条は,休戦を交戦当事者の合意による作戦停止とし,38条は権限ある当局と軍隊へ適時かつ公式に通告することを求めている。
8月14日の最終通告自体も軍への戦闘停止命令を発する用意を示し,8月15日の米国メッセージは日本軍への速やかな戦闘停止命令と軍使派遣を求めたのであり,外交文書の到達と各部隊の行動停止は区別される。

また,8月14日の受諾通告と9月2日の降伏文書調印も同じ行為ではない。
降伏文書の内容と調印式は降伏文書調印式と戦艦ミズーリ号に,ポツダム宣言の現在の法的な位置付けはポツダム宣言に現在も法的効力はあるかに分けている。

2 裁判例の記述は判決理由と個別意見を区別する

最高裁昭和23年5月26日大法廷判決の真野毅裁判官の意見は,8月14日の受諾の詔書と,スイス政府を介した四国への通告に言及している。
最高裁昭和24年6月13日大法廷判決の同裁判官の補足意見も同様の経路に触れた上で,9月2日の降伏文書調印を正式な降伏として区別しているが,いずれも外交伝達経路を争点とした多数意見の判示ではない。

大阪高裁平成15年5月30日判決も,8月14日の受諾通告と9月2日の降伏文書調印を異なる段階として扱っている。
もっとも,同判決の主題は外交電報の経路ではないため,受諾過程の事実認定は外交記録,スイス外交文書及び米国外交文書を中心に確認する必要がある。

出典・参考資料

1 公文書・外交文書

国立国会図書館「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」及び「[ポツダム宣言受諾に関し瑞西,瑞典を介し連合国側に申し入れ関係](テキスト)」(外交記録A'1.0.0.1「ポツダム宣言受諾関係一件(第1巻)」の内,1945年7月~8月,国立国会図書館所蔵・外務省原所蔵)
アジア歴史資料センターRef.B18090001500「ポツダム宣言受諾に関し瑞西,瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」(外務省外交史料館,34画像)
U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States: Diplomatic Papers, 1945, The British Commonwealth, The Far East, Volume VI, Chapter IX,文書403・406・407・412・430・440・441・448
Documents Diplomatiques Suisses 1848–1975, Volume 16(1997),文書23(DODIS-34)・文書25(DODIS-36),80頁~83頁(PDF151頁~155頁)
Harry S. Truman Library, “The President's News Conference,” August 14, 1945
The National Archives (UK), War Cabinet and Cabinet: Cabinet Secretary's Notebooks, CAB 195/3 transcript,1945年8月10日・14日の記録
1907年ハーグ陸戦規則36条及び同38条(赤十字国際委員会国際人道法データベース)

2 裁判例

最高裁昭和23年5月26日大法廷判決(昭和22年(れ)第73号,不敬,刑集2巻6号529頁。外交経路への言及は真野毅裁判官の意見)
最高裁昭和24年6月13日大法廷判決(昭和23年(れ)第1862号,昭和二二年勅令第一号違反,刑集3巻7号974頁。外交経路への言及は真野毅裁判官の補足意見)
大阪高裁平成15年5月30日判決(平成13年(ネ)第3260号,公式陳謝等請求控訴事件,裁判所ウェブサイト)

3 文献

①植田隆子「帝国政府のポツダム宣言受諾をめぐるスイスの仲介(1945年8月)」『国際法外交雑誌』86巻4号(1987年10月)40頁~70頁