第1 有罪認定の証明度を示す基準
本記事は,刑事裁判で有罪を認定するために必要とされる「合理的な疑いを差し挟む余地がない」という証明の程度について,抽象的な反対可能性との違い,直接証拠と間接証拠の関係及び間接事実による推認の方法を説明するものである。
この基準は,証拠書類をどのような方法で取り調べるか,又は判決をどのように宣告するかを定める手続規定ではない。適法に取り調べられた証拠を評価した結果,犯罪事実を有罪と認定できる程度まで検察官の立証が達しているかを判断する基準である。
第2 刑事訴訟法上の位置付け
1 犯罪の証明がなければ無罪となる
刑事訴訟法317条は事実の認定を証拠によるものとし,同法318条は証拠の証明力を裁判官の自由な判断に委ねる。他方,被告事件について犯罪の証明がないときは,無罪を言い渡さなければならない(同法336条)。
刑事訴訟法は「合理的な疑いを差し挟む余地がない」という文言を条文に置いていないが,最高裁平成19年10月16日第一小法廷決定は,これを有罪認定に必要な立証の程度として示している。この基準は,検察官の立証によって犯罪事実を認定できるかを判断するものであり,被告人側が無罪を証明しなければならないという意味ではない。
2 自由心証主義は恣意的な判断を認めるものではない
証拠の証明力が裁判官の自由な判断に委ねられるとしても,証拠をどのように評価してもよいわけではない。司法研修所刑事裁判教官室の『新プロシーディングス刑事裁判』38頁は,証明力の評価について,論理則及び経験則に合致した合理的な評価でなければならないと説明している。
したがって,有罪認定の理由は,どの証拠からどの事実を認定し,その事実から犯罪事実をどう推認したかという形で検討される。「裁判官が確信した」という主観的な説明だけで,合理的な疑いがないことを示したことにはならない。
第3 抽象的な可能性と合理的な疑いの違い
1 反対事実の可能性を全く残さないことまでは必要でない
最高裁平成19年10月16日決定によれば,「合理的な疑いを差し挟む余地がない」という基準は,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合だけをいうものではない。抽象的には反対事実の存在を想定できても,健全な社会常識に照らしてその疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には,有罪認定が妨げられないという趣旨である。
刑事裁判で要求されるのは,論理上想定できるすべての可能性を消し去ることではない。証拠関係に基づいて具体的に生じる疑いに合理性があるかを検討し,合理的な疑いが残る場合には犯罪の証明があったとはいえないという基準である。
2 証明度を数値で示す基準ではない
最高裁平成19年10月16日決定は,有罪認定に必要な確率を数値で示していない。「合理的な疑いを差し挟む余地がない」は,例えば90%又は99%という一定の数値へ置き換える基準ではなく,具体的な証拠関係を論理則,経験則及び健全な社会常識に照らして評価する質的な基準である。
数値化できないからといって,基準が裁判官の感覚だけに委ねられるわけでもない。認定した事実,証拠の信用性,推認の過程及び反対仮説の合理性を明らかにすることにより,有罪認定の合理性を検証できる形にする必要がある。
3 「常識」という言葉だけで疑いを退けることはできない
最高裁決定がいう健全な社会常識は,証拠上の疑問を「常識に反する」と述べるだけで排斥してよいという意味ではない。証拠と結び付かない仮定を際限なく想定することと,具体的な証拠関係から生じる反対仮説を検討することを区別するための判断枠組みである。
反対仮説が具体的な証拠と整合し,主要な事実を別の形で合理的に説明できる場合,単に発生可能性が低いと感じられることだけで排斥することはできない。反対仮説がどの証拠により支えられ,又はどの証拠と矛盾するかを検討する必要がある。
第4 直接証拠と間接証拠
1 必要な証明の程度は同じである
最高裁平成19年10月16日決定は,「合理的な疑いを差し挟む余地がない」の意義は,直接証拠によって事実認定をする場合と,情況証拠によって事実認定をする場合とで異ならないとする。間接証拠だけの事件であることを理由として,有罪認定に必要な証明の程度が低くなるものではない。
直接証拠は,信用できれば主要事実を直接認定できる証拠である。これに対し,間接証拠は,信用性が認められても主要事実を直ちに認定するものではなく,間接事実を認定した上で,その間接事実から主要事実を推認する過程を伴う。
2 間接事実の推認力と反対仮説を検討する
『新プロシーディングス刑事裁判』40頁~41頁は,間接事実の推認力を検討する際,①その事実が存在すれば主要事実が存在する蓋然性があるといえるかという積極的理由と,②間接事実が存在しても主要事実は存在しないという反対仮説の成立可能性を検討する必要があると説明している。
一つの間接事実だけで主要事実を確実に推認できる場合は限られるため,複数の間接事実を総合することが多い。もっとも,弱い間接事実を多数並べれば当然に合理的な疑いがなくなるわけではなく,各間接事実の認定と推認力を確認した上で,全体として反対仮説を排斥できるかを検討する必要がある。
3 最高裁平成22年4月27日判決
最高裁平成22年4月27日第三小法廷判決は,間接事実による有罪認定について,認定された間接事実の中に,被告人が犯人でないとすれば合理的に説明できないか,少なくとも説明が極めて困難な事実関係が含まれる必要があるとした。
同判決が扱った事件では,最高裁は,そのような事実関係が認められないことなどから,間接事実に関する審理不尽及び事実誤認の疑いがあるとして原判決を破棄し,事件を差し戻した。同判決は,間接証拠の場合に証明度を下げたものではなく,無罪方向の反対仮説を含めて間接事実の推認力を点検する方法を具体化したものと理解できる。
第5 関連する山中弁護士ブログの記事
①刑事事実認定ガイド(司法修習生用の教材)の大部分は不開示情報であることは,司法研修所の刑事事実認定教材に関する情報公開の結果を整理した記事である。
②刑事裁判修習の実際――配属庁で行われる指導の内容(AI作成)は,間接事実の推認力を含む刑事事実認定の指導と,刑事裁判修習の内容を説明している。
③現職の司法研修所刑事裁判教官の名簿は,現在の司法研修所刑事裁判教官を司法修習期及び着任日とともに整理した資料記事である。
第6 出典・参考資料
1 法令
①刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)317条,318条及び336条(e-Gov法令検索)。
2 裁判例
①最高裁平成19年10月16日第一小法廷決定,平成19年(あ)第398号,刑集61巻7号677頁(裁判所ウェブサイト)。
②最高裁平成22年4月27日第三小法廷判決,平成19年(あ)第80号,刑集64巻3号233頁(裁判所ウェブサイト)。
3 公的資料
①司法研修所刑事裁判教官室『新プロシーディングス刑事裁判』(令和8年2月)38頁~41頁(PDF49頁~52頁)。