第1 改正の結論
1 令和8年度は51万円から65万円へ引上げ
令和8年(2026年)4月1日から,在職老齢年金の支給停止調整額は,令和7年度の月額51万円から令和8年度の月額65万円へ引き上げられた。基本月額と総報酬月額相当額の合計が65万円以下であれば,老齢厚生年金の報酬比例部分は在職老齢年金によって支給停止されない。
今回の改正は,在職老齢年金を廃止したものではない。合計額が65万円を超える場合に,超過額の2分の1を老齢厚生年金から支給停止する計算構造は維持されている。改正後の実際の基準額と計算式は,日本年金機構「在職老齢年金制度が改正されました」で確認できる。
2 法律の62万円と実際の65万円は矛盾しない
令和7年法律第74号2条は,厚生年金保険法46条3項の法定基礎額を48万円から62万円へ改めた。もっとも,この62万円は令和6年度価格による制度設計額であり,毎年度の賃金変動等を反映して改定される。
令和8年度については,国民年金法による改定率の改定等に関する政令5条が,厚生年金保険法46条3項本文の「六十二万円」を「六十五万円」と読み替える。したがって,令和8年4月以後の個別計算に用いる額は65万円であり,62万円ではない。厚生労働省の制度説明も,法律成立時の62万円と令和8年4月からの65万円を明確に区別している。
第2 誰のどの年金が調整されるか
1 60歳以上の厚生年金加入者と70歳以上被用者
原則として,60歳以後に老齢厚生年金を受けながら,厚生年金保険の被保険者として働く者が対象となる。65歳未満で特別支給の老齢厚生年金を受ける者にも,同じ支給停止調整額が適用される。
70歳以後は厚生年金保険の被保険者ではなく,厚生年金保険料の負担もない。しかし,厚生年金保険の適用事業所で引き続き使用され,法令所定の要件に該当する場合は,標準報酬月額及び標準賞与額に相当する額を用いて在職支給停止が行われる。厚生年金保険法46条と日本年金機構の計算説明は,70歳の前後をこのように区別している。
2 支給停止の対象に含まれない部分
計算対象となる「基本月額」は,加給年金額を除いた老齢厚生年金の報酬比例部分の月額である。老齢基礎年金,経過的加算額及び繰下げ加算額は基本月額に含まれず,在職老齢年金による支給停止の対象にならない。
ただし,加給年金額は基本月額に含めないものの,計算上の支給停止額が老齢厚生年金の報酬比例部分以上となる場合には,加給年金額を含む老齢厚生年金が全額支給停止となる。したがって,「老齢基礎年金は止まらない」と「加給年金額も常に支給される」を混同してはならない。
第3 令和8年度の計算方法
1 基本月額と総報酬月額相当額
計算では,まず基本月額と総報酬月額相当額を確定する。手取り額又は基本給だけを用いる計算ではない。
①基本月額=加給年金額を除いた老齢厚生年金の報酬比例部分の年額÷12
②総報酬月額相当額=その月の標準報酬月額+その月以前1年間の標準賞与額の合計÷12
厚生年金基金の加入期間がある場合は,基金の代行部分を国が支払うべき年金額とみなして基本月額を算出する。共済組合等からも老齢厚生年金を受ける場合は,各実施機関の老齢厚生年金を合算して基本月額と支給停止総額を計算し,各年金額に応じて停止額を割り振る。
2 計算式と具体例
基本月額をB,総報酬月額相当額をRとすると,令和8年度の計算は次のとおりである。
①B+Rが65万円以下の場合:支給停止額は0円であり,Bを全額支給する。
②B+Rが65万円を超える場合:支給停止額=(B+R-65万円)÷2
③②の支給停止額がB以上の場合:老齢厚生年金の報酬比例部分は全額支給停止となる。
基本月額を10万円とする例は,次のとおりである。金額は月額であり,税金及び社会保険料を考慮しない単純計算である。
| 基本月額B | 総報酬月額相当額R | 合計 | 支給停止額 | 支給される報酬比例部分 |
|---|---|---|---|---|
| 10万円 | 50万円 | 60万円 | 0円 | 10万円 |
| 10万円 | 70万円 | 80万円 | 7万5000円 | 2万5000円 |
| 10万円 | 75万円 | 85万円 | 10万円 | 0円 |
個別の年金証書に記載された年金額と給与明細だけでは,標準報酬月額,直近1年間の標準賞与額,共済組合等からの年金及び基金代行部分を取りこぼすことがある。実額を確認するときは,日本年金機構「在職老齢年金の計算方法」の定義に沿って各項目をそろえる必要がある。
3 65万円は収入が急減する「壁」ではない
合計額が65万円を1円でも超えると年金全額が消える仕組みではない。超過額の2分の1だけを段階的に止めるため,基準超過後も,賃金が2増えるごとに年金が1止まり,賃金と支給年金の合計は1増える構造である。
もっとも,基本月額が小さく,総報酬月額相当額が高い場合は,計算上の支給停止額が基本月額に達して老齢厚生年金が全額停止となり得る。この場合でも,老齢基礎年金及び経過的加算額は全額支給される。
第4 給与,賞与,転職及び退職の注意点
1 賞与は支給月だけでなく直近1年間に影響する
標準賞与額は,その月以前1年間の合計を12で除して毎月の総報酬月額相当額に加える。このため,賞与を受けた月だけ支給停止額が増えるのではなく,その賞与が1年間の計算範囲から外れるまで月割りで影響する。
同時に二つ以上の適用事業所で働く場合は,各事業所の報酬月額を合算して標準報酬月額を決める。日本年金機構「複数の事業所に雇用されるようになったときの手続き」によれば,被保険者本人による所属選択・二以上事業所勤務届も必要となる。
2 変更月,退職改定及び在職定時改定
支給停止額は,総報酬月額相当額が変わった月又は退職日の翌月に変わる。ただし,退職後1か月以内に厚生年金保険へ再加入した場合は,退職による年金額の再計算は行われない。
65歳以上70歳未満で在職する受給者については,原則として毎年9月1日を基準に,前年9月から当年8月までの加入期間を年金額へ加え,10月分から年金額を改定する在職定時改定がある。これに対し,70歳以上の勤務期間は厚生年金保険の被保険者期間ではないため,保険料負担もなく,その期間は年金額の再計算に反映されない。
第5 繰下げ受給,高年齢雇用継続給付及び税制
1 繰下げ受給では支給停止相当額が増額の基礎から外れる
老齢厚生年金を繰り下げても,受給権発生後に在職老齢年金によって支給停止されたはずの部分まで増額されるわけではない。日本年金機構「老齢年金の繰下げ受給を希望している方へのお知らせ」は,65歳以降の在職による支給停止額を差し引いて繰下げ加算額を計算すると説明している。
したがって,年金を請求せずに働けば,在職支給停止を避けた上で全額が繰下げ増額の対象になるという理解は正しくない。繰下げの判断では,在職による停止見込額,老齢基礎年金と老齢厚生年金を別々に繰り下げられること,税金及び医療・介護保険料への影響を分けて検討する必要がある。
2 65歳未満の雇用保険調整と令和9年分からの所得税
65歳未満で特別支給の老齢厚生年金等と高年齢雇用継続給付を受ける場合は,在職老齢年金による停止とは別に,雇用保険給付との調整が生じる。日本年金機構「年金と雇用保険の高年齢雇用継続給付との調整」は,令和7年4月1日以後に支給要件を満たす者について,標準報酬月額の最大4%相当が追加で支給停止となる仕組みを示している。
また,令和8年法律第12号による所得税法改正は,給与所得控除額と公的年金等控除額の合計に280万円の上限を設けたが,適用は令和9年分以後の所得税である。在職老齢年金の65万円基準は令和8年4月施行であるため,両者を同じ適用時期の制度と扱ってはならない。税制の趣旨,計算及び適用時期は,財務省『令和8年度税制改正の解説』127頁~129頁で確認できる。
第6 改正の政策目的,効果及び裁判例の射程
1 就業調整の緩和と年金財政の負担
厚生労働省は,高齢者の就業を後押しし,働き方に中立的な仕組みに近づけることを改正目的としている。厚生労働省「年金制度改正法の概要」4頁(PDF4頁)によれば,62万円という令和6年度価格の額は,年金を受給しながら50歳代の平均的な賃金を得て継続就労する者を念頭に設定された。
同資料の試算では,65歳以後に働く年金受給権者308万人のうち,支給停止者は50万人から30万人へ減り,20万人が新たに老齢厚生年金を全額受給できるとされた。支給停止対象額は約4500億円から約2900億円へ減り,厚生年金の将来の給付水準への影響はマイナス0.2%と試算されている。
2 政策判断をめぐる対立軸
改正を支持する立場は,保険料負担に応じた年金を受け取りやすくし,人手不足の下で高齢者の就業調整を減らす点を重視する。これに対し,反対又は慎重な立場は,比較的高い賃金を得る在職受給者の給付を増やす一方で,将来世代の給付水準をわずかでも低下させるという世代間・所得階層間の配分を問題にする。
なお,厚生労働省は,65歳から69歳の就労意向調査で約3割が年金減額を避けるため勤務時間を調整すると回答したことを根拠の一つに挙げる。しかし,改正前の制度が個々人の労働時間又は退職時期をどの程度変えたかを直接特定する調査には限界があり,制度改正による就業増加の実績は今後の検証課題である。
3 関連する最高裁判例
令和8年度の65万円基準そのものを解釈・適用した公刊裁判例は,確認できない。もっとも,在職者の老齢厚生年金に関係する最高裁判例として,退職改定と被用者年金一元化時の経過措置を扱うものがある。
最高裁平成29年4月21日第二小法廷判決・平成28年(行ヒ)第14号・民集71巻4号726頁は,特別支給の老齢厚生年金の退職改定について,法定の1か月が経過した時点で受給権者であることを要すると判断した。これは退職改定の要件に関する判例であり,令和8年度の支給停止調整額の計算を判断したものではない。
最高裁令和6年9月13日第二小法廷判決・令和4年(行ヒ)第352号,第353号・民集78巻4号1219頁は,被用者年金一元化時の在職支給停止に関する経過措置について,厚生年金保険の被保険者資格は個々の適用事業所ごとに把握されると判断した。これも特定の経過措置の解釈であり,一般の在職老齢年金について同一法人内の異動が常に支給停止を生じさせると判示したものではない。
第7 関連記事
弁護士の社会保険(AIリライト)では,弁護士の就労形態と健康保険・厚生年金保険の関係を整理している。
平成21年度から令和6年度までの最高裁民事破棄判決の分析(AI作成)では,社会保障・年金分野を含む最高裁民事破棄判決の位置付けを整理している。
第8 出典・参考資料
1 法令
①社会経済の変化を踏まえた年金制度の機能強化のための国民年金法等の一部を改正する等の法律(令和7年法律第74号)2条(PDF7頁),附則1条(PDF54頁)
③国民年金法による改定率の改定等に関する政令(平成17年政令第92号,令和8年政令第75号による改正後)5条(令和8年3月27日改正政令公布)
2 行政資料及び立法資料
①日本年金機構「在職老齢年金制度が改正されました」(令和8年4月1日更新)
②日本年金機構「在職老齢年金の計算方法」(令和8年4月1日更新)
③日本年金機構「複数の事業所に雇用されるようになったときの手続き」(令和7年12月25日更新)
④日本年金機構「老齢年金の繰下げ受給を希望している方へのお知らせ」(令和8年4月1日更新)
⑤日本年金機構「年金と雇用保険の高年齢雇用継続給付との調整」(令和7年4月1日更新)
⑥厚生労働省「在職老齢年金制度の見直しについて」(令和8年2月12日資料修正)
⑦厚生労働省「年金制度の仕組みと考え方 第10 在職老齢年金・在職定時改定」
⑧厚生労働省年金局「社会経済の変化を踏まえた年金制度の機能強化のための国民年金法等の一部を改正する等の法律(令和7年法律第74号)の概要等」(第25回社会保障審議会年金部会資料1,令和7年6月30日)4頁(PDF4頁)
⑨財務省『令和8年度税制改正の解説』「所得税法等の改正」127頁~129頁(PDF39頁~41頁)
3 裁判例
①最高裁平成29年4月21日第二小法廷判決・平成28年(行ヒ)第14号,民集71巻4号726頁,判例時報2340号64頁
②最高裁令和6年9月13日第二小法廷判決・令和4年(行ヒ)第352号,第353号,民集78巻4号1219頁,判例時報2618号5頁,判例タイムズ1529号44頁