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サンフランシスコ平和条約第2条はなぜ領土の帰属先を書かなかったのか|台湾、千島・南樺太及び南沙・西沙の起草過程

第1 結論――日本の権利を消滅させ,帰属問題を条約の外へ残した

1 「帰属先なし」は書き忘れではない

サンフランシスコ平和条約第2条が台湾,千島列島・南樺太及び新南群島・西沙群島の帰属先を書かなかったのは,日本の権利,権原及び請求権を放棄させることについては合意できた一方,誰に帰属させるかについて連合国間の一致を得られなかったからである。

昭和26年6月11日の米仏協議で,ジョン・フォスター・ダレス米国国務長官顧問は,対日平和条約を日本の権利の清算に限定し,その後の処理方法へ踏み込まない方がよいと説明した。

同月14日の改訂米英共同草案は,台湾,千島列島・南樺太及び新南群島・西沙群島の全てを,特定国への「返還」又は「譲渡」ではなく,日本による「放棄」で統一した。

本記事では,この仕組みを,日本から領土上の権原を取り去る消極的処理と,取得国を決める積極的処理とを分離したものと整理する。

2 三つの地域で事情は同じではない

もっとも,「連合国間の不一致」という共通点だけで,三つの地域を同じ経緯として扱うことはできない。

第2条が帰属先を書かなかった地域別の起草事情
地域草案で問題となった積極的処理帰属先を書かなかった主な事情最終条文
台湾・澎湖諸島中国への移転中国代表問題,台湾の将来処理をめぐる米英その他の立場の相違第2条(b)で日本の放棄のみ
千島列島・南樺太ソ連への返還又は譲渡ソ連が条約当事国とならない可能性,第25条との関係,台湾との取扱いの均衡第2条(c)で日本の放棄のみ
新南群島・西沙群島フランス又は中国側への帰属フランスと中国の間に帰属争いがあり,条約では日本の主張だけを清算する必要第2条(f)で日本の放棄のみ

3 本記事の射程

本記事は,昭和25年の米国の条約構想から昭和26年9月8日の署名までを対象とし,第2条(b),(c)及び(f)の文言が成立した経緯を扱う。

現在の台湾の法的地位,北方領土問題並びに南シナ海における各国の領有権主張の当否は,平和条約の一条文だけで判断できないため,本記事の対象外とする。

既存の「ポツダム宣言第8項の意味――カイロ宣言,領土処理とサンフランシスコ平和条約」は条文の法的効果と現在の政府見解を担当し,本記事は草案間の変化と交渉理由を担当する。

第2 第2条と第25条を先に読む

1 第2条は日本の「放棄」を定めた

日本国との平和条約は昭和26年9月8日に署名され,昭和27年4月28日に発効した。

国立公文書館所蔵の公布原本によれば,第2条(b)は台湾及び澎湖諸島,第2条(c)は千島列島並びにポーツマス条約によって日本が主権を取得した南樺太及び隣接諸島,第2条(f)は新南群島及び西沙群島に対する日本の全ての権利,権原及び請求権の放棄を定める。

いずれの条項にも,その地域を特定国へ「譲渡する」,「返還する」又は特定国の主権を「承認する」という文言はない。

2 第25条は非締約国へ条約上の利益を与えない

第25条は,原則として,日本と戦争状態にあり,条約に署名して批准した国を条約上の「連合国」と定義し,第21条の例外を除いて,その要件を満たさない国に条約上の権利,権原又は利益を与えないと定めた。

ソ連はサンフランシスコ会議に出席したが条約へ署名せず,中華人民共和国と中華民国はいずれもこの多国間条約の署名国とならなかった。

したがって,第2条の放棄と第25条を合わせて読んでも,条約が台湾又は千島列島・南樺太を特定の非締約国へ譲渡したという文言にはならない。

もっとも,このことは日本が第2条で放棄した権利を保持し続けたことや,他国の権原が当然に否定されたことを意味しない。

3 「放棄」と「帰属決定」は別の問いである

第2条から直接確認できるのは,日本が列挙された地域に対する権利等を放棄したことである。

これに対し,放棄後の地域が誰に帰属するかは,戦時中の連合国間文書,他の条約,国家実行及び各当事者の主張を含む別の検討を要する。

したがって,「帰属先がないから無主地となった」,又は「帰属先がないから日本領のままである」という二つの説明は,いずれも第2条の文言だけからは導けない。

第3 草案は「返還・譲渡」から「一律の放棄」へ変わった

1 昭和25年の米国構想

昭和25年9月の米国の対日講和七原則は,昭和26年6月1日の米国務省作業文書に引用された各国意見によれば,台湾・澎湖諸島,南樺太及び千島列島の地位を米英ソ中の四か国が将来決定する構想を示していた。

他方,同年10月の米国務省文書は,西沙群島及び新南群島についてフランスと中国の間に権原争いがあるとし,対日平和条約ではこれらに言及しない方針を示していた。

この段階では,後の第2条(f)に当たる南シナ海の島しょを条約へ入れること自体が未確定であった。

2 昭和26年1月から5月までの草案

昭和26年1月12日の米英協議記録では,米国は台湾について日本の請求権を放棄させるだけで最終的処理を示さず,ソ連が条約当事国となる場合を除いて南樺太及び千島列島にも言及しない考えを説明した。

同年3月23日の米国暫定草案第3条は台湾・澎湖諸島を日本の放棄だけで処理したが,第5条は南樺太をソ連へ返還し,千島列島をソ連へ引き渡すと定めていた。

同年5月3日の米英共同草案も,台湾・澎湖諸島について英国の留保を付した放棄条項を置く一方,第4条で千島列島及び南樺太をソ連へ譲渡すると定めた。

この時点では,台湾は「放棄のみ」,千島列島・南樺太は「特定国への譲渡」であり,地域によって処理が異なっていたのである。

3 昭和26年6月14日の転換

昭和26年6月11日の米仏協議記録では,フランス側が,ソ連が署名しない場合の南樺太・千島列島と非締約国条項との関係を問題とし,これらを台湾等と同じ放棄条項へ入れる案を示した。

ダレスはこの案を好意的に検討すると答え,領土問題を国連へ委ねる構想にも強い反対があるため,条約を日本の権利の清算に限定して将来の処理へ踏み込まない方がよいと説明した。

同月14日の改訂米英共同草案は,台湾・澎湖諸島,千島列島・南樺太,新南群島・西沙群島の全てについて,日本が権利,権原及び請求権を放棄するという最終条約と同じ骨格を採用した。

サンフランシスコ平和条約領土条項の草案変遷
草案・文書台湾・澎湖諸島千島列島・南樺太新南群島・西沙群島
昭和25年10月の米国文書将来処理の対象将来処理の対象条約で言及しない
昭和26年3月23日米国草案日本の放棄ソ連へ返還・引渡し規定なし
昭和26年5月3日米英草案日本の放棄,英国留保ソ連へ譲渡規定なし
昭和26年6月14日米英草案日本の放棄日本の放棄日本の放棄
昭和26年9月8日最終条約第2条(b)第2条(c)第2条(f)

第4 台湾・澎湖諸島――「中国」を一国に確定できなかった

1 米国は当初から台湾の将来を書かない方針を示した

昭和26年3月21日の米国務省会議記録は,日本が台湾の権原を放棄し,台湾の将来には言及しないというダレスの説明を記録している。

同月30日の米英協議で,英国は日本が台湾を「中国」へ譲渡する文言を提案したが,ダレスは,条約によって台湾への国際的関心を直ちに閉ざさないことが重要であると答えた。

台湾の放棄先を書かない案は,最終段階の偶然ではなく,少なくとも昭和26年初めから米国が明示していた政策である。

2 中華人民共和国と中華民国のいずれも共同署名国にならなかった

当時,英国は中華人民共和国政府の平和条約参加を求めた一方,米国は朝鮮戦争下でその参加に反対し,どちらの政府が中国を代表して多国間平和条約を締結するかについて連合国内に一致がなかった。

昭和26年6月19日の米英共同声明案は,中国全体を拘束できる政府について共通の立場がないため,中国の共同署名なしに多国間条約を進めることとし,条約自体は台湾及び澎湖諸島の将来を決定しないと明記した。

したがって,「中国へ返還する」とだけ書いても,誰が受領主体となり,どの政府を中国代表として扱うかという問題を解消できなかった。

3 明記を求める反対意見も強かった

昭和26年6月1日の米国務省作業文書によれば,中華民国政府は,台湾について日本の放棄だけを定めながら南樺太・千島列島をソ連へ与えるのは中国への差別に見えると批判した。

同政府は,台湾・澎湖諸島の中華民国への返還を明記しないなら,南樺太・千島列島も単純な放棄へ改めるべきであると主張した。

インド政府も,カイロ宣言に沿って台湾・澎湖諸島を中国へ譲渡すべきであると主張した。

これに対し,カナダ政府は,とりわけ台湾の処分が対日講和を超える国際問題となったため,日本には旧領土を放棄させ,帰属は条約外で決める案を支持した。

最終条文は,中華民国及びインドが求めた積極的な中国帰属ではなく,カナダ案に近い一律の放棄方式を採用したことになる。

第5 千島列島・南樺太――ソ連への明文の譲渡が削られた

1 初期草案にはソ連が帰属先として書かれていた

昭和26年3月23日の米国草案は,南樺太をソ連へ「返還」し,千島列島をソ連へ「引き渡す」と定めていた。

同年5月3日の米英共同草案も,千島列島並びに南樺太及び隣接諸島をソ連へ譲渡すると定めていた。

したがって,最終条約がソ連を帰属先として書かなかったことを,起草者がソ連への帰属を一度も検討しなかった結果と説明することはできない。

2 ソ連が非締約国となる場合と第25条が問題となった

昭和26年3月21日の米国務省会議では,ソ連が条約を受諾しない場合,南樺太及び千島列島への言及を全部削るか再検討するとの方針が示されていた。

同年6月11日の米仏協議で,フランス側は,ソ連への譲渡条項を非締約国へ利益を与えない条項と合わせて読むと,ソ連が署名しない場合に日本へ主権が残るようにも読めるという問題を指摘した。

この指摘を受けた改訂草案は,ソ連への譲渡を削り,日本の放棄だけを定める方式へ変わった。

後の最終条約第25条に相当する非締約国条項との関係を明確にし,条約当事国とならない可能性のあるソ連へ条約上の権原を直接与えないことが,文言変更の重要な理由であったと考えられる。

3 台湾との均衡も変更を後押しした

中華民国政府は,台湾を単純な放棄とするなら南樺太・千島列島も同じ方式にすべきであると主張した。

カナダ政府も,旧日本領を一貫した方法で扱わなければ,特定地域を差別的に扱ったとの批判を招くとして,一律の放棄を提案した。

もっとも,米国務省の作業文書は,ソ連が条約当事国となるなら南樺太・千島列島に対するソ連の法的権利を疑う理由はないとの見方も示していた。

この反対方向の記録に照らすと,最終条文からソ連名が消えたことを,米英がヤルタ協定又はソ連の主張を全面的に否定した証拠として扱うのは行き過ぎである。

4 千島列島の範囲も条約で確定しなかった

昭和26年6月11日の米仏協議で,ダレスは,歯舞群島及び色丹島は歴史的に千島列島の一部ではないと米国が考えていると述べた一方,ソ連が現に占領しているため,条約で問題を先鋭化させず,後の仲裁又は国際司法裁判所の判断へ残す方がよいと説明した。

これは当時の米国側の交渉方針を示す資料であり,現在の北方領土問題の法的結論それ自体ではない。

第6 新南群島・西沙群島――日本の主張だけを後から清算した

1 昭和25年の構想では条約に入れない予定であった

昭和25年10月の米国務省文書は,西沙群島及び新南群島の権原がフランスと中国の間で争われており,日本による新南群島への請求も条約で扱うほど重要ではないとして,条約に言及しない方針を示していた。

これは,最終条約第2条(f)が当初から当然に置かれていた条項ではないことを示す。

2 米仏協議の三日後に放棄条項が現れた

昭和26年6月11日の米仏協議で,フランス側代表は海南島の東にある二つの島を取り上げ,日本に請求権を放棄させるよう求めた。

ダレスはこの領土問題を知らないとして説明文書の提出を求めたが,その説明文書自体は公刊された協議記録に収録されていない。

三日後の改訂米英共同草案には,日本が新南群島及び西沙群島への全ての権利,権原及び請求権を放棄する条項が初めて確認できる。

この近接した時系列から,フランス側の問題提起が第2条(f)の追加を促した可能性は高いが,六月十一日に言及された二つの島と最終条項との同一性を公刊記録だけで確定することはできない。

3 フランスと中国の争いを条約で決めなかった

昭和26年10月26日の参議院特別委員会における西村熊雄外務省条約局長の逐条説明は,新南群島について昭和8年以降に日本とフランスの間で先占権をめぐる紛争があり,日本が昭和14年に一方的に台湾高雄市の管轄へ編入したと説明した。

同説明は,西沙群島について日本が領有権を主張した事実はなく,フランスと中国の間で帰属が未決であったとも述べている。

このため,第2条(f)は,フランス又は中国のいずれかへ島しょを与える条項ではなく,日本の既存又は潜在的な主張を戦後処理から取り除く条項として理解するのが文言と起草経緯に適合する。

第7 当時の日本政府はどう説明したか

1 連合国間に意見の一致がなかった

昭和26年10月26日の参議院特別委員会で,西村条約局長は,台湾・澎湖諸島及び千島列島・南樺太について,日本の領土権放棄だけを定めて最終帰属を条約上規定できなかったのは,最終帰属について連合国間に意見の一致がなかったからであると説明した。

同説明は,米英代表がサンフランシスコでこの理由を説明したとも述べている。

これは条約署名直後の日本政府による公式の逐条説明であり,「帰属先なし」が単なる起草ミスではなく,未合意を処理するための意図的な構造であったことを裏付ける。

2 独立回復を帰属合意まで遅らせなかった

領土の最終帰属を全て確定しようとすれば,中国代表問題,ソ連の参加問題及び地域ごとの対立を解くまで,対日平和条約全体の成立を待つ必要があった。

米国は簡潔で非懲罰的な条約によって日本の主権を早期に回復させる方針を採り,台湾の将来処理を理由に講和全体を遅らせないことを重視した。

この点は,「サンフランシスコ講和はなぜ全面講和でなく多数国講和になったのか」で扱った多数国講和の選択と同じ背景を持つ。

したがって,第2条の簡潔な放棄方式は,領土問題の完全解決より,日本の戦争状態の終了と主権回復を先行させる講和設計の一部であったと考えられる。

第8 よくある説明のどこに注意が必要か

1 「戦時中の宣言で帰属は全て決まっていた」とはいえない

カイロ宣言は台湾・澎湖諸島の中華民国への返還方針を示し,ヤルタ協定は南樺太・千島列島についてソ連側の要求を定めていた。

これらは起草交渉で重要な根拠として主張されたが,最終条約の文言は,それぞれの取得国を積極的に記載しなかった。

したがって,戦時中の政治的取決めの存在と,平和条約が誰へ権原を移転したかという問いは区別する必要がある。

2 「帰属先がないから日本が放棄していない」とはいえない

第2条(b),(c)及び(f)は,日本が全ての権利,権原及び請求権を放棄すると明記している。

帰属先の不記載は,積極的な取得国の決定を留保したものであり,日本による放棄自体を取り消すものではない。

3 「曖昧さを意図した」という表現は地域ごとに分ける

台湾については,米英共同声明案が条約自体は将来を決定しないと明記しており,非決定は明確な政策であった。

千島列島・南樺太については,ソ連への明文の譲渡を置いた草案が非締約国問題と一律処理の要請によって放棄方式へ変わった。

新南群島・西沙群島については,帰属争いを決めるより,日本の主張を取り除くことが条約の役割となった。

三地域を一括して「意図的な曖昧化」と呼ぶより,それぞれの未合意を同じ放棄形式で処理したと説明する方が正確である。

4 第2条は現在の領土紛争を単独で解決する条文ではない

第2条の起草経緯から確認できるのは,日本の権利を清算することと帰属先を決めることが切り離された点である。

現在の領有権を判断するには,関係する後続条約,外交文書,国家実行及び各国政府の立場を地域ごとに確認する必要がある。

このため,本記事は特定国の現在の領有権を肯定又は否定する根拠としてではなく,サンフランシスコ平和条約が何を決め,何を決めなかったかを確認する資料として読むべきである。

第9 関連記事

1 条約全体及び講和方式

日本国との平和条約とは何か――署名・発効,主権回復及び全27条の法的構造
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ポツダム宣言第8項の意味――カイロ宣言,領土処理とサンフランシスコ平和条約

第10 出典

1 条約及び同時代資料

国立公文書館「日本国との平和条約及び関係文書・御署名原本」
米国国務省FRUS 1951, Document 472(昭和26年1月12日米英協議)
米国国務省FRUS 1951, Document 536(昭和26年3月21日米国務省会議)
米国国務省FRUS 1951, Document 537(昭和26年3月23日米国暫定草案)
米国国務省FRUS 1951, Document 540(昭和26年3月30日米英協議)
米国国務省FRUS 1951, Document 570(昭和26年5月3日米英共同草案)
米国国務省FRUS 1951, Document 585(昭和26年6月1日作業文書・各国意見)
米国国務省FRUS 1951, Document 593(昭和26年6月11日米仏協議)
米国国務省FRUS 1951, Document 596(昭和26年6月14日改訂米英共同草案)
米国国務省FRUS 1951, Document 598(昭和26年6月19日米英共同声明案)
米国国務省FRUS 1950, Document 774(昭和25年10月の対日講和説明)
第12回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会第4号・昭和26年10月26日

2 確認上の留意点

FRUSは米国政府が公刊した外交文書集であり,そこに収録された各国政府の意見は,米国側が保存・編集した記録として用いた。

昭和26年6月11日の米仏協議で要求された説明文書は公刊記録に収録されていないため,同協議と三日後の第2条(f)追加との直接の因果関係は,確認できた時系列を超えて断定していない。