第1 結論と本記事の対象
破産直前の賃金支払は,賃金であるというだけで否認を免れるわけではないが,破産直前に行われたというだけで直ちに否認されるものでもない。
所定の給料日に,賃金規程等に従って適正額を通常の方法で支払った場合,その支払が支払不能前であれば,破産法162条による否認の可能性は一般に低いと考えられる。
他方,支払不能後又は破産手続開始の申立て後に,既に発生している未払賃金を一部の従業員へ支払い,従業員が支払不能,支払停止又は申立てを知っていた場合には,否認の対象となり得る。
期限前払,通常と異なる支払方法,賃金額を超える代物弁済又は過大な担保設定についても,通常の給料日における金銭払とは別に検討する必要がある。
本記事は,令和8年8月29日現在の日本法を前提として,使用者が自己の破産前に従業員の既存の賃金債権を弁済する場面を扱う。
労働者自身が破産する場合の給料の取扱い,民事再生及び会社更生における否認並びに未払賃金立替払制度の手続詳細は対象としていない。
第2 破産法162条による否認の要件
1 支払不能後又は破産申立て後の賃金支払
破産法162条1項1号は,既存債務についてされた担保供与又は債務消滅行為のうち,支払不能後又は破産手続開始の申立て後にされたものを,一定の主観的要件の下で否認の対象としている。
未払賃金の支払は既存の賃金債務を消滅させる行為であるため,同号の対象となり得る。
支払不能後の支払については,従業員が,会社が支払不能であったこと又は支払停止があったことを知っている必要がある。
申立て後の支払については,従業員が破産手続開始の申立てがあったことを知っている必要がある。
「支払不能」は,債務者が支払能力を欠くため,弁済期にある債務を一般的かつ継続的に弁済できない状態をいう。
単なる資金繰りの悪化だけで直ちに支払不能となるわけではないが,全社的な支払停止,不渡り,営業停止又は破産申立ての告知は,支払不能や従業員の認識を判断する重要な資料となる。
2 支払不能前30日以内の期限前払
破産法162条1項2号は,支払不能になる前30日以内にされた行為であっても,その行為又は支払時期が会社の義務に属しない場合には,否認の対象となり得るとしている。
例えば,翌月末に支払うべき賃金を,会社の破綻が近いことを理由として一部の従業員だけへ前払いした場合が問題となる。
この類型では,受領した従業員が,その行為によって他の破産債権者を害することを知らなかったときは否認されない。
所定の支払期日における賃金支払は,通常は会社の義務に属する時期の支払であるため,同号による期限前払の否認には当たりにくい。
なお,労働基準法25条による非常時払など,支払期日前の支払について別の法的根拠がある場合には,その要件及び対象となる既往の労働に対する賃金を確認する必要がある。
単に通常の給料日より前に支払われたという外形だけから,会社の義務に属しない期限前払であると断定することはできない。
3 一般従業員と内部者の違い
一般の従業員であるというだけで,支払不能又は破産申立てについて悪意であったと推定されるわけではない。
破産管財人が否認を主張する場合には,支払時期,従業員への説明,不渡りや閉店の認識その他の具体的事実が問題となる。
もっとも,取締役を兼ねる者,会社を支配する者,破産者の親族又は同居者など,破産法161条2項及び162条2項に定める者については,悪意の推定が問題となる。
社内で「管理職」と呼ばれていることだけで直ちに同項所定の者となるわけではなく,役員兼務,議決権,親族関係その他の実質的な地位を確認する必要がある。
第3 賃金債権の順位が否認に与える影響
1 破産手続開始前3か月間の給料等
破産法149条1項は,破産手続開始前3か月間の使用人の給料請求権を財団債権としている。
同条2項は,破産手続終了前に退職した使用人の退職手当についても,同項所定の限度額を財団債権としている。
財団債権は,破産法151条により破産債権に先立って弁済される。
しかし,財団債権であることは破産手続上の弁済順位を示すものであり,開始前の個別弁済が当然に否認されなくなることまでは意味しない。
2 財団債権とならない賃金
財団債権とならない賃金債権には,民法306条2号及び308条による一般の先取特権が認められる。
そのため,破産手続では,破産法98条に基づく優先的破産債権となる。
優先的破産債権は,一般の破産債権より配当順位が高いが,破産財団から自由に取り立てられる別除権ではない。
したがって,「賃金は優先される」ということと,「破産直前に個別弁済を受けても否認されない」ということは区別する必要がある。
3 財団の充足状況と有害性
破産財団が手続費用その他の財団債権を含めて全額を弁済できることが確実であり,支払われた賃金も破産法149条の財団債権となる適正額であった場合,当該支払による実質的な有害性は小さいという主張が考えられる。
適正な賃金を支払うことで会社財産は減るが,それと同額の財団債務も消滅するためである。
もっとも,本記事の作成に当たって確認した裁判例の範囲では,この事情だけから現行破産法162条による否認を当然に否定した直接の最高裁判例は確認できなかった。
財団債権該当性だけでなく,財団の充足状況,競合する財団債権,支払時期,支払方法及び従業員の認識を併せて検討する必要がある。
破産法152条は,破産財団が財団債権の総額を弁済するのに足りないことが明らかになった場合,原則として債権額の割合により弁済するとしている。
財団不足の状態で一部の従業員だけが全額を受領した場合には,他の財団債権者への影響が生じるため,「いずれ全額を受け取れた賃金を先に受け取っただけである」という説明は成り立ちにくくなる。
第4 賃金支払に関係する裁判例
1 支払停止後に未払給料等を受領した事例
広島高裁岡山支部昭和38年10月4日判決(昭和37年(ネ)第146号,高裁民集16巻7号551頁)は,会社が支払を停止した後,従業員がその事実を知りながら未払給料及び賞与の一部として各5万円を受領した事案を扱った。
同判決は,給料等の債権に優先権があっても,それは配当手続における優先順位を与えるものであり,別除権を認めるものではないとして,否認による返還請求を認めた。
同判決は,労働法上の賃金支払義務も,否認権の行使を当然に排除する根拠にはならないと判断した。
もっとも,旧破産法下の判決であり,現行破産法149条が一定の給料等を財団債権としたことによる影響を直接判断したものではない。
2 賃金支払資金の借入れのために担保を設定した事例
最高裁昭和43年2月2日第二小法廷判決(昭和40年(オ)第897号,民集22巻2号85頁)は,危殆状態にある会社が,従業員の給料支払資金30万円を借り入れるため,唯一の不動産を譲渡担保に供した事案を扱った。
最高裁は,借入金が優先権のある給料債権の支払に使用された場合でも,担保目的物の価額と被担保債権額との間に合理的な均衡がなければ,特別の事情がない限り,否認の対象となり得るとした。
この判決が直接判断したのは,従業員への賃金支払そのものではなく,その資金を調達するための担保設定である。
それでも,賃金支払という目的だけでは,過大な担保設定まで当然に正当化されないことを示している。
3 旧法判例を現行法へ用いる場合の限界
前記2件はいずれも旧破産法下の判決であるため,現行破産法160条,162条及び149条の各要件へそのまま置き換えることはできない。
現在の事案では,旧法判例が示す「賃金の優先性だけでは当然の免責理由にならない」という点を参照しつつ,現行法上の危機時期,主観的要件,財団債権該当性及び有害性を別途検討する必要がある。
第5 支払類型ごとの確認事項
同じ「破産直前の賃金支払」でも,支払時期,支払方法及び財団の状況によって検討事項が異なる。
次の表は一般的な初期整理であり,個別の支払について否認の成否を確定するものではない。
| 支払の状況 | 主な確認事項 |
|---|---|
| 支払不能前に,所定の給料日,適正額及び通常の振込方法で支払った | 通常は破産法162条1項1号の危機時期に当たらず,同項2号の期限前払にも当たりにくい |
| 支払不能後に通常の賃金を支払い,従業員が支払不能又は支払停止を知っていた | 破産法162条1項1号による否認の対象となり得る |
| 破産申立て後に支払い,従業員が申立てを知っていた | 破産法162条1項1号による否認の対象となり得る |
| 支払不能前30日以内に,一部の従業員だけへ期限前払をした | 破産法162条1項2号の要件と,従業員が他の破産債権者を害することを知っていたかを確認する |
| 財団債権を全額弁済できないのに,一部の従業員だけへ全額を支払った | 他の財団債権者への影響及び支払の有害性を確認する |
| 賃金額を上回る価値の財産を代物弁済した | 超過部分について破産法160条2項による否認が問題となる |
| 賃金支払資金の借入れのため,高価な財産を担保に入れた | 借入額と担保価値との合理的な均衡を確認する |
第6 返還を求められた場合と保存すべき資料
1 否認された場合の賃金債権
破産法169条によれば,破産法162条1項の行為が否認され,従業員が受領額を返還し,又はその価額を償還したときは,消滅していた賃金債権が原状に復する。
従業員は返還によって賃金債権自体を失うわけではないが,その後に全額の弁済又は配当を受けられるかは,財団債権又は優先的破産債権の該当範囲と破産財団の状況によって異なる。
2 否認権を行使できる期間
破産法176条により,否認権は,破産手続開始の日から2年を経過したとき,又は否認しようとする行為の日から10年を経過したときは行使できない。
もっとも,返還請求を受けた段階で直ちに期間経過を判断できるとは限らないため,破産手続開始日,支払日及び請求の法的根拠を確認する必要がある。
3 会社側と従業員側で確認する資料
会社側では,①賃金規程及び雇用契約書,②賃金台帳及び給与計算資料,③支払対象者の選定経緯,④支払時点の資金繰り表及び預金履歴,⑤不渡り,支払停止及び破産申立ての日,⑥財団債権の見込額を確認する必要がある。
これらは,支払が所定の給料日における通常の弁済であったか,財団不足の下で一部の従業員だけを優遇したものかを区別する資料となる。
従業員側では,①雇用契約書及び就業規則,②給与明細,③預金通帳又は振込記録,④未払期間を示す資料,⑤会社から受けた経営状況又は破産申立てに関する説明を保存することが考えられる。
従業員が支払不能,支払停止又は申立てを知っていたかが争われる場合には,説明の日時及び具体的な内容が重要となる。
否認権の一般的な類型及び行使方法は「否認対象行為」に,破産手続における財団債権その他の取扱いは「倒産事件の実務メモ―破産・個人再生・私的整理(AIリライト)」に整理している。
本記事と併せて読む場合も,賃金支払については本記事の時期及び債権区分の分岐を優先して確認する必要がある。
第7 出典・参考資料
1 法令
①破産法(平成16年法律第75号)2条,98条,149条,151条,152条,160条,161条,162条,163条,169条及び176条
②民法(明治29年法律第89号)306条及び308条
③労働基準法(昭和22年法律第49号)24条及び25条
2 裁判例
①広島高裁岡山支部昭和38年10月4日判決(昭和37年(ネ)第146号,高裁民集16巻7号551頁)
②最高裁昭和43年2月2日第二小法廷判決(昭和40年(オ)第897号,民集22巻2号85頁)
3 所管行政機関の解説・運用資料
①厚生労働省「労働債権確保のための手引・改訂版(令和8年)」資料上の8頁~12頁(PDFビューア上の9頁~13頁)
②厚生労働省「従業員が給料を前借りしたいと申し出てきました。前例がないので,どのような点に気を付ければよいのでしょうか?」
4 その他の文献
①伊藤眞ほか『条解破産法〔第3版〕』(弘文堂,2020年)1069頁,1117頁及び1129頁~1140頁
②山本和彦・小久保孝雄・中井康之編『破産法コンメンタール』(日本評論社,2014年)367頁~375頁
③小川秀樹編著『一問一答 新しい破産法』(商事法務,2004年)198頁~202頁