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イタリアの休戦協定とは何か――日本・ドイツの降伏文書との法的性質の比較(AI作成)

第1 この記事が扱う対象

本稿は,第二次世界大戦の終盤にイタリアが連合国との間で結んだ休戦協定,すなわちカッシビレ休戦(1943年9月3日),長期休戦協定(1943年9月29日)及びその1943年11月9日改定議定書を対象とし,一次資料に基づいてその内容を整理するものである。

日本の降伏文書及びドイツの降伏文書の内容は,本ブログの別稿が既に詳細に扱っている。
本稿は,これらの内容の再説明ではなく,イタリアの資料の整理を中心に置きつつ,日本・ドイツ・イタリアという3か国の降伏の法的性質を分けた要因を検討することを目的とする。

3か国の降伏は,いずれも「無条件降伏」という言葉で語られることがある。
しかし,降伏文書自体の文言,交渉相手となった政府の存廃及び占領統治の方式は,国によって大きく異なる。
本稿は,この違いを説明する国際法上の概念であるdebellatio(完全征服による国家消滅)を軸に,3か国を比較する。

第2 イタリアの休戦協定――交渉による段階的な降伏

1 カッシビレ休戦(1943年9月3日)

1943年7月25日にムッソリーニが失脚し,ピエトロ・バドリオ元帥が後継の首相に就任すると,バドリオ政権は連合国との休戦交渉を秘密裏に開始した。
交渉の結果,1943年9月3日,シチリア島カッシビレにおいて,バドリオの代理であるジュゼッペ・カステッラーノ准将と,アイゼンハワー最高司令官の代理であるウォルター・ベデル・スミス少将が休戦協定に署名した。

エール・ロー・スクールのAvalon Projectが公開する英語正文の冒頭は,次のとおりである。

“The following conditions of an Armistice are presented by General Dwight D. Eisenhower, Commander-in-Chief, of the Allied Force, acting by authority of the Governments of the United States and Great Britain and in the interests of the United Nations, and are accepted by Marshal Pietro Badoglio, head of the Italian Government.”

正文自体には調印時刻の記載がない。
もっとも,米陸軍公式戦史(Garland, Albert N. and Smyth, Howard McGaw, Sicily and the Surrender of Italy, 1965年)第25章は,連合国軍最高司令部(AFHQ)の調印現場議事録及びアイゼンハワー総司令官日誌を典拠として,調印時刻を1943年9月3日17時15分(現地時間)と記録している。

協定第10条は連合国軍事政府(AMGOT)設置の法的根拠を定め,第12条は政治・経済・財政上の条件を後日通知する旨を定めるにとどまり,末尾には「英語を公定訳文とする(The English will be considered the official text.)」と明記されている。
協定の公表は1943年9月8日18時30分(イタリア時間)に行われたが,アイゼンハワーが英語放送で「unconditionally」という語を用いて発表したのに対し,バドリオはイタリア放送協会(EIAR)を通じて「休戦を要請した(ha chiesto un armistizio)」とだけ発表しており,公表の時点から両者の表現には既に食い違いがあった。

2 長期休戦協定(1943年9月29日)

短期休戦協定の第12条が予告していた詳細条件は,1943年9月29日,マルタ島沖に停泊した英戦艦ネルソン上で調印された。
この文書には,カッシビレ休戦とは異なり,バドリオ元帥本人とアイゼンハワー大将本人が署名している。

Avalon Projectが公開する正文によれば,第1条(A)は「イタリアの陸海空軍は,現在所在する場所を問わず,ここに無条件降伏する(The Italian land, sea and air forces wherever located hereby surrender unconditionally.)」と定める。
第29条はムッソリーニの引渡しを,第37条は連合国管理委員会の設置をそれぞれ定めている。

3 1943年11月9日改定議定書――「無条件」という語の挿入と削除

1943年11月9日,イタリア南部ブリンディジにおいて,バドリオと,アイゼンハワー最高司令官の代理であるノエル・マクファーレンとの間で,長期休戦協定を改める議定書が署名された。
Avalon Projectが公開する正文によれば,この議定書は,文書の名称を「イタリア降伏文書(Instrument of Surrender of Italy)」から「イタリア休戦追加条件(Additional Conditions of Armistice with Italy)」へ変更するとともに,前文にソヴィエト政府を当事者として追加し,次の2つの修正を同時に行っている。

第一に,前文第6項の「受諾された(accepted)」という語と「バドリオ元帥によって(by)」という語の間に,「無条件に(unconditionally)」という語を挿入した。
第二に,第1条(A)からは逆に「無条件に(unconditionally)」という語を削除し,同条を「イタリアの陸海空軍は,現在所在する場所を問わず,ここに降伏する(The Italian land, sea and air forces wherever located hereby surrender.)」という文言に改めた。

すなわち,同じ1つの議定書が,前文には「無条件」という語を新たに書き加えながら,条文本体からは同じ語を削除するという,一見すると相反する操作を行っている。
この議定書は,1947年2月10日調印の対イタリア平和条約が1947年9月15日に発効したことに伴って効力を失った。

第3 イタリアの統治体制――共同交戦国という中間的な地位

1 1943年10月13日の対独宣戦布告

1943年10月13日,バドリオ政権はドイツに対して宣戦を布告した。
これにより,イタリアは,連合国の占領対象である敗戦国でありながら,同時に連合国側で対独戦争を戦う「共同交戦国(co-belligerent)」という中間的な地位を得た。
日本及びドイツが降伏文書の調印後は連合国と交戦する立場になかったのに対し,イタリアは休戦協定の調印後も枢軸国との戦争を継続した点で,両国とは異なる経過をたどっている。

2 AMGOTから連合国管理委員会へ,そして北中部のイタリア社会共和国

イタリア南部の統治は,当初,連合国軍政(AMGOT)が担ったが,順次バドリオ政権に引き継がれ,1943年11月10日には連合国管理委員会(Allied Control Commission)が設置された。
同委員会は,対イタリア平和条約の発効に伴い,1947年12月14日に解散した。

もっとも,この間,イタリア半島の統治は一体ではなかった。
1943年9月12日にドイツ軍によって救出されたムッソリーニは,ドイツの占領下にあった北部・中部イタリアにイタリア社会共和国(サロ共和国)を樹立しており,南部のバドリオ政権と,ドイツ占領下の北中部政権とが並存する状態が,1945年春のドイツ軍撤退まで続いた。

第4 日本・ドイツ・イタリアを分けた法的分水嶺――debellatio理論

1 debellatioとは何か

debellatio(完全征服による国家消滅)とは,敗戦国の国家組織が完全に崩壊し,交渉すべき政府が存在しなくなることによって,戦争状態そのものが終結する事態を指す国際法上の古典的な概念である。
debellatioが認められる場合,戦勝国は,敗戦国の政府との合意によってではなく,占領地に対する事実上の支配それ自体を根拠として統治権限を行使することになる。

2 ドイツ――政府の消滅とベルリン宣言,連邦憲法裁判所1973年判決が示した「国家の同一性」

ドイツの場合,1945年5月7日から9日にかけて調印された軍事降伏文書には,ドイツ国防軍最高司令部代表の署名しかなく,文民政府を代表する署名者は存在しなかった。

これとは別の文書として,1945年6月5日,米英ソ仏4か国政府は「ベルリン宣言」を発し,「ドイツには秩序の維持に責任を負い得る中央政府又は機関が存在しない(There is no central Government or authority in Germany capable of accepting responsibility for the maintenance of order)」ことを理由に,「ドイツ政府,最高司令部及びあらゆる州・市町村の政府又は機関が保持する一切の権限を含め」た最高権力を自ら引き受ける旨を宣言した。

もっとも,ドイツが国家として国際法上消滅したかどうかは,当時から見解が分かれていた。
ヒトラーの後継として成立したデーニッツ政権(フレンスブルク政府)で事務取扱内務大臣を務めていたヴィルヘルム・シュトゥッカートは,同政権が英軍によって逮捕される前日の1945年5月22日付の鑑定意見書において,ドイツは国家として国際法上存続するとの見解を示していた(Hans-Christian Jasch, Staatssekretär Wilhelm Stuckart und die Judenpolitik, Oldenbourg, 2012年,386頁~388頁)。

この問題に一つの到達点を示したのが,西ドイツ連邦憲法裁判所が1973年7月31日に下した,東西ドイツ間の基本条約の合憲性に関する判決(BVerfGE 36, 1)である。
同判決は,次のとおり判示した。

“Das Grundgesetz […] geht davon aus, daß das Deutsche Reich den Zusammenbruch 1945 überdauert hat und weder mit der Kapitulation noch durch Ausübung fremder Staatsgewalt in Deutschland durch die alliierten Okkupationsmächte noch später untergegangen ist[.] […] Die Bundesrepublik Deutschland ist also nicht ‘Rechtsnachfolger’ des Deutschen Reiches, sondern als Staat identisch mit dem Staat ‘Deutsches Reich’…”

公定訳ではない仮訳を示すと,次のとおりである。

基本法は,ドイツ国が1945年の崩壊を乗り越えて存続し,降伏によっても,連合国占領勢力によるドイツ国内での外国の統治権の行使によっても,その後も消滅していないことを前提としている。……ドイツ連邦共和国は,したがって,ドイツ国の「法的承継人」ではなく,国家として「ドイツ国」と同一である。

この判決が示したのは,占領によって「統治機構」が消滅したとしても,それによって当然に「国家という法人格」まで消滅するわけではない,という理論である。
ドイツの場合,政府は消滅して直接統治に移行したにもかかわらず,国家そのものの同一性はその後も否定されなかった,という点に特色がある。

3 日本――debellatio不適用という到達点

日本の場合,降伏文書には,大本営代表(梅津美治郎)に加えて日本国政府代表(重光葵)の署名があり,天皇及び日本国政府の統治機構は,占領下でも存続した。
降伏文書は,「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」と定めており,統治権限そのものは制限されたが,統治機構自体を解体するものではなかった。

札幌高等裁判所昭和27年10月16日判決(昭和27年(う)第278号,高等裁判所刑事判例集5巻11号1969頁)は,占領目的阻害行為処罰令(昭和25年政令第325号)の合憲性が争われた事件において,降伏文書について,「日本国憲法の施行後においても同様であって,降伏文書は超憲法的基本法を成すものであった」と判示した。
この判示は,降伏文書が旧憲法の枠内にとどまらない特別な法的地位を持つことを前提としているが,そのことは,日本という国家及びその統治機構が占領前後を通じて存続したこと自体を否定するものではない。

日本の降伏がドイツのようなdebellatioに当たらないと整理される理由,及びこの整理と日本国憲法制定過程における「八月革命説」との関係は,別稿に譲る。

4 イタリア――現に存続する政府による国民投票という第三の道

イタリアの場合,休戦交渉の相手方は一貫してバドリオ政権であり,交渉相手となる政府が交代することはなかった。
加えて,前記第3のとおり,イタリアは休戦協定調印から1か月余り後にはドイツに宣戦を布告して共同交戦国となっており,この2点において,イタリアの休戦がdebellatioの要件を欠くことは明らかである。

もっとも,イタリアが将来の統治形態をどう決めるかという問題は,日本の「八月革命説」やドイツの「国家の同一性」論とは異なる第三の方法で処理された。
1944年6月25日付の副摂政代理令151号(Normattiva原文で確認)は,解放後,国民が普通・直接・秘密投票によって選出する制憲議会が,将来の統治形態を選択する旨を定めていた。
1946年5月9日にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が退位してウンベルト2世が即位した後,同年6月2日,制憲議会選挙とあわせて,共和制か王政かを問う国民投票が実施された。

イタリア内務省が公開する選挙結果アーカイブ「Eligendo Archivio」によれば,投票の結果は共和制支持1271万8641票(54.27%),王政支持1071万8502票(45.73%)であった。
この結果を受けてウンベルト2世は退位し,イタリアは共和制に移行した。
1947年憲法第139条は,共和政体を,その後の憲法改正手続の対象から除外している。

すなわちイタリアは,なお存続する政府の権限を用いて,将来の統治形態の選択そのものを,新たに選出される制憲議会と国民投票という民主的な手続に委ねるという方法で,主権の所在を決着させた。

第5 「無条件降伏」という語の実質的な意味は三か国で異なること

ドイツの軍事降伏文書は,前文から一貫して「無条件に降伏する(surrender unconditionally)」という文言を用いている。
日本の降伏文書は,無条件降伏の対象を「日本国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊」と明記する一方,文書全体の構成としては,ポツダム宣言の条項を「受諾する」という形式を取っている。
イタリアの場合は,前記第2のとおり,短期休戦協定の段階では「降伏(surrender)」という語自体が本文に現れず,長期休戦協定で初めて「無条件降伏」という文言が明示され,その6週間後の改定議定書では,前文に「無条件」という語が新たに挿入される一方,条文本体からは同じ語が削除されるという,双方向の操作が行われている。

このように,「無条件降伏」という1つの言葉で3か国の降伏の実質を一括りにすることはできない。
降伏文書という文書そのものの構成,交渉相手となった政府の存廃,そして占領統治の方式は,いずれも国ごとに異なっており,この違いを理解するためには,各国の降伏文書及び休戦協定の文言そのものに当たる必要がある。

出典・参考資料

1 公文書・歴史資料

Armistice with Italy; September 3, 1943(Avalon Project, Yale Law School)
Armistice with Italy: Instrument of Surrender; September 29, 1943(Avalon Project, Yale Law School)
Armistice with Italy: Amendment of Instrument of Surrender; November 9, 1943(Avalon Project, Yale Law School)
Declaration Regarding the Defeat of Germany and the Assumption of Supreme Authority by Allied Powers; June 5, 1945(Avalon Project, Yale Law School)
⑤Garland, Albert N. and Smyth, Howard McGaw,Sicily and the Surrender of Italy(United States Army in World War II,1965年)第25章(HyperWar電子化版)
Decreto Legislativo Luogotenenziale 25 giugno 1944, n. 151(Normattiva,イタリア政府公式法令データベース)
Eligendo Archivio――Referendum istituzionale 2 giugno 1946(イタリア内務省公式選挙結果データベース)
BVerfGE 36, 1(1973年7月31日判決)(ベルン大学DFR判決データベース)

2 裁判例

札幌高等裁判所昭和27年10月16日判決(昭和27年(う)第278号,高等裁判所刑事判例集5巻11号1969頁,裁判所ウェブサイト)

3 文献

①Hans-Christian Jasch, Staatssekretär Wilhelm Stuckart und die Judenpolitik: Der Mythos von der sauberen Verwaltung, Oldenbourg, 2012年,386頁~388頁

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