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ポツダム会談とは何か――参加者・日程とポツダム協定の合意内容(AI作成)

第1 対象と問題の所在

ポツダム会談は,1945年7月17日から同年8月2日まで,ドイツのポツダムで開催された米英ソ3カ国首脳による会談であり,会談の成果は「ポツダム議定書」(Protocol of the Proceedings)としてまとめられた。

本記事は,この会談で何が話し合われ何が合意されたかという実体的な内容――占領政策の基本原則,賠償,外相理事会の設置,戦争犯罪人の処罰方針その他の合意事項――を,米国務省が編纂した外交文書集の原文に基づいて整理するものである。

会談の開催地がなぜドイツのポツダムに定まったのかという選定の経緯は,別記事の「ポツダム宣言はなぜドイツのポツダムで発表されたのか――開催地選定の経緯」で扱っている。

また,対日関係のポツダム宣言及びその受諾に至る経緯は「ポツダム宣言の発表から宣言受諾及び降伏文書調印までの経緯」で,オーデル・ナイセ線及びドイツ人追放の詳細は「旧ドイツ東部領土からのドイツ人追放,及びドイツ・ポーランド間の国境確定」で,戦後賠償の全体的な展開は「ドイツの戦後補償」でそれぞれ扱っており,本記事ではこれらと重複する部分は立ち入らない。

対日関係では,このほか,東京湾上のミズーリ号艦上で行われた降伏文書調印式の会場選定・署名者・式典進行については,降伏文書調印式―ミズーリ号での会場選定,署名者及び「署名ミス」の真偽で扱っている。

本記事は,生成AIを用いて,米国務省の公刊外交文書及び日本語版・英語版・ドイツ語版・ロシア語版ウィキペディアの原文を確認した上で作成したものである。

第2 会談の参加者・日程と二つの合意文書

1 参加国の首脳とチャーチルからアトリーへの交代

ポツダム会談には,アメリカ合衆国大統領トルーマン,イギリス首相チャーチル,ソ連首相スターリンが参加した。

会談は1945年7月17日に始まり同年8月2日まで続いたが,この間にイギリスでは総選挙の開票が行われ,結果が判明した7月26日以降,チャーチルに代わって新首相となったアトリーが会談に出席した。

会談の合意文書自体には,米英ソ3カ国の代表として署名時点の各国首脳の名が記載されている。

2 議定書(No.1383)とコミュニケ(No.1384)の区別

会談の合意内容を確認する一次資料としては,米国務省歴史局が編纂する外交文書集Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, The Conference of Berlin(The Potsdam Conference), 1945, Volume IIが基本となる。

同書には,別の文書番号を持つ2つの文書が収録されている。

1つは1945年8月1日付の議定書(Protocol of the Proceedings of the Berlin Conference, No.1383)であり,これが交渉の到達点そのものを記した文書である。

もう1つは同年8月2日付の公表コミュニケ(Report on the Tripartite Conference of Berlin, No.1384)であり,議定書の内容を要約して対外的に発表した文書である。

両文書の実質的な内容はほぼ同一だが,字句は完全には一致しない。

以下の各章で紹介する条項は,特に断らない限り議定書本体(No.1383)による。

第3 占領政策の基本原則――政治原則と経済原則

1 政治原則(10項目)

ポツダム議定書は,ドイツの占領統治に関する原則を定めているが,「非軍事化・非ナチ化・非集中化・民主化」を意味する「4つのD」という定型句そのものは,議定書の条文上には用いられていない。

議定書は,占領統治に関する政治原則を10項目の個別規定として定めており,その要旨は次のとおりである。

第1項は,ドイツにおける最高権限を,米英ソ仏各国の占領地区司令官が自国地区について,また対独管理理事会の構成員として共同で行使する旨を定める。

第2項は,ドイツ全土を通じてドイツ国民の処遇を均一にすべきことを定める。

第3項は,占領目的として,ドイツの完全な武装解除及び非軍事化(陸海空軍・親衛隊・秘密国家警察等の解体を含む),ドイツ国民に対する軍事的敗北の認識の徹底,国家社会主義党及びその関係組織の解体,並びに民主的基盤に基づくドイツ政治生活の再建準備を掲げる。

第4項は,ヒトラー政権の基盤となったナチ法及び人種・信条・政治的見解による差別を定めた法の廃止を定める。

第5項は,戦争犯罪人の逮捕及び処罰を定める(詳細は第6章)。

第6項は,ナチ党の実質的な参加者を公職及び民間の要職から排除することを定める。

第7項は,ナチ及び軍国主義的教義を排除する方向での教育統制を定める。

第8項は,民主主義・法の支配・人種等による差別のない平等の原則に基づく司法制度の再編を定める。

第9項は,政治構造の分権化及び地方自治の発展を掲げ,選挙による地方自治体の復活,民主的政党の許容,当面中央政府を樹立しないこと(ただし財政・運輸・通信・貿易・産業の分野に限り,対独管理理事会の指揮下で中央行政部局を置くことは妨げない)を定める。

第10項は,軍事上の安全保障を害しない範囲での言論・出版・信教の自由及び自由な労働組合結成の許容を定める。

2 経済原則(9項目)と「単一の経済単位」原則

議定書は,政治原則に続けて経済原則を定める。

第11項は,軍需産業・航空機・外洋船建造の禁止及び関連生産能力の規制を定める。

第12項は,カルテル等独占的な経済力集中の解体(財閥解体)を定めつつ,財政・運輸・通信の分野では一定の中央行政機構を維持又は回復させることを認める。

第13項は,農業及び平和産業の育成を優先することを定める。

第14項は,占領期間中ドイツを「単一の経済単位」として扱い,鉱工業生産,農林水産業,賃金・物価・配給,輸出入計画,通貨・銀行・税制,賠償・搬出,運輸通信の各分野について共通の政策を確立すべきことを定める。

第15項は,連合国による経済統制の目的を,軍備解体・賠償・承認された輸出入の実施,占領軍及び避難民の需要充足,欧州平均生活水準(英ソを除く欧州諸国平均)を超えない範囲での生活水準の確保に限定する。

このほか第18項は対外資産の管理を,第19項は賠償支払後もドイツ国民が対外援助なしに自活できるだけの資源を残すべきことを定める。

この第14項が定める「単一の経済単位」という原則と,賠償条項(第4章)が定める「占領地区ごとに各国が自国地区から賠償を取り立てる」という原則との間には,条文の内部に緊張関係がある。

この緊張は,後に東西ドイツの経済的分断が政治的分断に先行して進んだ実相の一つとして指摘されている。

第4 賠償――西側占領地区からソ連への現物賠償

議定書の賠償条項は,まず基本原則として,ソ連の賠償請求権は自国の占領地区及び相応のドイツ対外資産からの搬出によって満たされ,米英その他の国の賠償請求権は西側占領地区及び相応のドイツ対外資産によって満たされる旨を定める。

ソ連はポーランドの賠償請求を自国の取り分から充足する義務を負う。

この上で,議定書はソ連が西側占領地区から追加的に受け取る産業設備の割合を具体的に定めている。

すなわち,ドイツの平和経済に不要と判断された産業用資本設備のうち,冶金・化学・機械製造業を中心とする設備の15パーセントを,食料・石炭・カリ・亜鉛・木材・粘土製品・石油製品その他合意される物資との交換によって,また別途10パーセントを対価を伴わない無償の形で,ソ連が西側占領地区から受け取るものとされた。

搬出対象設備の総量は6か月以内に確定し,設備の搬出は同確定から2年以内に完了すること,物資交換による給付は本議定書の日付から5年以内に完了することがそれぞれ定められた。

他方でソ連は,西側占領地区所在の企業に対する持分及びソ連の取り分以外の対外資産への請求権を放棄し,米英もソ連占領地区所在の企業に対する持分並びにブルガリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニア及び東オーストリアにおけるドイツ対外資産への請求権を放棄した。

既存記事「ドイツの戦後補償」は,この賠償条項の枠組みに触れつつも,具体的な数値までは示していない。

時系列としては,このポツダム協定の賠償条項が占領期の現物賠償の大枠を定め,これを受けて1946年1月14日のパリ賠償協定が西側取り分の配分を実務的に処理し,その後の展開は同記事が扱う1953年のロンドン債務協定及び1990年の2プラス4条約へとつながっていく。

第5 外相理事会の設置とその挫折

議定書は,米英ソ中仏5カ国の外相で構成される外相理事会(Council of Foreign Ministers)の設置を定めた。

常設事務局はロンドンに置かれ,初回会期は1945年9月1日までにロンドンで開催することとされた。

当面の任務は,イタリア・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・フィンランドとの講和条約起草,及び将来の対独講和条約の準備であり,各案件の審議には当該国の降伏条項の署名国のみが参加できるものとされた。

この参加資格条項が,早くも初回会期での対立の火種となった。

1945年9月11日から10月2日までロンドンで開催された第1回会期では,バルカン諸国条約の予備討議に仏中両国代表も陪席させる了解が当初いったん成立したが,9月22日にソ連側がこれを翻意し,会期は実質的な合意のないまま終了した。

イギリス下院での外相ベヴィンの説明によれば,対立の実質は,米英仏中を対象から排除しようとするソ連の解釈と,戦争に積極的に参加した諸国を広く講和協議に関与させようとする米英の立場との間の,参加資格をめぐる原則的な意見の相違であった。

その後,同年12月のモスクワでの非公式な米英ソ会合を経て条約ごとに参加国を分ける妥協が成立したものの,外相理事会は1947年のモスクワ会期・ロンドン会期を経ても対独・対墺講和条約の準備という本来の任務を果たせないまま,東西冷戦の進行に飲み込まれていった。

この経過について,米国務省の編纂資料はソ連側の非妥協的な姿勢を原因として総括する一方,ソ連側の資料は西側の妨害主義を原因として総括しており,双方が正反対の帰責を行っている。

なお,外相理事会が実際に何回開催されたかについては,資料によって5回・6回・8回という食い違いがあり,本記事の調査範囲では統一した確認ができなかった。

第6 戦争犯罪人の処罰方針とニュルンベルク裁判への橋渡し

議定書は,戦争犯罪人の処罰について,特定の地域に限定されない罪を犯した主要戦犯の裁判方法をめぐり,数週間前からロンドンで英米ソ仏代表が協議を続けていることに留意し,これらの者を迅速かつ確実に裁判にかける意思を再確認した上で,ロンドンでの協議が速やかな合意に至ることを期待する旨を定めるにとどまる。

最初の被告名簿は1945年9月1日までに公表するものとされた。

すなわち議定書自体は,誰をどのような機関で裁くかという実体的な方針を定めたものではなく,並行して進行中であったロンドンでの4カ国協議の帰趨に委ねる橋渡し的な条項であった。

この協議は,議定書調印のわずか1週間後である1945年8月8日,ロンドンでの米英ソ仏4カ国による「欧州枢軸国主要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定)及びその附属書である国際軍事裁判所憲章の署名という形で結実し,これがニュルンベルク国際軍事裁判の直接の法的根拠となった。

第7 その他の主要な合意事項

1 ドイツ海軍・商船隊の分割

議定書は,ドイツの水上艦艇の総戦力を米英ソ3カ国で均等に分割することを定めた。

潜水艦については大部分を沈没処分とし,実験・技術目的のために保存する潜水艦は30隻を超えないものとして3カ国で均等に分割するものとされた。

三国海軍委員会の初回会合は1945年8月15日までにベルリンで開催することとされ,艦艇の移管は遅くとも1946年2月15日までに完了するものとされた。

ドイツ商船隊についても米英ソ3カ国で均等に分割し,実際の船舶の引渡しは対日戦終結後速やかに行うものとされ,英米は自国取り分の中から,商船隊が大きな損害を被った他の連合国のために相当分を提供するものとされたが,ポーランドに対してはソ連が自国取り分から提供するものとされた。

この「ソ連が自国取り分からポーランド分を拠出する」という構造は,前記の賠償条項における取扱いと同じ枠組みであり,議定書がポーランドの処理を賠償・海運の両面で一貫させていたことがうかがえる。

2 ケーニヒスベルクのソ連への帰属

議定書は,最終的な領土問題の確定を待つ間の措置として,ダンツィヒ湾東岸の一点からブラウンスベルクとゴルダップの北を通り,リトアニア・ポーランド・東プロイセンの境界が交わる地点に至るソ連西部国境の区間について,ソ連の提案を原則として受け入れ,ケーニヒスベルク市及びこれに隣接する地域を最終的にソ連へ移管するという提案に,実際の国境線の専門的な検討を条件として,原則的に合意した。

アメリカ大統領及びイギリス首相は,来るべき平和的解決においてこの提案を支持する旨を表明した。

会談の議事録によれば,この問題は1943年のテヘラン会談,1944年10月のモスクワでのスターリン・チャーチル会談,同年12月15日のチャーチルの下院演説という複数の先行協議を経てポツダムで確認されたものであり,チャーチルはソ連原案の文言(東プロイセンの消滅を前提とする表現等)に法的な懸念を示し,最終的な処理は将来の講和条約に委ねるべき旨を主張した。

議定書自体が国境の最終確定を将来の検討に委ねているとおり,この地域の法的な最終確定は,オーデル・ナイセ線と同様,1945年の会談だけでは行われず,統一ドイツが同地域への一切の請求権を放棄した1990年の「ドイツ最終規定条約」を待つことになる。

この点の詳細は,既存記事「旧ドイツ東部領土からのドイツ人追放」で扱っている構造と同じである。

3 オーストリアの取扱い

議定書は,オーストリア臨時政府(レンナー政府)の権限をオーストリア全土に拡大するというソ連の提案について,英米軍がウィーンに入城した後にこの問題を検討する用意がある旨を定めるとともに,オーストリアからは賠償を取り立てないことを合意した。

会談の議事録によれば,米英ソ3カ国はいずれもウィーン入城後にレンナー政府の統治権限を全土に拡大することに原則的に前向きであった。

第8 多言語ウィキペディアに見る記述の食い違い

日本語版・英語版・ドイツ語版・ロシア語版のウィキペディアを確認したところ,同一言語版の中でも記事間で記述の精度が食い違っている例が複数見つかった。

日本語版では,「ポツダム協定」記事が賠償の15パーセント・10パーセントという内訳を正確に記載する一方,「ポツダム会談」記事は「25パーセント」という合算値のみを記載し内訳を欠く。

英語版でも,「Potsdam Agreement」記事は10パーセント条項のみを記載し15パーセント条項が脱落しているのに対し,「Potsdam Conference」記事は両条項を正確に記載している。

占領政策の原則についても,英語版は非軍事化・非ナチ化・民主化・分権化・解体・財閥解体の6語として整理し,ドイツ語版は非ナチ化・非軍事化・民主化・分権化の4語として,ロシア語版は非軍事化・民主化・非ナチ化の3語として整理しており,数え方が言語版ごとに異なる。

これは,前記のとおり議定書原文がこれらの要約用語自体を定義していないため,要約する側の切り分け方によって数が変わることの表れと考えられる。

外相理事会の会期回数についても,ドイツ語版の記事間で5回・8回という食い違いがあり,ロシア語系の資料は6回とする。

オーストリアの取扱いについては,ロシア語版が「西側は拒否した」と記述するが,会談の議事録及び議定書の文言はいずれも米英ソ3カ国が原則的に前向きであったことを示しており,一次資料とロシア語版の記述の間には齟齬がある。

戦争犯罪人の処罰についても,ロシア語版はスターリンが具体的な戦犯名としてローゼンベルクの名を挙げて要求したと記述するが,会談で実際に交わされたソ連提案文書2件のいずれの名簿にもローゼンベルクの名は見当たらない。

第9 現在の到達点

以上のとおり,ポツダム議定書は,占領政策の基本原則,賠償の枠組み,外相理事会の設置,戦争犯罪人の処罰への橋渡し,ドイツ海軍・商船隊の分割,ケーニヒスベルクの帰属,オーストリアの取扱いなど,戦後ヨーロッパの秩序形成に関わる広範な合意を含んでいた。

もっとも,議定書が定めた枠組みの多くは,その後の東西対立の進行によって当初の想定どおりには機能しなかった。

「単一の経済単位」として運営されるはずであったドイツは,賠償を占領地区ごとに処理する仕組みとの緊張の中で東西に分断されていき,講和条約準備のために設置された外相理事会も,早期の会期から参加資格をめぐる対立に見舞われ,冷戦下でその本来の任務を果たせないまま推移した。

日本の裁判所の裁判例検索では,「ポツダム協定」又は「ポツダム議定書」を正面から扱う裁判例は確認できなかった。

同システムには全ての裁判例が掲載されているわけではないとの留保があるため,これは裁判所ウェブサイト未掲載という意味であり,該当する裁判例が存在しないことを意味するものではない。

出典・参考資料

1 公文書・歴史資料

2 裁判例

裁判所の裁判例検索で「ポツダム協定」「ポツダム議定書」を対象とする全文検索を行ったが,本件テーマを正面から扱う裁判例は確認できなかった(裁判所ウェブサイト未掲載)。