第1 本稿の対象と結論の要旨
1 この記事が扱う問いと対象範囲
ポツダム宣言の発表から宣言受諾及び降伏文書調印までの経緯は,昭和20年(1945年)7月17日から8月2日にかけてソ連占領地域のドイツ・ポツダムで米英ソ3か国首脳による会談が開かれ,会談の途中である7月26日にポツダム宣言が発表されたという事実を時系列で整理している。しかし,なぜその会談がドイツのポツダムという場所で開かれたのか,という理由そのものは同記事でも扱われていない。本稿は,この一点――開催地の選定理由――に絞って,米国務省が編纂した外交文書集Foreign Relations of the United States(以下「FRUS」という)の該当文書と,英語・ドイツ語・ロシア語各版のWikipedia,及びツェツィーリエンホーフ宮殿の管理団体であるプロイセン王宮庭園財団(SPSG)の公式資料を突き合わせて検証する。
2 結論の要旨
開催地は,単一の理由で一気に決まったわけではなく,複数の要因が段階的に積み重なって絞り込まれた結果である。時系列で見ると,まず1945年5月にチャーチル・トルーマン・スターリンの間で「ドイツ国内のどこか」から「ベルリン地域」へと大枠が合意され,その後1945年6月下旬までにソ連側が具体的な会場としてポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿を用意した,という2段階の経過をたどる。もっとも,なぜベルリン地域(ソ連占領地区)でなければならなかったのかという核心の理由づけについては,FRUSの一次資料そのものには明示的な説明が見当たらず,各言語版のWikipedia等が示す説明(ソ連の勢力圏へのこだわり,ベルリンの被害,宮殿の象徴性)は,いずれも一次資料ではなく学説・解説記事の域を出ない。以下,この経過と,各説明の確からしさを順に検討する。
第2 開催地はどのように決まったか――交渉の経過
1 チャーチルの提案からスターリンの「ベルリン地域」提案まで
三巨頭会談の開催を最初に呼びかけたのは英国首相チャーチルである。チャーチルは1945年5月6日付の電報で早期の首脳会談を訴え,5月11日付の電報では,時期を「遅くとも7月初旬まで」とした上で,開催地として「ドイツ国内のどこか無傷の町」という条件だけを示した(FRUS第Ⅰ巻第4号文書)。この時点では具体的な都市名は一切挙がっていない。転機となったのは,トルーマン大統領特使ハリー・ホプキンスの5月末のモスクワ訪問である。1945年5月26日,モスクワでホプキンスと会談したスターリンは,「既にトルーマン大統領宛に返信済みで,会談場所としてベルリン地域を提案した」と発言した(FRUS第Ⅰ巻第24号文書)。もっとも,この経緯は同日付でモロトフ外務人民委員がハリマン駐ソ大使に宛てた書簡により訂正されており,実際にはスターリンからトルーマンへの直接のメッセージではなく,モロトフ自身がジョセフ・デイヴィス特使への返電で言及したものであった(FRUS第Ⅰ巻第35号文書)。同文書の脚注には,スターリンが1945年5月27日付でチャーチルに送った電報が引用されており,そこでスターリンは「会談が必要であり,最も便利な場所はベルリン近郊だろう。政治的にもおそらく適切だ」と明示的に提案している。チャーチルはこれを受け,5月29日付でトルーマンに宛てて「ベルリンの残骸(what is left of Berlin)」での会談に同意する書簡を送った(FRUS第Ⅰ巻第39号文書)。この「ベルリンの残骸」という言い回しは,当時のベルリンの荒廃ぶりを踏まえた表現であり,会談地選定の背景を読み取れる数少ない同時代の一次資料上の手がかりである。
2 具体的会場の確定――1945年6月24日のパークス少将メモ
「ベルリン地域」という大枠の合意から,具体的な会場への絞り込みがいつ行われたかを直接示す一次資料は限られているが,遅くとも1945年6月24日の時点では既に確定していたことが確認できる。ベルリン米国管区司令官フロイド・L・パークス少将は,同日付のメモランダムで,会議自体がポツダムの「旧皇太子宮殿」(ツェツィーリエンホーフ宮殿)で開かれること,代表団の宿泊地としてポツダム近郊バーベルスベルクが既にソ連側によって用意されていることを報告している。同メモは,バーベルスベルクを選んだ理由として「瀟洒な邸宅が並ぶ地域で爆撃被害が比較的軽微」であること,会場に近く「警備・警戒がしやすい」ことを挙げ,会場の設備についても「テヘランやヤルタよりはるかに優れている」と評価している(FRUS第Ⅰ巻第93号文書)。以上の経過を一次資料の日付順に整理すると,次のとおりである。
| 年月日 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1945年5月11日 | チャーチルが「ドイツ国内のどこか無傷の町」での会談を提案。都市名は未定 | FRUS第Ⅰ巻第4号文書 |
| 1945年5月26日 | ホプキンス・スターリン会談。「ベルリン地域」提案の経緯が示される(後日モロトフが出所を訂正) | FRUS第Ⅰ巻第24号文書・第35号文書 |
| 1945年5月27日 | スターリンがチャーチルに「ベルリン近郊」を明示的に提案 | FRUS第Ⅰ巻第35号文書脚注(Stalin’s Correspondence所収) |
| 1945年5月29日 | チャーチルが「ベルリンの残骸」での会談に同意 | FRUS第Ⅰ巻第39号文書 |
| 1945年6月24日 | パークス少将メモで会場(ツェツィーリエンホーフ)と宿泊地(バーベルスベルク)が確認できる | FRUS第Ⅰ巻第93号文書 |
なお,ウィーン,ロンドン,ローマその他の具体的な都市が代替候補として公式に比較検討された上で退けられたことを示す記録は,今回確認したFRUSの文書群及び複数の二次資料のいずれからも見当たらなかった。唯一の「代替案」に相当するのは,チャーチルの5月11日電における「ドイツ国内のどこか無傷の町」という無指定の希望であり,これも5月末のベルリン地域受諾によって事実上収束している。
第3 なぜソ連占領地区(ベルリン近郊)が選ばれたのか
1 言語版によって異なる説明
なぜ会談地がソ連占領地区でなければならなかったのかという理由づけについては,各言語版のWikipediaで説明の力点が異なる。ドイツ語版Wikipedia「Potsdamer Konferenz」は,「スターリンは経験上,ソ連の勢力圏外の会議開催地を一切受け入れなかったため,ベルリンが選ばれ,各国代表団がそれぞれ自国の管理区域に宿泊できるようにした」と説明する。この記述の典拠は,プロイセン王宮庭園財団(SPSG)が主催したポツダム会議75周年記念展覧会の公式図録に収録された歴史家シュテファン・ゲーレンの論考である。これに対し,英語版Wikipedia「Potsdam Conference」は,トルーマンが「米英がソ連を結託して圧迫している」という印象を避けたいと考え,側近ハリー・ホプキンスの働きかけを経てスターリン自身に提案させる形になった,という外交上の駆け引きとして描いており,「スターリンが勢力圏外を拒否した」という能動的な表現は用いていない。ロシア語版Wikipedia「Потсдамская конференция」はさらに異なり,チャーチルが1945年5月11日の書簡でソ連軍事占領圏の外での開催を提案したものの,米英いずれもホスト役を引き受けたがらなかったため,最終的にスターリン自身の提案でベルリン近郊に決まった,と説明する。この版には「スターリンが勢力圏外を拒否した」という記述はなく,むしろ米英側の消極性が決め手として描かれている。
2 一次資料が語っていない部分
第2で確認したFRUSの各文書(第Ⅰ巻第24号,第35号,第39号)を通読する限り,なぜソ連占領地区でなければならなかったのかという理由そのものを述べた記述は見当たらない。確認できるのは,スターリンが「ベルリン近郊」を提案し,トルーマンとチャーチルがこれに同意したという交渉の経過だけである。したがって,ドイツ語版が示す「スターリンの勢力圏へのこだわり」という説明は,ポツダム会議75周年記念展覧会という公的な機関が関与した企画の学術論考に基づく相応に権威のある解説ではあるが,1945年当時に作成された一次資料そのものによる裏付けではないという限界がある。この点を措くとしても,米英が結果としてソ連占領地区での開催を受け入れたことは,第2の交渉経過が示すとおり,複数の一次資料で動かない事実である。
第4 なぜベルリン市内ではなくポツダムだったのか
1 ベルリン攻防戦による市街地の壊滅
会談地が「ベルリン地域」に決まった後,なぜベルリン市内ではなく郊外のポツダムに絞り込まれたのかを直接説明する一次資料の記述は見当たらなかった。手がかりとなるのは,前掲のチャーチルによる「ベルリンの残骸」という表現である。ベルリン市街は,1945年4月16日から5月2日にかけてのベルリン攻防戦により,市街戦と爆撃で壊滅的な被害を受けていた。英語版Wikipedia「Potsdam Conference」及びドイツ語版Wikipediaはいずれも,ベルリン市街が連合軍の爆撃と市街戦で使用に耐えないほど損壊していたため,郊外で被害の少なかったツェツィーリエンホーフ宮殿が選ばれたと説明している。この説明自体はFRUSの一次資料に明示の記述こそないものの,チャーチルの「ベルリンの残骸」という同時代の表現と整合的であり,複数の独立した二次資料が一致して述べる点でも相応の確からしさがある。
2 「ポツダムは無傷だった」という説明の不正確さ
もっとも,「ポツダムは戦災を免れた無傷の街だった」という単純化には注意を要する。ポツダムの旧市街中心部も,1945年4月14日から15日にかけての夜間,英空軍爆撃機コマンドによる爆撃を受けている。英語版Wikipedia「Bombing of Potsdam」によれば,ランカスター爆撃機約490機が投下した爆弾は約1,700トンに達し,市民1,593人が死亡,市中心部の建物約1,000棟が全壊し,約6万人が住居を失った。無傷に近かったのは,会場・宿泊地として使われたノイアーガルテン地区とバーベルスベルクの別荘街に限られる。すなわち,「ポツダムだから無傷だった」のではなく,「ポツダムの中でも会場周辺の一角がたまたま主爆撃圏の外にあった」というのが実際の被害状況に即した理解である。
第5 なぜツェツィーリエンホーフ宮殿が選ばれたのか
1 宮殿の来歴と規模
ツェツィーリエンホーフ宮殿は,ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が長男の皇太子ヴィルヘルムとその妃ツェツィーリエのために建てさせた,ホーエンツォレルン家(プロイセン王家・ドイツ皇帝家)最後の宮殿建築である。SPSG公式サイトによれば,建築家パウル・シュルツェ=ナウムブルクの設計により1913年から1917年にかけて英国テューダー様式の邸宅として建設された。176室が5つの中庭を囲むように配置され,外観からは実際の規模が分かりにくい構造になっている。この部屋数の多さが,3か国代表団それぞれに専用の応接室・執務室を割り当てつつ,大広間を共同の会議場として同時に使用できるという実務上の利点につながった。SPSG公式サイトのオブジェクトページ,展覧会紹介ページ,公式ブログ記事を横断して確認した限り,SPSG自身は「なぜこの宮殿が会場に選ばれたか」という選定理由そのものを説明する記述を公表していない。
2 ドイツ語圏の学説が示す象徴性という説明
ドイツ語版Wikipediaは,被害の少なさに加えてもう一つの理由を挙げている。「プロイセン王及びドイツ皇帝の第二の離宮として,それは象徴的な力を持っていた。ドイツ軍国主義の揺籃の地とみなされていたことに加え,『ポツダムの日』(1933年3月21日,ナチスとプロイセン保守勢力の連携を演出したナチス国会開院式典)をも想起させたからである」という趣旨の記述である。この一節の典拠は,第3で触れたシュテファン・ゲーレンの論考(SPSG主催展覧会公式図録『Potsdamer Konferenz 1945. Die Neuordnung der Welt.』21頁から23頁,Sandstein Verlag,2020年)であり,ドイツ語圏の歴史学における一つの解釈として紹介する価値がある。もっとも,この象徴性への言及は英語版・ロシア語版のいずれのWikipediaにも見当たらない。ロシア語版は宮殿を「元皇太子ヴィルヘルムの邸宅」という来歴説明にとどめており,軍国主義の象徴地という位置づけは示していない。したがって,この説明はドイツ語圏の学説に独自の解釈として紹介すべきものであり,英語圏・ロシア語圏を含めた学界の共通理解とまでは言えない。
第6 「スターリンが飛行機を嫌ったから」という説の当否
インターネット上には,「スターリンが飛行機を嫌い,ソ連支配地域の外へ出ることを拒んだため,その意向でポツダムが選ばれた」という説明が広く見られる。しかし,開催地の「提案」そのものの経緯を記録した一次資料(第Ⅰ巻第24号文書,第35号文書)を確認する限り,スターリンが飛行機を嫌ったから,あるいは移動を拒んだからベルリン地域を提案した,という因果関係を示す記述は見当たらない。一次資料で裏付けられるのは,これとは別の場面での事実である。1945年7月17日,会談初日のトルーマン・スターリン会談の冒頭で,スターリンは到着が1日遅れた理由の一つとして,「医師団から肺の状態を理由に飛行機搭乗を禁じられていた」ことを自ら説明している。この記録(FRUS第Ⅱ巻第1418号文書)は,同席したチャールズ・E・ボーレンが当時の自らのメモに基づいて作成した会談記録であるが,起草自体は1960年であり,1945年当時に同時進行で作成された記録そのものではない点には留保が必要である。もっとも,この点を踏まえてもなお,これはスターリンが会談への到着に列車を用いた理由の説明であって,開催地をポツダムに決めた理由の説明ではない。両者を混同し,「スターリンの飛行機嫌いが開催地を決めた」と単純化するのは,少なくとも今回確認した一次資料の範囲では裏付けられない俗説というべきである。
第7 本稿で確認できなかった点
本稿の調査には,なお残された限界がある。第一に,ポツダム会談を扱う代表的な専門書――ハーバート・ファイス『Between War and Peace: The Potsdam Conference』(1960年),チャールズ・L・ミー・ジュニア『Meeting at Potsdam』(1975年),マイケル・ナイバーグ『Potsdam: The End of World War II and the Remaking of Europe』(2015年)――は,いずれも開催地選定を論じている可能性が高いが,貸出制限や閲覧制限のため,該当箇所の原文を確認できなかった。第二に,第5で触れたゲーレンの論考自体も,SPSG主催展覧会の紙媒体図録にのみ収録されており,オンラインでの原文確認はできなかった。第三に,なぜベルリン中心部ではなく郊外のポツダムに絞り込んだのかという理由を明示的に述べる一次資料上の編集注・文書も,今回確認した範囲では見つからなかった。これらの点は,将来,専門書の該当箇所を直接確認できた場合に補うべき課題として残る。
出典・参考資料
1 公文書・歴史資料
①FRUS第Ⅰ巻第4号文書(1945年5月11日,チャーチルよりトルーマン宛電報,米国務省Office of the Historian)
②FRUS第Ⅰ巻第24号文書(1945年5月26日,ホプキンス・スターリン会談記録,米国務省Office of the Historian)
③FRUS第Ⅰ巻第35号文書(1945年5月26日,モロトフよりハリマン宛書簡及び脚注,米国務省Office of the Historian)
④FRUS第Ⅰ巻第39号文書(1945年5月29日,チャーチルよりトルーマン宛電報,米国務省Office of the Historian)
⑤FRUS第Ⅰ巻第93号文書(1945年6月24日,パークス少将メモランダム,米国務省Office of the Historian)
⑥FRUS第Ⅱ巻第1418号文書(1945年7月17日付トルーマン・スターリン会談記録,米国務省Office of the Historian)
2 文献
①Stefan Gehlen, “Zur Verortung der Berliner Konferenz in Potsdam.” In: Jürgen Luh (Hrsg.), Potsdamer Konferenz 1945. Die Neuordnung der Welt.(SPSG主催展覧会公式図録),Sandstein Verlag,2020年,21頁~23頁
②Herbert Feis, Between War and Peace: The Potsdam Conference, Princeton University Press, 1960年(本稿では書誌のみ確認し,本文は未確認)
③Charles L. Mee Jr., Meeting at Potsdam, 1975年(本稿では書誌のみ確認し,本文は未確認)
④Michael Neiberg, Potsdam: The End of World War II and the Remaking of Europe, Basic Books, 2015年(本稿では書誌のみ確認し,本文は未確認)
3 ウェブ資料
①英語版Wikipedia「Potsdam Conference」
②ドイツ語版Wikipedia「Potsdamer Konferenz」
③ロシア語版Wikipedia「Потсдамская конференция」
④英語版Wikipedia「Bombing of Potsdam」
⑤SPSG(プロイセン王宮庭園財団)公式サイト「Cecilienhof Country House」
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