旧ドイツ東部領土からのドイツ人追放,及びドイツ・ポーランド間の国境確定

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第1 旧ドイツ東部領土からのドイツ人追放
1 「ドイツ第三帝国の崩壊と避難民・被追放民問題」(南山大学ヨーロッパ研究センター報 第20号)の末尾122頁によれば,1939年のドイツ東部領土の人口は957万5000人(うち,東プロイセンが247万3000人,東ポメラニアが188万4000人,東ブランデンブルク(現在のポーランド・ルブシュ県)が64万2000人,シレジアが457万7000人)であり,1945年から1950年までの避難民及び被追放者は694万4000人であり,故郷にとどまった人は110万1000人であり,避難又は追放の過程で死亡した人は122万5000人となっています(期間中の出生者がいるため,合計数は一致しません。)。
2 1945年8月2日締結のポツダム協定12項(ドイツ人の秩序ある移転)は以下のとおりです。
   (ソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリスの)3ヶ国政府は、本問題についてあらゆる側面から検討し、ポーランド、チェコスロバキアおよびハンガリーに残る全ドイツ人、又はその一部のドイツへの移転を実施しなければならないであろうという理解を得た。また、実施される移転は秩序よく、人道的に実行されるべきことを合意した。
3 Wikipediaの「ドイツ人追放」に詳しい事情が書いてあります。

第2 ドイツ・ポーランド間の国境確定

1 独ソ戦が続いていた時期の経緯
(1) 1941年6月22日に独ソ戦が開始したことを受けて,ポーランド亡命政府は,1941年7月30日,イギリスの仲介によりソ連との間で外交関係を復活させる協定をロンドンで締結し,1939年9月29日の独ソ国境画定条約の無効化を確認しました。
   ただし,ソ連は,独ソ国境画定条約とほぼ同じラインとなるカーゾン線を,ポーランドとの国境として主張しました。
(2) 1943年4月13日発覚のカチンノ森虐殺事件に関する対応でもめた結果,ソ連は,ポーランド亡命政府に対し,同月25日,外交関係の断絶を通告し,その後,外交関係が復活することはありませんでした。
(3) 1943年11月28日から同年12月1日にかけて実施されたテヘラン会談において,チャーチルは,スターリンとの間で,①ポーランド東部国境はカーゾン線とする,②ポーランド東部での喪失部分はドイツより東プロシア及びシレジアの一部を得て補うこととする,③ポーランド西部国境はオーデル河とすることを了解し,これをポーランド亡命政府に納得させると断言しました。
   しかし,ポーランド亡命政府はカーゾン線の受け入れを拒否し続けました。
(4) 1945年1月4日,ソ連はルブリン臨時政府(共産主義者が主体です。)を承認しました。
(5) 1945年2月4日から同月11日にかけて実施されたヤルタ会談において,カーゾン線(その後のソ連・ポーランド国境)より東側の領土をソ連がポーランドから取得する代わりに,ポーランドはドイツ東部領土(ただし,ナイセ川以東の土地については,戦後の平和会議で最終決定することとする。)を取得することが定められました。
(6) この時期の経緯については,「第二次大戦とポーランド」が非常に参考になります。
2 独ソ戦終了直後の経緯
(1) アメリカ,ソ連,イギリス及びフランスは,1945年6月5日,ドイツ最高権力掌握に関する宣言(いわゆるベルリン宣言)を発表し,①アメリカ,ソ連,イギリス及びフランスの政府はドイツ国中央政府が持っていた,ドイツの州・地方自治体に対する最高指揮権と権威を掌握するとか,②アメリカ,ソ連,イギリス及びフランスの政府は今後,ドイツの領域と境界を設定するなどと宣言しました。
(2) ソ連は,米英との協議なしに,オーデル・ナイセ線より東側の領土をポーランド政府に与え,これを既成事実として認めるよう,1945年7月17日から同年8月2日にかけて実施されたポツダム会談において主張しました。
(3) 結果として,旧ドイツ東部領土(オーデル・ナイセ線より東側の領土)は,1945年8月2日締結のポツダム協定に基づき,ポーランド国家の統治下に置かれるようになりました。
3 東西ドイツ成立後の経緯
(1) 東ドイツは,1950年7月6日調印のズゴジェレツ条約によりオーデル・ナイセ線を承認しました。
(2)ア 西ドイツは,1970年12月7日調印のワルシャワ条約によりオーデル・ナイセ線についてポーランド西部国境であることを承認しました。
イ ワルシャワ条約を批准する際,西ドイツ議会は決議を採択し,将来の統一ドイツはこの国境確認に拘束されず,統一ドイツとポーランドが改めて国境問題を話し合うことを確認しました。
   そのため,このワルシャワ条約での国境確認はドイツ統一までの暫定的な性格を持つものでした(「ドイツ統一とポーランド外交」3頁参照)。
(3) 東西ドイツは,1972年12月21日署名の東西ドイツ基本条約によって相互に主権国家として承認しましたところ,同条約前文には「欧州のすべての国家の国境の不可侵性と現存国境内における領土の保全と主権の尊重が平和の基本的条件であることを自覚し,」と記載されました。
4 東西ドイツ統一前後の経緯
(1) 1990年6月21日に西ドイツ下院と東ドイツ人民議会が,同月22日に西ドイツ上院が,以下の趣旨の決議を採択しました(「ドイツ統一とポーランド外交」8頁参照)。
① 現存する国境がポーランドの西部国境であること。
② 現存する国境の現在及び将来における不可侵を確認し,主権と領土保全に敬意を払う義務があること。
③ いかなる領土的要求も持たず,そのような要求を将来にも提起しないこと。
(2) 東西ドイツは,1990年8月31日調印のドイツ統一条約により,同年10月3日に東ドイツの各州が西ドイツの州となること等を決定しました。
(3) 1990年9月12日に東西ドイツが米英仏ソとの間で調印したドイツ最終規定条約1条の中身は以下のとおりです。
① 統一ドイツは西ドイツ、東ドイツ、全ベルリンの範囲を含む。最終規定条約の施行の日に西ドイツ、東ドイツ国境は統一ドイツの最終的な外部国境となる。国境の最終的性格の確認はヨーロッパでの平和的秩序の重要な要素となる。
② 統一ドイツとポーランド共和国は国際法の観点から拘束力を持つ条約によってドイツ・ポーランド間に現存する国境を確認する。
③ 統一ドイツは他国に対しいかなる領土的要求も持たず、将来においてもまたこのような要求を提起しない。
④ 西ドイツ政府と東ドイツ政府は、統一ドイツの憲法が上記の基礎に反したいかなる決定をも含まないことを保証する。このことは西ドイツ基本法前文、並びに23条2項、146条に含まれる決定に該当する。
⑤ ソ連、米、英、仏政府は正式な形で関係する義務や宣言を採択し、その実現と同時に統一ドイツ国境の最終的な性格が確認される。
(4) 統一ドイツは,1990年11月14日調印のドイツ・ポーランド国境条約により,オーデル・ナイセ線を正式に承認しました。

第3 外部HP
1 ドイツニュースダイジェストHP「ドイツの国境の変遷」が載っています。
2 衆議院議員吉良州司HP「北方領土問題の本質と対応 その12 大戦時の同盟国ドイツに学ぶこと」には以下の記載があります。
① 現代ドイツが、現在のポーランドや東ドイツを領土とするプロシアから起こった国であることを考慮すると、1990年の東西ドイツ統一の際、ドイツは、日本でいえば奈良・京都ともいえるオーデル川、ナイセ川(オーデル・ナイセ線)以東の「プロシア以来の固有の領土」(プロイセンの東半分)をポーランドに永久に永久割譲[原文ママ]しています。
② 何としても東西統一を実現したい西ドイツ(政府と国民)と東ドイツの国民は、ベルリンの壁崩壊後、大決断の上、「ドイツ・ポーランド国境条約」を締結し、オーデル・ナイセ線以東の固有の領土を永久放棄することにより、ポーランド、ソ連はじめ、関係諸国から東西統一の了解を得たのです。

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