ドイツの戦後補償


目次
第1 総論

1 最高裁判所判例解説 民事篇の記載
2 外務省HP掲載の論文の記載
3 ライナー・ホフマン教授の論文の日本語訳の記載
第2 ドイツの戦後補償の総額,及び東日本大震災における原子力損害賠償の総額
1 ドイツの戦後補償の総額
2 東日本大震災における原子力損害賠償の総額
第3 ナチスの不法に対する補償
1 ナチス迫害の概要
2 イスラエルとの間のルクセンブルク協定
3 連邦補完法及び連邦補償法
4 連邦返還法
5 西側12カ国との間の包括的補償協定
6 東欧諸国との一括支払協定
7 東西ドイツ統一後の補償
8 参考資料等
第4 ドイツ企業による強制労働被害者に対する補償
1 総論
2 強制労働被害者の人数等,及びアウシュビッツ強制収容所
3 最高裁平成19年4月27日判決が認定したところの,日本による中国人強制連行(参考)
4 韓国大法院判決による,旧朝鮮半島出身労働者に関する認定事実の例(参考)
5 日本における連合軍捕虜の死亡率(参考)
第5 ドイツ政府が主張するところの賠償問題の「解決」,1953年2月27日調印のロンドン債務協定,並びにギリシャ及びポーランドの賠償請求
1 ドイツ政府が主張するところの賠償問題の「解決」
2 1953年2月27日調印のロンドン債務協定
3 ギリシャの賠償請求
4 ポーランドの賠償請求
第6 ドイツの戦後補償等における,一人当たりの金額の比較
1 ナチス迫害の被害者に対する一人当たりの補償額
2 強制労働被害者に対する一人当たりの補償額
3 在日韓国人及び台湾住民の軍人軍属に対する補償水準
4 2018年10月30日の韓国大法院判決が支払を命じた金額
5 自賠責保険の賠償水準
6 東日本大震災における原子力損害賠償の賠償水準
第7 関連記事その他

第1 総論
1 最高裁判所判例解説 民事篇の記載
   最高裁判所判例解説 民事篇(平成19年度)(上)416頁ないし418頁には以下の記載があります(ア,イ,ウ及びエを①,②,③及び④に変えています。)。
   日本の戦争賠償は,ドイツと比較して不十分であるといわれることがあるので,参考までに,ドイツの戦後補償の概要を以下にみておく。
① ドイツは,第二次世界大戦後東西に分裂したため,連合国との間の平和条約を締結することができず,戦争賠償の解決については長い間留保されてきた(1953年のロンドン債務協定)ところ,実質的な平和条約の機能を果たすことになった1990年のいわゆる「2プラス4協定」(東西ドイツと英・米・仏・ソの間のモスコー協定)(山中注:1991年3月15日発効の,1990年9月12日調印のドイツ最終規定条約)において,戦争賠償に関する条項は盛られず,結局,狭義の戦争賠償は行われないまま事実上放棄されている。
② 他方,「ナチスの不法に対する補償(Wiedergutmachung)」は戦争賠償とは別の概念であるとの整理の下に,連邦補償法(1956年)の下でホロコースト被害等に対する補償が行われることとなった。当初は西独内に住所を有していた者に対象者を限定していたが,その後,外国居住者にも拡大されている(補償金を一括して各国政府に渡し,各国政府が各被害者に支給するというもの)。また,これより前,1952年にはイスラエルとの間の補償協定(ルクセンブルク協定)も締結された。これらの補償総額は,約1040億マルク(現在のレートで5兆5000億円以上)になるといわれている(総額7兆円を超えるという試算もある。)。
③ このほか,大戦中に東欧地域(特にポーランド)から連行されドイツ企業で強制労働に従事させられた者に対する補償問題について,西独政府は, こうした問題はナチスの迫害ではなく一般的な戦争被害であると主張し,ロンドン債務協定を盾に請求を拒んできた。しかし,2000年7月,ドイツ政府と企業が50億マルクずつ(計100億マルク,約5300億円)を拠出して,「記憶・責任・未来財団」という基金を設立することが,ドイツ,旧東欧諸国及びイスラエル政府並びにドイツ企業等の間で合意され,その後,ドイツの国内関連法が成立した。この動きの直接のきっかけとなったのは,米国の弁護士らにより米国裁判所でドイツ企業を被告とする大規模なクラスアクションが提起され,企業が譲歩を余儀なくされたことにあったといわれている。なお,この事業は,人道的な見地から行われるものであって,法的責任に基づくものではないと説明されており,「記憶・責任・未来基金の創設に関する法律」の前文にも,政府の関与は政治的道義的責任に基づくものであるとの趣旨が明記されている。

   このほか,戦争中の強制労働に関与した企業の中には,独自の救済措置を設けて元労働者に対する補償措置を行っているものもいくつか存在するようである。これも,法的義務に基づくものではなく,あくまでも人道的な措置であるとの位置付けが強調されている。
④ 以上のとおり,ドイツの戦後補償は金額の上では我が国の賠償額を大きく上回っているが,それはナチスの不法に対する補償(Wiedergutmachung)という特殊な概念に基づくものであって,狭義の戦後賠償は行われていないことに留意する必要があろう。一方,強制労働に対する補償問題に関しては,法的責任を前提としないとしつつも,官民を挙げて救済措置が講じられていることは,特筆に値すると思われる。
2 外務省HP掲載の論文の記載
   外務省HPの「外交史料館所蔵史料に見るドイツ戦後賠償の形成過程―現物賠償、戦争賠償、ナチスの不法に対する補償」の末尾104頁及び105頁には以下の記載があります。
   ドイツの戦後賠償は、伝統的な国際法上の戦争賠償とともに、いわゆるナチスの不法に対する補償(Entschädigung für NS-Unrecht)により特徴付けられる。前者は、第二次世界大戦における戦争行為に関連する国家間の賠償であるが、後者は、ナチス政権(国家社会主義政権)の主としてユダヤ民族に対する不法・迫害についての補償措置であり、伝統的な国際法上の戦争賠償とは異なるものとして、戦後、取り組まれてきたものである。
   前者の戦争賠償については、ドイツでは、占領期において、現物賠償主義によるデモンタージュ(工場施設の撤去解体)と在外資産の処理が行われたが、我が国における対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)と異なり、東西冷戦構造により、占領終了に際して平和条約が締結されず、賠償問題の解決が延期された。さらに、一九九○年の東西ドイツ統一に際しても、戦争賠償問題が国際法上で明示的に規律されることはなかった。
   これに対し、ナチスの不法に対する補償については、一九五二年九月に署名されたイスラエルとの間の協定(ルクセンブルク協定)を出発点として、一九五三年及び一九五六年の国内法上の連邦補完法及び連邦補償法、西側一二か国との間の包括的補償協定、連邦補償法の適用を受けることができなかった者に対する一九八○年代以降の困窮救済措置、さらには強制労働問題に関する二○○○年の「記憶・責任・未来」財団の設立といった措置が連綿と続けられてきた。
3 ライナー・ホフマン教授の論文の日本語訳の記載
   「ライナー・ホフマン 戦争被害者に対する補償――1949年以降のドイツの実行と現在の展開――」の末尾308(564)には以下の記載があります(改行を追加しました。)。
   ドイツ連邦共和国の歴代政府は,一貫して,第二次世界大戦時に適用された国際法は,その時期に適用された戦争法規違反の補償に対する被害者個人の法的に強制しうるいかなる権利も規定していないという意見であった。
   かくして,ドイツに帰属するかかる行為の被害者個人にかかる補償を支払ういかなる法的義務も,かかる権利を規定する国際条約か国内制定法のいずれかの結果である。
   この点に関連して,ふたたび歴代ドイツ政府の一貫した見解によれば,かかる国内法を制定すべき国際法上の義務も,あるいはかかる条約を締結すべき国際法上の義務も存在しなかったし,かつ存在しないことが強調されなければならない。
   しかし,ドイツ政府は,同様に一貫して,第二次世界大戦前および大戦中のドイツに帰属する行為により外国の国民が被った損害のあるものを償う――たしかに極めて限られた程度においてではあるが――ために,かかる条約を締結すべき,あるいはかかる制定法を採択すべきドイツ連邦共和国の道義的義務が存在すると考えてきた。
   そして,この立場は権限のあるドイツの裁判所によって一貫して共有されてきた。

第2 ドイツの戦後補償の総額,及び東日本大震災における原子力損害賠償の総額

1 ドイツの戦後補償の総額
(1) Wikipediaの「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」には,「ドイツ連邦共和国が行った補償総額は、2009年時点で671億1800万ユーロに達する。」と書いてあります。
   七十七銀行HPに「ユーロ対円相場(仲値)一覧表 (2009年)」が載っていますところ,1ユーロ130円とした場合,ドイツの補償総額は8兆7253億4000万円となります。
(2)ア 671億1800万ユーロという金額の使い道は,主としてナチス迫害の被害者に対する補償及び強制労働被害者に対する補償です。
   また,これらとは別に,主として占領期において,デモンタージュ(工場施設の解体接収)及びドイツ在外資産の接収が実施されたほか,占領経費が徴収されたところ, 「第二次世界大戦後の西ドイツ賠償問題とヨーロッパ地域秩序形成 」(名古屋大学法政論集260号に掲載)の末尾181頁には,「戦争賠償と占領経費の金額を比較するならば、1952 年までのドイツの賠償総額が48 億ドル(1938)であるのに対して、その間の占領経費は120 億ドル(1938)にのぼった」と書いてあります(「1938」は1938年価格のことと思います。)。
イ デモンタージュ及びドイツ在外資産の接収による現物賠償については,1945年8月2日締結のポツダム協定で定められました。
   また,1946年1月14日調印のパリ賠償協定において連合国及び中立国に所在するドイツ在外資産の具体的な処理が定められ,個別の平和条約(例えば,1947年2月10日調印のイタリア平和条約77条)において旧枢軸国にあるドイツ在外資産の具体的な処理が定められました。
ウ デモンタージュは,日本の戦後補償でいうところの中間賠償(軍需工場の機械など日本国内の資本設備を撤去して,中国,オランダ領東インド,フィリピン等に移転、譲渡することによる戦争賠償のこと。)であると思います。
(3) 「ライナー・ホフマン 戦争被害者に対する補償――1949年以降のドイツの実行と現在の展開――」の末尾300(556)には以下の記載があります。
   ちなみに,ドイツ民主共和国は,ドイツ連邦共和国とは対照的に,自己をドイツ国(ライヒ)と関連のない(そして国際法上の同一主体であるにはましてや関連がない)「新しい」国家とみなし,したがってナチスの迫害の犠牲者に補償金を支払うべきいかなる法的義務のみか,いかなる道義的義務をも拒否した。
2 東日本大震災における原子力損害賠償の総額

(1) 文部科学省HPの原子力損害賠償紛争審査会(第48回)「資料4-1 原子力損害賠償のお支払い状況等」によれば,平成30年6月末日現在,本賠償の金額が約8兆1522億円であり,仮払補償金が約1529億円であり,合計8兆3051億円です。
(2) 東京電力HPの「賠償金のお支払い状況」によれば,2019年9月13日現在,本賠償の金額が約8兆9295億円であり,仮払補償金が約1529億円であり,合計9兆824億円です。

第3 ナチスの不法に対する補償
1 ナチス迫害の概要
(1) Wikipediaの「ホロコースト」には以下の記載があります。
   ナチスによるホロコーストで犠牲となったユダヤ人は当初少なくとも600万人以上とされていた。また、同時期にナチス・ドイツの人種政策によって行われたロマ人に対するポライモス、成人の精神障害者へのT4作戦、反社会分子とされた人々(労働忌避者、浮浪者、シンティ・ロマ人など)や障害者、同性愛者(ナチス・ドイツとホロコーストによる同性愛者迫害)、エホバの証人、スラヴ人に対する迫害などもホロコーストに含んで語られることもある。主に独ソ戦における戦争捕虜、現地住民が飢餓や強制労働による死亡者に対しても「ホロコースト」の語が使用されることがあるが、この語をユダヤ人以外にも拡大して使用することに反発する個人・団体がある。こうした広い概念でとらえた場合の犠牲者数は、900万から1,100万人にのぼるとする説がある。
(2) 国際派日本人養成講座HPの「戦後補償の日独比較~ワイツゼッカーの苦衷~」には,「2.ナチスの犯罪」として以下の記載があります(文中の1ないし5を①ないし⑤に変えています。)
 まずドイツが補償したナチスの犯罪とはどのようなものだったか、をまとめておこう。以下のような殺戮が行われた。
① ドイツ国内の療養所、看護施設の病人、不具者、神経病院にいるすべてのユダヤ人、3歳から13歳までの心身障害児童など約10万人。
② ドイツ国内、続いて東ヨーロッパの占領地域にいるジプシー推定50万人程度。
③ ポーランド占領期間中の知識人、指導者層100万人以上。(ヒットラーは、東方の非ドイツ系住民は、奴隷とするために小学校4年以上の教育は不必要としていた。)
④ ロシアの占領地域での同様な指導者層の殺戮。規模はポーランドより多いという程度しか分かっていない。
⑤ ユダヤ人絶滅を目指し、ドイツ国内、ポーランドその他占領地域での推定600万人の虐殺。
2 イスラエルとの間のルクセンブルク協定
(1) ドイツは,ナチスの不法に対する補償として,1952年9月10日,ルクセンブルクにおいて,イスラエルとの間で協定に署名し,かつ,対独ユダヤ物的請求権会議(JCC)との間で二つの議定書に署名しましたところ,この協定と二つの議定書をあわせてルクセンブルク協定といわれています。
(2) この協定において,西ドイツは,ユダヤ人難民の受入費用を補填するため,イスラエル国に対し,包括的補償として,30億マルクを支払うことが定められ,この支払いは,西ドイツの外資の不足から,現物の引渡し及び役務の提供によりなされることとされました。
   また,第一議定書においては,被迫害者の財産の返還及び個人補償のための立法手続を開始するとの西ドイツの意思が確認され,第二議定書においては,対独ユダヤ物的請求権会議(JCC)に対して,イスラエル以外の場所におけるナチスの迫害のユダヤ人犠牲者の支援,受入れ,定住のために4億5000万マルクが支払われることとされました。
3 連邦補完法及び連邦補償法
(1) 西ドイツは,ナチスの不法に対する補償について,ボン・パリ諸条約の移行条約第四章の規定及び上記のJCC との間の第一議定書を踏まえ,国内法として1953年9月に連邦補完法,1956年6月に同法を改正した連邦補償法を制定しました。
(2) これらの法律の適用は,厳格な属地主義の原則によっており,請求権者は,原則として,(オーストリア併合以前の)1937年12月31日時点でのドイツ帝国の領域に居住していた者,又は西ドイツの領域(同法の適用領域)に居住している者に限定されました(連邦補償法4条1項)。
(3) Wikipediaの「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」によれば,連邦補償法に基づく補償額は460億8700万ユーロとなっており,総額671億1800万ユーロとされるドイツの戦後補償の最大割合を占めています。
4 連邦返還法
(1) 「ユダヤ人財産の返還補償の再展開-アメリカによるホロコースト訴訟との関連で-」の末尾58頁には以下の記載があります。
   1957年の西ドイツの連邦返還法は,このようなドイツ国家による帝国外での強奪行為(山中注:例えば,フランスやベルギーなどで実施された,ドイツ占領軍による家具調度の略奪)によって生じた損害に対しても,連邦共和国政府がその債務を負うとした。しかしこの法律は属地主義に立つため,請求者が外国人の場合は,返還対象は強奪された後に帝国内へ運ばれ,連邦返還法の試行時に西ドイツ領内で確定できる財産に限られる。ただ,フランスの略奪家具のようにドイツへ運ばれた後に所在が分からなくなった場合でも,確実に帝国内へ到達したと考えられるものについても適用された。また連邦返還法は,国により売却された有価証券や没収された銀行預金など,もはや存在しないために確定できない財産の補償も定めた。
(2) Wikipediaの「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」によれば,連邦返還法に基づく補償額は2億230万ユーロとなっています。
5 西側12カ国との包括的補償協定
(1) 西ドイツは,1959年から1964年にかけて、ナチスの迫害行為により生命、身体、健康又は自由について損害を受けた各国の被迫害者に対する補償を西側11カ国の政府に対して包括的に支払うことを約束する包括的補償協定を締結しました。
   具体的な対象国は,ルクセンブルク,ノルウェー,デンマーク,ギリシャ,オランダ,フランス,ベルギー,イタリア,スイス,イギリス及びスウェーデンです。
(2) オーストリアとの間では、オーストリアの自国の補償給付制度に西ドイツが資金を拠出することを規定した条約が締結されました。
(3) これらの諸国に対する補償額は,9億7100万マルクに上りました。
6 東欧諸国との一括支払協定
   西ドイツは1961年から1972年の間に,ドイツの強制収容所で行われた疑似医学的実験(いわゆる「人体実験」です。)による被害に関して,ユーゴスラヴィア,チェコスロヴァキア,ハンガリ及びポーランドと一括支払協定を締結しました。
7 東西ドイツ統一後の補償
(1) ドイツは,1991年,ポーランド及びソ連の三つの承継国(ベラルーシ,ロシア連邦及びウクライナ)と条約を締結して,ナチス迫害の被害者の状態を緩和するためにかなりの金額を,いかなる法的義務も認めることなく,引き渡しました。
(2) 同様の引渡しが,エストニア,ラトヴィア,リトアニア及び特にチェコ共和国と締結した協定に基づいて行われました。
(3) ドイツは,1998年,これまでいかなる補償金の支払も受け取っていない東欧に住むナチス迫害のユダヤ人被害者に援助基金を提供するために,ユダヤ人請求会議と協定を締結しました。
8 参照資料等
(1)   ナチス迫害の被害者に対する補償に関しては,外務省HPの「外交史料館所蔵史料に見るドイツ戦後賠償の形成過程―現物賠償、戦争賠償、ナチスの不法に対する補償」のほか,「ライナー・ホフマン 戦争被害者に対する補償――1949年以降のドイツの実行と現在の展開――」が非常に参考になります。
(2) 「ドイツの戦後補償 1999.1.1現在」によれば,1961年から1972年までの一括支払協定による支払額は1億3000万マルクであり,1991年から1993年までのポーランド及びソ連の三つの承継国(ベラルーシ,ロシア連邦及びウクライナ)に対する支払額は15億マルクであり,1997年のドイツ・チェコ未来基金に基づく支払額は1億4000万マルクです。


第4 ドイツ企業による強制労働被害者に対する補償
1 総論
   Wikipediaの「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」には以下の記載があります。
① ナチス時代のドイツ企業はユダヤ人や戦争捕虜に強いられた強制労働によって大きな収益を上げていた。ドイツ連邦共和国政府はこの被害者に対する支払が「補償」の範囲内ではなく「国家間賠償」で対応されるべきとし、一切の支払に応じていなかった。
② 2000年7月17日にアメリカとドイツは協定を結び、ドイツ企業に対する訴訟を取り扱う財団設立で合意した。この協定には多数の訴訟代理人が同意し、訴訟権却下に応じた。8月12日に『財団「記憶・責任・未来」(ドイツ語版)』の創設が国会決議され、以降の支払いはドイツおよびドイツ企業の道義的・政治的責任に基づいて拠出された100億ドイツマルクから支払われることとなった。財団は7つの協力組織の請求に基づいて協力組織に金銭を支払い、2001年末までに請求を行った者に対し、協力組織が支払うという形式で処理を行っている。ドイツ側としては道義的・政治的責任は認めつつも法的義務は認めておらず、公式には賠償とはされていない。また、この強制労働はナチ不正の一環であって、戦争犯罪としては取り扱われていない。ドイツ経済界はこれ以上賠償や補償請求が行われない「法的安定性」を求めており、アメリカ政府がこれに応じたことで交渉は決着した。アメリカ政府は交渉の過程で「今後アメリカとしては、ドイツに賠償請求を行わない」ことを表明している。

 「記憶・責任・未来」による支払は2001年より開始され、2007年6月に終結した。支払い対象はおよそ百カ国にまたがる166万人であり、支払総額は43.7億ユーロに達する。支払い対象となる強制労働被害者は強制収容所での労務者、移住させられ強制労働に従事させられた者、およびそれに準じると見られた者である。戦争捕虜、イタリアの降伏時に発生したイタリア王国軍人捕虜、西ヨーロッパ出身者のうち強制収容所収容や移住を強制されなかった者は対象外である。
2 強制労働被害者の人数等,及びアウシュビッツ強制収容所
(1) 「第三帝国における強制労働」(北陸大学紀要第28号(2004年))の末尾273頁には,強制労働被害者の人数に関して以下の記載があります。
① 1944年夏には,推計で7~8百万人のドイツで働く全外国人労働者のうち,ソ連人は他のどの国の人々よりも多かった。ソ連人民間労働者は280万人を数え,うち半数以上は女性であった。戦時捕虜は63万人に達していた。一方,強制労働による死者数も膨大にのぼり,1939年の対ポーランド戦争から1944年夏までに,戦時捕虜は330万人が死亡し,このうちソ連人が200万人(約58パーセント)を数え,強制収容所,労働収容所等で殺害された。ソ連人民間労働者は,数十万人が飢餓,病気,虐待等で殺される。
② ナチス側の労働担当部局が,ナチ支配の時代の最後に発表した統計数値を見てみよう。ドイツ戦争経済の研究科である経済史ディートリヒ・アイヒホルツによれば,この労働担当部局は,1944年8月~9月における大ドイツ帝国の強制労働者の総数を,7,906,760人であると公表した。
→ (山中注)281頁の表によれば,フランスが124万6388人であり,ポーランドが169万642人であり,ソ連が280万6203人です。
③ この人達(山中注:殺害された人々,飢餓,寒さ,過労,病気で死んだ人々,逃亡した人たち等)を含めると,ニュルンベルク国際軍事裁判でザウケル労働委員全権委員がほのめかした1200万人の方がより実態に近い。しかし,ディートリヒ・アイヒホルツによれば,これでも強制労働所収容者の数が含まれていない。
④ 全戦争期間を通じれば(山中注:強制労働被害者は)1400万人にのぼり,したがって,ソ連人強制労働者もさらに増加する。要するに,奴隷ならば生存は保障されていたが,酷使され,病,飢え,寒さで働けなくなれば焼却炉行きとなる<奴隷以下>の待遇にあった強制労働者のうち最大のグループはソ連人であったといえよう。

(2) 「第三帝国における強制労働」(北陸大学紀要第28号(2004年))の末尾276頁ないし280頁には,強制労働の現場等に関して以下の記載があります。
①   労働力不足の現場は,前線での塹壕掘り,ハンブルクなど港湾での軍需物資の荷役作業,重要生産施設の地下移転作業,炭鉱・建設業界,軍需・化学産業界などに広がった。「前代未聞の労働力不足」に見舞われたナチス政体にみられた変化の第三は,新たな規模で強制収容所の収容者に触手を伸ばしたことである。各企業は強制収容所の収容者に群がり,収容者は<使い捨て>商品として扱われ,使用後に<焼却>された。ハンブルク近郊のノイエンガメ強制収容所では,焼却された遺体は,収容所所有の畑の肥料となった。生きているときは労働を通じて収益を提供した収容者たちは,死んでなお収容所高官の食べる野菜の増産に貢献させられたわけだ。
   強制労働の現場は,農業,企業だけでなく,さらに一般家庭,自治体での労働,そして教会にも広がっていた。広く社会の隅々で外国人労働者の労働は常態となっていた。
② 各企業やナチスは,戦争も末期の頃になると,膨大な数の強制労働者の<処分>と<後始末>という新たな課題を抱え込むようとなった。ドイツの軍事的敗北が濃厚になり,強制収容者をそのまま継続して管理し統制する余裕が,経済的にも,人的にも無くなってきた。

③ 企業が,持て余した強制労働者を国家警察や秘密国家警察の出先機関に<移送>し,<戻す>。すると,出先機関は,独自に,勝手に処刑したということである。企業は,飢餓と病気と疲労にさいなまされ,自社のために身をすり減らして労働してきた人々を,故郷に帰すのではなかった。まるでBSE(牛海綿状脳症)に感染した牛やインフルエンザにかかった鶏を扱うように,自らの手を汚さずに,警察に<処分>をさせ,<間引き>した。牛も鶏も,飼い主は涙を流しながら別れを告げるであろう。しかし企業はそうではなかった。私は,<家畜以下の措置>という以外に形容の言葉を知らない。
④ 無事に帰還した人々にも戦後の歩みは決して平坦ではなかった。敵国ドイツのために働いた,あるいは貢献したという汚名を着せられた人々も多い。なんとか帰還した人々の数は,ソ連のみに限ると約520万人であった。このうち戦時捕虜が180万人,民間人労働者が340万人にのぼった。帰還後,この人たちの多くは,「協力者」,祖国への「反逆者」という視線を全身に浴びながら,尋問を受け,審査される収容所に再度入れられた。
(3) Wikipediaの「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」には,以下の記載があります。
① (山中注:アウシュビッツ強制収容所は,)労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには「劣等民族」を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ。
② 一説には「強制収容所到着直後の選別で、70 – 75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない。
③ (山中注:アウシュビッツ強制収容所に)収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、エホバの証人、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。 
④ たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、
1.ナチス党が掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。
2.領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産性確保(必要な栄養や休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと。
3.1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと
などが挙げられる。
⑤ 併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる。生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。
3 最高裁平成19年4月27日判決が認定したところの,日本による中国人強制連行
(1) 最高裁平成19年4月27日判決(第二小法廷)(上告人は中国人労働者であり,被上告人は西松建設)では,以下の事実が認定されました。
① 昭和19年3月から昭和20年5月までの間に,161集団3万7524人の中国人労働者が日本内地に移入された。
② 中国人労働者を受け入れた全事業場を通じて,移入者総数3万8935人のうち,送還時までに死亡した者は,6830人(17.5%)であった。
③ 本件被害者らは,家族らと日常生活を送っていたところを,仕事を世話してやるなどとだまされたり,突然強制的にトラックに乗せられたりして収容所に連行され,あるいは日本軍の捕虜となった後収容所に収容されるなどした。
(2) 最高裁平成19年4月27日判決(第二小法廷)の控訴審である広島高裁平成16年7月9日判決は,日本企業の安全配慮義務違反を認め,消滅時効の援用は信義則に違反し,日華平和条約又は日中共同声明に基づく請求権放棄は認められないということで,一人当たり550万円の損害賠償(精神的苦痛に対する慰謝料500万円及び弁護士費用50万円)の支払を命じていました。
(3) 「日中共同声明,日中平和友好条約,光華寮訴訟,中国人の強制連行・強制労働の訴訟等」も参照してください。
4 韓国大法院判決による,旧朝鮮半島出身労働者に関する認定事実の例

(1) 2018年10月30日の韓国大法院判決によって約1000万円の強制動員慰謝料請求権を認めてもらった,旧朝鮮半島出身労働者(いわゆる「徴用工」)であった原告3に関する認定事実は以下のとおりです。
   原告 3 は 1941 年、大田市長の推薦を受け、保局隊として動員され、旧日本製鉄の募集担当官の引率によって日本に渡り、旧日本製鉄の釜石製鉄所でコークスを溶鉱炉に入れ溶鉱炉から鉄が出ればまた窯に入れるなどの労役に従事した。上記原告は、酷いほこりによる困難を経験し、溶鉱炉から出る不純物によって倒れてお腹を怪我し 3 ヶ月間入院したりもしたし、賃金を貯金してくれるという話を聞いただけで、賃金を全くもらえなかった。労役に従事している間、最初の 6 ヶ月間は外出が禁止され、日本憲兵たちが半月に一回ずつ来て人員を点検し、仕事に出ない者には「悪知恵が働くやつだ」と足蹴にしたりした。上記原告は 1944 年になると、徴兵され軍事訓練を終えた後、日本の神戸にある部隊に配置され米軍捕虜監視員として働いていたところ解放になり帰国した。
(2)ア 太平洋戦争当時,旧朝鮮半島出身労働者は日本人であったのに対し,日本に強制連行された労働者は敵国である中華民国の国民でした。
イ 中国人強制連行と旧朝鮮半島出身労働者の比較については,「西松建設の中国人強制連行訴訟最高裁判決を韓国の徴用工訴訟に敷衍するフェイク」(平成30年12月20日付)が参考になります。
5 日本における連合軍捕虜の死亡率(参考)
   太平洋戦争中,約36000人の連合軍捕虜が日本に連行され,国内130ヵ所の捕虜収容所における過酷な労働,飢えや病,事故や虐待,友軍の空襲や原爆などにより,終戦までに約3500人が死亡しましたから,日本における連合軍捕虜の死亡率は約9.7%となりますPOW研究会「死亡捕虜リスト」参照)。

第5 ドイツ政府が主張するところの賠償問題の「解決」,1953年2月27日調印のロンドン債務協定,並びにギリシャ及びポーランドの賠償請求
 ドイツ政府が主張するところの賠償問題の「解決」
(1)ア 外務省HPの「外交史料館所蔵史料に見るドイツ戦後賠償の形成過程―現物賠償、戦争賠償、ナチスの不法に対する補償」の末尾119頁ないし121頁には以下の記載があります。
① 一九五二年及び一九五四年のボン・パリ諸条約における移行条約第六章では、「賠償の問題は、ドイツとその従来の敵国との間の平和条約、又はそれ以前のこの問題に関する協定により規定される。」とされた。
   また、ロンドン債務協定第五条第二項は、「戦争状態にあった国及びドイツにより占領された国並びにその国民のドイツ帝国及びその機関に対する第二次大戦から生じた請求権の審査は、ドイツの占領費用、清算勘定において獲得された貸方勘定、帝国信用金庫(Reichskreditkassen)に対する請求権を含め、賠償問題の最終的解決まで延期する。」と規定した。
   そして、一九九○年の東西ドイツ統一に際しては、ドイツと第二次世界大戦中の交戦国との間で国際法上のいわゆる平和条約は締結されず、東西ドイツ及び米英仏ソの六か国の間で締結された二プラス四条約においても、賠償問題に関する明示的規定は置かれなかった。この点について、ドイツ政府は、「第二次世界大戦後五○年を経過し、賠償問題は時代遅れとなり、その根拠を失った。こうした理解において、ドイツ連邦政府は二プラス四条約を締結した。二プラス四条約は、ドイツに関する最終的規律をもたらす目的を有しており、賠償問題は最早規律されない。」との見解を示してきている。
② こうしたドイツ連邦政府の見解は、国会議員の質問に対する累次の答弁書の中で明らかにされている。例えば、「ロンドン債務協定は、第二次世界大戦に起因するドイツと戦争状態にあった国及びこれらの国の国民の請求の審査を賠償問題の最終的規律まで延期した。この猶予は、一九九○年九月一二日のドイツに関する最終的解決に関する条約(二プラス四条約)でその目的を失った。この条約は、戦争から生じた法律問題の最終的解決を含んでいる。同条約は、明確に、ドイツに関する最終的解決をもたらす目的を有しており、二プラス四条約に関連する法的問題に関する更なる(平和条約上の)規律は生じないことが明らかにされた。このことから、また、同条約の締約国の意思に基づき、賠償問題は最早規律されることがないこととされた。 同条約は、欧州安全保障協力会議(CSCE)の参加国により一九九○年一一月二一日のパリ憲章で承認され、この国の中にはギリシャも含まれている。これによっても、連邦政府の見解では、賠償問題はその根拠を失ったものである。」(DeutscherBundestag, Drucksache 16/1634 vom 30.05.2006.)
   また、ドイツ連邦政府は、賠償問題がその根拠を失った理由として、数十年にわたる国際社会との間の平和で、信頼のある、実り豊かな協力関係、及び包括的な給付の移転を挙げてきた。後者については、具体的に、ドイツ在外資産及びドイツの著作権の接収・収用及び各占領地域におけるデモンタージュ、生産物の搬出に言及し、これらの措置が一九四五年のポツダム会談において見込まれた額(一○○億ライヒ・マルク)を遙かに超えるものであること、また、西側一二か国との間の包括的補償協定の実施に言及している。
イ 欧州安全保障協力会議(CSCE)は,1994年12月のブダペスト首脳会議に基づき,1995年1月,欧州安全保障協力機構(OSCE)に名称変更しました(外務省HPの「欧州安全保障協力機構(Organization for Security and Co-operation in Europe)の概要」参照)。
(2) 外部HPの「ドイツ「記憶、責任および未来」基金の設立過程 」によれば,戦後賠償に関するドイツの基本的立場は以下のとおりです。
① 強制労働は戦争行為として賠償問題の対象であるが、賠償問題の解決は、1957年のロンドン債務協定等により凍結されてきており(ロンドン債務協定は、賠償問題の最終的解決=平和条約=まで、賠償問題を延期する旨定めている。またすべての東欧諸国および多くの西側諸国は一方的ないし二国間の取り決めにより賠償請求権を放棄してきている。戦後50年以上経って、もはや賠償問題は存在しない。
② 他方、企業に対する民事補償請求権については裁判所が判断すべき問題である。これまでの独裁判所における判例は、いずれも時効が成立しているとして、かかる請求権を却下している。
③ 他方、法的請求権の問題とは別の問題として、人道的見地から元強制労働者に対する補償を行うための「基金」を設立し自発的に補償を行い、その代償として、米国内の裁判所において法的安定性を獲得することを目指していく。

(3) ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は,1949年5月23日採択の本基本法に基づいて成立し,1952年5月26日署名のボン諸条約,及び1954年10月23日署名のパリ諸条約に基づき,1955年5月5日に主権を回復しました。
   また,ドイツ民主共和国(東ドイツ)は,1949年10月7日に成立しました。
2 1953年2月27日調印のロンドン債務協定
(1) 「第二次世界大戦後の西ドイツ賠償問題とヨーロッパ地域秩序形成 」(名古屋大学法政論集260号に掲載)には以下の記載があります。
   ドイツに対する占領と食料援助のために予想される多大な費用に鑑みて、英国は、ドイツの戦争賠償よりも占領経費と援助費用の返済が優先されるべきこと、したがってドイツ在外財産を戦争賠償ではなく戦前債務の返済に充てることを第二次世界大戦中から主張していた。英国の主張は、当初はソ連、米国のいずれの同意も得ることができなかった。しかし、マーシャルプラン開始ならびに西側占領地区における通貨改革により、西ドイツ復興のためには外国からの投資が早急に必要であるとの認識が強まり、西ドイツの対外債務問題の解決は西ドイツと西欧諸国のあいだの経済関係・金融関係の再開、ひいては西ドイツの経済的な西側統合の前提となるため米国にとっても戦略的に重要であるとの判断から、1953 年2 月に参加21 か国によるロンドン債務協定の締結にいたった。
   西ドイツが返済すべき対外債務には、ドーズ債、ヤング債ならびに企業等からの民間対外債務を含めた第二次世界大戦前の諸債務に加えて、ガリオア資金、マーシャルプラン等、第二次世界大戦後に受けた各種の援助の枠内での諸債務があった。ロンドン債務協定では、これらの対外債務のうち戦前債務が44%(135 億DM から75 億DM)、戦後債務が56%(160 億DM から70 億DM)に圧縮され、総額145 億DM の返済が西ドイツに課された。
   これに対して戦争賠償については、ロンドン債務協定第5 条にて「賠償問題の最終決着まで延期する」ことが合意された。この規定が置かれたことにより、移行条約ですでに賠償猶予に合意していた西側三連合国に加えて、ロンドン債務協定に参加したその他の調印国も西ドイツに対して戦争賠償を請求できないことになった。戦争賠償に対して対外債務の返済を優先させた連合国側の決定については、戦争被害者に対する債権者の優遇だったとして批判もある。また、賠償請求を阻止したうえに、戦中債務は戦争賠償に含まれるとして協議の対象を戦前債務・戦後債務に限定したことは、仏、オランダ等の被害国に対して戦前・戦後債務の主要債権国である米英の利害が貫徹したものと見ることもできる。
(2) ロンドン債務協定は1953年2月27日に調印され,21カ国が署名し,70カ国の西側及び中立国が参加したものの,東側諸国は完全に排除されました。
   そして,同年9月16日にロンドン債務協定が発効しました(j-stage掲載の「1953年ロンドン債務協定に関する最近の研究動向」(2007年5月)参照)。
(3) 1959年から1964年にかけて締結した西側12カ国との包括的補償協定とロンドン債務協定5条2項との関係については,外務省HPの「外交史料館所蔵史料に見るドイツ戦後賠償の形成過程―現物賠償、戦争賠償、ナチスの不法に対する補償」の末尾129頁に以下の記載があります。
   ロンドン債務協定の附属書VIIIは、協定第五条第二項が西ドイツの国内法及びロンドン債務協定の署名前に締結された条約に基づく権利に影響を及ぼさない旨の合意された解釈を定めており、ナチスの不法に対する補償に関するドイツの国内法上の規定及びイスラエルとの協定がこれに含まれると理解された。
   そして、この結果、ナチスの不法に対する補償に関する一般的な例外が形成されたとして、西側諸国との包括的補償協定はかかる一般的な例外の対象とされたのである。
3 ギリシャの賠償請求
(1) 産経ニュースの「ドイツを揺さぶる戦後処理 財政危機のギリシャ賠償額36兆円と試算 独政府は「解決済み」」(平成27年5月6日付)には以下の記載があります。
 「法的に有効だ」。ギリシャのパブロプロス大統領は4月末、戦時中の占領に伴う損害の賠償請求について独メディアで語り、国際司法の場を含めた対応の必要性を強調した。ギリシャのチプラス政権は1月の発足後、「道徳的義務」として賠償請求の検討を表明しており、賠償額を約2787億ユーロ(約36兆円)と試算する。
(2) Wikipediaの「第二次世界大戦時のギリシャ」には以下の記載があります。
 1941年4月、ドイツ軍はギリシャ侵攻を開始、迅速な電撃作戦の前に5月半ばにはギリシャは枢軸国ドイツ、イタリア、ブルガリアの占領下となった。この占領はギリシャ人に恐ろしい負担をもたらし、300,000人以上が飢え死にし、数千人が報復で殺され、ギリシャ経済は破綻した。そのため、ギリシャではパルチザン活動が発生した。これらのパルチザンはゲリラ活動を開始、各地のパルチザンはネットワークを形成してスパイ活動を行ったが、1943年後半からはお互いの主義主張の違いから内戦を始めていた。1944年10月、ギリシャが解放された時、ギリシャは危機的状況であり、それは内戦の勃発を招くこととなった。
4 ポーランドの賠償請求
(1) 産経ニュースの「ナチス侵攻の賠償金57兆円、ポーランド議会が試算」(平成30年3月23日付)には以下の記載があります。
 ナチス・ドイツによる第2次大戦中のポーランド侵攻をめぐり、同国の下院調査委員会は22日、ドイツに請求すべき賠償金は総額5430億ドル(約57兆円)に上るとの試算を明らかにした。ポーランド政府は請求を決めていないが、踏み切れば、両国の関係が悪化する可能性がある。
(2)ア Wikipediaの「ポーランド侵攻」には以下の記載があります。
 ドイツによるポーランド占領中にポーランド人は、抵抗組織で活動したりユダヤ人をかくまうといった反ドイツ的行為のほか、許可なく家畜を飼うなどの微罪でも即座に死刑(ほとんどの場合発覚次第その場で銃殺)となり、最終的に600万人のポーランド人(ポーランド全人口の20%)が殺害され、そのうち300万人はアウシュヴィッツなどの絶滅収容所で大量虐殺されたといわれている。
イ Wikipediaの「ポーランド人に対するナチスの犯罪」には以下の記載があります。
① 伊東孝之著『世界現代史27 ポーランド現代史』(山川出版社、1988年)によると、ポーランドは終戦までに、医師の45%、裁判官・弁護士の57%、教師の15%、大学教授の40%、高級技師の50%、初級・中級技師の30%、聖職者の18%を失ったとされている。 
② ポーランド文化を破壊するため、ドイツ人はポーランドの大学、学校、博物館、図書館、科学研究所を閉鎖した。ポーランドの国家的英雄の像が何百体も破壊された。教育を受けたポーランド人が今後現れて来ないようにするために、ドイツ当局はポーランド人の学校教育を児童教育の数年間だけに制限した。
③ 1939年から1945年までの期間に少なくとも150万人のポーランド人市民がドイツ第三帝国に連れて行かれ、ほとんどの場合本人の意思に関わらず労働を強制された。多くは十代の少年少女であった。
(3) 外務省HPの「外交史料館所蔵史料に見るドイツ戦後賠償の形成過程―現物賠償、戦争賠償、ナチスの不法に対する補償」の末尾108頁には以下の記載があります。
 ソ連は、一九五三年八月二二日のドイツ民主共和国(東ドイツ)との間の議定書(ドイツの賠償支払いの免除等に関する議定書)において、ロンドン債務協定に対応し、一九五四年以降、ドイツ民主共和国について更なる賠償の給付を免除した。このソ連の対応は、ポーランド政府の同意を得てなされている(一九五三年八月二二日のポーランド政府の公式の声明による)。この免除(放棄)について、西ドイツ政府は、同議定書の構成から(同議定書の前文は「ドイツ」とだけ規定している)、東ドイツのみならず、全ドイツ(Gesamtdeutschland)を対象としたものであるとの見解を示してきたが、この点は、ポーランド政府が一九七○年のワルシャワ条約(ドイツ連邦共和国とポーランド人民共和国との間の相互関係の正常化の基礎に関する条約)に関する会談の中で確認している。 



第6 ドイツの戦後補償等における,一人当たりの金額の比較

1 ナチス迫害の被害者に対する一人当たりの補償額
(1)   NAVERまとめの「日本はドイツのように戦後補償をしていないと主張する人がいますが、本当はどうなんでしょう」には以下の記載があります。
④(連邦補償法)この法律は、ナチス迫害により生命、身体、健康、自由、所有物、財産、職業上経済上の不利益を被ったものに対する補償を内容とする。
 制定以来同法に基づく給付申請約450万件中220万件が認定され、これまでにおよそ710.5億マルク(3兆5951.3億円)を給付、現在は約14万人に年間15億マルク(759億円 1人平均月額900マルク(1マルク50.6円換算で45540円))を支払っている。
(2) NAVERまとめの記事を前提とした場合,ナチス迫害の被害者に対する一人当たりの補償額は約163万円となります。
2 強制労働被害者に対する一人当たりの補償額

(1) ヤフーニュースに載ってある「[寄稿]徴用工問題の解決に向けて」(寄稿者は宇都宮健児 元日弁連会長)には以下の記載がありますところ,これによれば,ナチス・ドイツによる166万人以上の強制労働被害者の場合,1人当たりの補償額は43万3735円以下であったことになります。
 ナチス・ドイツによる強制労働被害に関しては、2000年8月、ドイツ政府と約6400社のドイツ企業が「記憶・責任・未来」基金を創設し、これまでに約100カ国の166万人以上に対し約44億ユーロ(約7200億円)の賠償金を支払ってきている。このようなドイツ政府とドイツ企業の取り組みこそ、日本政府や日本企業は見習うべきである。
(2) 韓国の日刊新聞社であるハンギョレHPの「ドイツが日本より善良だから強制動員の賠償をしたのではない」には,強制労働被害者に対するドイツ「記憶・責任・未来」財団の補償に関して,「金額も最大で7500ユーロ(10日為替レート基準で956万ウォン、約100万円)程度で充分ではなかった。1200万人を越える被害者のうち僅か160万人ほどが賠償を受けた。 」と書いてあります。
3 在日韓国人及び台湾住民の軍人軍属に対する補償水準
(1) 平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族等に対する弔慰金等の支給に関する法律(平成12年6月7日法律第114号)に基づき,日本は,人道的精神に基づき,在日韓国人ら平和条約国籍離脱者等である戦没者等遺族及び重度戦傷病者遺族に対し,死亡した者1人につき弔慰金260万円を支給し,また,平和条約国籍離脱者等である重度戦傷病者に対し,1人につき見舞金200万円及び重度戦傷病者老後生活設計支援特別給付金200万円を支給しました。
(2) 台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律(昭和62年9月29日法律第105号)及び特定弔慰金等の支給の実施に関する法律(昭和63年5月6日法律第31号)に基づき,日本は,人道的精神に基づき,台湾住民である戦没者の遺族等に対し,戦没者等又は戦傷病者一人につき200万円の弔慰金又は見舞金を支給しました。
4 2018年10月30日の韓国大法院判決が支払を命じた金額
(1) 2018年10月30日の韓国大法院判決は,旧朝鮮半島出身労働者(いわゆる「徴用工」です。)1人あたり1億ウォン(約1000万円)の支払を命じました(livedoor NEWSの「徴用工の損害賠償問題 日本企業全体で2兆円超になる可能性も?」(平成30年11月13日付)参照)。
(2) 詳細については,「日韓請求権協定」を参照してください。
5 自賠責保険の賠償水準

 自賠責保険の場合,傷害部分に対して120万円まで支払ってもらえます。
 また,後遺障害部分に対しては,介護を要する後遺障害等級1級であれば4000万円,死亡による損害であれば3000万円,もっとも軽い後遺障害等級14級であっても75万円まで支払ってもらえます(「自賠責保険の保険金及び後遺障害等級」参照)。
6 東日本大震災における原子力損害賠償の賠償水準
(1) zakzak HP「【震災から3年 福島のリアル】賠償の差が生み出した被災生活格差 被害大きくても対象地区外れると…」には以下の記載があります。
   文部科学省によれば、原発事故の賠償金は、原子力損害賠償紛争審査会の指針に基づき、東京電力が負担し、帰還困難区域は故郷喪失慰謝料が上乗せされる。
   同省の試算では、30代の夫、妻、子供2人の持ち家4人世帯が福島県内の都市部へ移住した場合、(1)帰還困難区域で1億675万円(2)居住制限区域で7197万円(3)避難指示解除準備区域で5681万円(いずれも総額)-に分かれる。
(2) 関弁連理事長及び東京三会会長が出した「東日本大震災・福島第一原子力発電所事故から7年を迎えるにあたっての声明」(平成30年3月9日付)には,「原子力発電所事故の被害者に対する救済・賠償は依然として不十分である。いくつかの集団訴訟で国や東京電力の責任を認める画期的判決が出ているが、残念ながら被害者救済に資する十分な賠償を命じたと言える内容ではない。」と書いてあります。

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第7 関連記事
1(1) 優生保護法中のいわゆる優生規定(同法3条1項1号から3号まで,10条及び13条2項)は,憲法13条及び14条1項に違反すると判示した最高裁大法廷令和6年7月3日判決には以下の記載があります。
    平成8年改正前の優生保護法1条の規定内容等に照らせば、本件規定の立法目的は、専ら、優生上の見地、すなわち、不良な遺伝形質を淘汰し優良な遺伝形質を保存することによって集団としての国民全体の遺伝的素質を向上させるという見地から、特定の障害等を有する者が不良であるという評価を前提に、その者又はその者と一定の親族関係を有する者に不妊手術を受けさせることによって、同じ疾病や障害を有する子孫が出生することを防止することにあると解される。
    しかしながら、憲法13条は個人の尊厳と人格の尊重を宣言しているところ、本件規定の立法目的は、特定の障害等を有する者が不良であり、そのような者の出生を防止する必要があるとする点において、立法当時(山中注:優生保護法が公布されたのは昭和23年7月13日です。)の社会状況をいかに勘案したとしても、正当とはいえないものであることが明らかであり、本件規定は、そのような立法目的の下で特定の個人に対して生殖能力の喪失という重大な犠牲を求める点において、個人の尊厳と人格の尊重の精神に著しく反するものといわざるを得ない。
(2) 葛飾区HPの「終戦・占領と区民生活 :復興期の食糧事情」には「食糧援助によって危機的な状況は乗り越えたものの、依然として食糧の確保は問題であった。昭和23(1948)年に葛飾区は、GHQの「好意」によって食糧事情は良くなっているものの、「狭い日本は方寸の土地も利用して食糧の増産に心がけなければなりません」として希望者を募り、家庭菜園向けに種子用馬鈴薯の配布などを行っている」と書いてあります。
2 以下の記事も参照してください。
・ 第一次世界大戦におけるドイツの賠償金の,現在の日本円への換算等
・ 旧ドイツ東部領土からのドイツ人追放,及びドイツ・ポーランド間の国境確定
・ 日本の戦後処理に関する記事の一覧
・ 日本の戦後賠償の金額等
・ 日韓請求権協定
・ 原子力損害賠償の状況,中国残留邦人等への支援,被災者生活再建支援制度等


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