第1 この記事が扱う対象
第2 天皇条項とは何か――削除された原案の文言
第3 日本政府の第一報――東郷外相と外務省幹部会
第4 ソ連仲介という並行戦略と「黙殺」という応答
第5 8月9日から10日の会議に現れた対立――国体護持と他の三条件
第6 天皇条項が残っていたら結果は変わったか――専門家の分析
第7 出典
文献
公文書・歴史資料
第1 この記事が扱う対象
1945年(昭和20年)7月26日に発表されたポツダム宣言の起草過程では,米国陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンが同年7月2日にトルーマン大統領へ提出した原案に,「これには,そのような政府が二度と侵略の野心を抱かないと世界を完全に納得させられるのであれば,現王朝の下における立憲君主制を含み得るものとする」という一文――天皇の地位に関する条項――が置かれていた。この条項をめぐっては,前国務長官コーデル・ハルが同年7月16日に異論を示し,翌17日に国務長官ジェームズ・F・バーンズから「言及された約束」を含めるべきでないとの回答が届いたが,7月18日の統合参謀本部案には条項が残り,7月20日にはスティムソンも同案に同意していた。もっとも,7月24日にチャーチルへ渡されたとされる米国案では条項が削除されており,最終的に発表された宣言にも天皇の地位に関する明文の言及は置かれなかった。この削除に至る経緯そのものは,起草過程を扱う別稿「ポツダム宣言の起草過程――天皇条項はなぜ削除されたか」で一次資料に基づいて詳述しているため,本稿では確定した前提として扱う。
本稿が検討するのは,この条項が削除されずに宣言の本文へ残っていた場合,日本政府が7月26日の直後――数日以内――に宣言を受諾していた可能性が現実的にあったかという問いである。これは,実際に発表された宣言の文言を前提として日本が早期に対応していたらという反実仮想(この点は別稿「ポツダム宣言早期受諾の反事実分析」で扱っている)とは異なり,宣言の文言そのものが違っていたらという反実仮想である。なお,天皇条項の削除という事実を前提に,天皇主権から国民主権への転換をどう法的に説明するかという理論上の問題は,本稿とは別に「ポツダム宣言と日本国憲法制定の法的連続性――「八月革命説」とその後の学説」で扱っている。起きなかった出来事を扱う以上,史料によって直接に証明できる性質のものではないが,7月末における日本側の意思決定が実際にどのような構造を持っていたか,また天皇条項が仮に存在していたとして日本側の障害をどこまで解消し得たかを正面から検討した専門研究が存在する以上,これらに基づいて相応の根拠をもって評価することはできる。本稿は,これらの一次資料及び専門研究をAIが整理・分析した内容であり,確定的な史実の断定ではなく,現時点で確認できる根拠に基づく評価として提示するものである。
以下では,削除された条項の文言を確認した上で(第2),日本政府が実際に宣言をどう受け止めたか(第3,第4),8月9日から10日の会議で表面化した対立の構造(第5)を確認し,最後に天皇条項の反実仮想そのものを正面から扱った専門研究の分析を紹介する(第6)。
第2 天皇条項とは何か――削除された原案の文言
スティムソンが1945年7月2日付でトルーマンへ提出した布告案(後のポツダム宣言の原型)には,前記の立憲君主制を条件付きで許容する一文のほか,スティムソンが同封した添付覚書にも「もし我々がこれを述べるにあたり,現王朝の下での立憲君主制を排除しないと付け加えるならば,受諾の可能性を実質的に高めるであろう」という趣旨の記述があった(原案及び覚書は米国務省編纂の外交文書集に収録されている)。この原案は米国内の非公式協議体(陸軍長官・海軍長官・国務長官代理の三者委員会及びその下の起草小委員会)で作成されたものであり,正式な国務・陸軍・海軍3省調整委員会の議決を経たものではない。
前国務長官ハルは,天皇条項が軍国主義者の妨害によって降伏につながらなかった場合,日本側を勢いづかせ,米国内で深刻な政治的反発を招くと異論を示した。これを受けてバーンズは,声明の発出を遅らせ,発出するときは「言及された約束」を含めるべきでないと回答したが,バーンズが具体的に何を「約束」と捉えていたかはハル自身にも明らかでなく,国務長官代理グルーは原案第12項を指すものと理解した。その翌日の統合参謀本部案は,天皇条項を残したまま,日本国民が自らの政体を選択できるとの文言を追加し,特定の政体を支持する約束には当たらないと説明しており,スティムソンも7月20日に同案へ同意した。もっとも,7月24日にチャーチルへ渡されたとされる米国案では天皇条項が削除され,「日本国民の自由に表明された意思に従い」という文言が置かれており,これが最終的な宣言第12項(全13項の概要及び原文・書き下し文・現代語訳の全13項対照を参照)へつながった。この結果,7月26日に発表された宣言には,天皇又は皇室の地位について直接定める条項が存在しなくなった。削除の経緯の各段階の日付・関与者・一次資料の詳細は,前記の起草過程を扱う別稿を参照されたい。
第3 日本政府の第一報――東郷外相と外務省幹部会
宣言発表の翌日である1945年7月27日朝,外務大臣東郷茂徳を含む外務省幹部会が開かれ,宣言を原則として受諾するという方向で意見が一致した。東郷自身は,宣言の内容について「日本の今の戦局からして講和条件は結局ああ言う程度のものだろう」という第一印象を持ち,現状の日本にとって特別に厳しい内容ではなく,対米和平の基礎になり得ると評価していたことが,当時の内閣書記官長迫水久常の記録及び江藤淳が編んだ終戦工作関係の記録を用いた実証研究から確認できる(迫水2015:188頁~190頁,江藤編1986:下巻320頁,325頁~326頁,光辻・山影2017:92頁)。
もっとも,東郷は同時に,宣言の内容には不明な点も多く,即座に拒絶することも即座に受諾することもできないとも評価していた。外務省が編纂した『終戦史録』は,東郷自身の言葉として「これ以上の緩和は至難とも考えたが,我が方としては今少しなる条件の獲得を希望したのでソ連との話合を継続するを可と認めたのである」と記録している(外務省編1977:4巻14頁,光辻・山影2017:93頁)。すなわち,東郷は宣言の内容そのものを致命的な障害とは見ておらず,むしろソ連を仲介とした交渉により,宣言よりもさらに有利な条件――領土や体制保証に関わる条件――を引き出すことを目指して,即答を避けたことになる。この点は,天皇条項の有無という一事だけが,東郷ら講和派の対応を左右する決定的な要因ではなかった可能性を示している。