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ポツダム宣言を早く受け入れていたら,又は受け入れていなかったらどうなったか――原爆・ソ連参戦・本土決戦(AI作成)

第1 結論と検討の範囲

1 時点別の結論

1945年7月26日のポツダム宣言発表直後に,日本が宣言を明確に受諾し,連合国側がこれを確認して停戦手続に入っていたならば,広島と長崎への原爆投下は回避された可能性が高い。もっとも,原爆投下命令は宣言発表の前日である7月25日に既に発せられていたため,受諾の通報,連合国側の確認及び作戦中止命令の伝達が投下前に完了することが必要であった。

ソ連参戦については,早期受諾が米英中によって確認され,全軍への停戦・武装解除命令が8月8日より前に発せられていれば,ソ連が実際と同じ形で宣戦し,戦闘を開始した可能性は低かったと考えられる。他方,ヤルタ協定に基づくソ連の利害及び軍事準備は残るため,連合国間の合意によって,ソ連軍が降伏受領のために戦闘を伴わず進駐する可能性はあった。

8月14日にも受諾しなかった場合には,通常爆撃,海上封鎖,追加の原爆使用及びソ連軍の作戦が続き,11月1日を目標日とした九州上陸作戦の危険が高まったと考えられるが,本土上陸が必ず実施されたとまではいえない。

2 反実仮想を事実と区別する方法

「早く受け入れていたら」という問いには,当時実際に決定されていた計画と,その計画が変更された可能性を分けて答える必要がある。本記事では,①公文書で確認できる事実,②その事実から合理的に推測できる蓋然性,③資料だけでは決められない事項を区別し,AIを用いた整理を原典と照合した。ポツダム宣言全13項の内容は,ポツダム宣言とは何か――全13項の内容を簡単に説明で,原文・書き下し文・現代語訳の対照は,ポツダム宣言全文――原文・書き下し文・現代語訳を全13項で対照で,宣言発表から最終受諾,降伏文書調印までの実際の経過は,ポツダム宣言の発表から宣言受諾及び降伏文書調印までの経緯で整理している。「無条件降伏」の対象は,ポツダム宣言で日本は無条件降伏したのかで,8月10日申入れと天皇の地位は,ポツダム宣言受諾時の国体護持とはで扱っている。また,宣言の文言そのものが発表に至るまでにどのように起草されたかは,ポツダム宣言の起草過程――天皇条項はなぜ削除されたかで扱っている。天皇条項が削除されずに残っていた場合に早期受諾が現実的だったかという反実仮想は,ポツダム宣言に天皇条項があれば昭和20年7月26日の発表直後の早期受諾が現実的だったかで扱っている。本記事は,これらの実際の文書と経過を前提に,「別の時点で受諾した場合」に焦点を絞る。

第2 宣言発表時に既に動いていた三つの軍事計画

1 原爆投下命令はポツダム宣言より先に発せられた

米陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディがカール・スパーツ戦略航空軍司令官に発した1945年7月25日付命令は,8月3日頃以降,天候が許し次第,広島,小倉,新潟又は長崎の一つへ最初の特殊爆弾を投下し,準備ができた追加爆弾も使用するよう命じていた。ポツダム宣言の発表は翌26日であるから,原爆投下は,日本の7月28日のいわゆる「黙殺」対応を受けて初めて決定されたものではない。

他方,投下命令が既に存在したことは,その後の外交状況にかかわらず必ず実行されるという意味ではない。ポツダム宣言第13項は,日本政府に全軍の無条件降伏を直ちに表明するよう求め,代替は「迅速かつ完全な破壊」であるとしたが,原爆の存在,投下予定日又は「何日以内」という期限は記載していなかった。したがって,「5日以内に受諾しなかったから原爆投下が自動的に決まった」という説明は,宣言本文と投下命令のいずれからも確認できない。

2 ソ連参戦はヤルタ協定と作戦準備に基づいていた

1945年2月11日のヤルタ協定では,ドイツ降伏及び欧州戦争終結から2か月又は3か月後に,ソ連が連合国側で対日戦へ参加することが取り決められた。ドイツの降伏日は5月8日であり,ソ連は8月8日に日本へ宣戦通告を行い,翌9日から戦争状態に入ると表明した。この時間関係は,日本政府の一つの発言だけでソ連参戦が生じたのではなく,それ以前からの同盟国間合意と軍事準備が背景にあったことを示す。

日ソ中立条約第3条は,批准日から5年間有効とし,満了1年前までに廃棄通告がなければ次の5年間自動延長すると定めていた。ソ連の1945年4月5日通告も「翌年4月以後は延長しない」という内容であり,直ちに条約を終了させるものではなかった。外務省は,8月9日のソ連参戦を,当時なお有効であった日ソ中立条約に違反するものと説明している。この条約上の問題と,ソ連が実際に参戦準備を進めていたという歴史的事実は,区別して理解する必要がある。

3 本土上陸は計画されていたが実施は確定していなかった

米国側のダウンフォール作戦は,九州南部へ上陸するオリンピック作戦を1945年11月1日,関東平野へ上陸するコロネット作戦を1946年3月1日に予定していた。6月18日のホワイトハウス会議では,海空からの爆撃と封鎖を続けつつ侵攻準備を進める方針が確認され,九州作戦の上陸部隊は76万6700人と示された。

しかし,同じ会議では,九州作戦の具体的な死傷者数を一つに決めることは不適切であるとの説明,沖縄戦の死傷率を参考にする見方,ルソン戦と沖縄戦の間とする見方が併存していた。九州作戦を承認して準備を進めても,その後の情勢を見て最終行動を決める余地が残されていたのであり,「受諾しなければ直ちに本土決戦」「本土決戦なら米軍100万人死亡」という単純な公式見積りは,当該会議録からは導けない。

4 判断の前提となる時系列

日付確認できる出来事反実仮想上の意味
7月25日米国が最初の原爆を8月3日頃以降に投下する命令を発出投下計画は宣言発表前に進んでいた
7月26日米英中がポツダム宣言を発表この直後の受諾なら原爆投下まで時間があった
7月28日日本政府が宣言を直ちに受諾せず,いわゆる「黙殺」対応発言を変えるだけでは受諾にならない
8月6日広島への原爆投下以後の受諾で広島投下は回避できない
8月8日・9日ソ連が宣戦を通告し,対日作戦を開始以後の受諾でソ連参戦自体は回避できない
8月9日長崎への原爆投下広島後に利用できた時間は極めて短かった
8月10日・11日日本が条件付き受諾を申し入れ,連合国側が回答条件確認の往復に時間を要した
8月14日日本が最終受諾を通告連合国側が完全な受諾と認め,停戦手続へ移った

第3 ポツダム宣言を早く受け入れていた場合

1 7月26日直後に明確に受諾した場合

宣言発表直後に日本政府が第13項に沿う明確な受諾を通報し,連合国側がこれを真正な降伏意思として確認できたならば,広島への投下予定日まで少なくとも数日の余裕があった。降伏を受け入れた国に対する戦略爆撃を停止する必要が生じるため,広島と長崎への原爆投下が中止された可能性は高い。これは投下命令の日付と実際の投下日から導く蓋然性であり,中止命令の発令・伝達時刻まで仮定しなければ100%確実とはいえない。

本土決戦についても,受諾が連合国側に承認され,全軍への停戦・武装解除命令が実施されるならば,九州上陸の目的は失われる。実際の8月14日付最終通告は,日本政府及び大本営による必要文書への署名と,全軍に戦闘停止及び武器引渡しを命ずる用意を表明しており,単なる政治声明ではなく軍事行動を終了させる仕組みを含んでいた。この仕組みが現実にどこまで機能したかを示す一例として,8月15日未明,ハルゼー機動部隊の艦載機が既に東京地区攻撃のため発進していたところ,太平洋艦隊情報士官レイトン大佐が日本の正式受諾を傍受した情報を携えてニミッツ提督の下へ駆け込み,ニミッツは全攻撃作戦の即時中止を命じた。攻撃機は爆撃前に呼び戻されたが,帰投中の米軍ヘルキャット4機が日本軍戦闘機に撃墜され,搭乗員が失われた。停戦の仕組みは実在したが,それが間に合うかどうかは,最後は数時間単位の情報伝達の速さに懸かっていたことになる。

2 ソ連参戦を回避できたか

7月26日直後に受諾が成立し,米英中がこれを完全な受諾として確認した上で,全軍への停戦・武装解除命令が8月8日より十分前に発せられていれば,ソ連が実際と同じ形で宣戦し,対日戦闘を開始した可能性は低かったと考えられる。ソ連の8月8日付対日宣戦声明は,日本が三国の降伏要求を拒否して戦争を継続していることを参戦理由の前提としていた。また,米国の1945年7月15日付占領計画文書も,ソ連の日本占領への参加を「ソ連が参戦した場合」と条件付けていた。

もっとも,参戦回避とソ連軍の不進出は同義ではない。ヤルタ協定により,南樺太及び隣接島嶼のソ連への返還,千島列島のソ連への引渡し並びに満州の港湾・鉄道に関するソ連の利益が取り決められており,ソ連の軍事準備も既に進んでいた。連合国がソ連軍を降伏受領者に指定し,日本側が関東軍並びに朝鮮,南樺太及び千島列島の日本軍にソ連軍への降伏を命じていれば,ソ連軍が降伏受領のために戦闘を伴わず進駐した可能性はある。実際の一般命令第1号も,満州,北緯38度以北の朝鮮,南樺太及び千島列島の日本軍をソ連軍極東最高司令官に降伏させる仕組みを採用した。

占領統治の主体をめぐる緊張は,日本の最終受諾(8月14日)より前,バーンズ回答の起草・伝達段階でも既に生じていた。駐ソ米国大使ハリマンが英国大使カー及びソ連外相モロトフと会談していた8月10日夜,ワシントンから回答案への支持を求める訓令が届いた。同日深夜の再会談でモロトフが示したソ連側の回答案は,天皇及び日本政府を従属させる連合国最高司令部の人選について,連合国側が協議することを条件としていた。ハリマンは,最高司令官が米国人以外となることは考えられないと強く異議を述べ,モロトフが米ソ双方の将軍(ヴァシレフスキー元帥を名指し)による共同司令部を示唆すると,これも拒絶した。最終的にはモロトフの秘書を通じてスターリンの了承が伝えられ,「協議する」対象を単数の人選に限定する文言へ修正された上で確定した。米国議会図書館所蔵のハリマン文書は,この経緯を,占領統治権をめぐる米ソの緊張の始まりであったと位置付けている。占領区域をめぐる緊張は,一般命令第1号(8月15日付)よりも前,バーンズ回答の起草段階(8月10日)から既に生じていたことになる。

したがって,早期受諾によって実際と同じ対日宣戦及び大規模な戦闘が回避された可能性と,ソ連軍がどこまで進駐したかは分けて考える必要がある。一般命令第1号による区域分担は,ソ連の対日宣戦及び攻撃開始後に定められたものである。また,日本の最終受諾後,スターリンは北海道北部へのソ連軍進駐を要求したが,トルーマンはこれを拒否した。ロシア歴史協会の資料目録には,これとほぼ同時期,ソ連軍最高司令官がソ連海軍総司令官及び太平洋艦隊司令官に対し,北海道への上陸作戦を延期し部隊を南千島列島へ転用するよう指示した1945年8月22日付指令の存在が記録されている。同指令の本文自体は公開されておらず表題と所蔵情報を確認できたにとどまるが,北海道への進駐が外交上の要求にとどまらず,軍事作戦としても具体的に準備され,その後中止された経過があったことをうかがわせる。このため,早期受諾の場合には,南樺太・千島列島等で戦闘を伴わない進駐が行われた可能性が残るものの,満州,北緯38度以北の朝鮮及び北海道を含め,実際と同じ範囲にソ連軍が進駐したとまでは断定できない。

3 「黙殺」と言わなかっただけの場合

7月28日の発言で「黙殺」という語を用いず,検討中とだけ表明した場合でも,受諾通告をしなければ宣言第13項が求めた降伏は成立しない。連合国側から見れば,日本軍の抵抗と戦争状態は続くため,既に発せられた原爆投下命令,通常爆撃,海上封鎖及びソ連の参戦準備を止める十分な根拠にはならない。

「黙殺」は国際的に強い拒絶と受け取られ得る表現であり,外交上の印象には影響した。しかし,原爆投下とソ連参戦の原因をこの一語だけに帰するのは,投下命令とヤルタ協定が先行していた事実に反する。結果を変えるために必要だったのは,表現の変更ではなく,受諾条件の決定,正式な通報及び停戦を実行できる軍への命令である。

4 広島への原爆投下後,長崎投下前に受諾した場合

広島への原爆投下が8月6日,ソ連の宣戦通告が8月8日,長崎への原爆投下とソ連軍の攻撃開始が8月9日であり,三つの出来事は極めて短い間隔で続いた。広島投下直後に日本が無条件の受諾を決定し,通報が迅速に到達して作戦中止命令が間に合えば,長崎への投下を回避できた可能性はある。

しかし,実際の日本政府内では受諾条件をめぐる対立が続き,8月10日の申入れも,宣言が天皇の国家統治の大権を害する要求を含まないとの理解を付していた。連合国側は8月11日,降伏時から天皇及び日本政府の国家統治権限は連合国最高司令官に従属すると回答し,最終通告は8月14日となった。広島後から長崎投下までの約3日間に,この条件調整まで完了できたかは資料から確定できないため,「広島後に受諾を決めれば長崎は必ず回避できた」とはいえない。

なお,長崎投下の回避可能性については,受諾のタイミングとは別の角度からの指摘もある。バートン・バーンスタイン及びマーティン・シャーウィンは,原爆投下の実施権限をワシントンの最高首脳部が一元的に把握せず,現地のグローブス将軍に委ねていたという指揮系統の在り方自体が,広島投下とソ連参戦という二つの衝撃だけで日本が降伏する余地を検討する間もなく長崎投下に至らせた一因であると指摘する。これに対し,ロバート・マドックスは,広島単独の衝撃では日本の強硬派がこれを過小評価するおそれがあったため,長崎投下には独自の必要性があったと反論する。この対立は,受諾の時点を早めることとは別に,投下の意思決定の仕組み自体を変えていた場合の反実仮想であり,本記事の検討対象(受諾の時点)とは異なる角度からの議論として付言する。

第4 8月14日にも受け入れなかった場合

1 通常爆撃,封鎖及び追加原爆の危険

6月18日の米国会議録は,侵攻準備と並行して最大限の爆撃と封鎖を継続する方針を示していた。7月25日の命令は,最初の原爆だけでなく,準備ができた追加爆弾の使用も認めていた。したがって,8月14日にも受諾しなければ,都市・軍事施設への通常爆撃と海上封鎖が続き,追加原爆が使用される現実的な危険も残ったといえる。

もっとも,追加原爆の実際の完成日,標的,天候,輸送,最高首脳部による統制及び外交状況は変動し得る。7月25日命令だけから,「第三の原爆が特定の日に特定都市へ必ず投下された」とまでは確定できない。本記事では,追加使用の危険が存在したことと,具体的な投下結果が不明であることを分ける。

広島投下の直後,グローブス将軍の副官ファレル准将らは,目標リストを見直し,東京地域を含む複数の大都市を「心理的価値が大きい」ことを理由に追加するよう軍内部で提言していた。この提言は,戦争が数日後に終結したため実行に移されなかった。他方,同じ8月10日の閣議について,ヘンリー・ウォレス商務長官が残した日記は,トルーマンが以後の原爆使用に大統領自身の「明示の許可」を要する旨を指示したと記録している。歴史家バートン・バーンスタインは,この閣議でのトルーマンの発言を,罪のない多数の人命を奪うことへの認識が生まれたことの表れと評価する。追加原爆の危険は,運用の現場では現実に拡大の方向で検討されていた一方,最高首脳部では同じ時期に統制を強める動きが始まっていたのであり,このどちらか一方だけを取り出して「必ず投下された」とも「もう投下される余地はなかった」とも断定することはできない。

2 ソ連軍の作戦と占領範囲

ソ連は既に対日戦へ入り,満州,南樺太及び千島方面で作戦を開始していたため,日本が8月14日に受諾しなければ作戦は継続した可能性が極めて高い。実際にも,受諾通告と8月15日の放送だけで全地域の戦闘が同時に停止したわけではなく,外務省資料によれば,ソ連は8月28日から遅くとも9月5日までに北方四島を占領した。この停戦の不徹底は,ソ連方面に限られたものではない。日本側が発した停戦命令自体,即時停戦ではなく,本土では48時間,ニューギニア及びフィリピンでは12日という地域ごとの段階的な発効とされ,前線部隊への到達時期も見通しが困難とされていた。その周知のため,皇族3名が個別に前線司令官への伝達に派遣されている。現に,8月18日には,東京上空を偵察飛行中の米軍B-32爆撃機2機が,横須賀海軍航空隊所属の日本軍戦闘機14機の攻撃を受け,搭乗員1名が致命傷を負う事案も生じている。

受諾がさらに遅れた場合に,ソ連軍がどこまで進出し,日本の占領区域又は戦後の領域処理がどう変わったかは確定できない。北海道上陸又は日本分割を既定の結果として描くのも,反対に可能性を否定するのも行き過ぎである。受諾の遅延はソ連軍の作戦時間を増やし,戦後処理をめぐる不確実性を拡大した,という範囲が資料からいえる結論である。

3 本土決戦は近づくが必然ではない

戦争が11月まで続けば,オリンピック作戦が実施される危険は高まる。日本側は決号作戦を準備していたが,防衛研究所の研究は,部隊の装備,弾薬,訓練及び沿岸防備が不十分であり,計画と実行能力が一致していないことを示す報告が,1945年6月には天皇に届いていたと整理している。本土決戦が実行されれば,日米双方の軍人だけでなく住民にも大きな被害が及び,国土の荒廃が拡大した可能性が高い。

一方,米国側にも,上陸の損害を懸念し,爆撃と封鎖による降伏を期待する見解があった。米国戦略爆撃調査団は戦後,原爆投下,ソ連参戦及び侵攻計画がなくても,日本はおそらく11月1日より前,確実に12月31日より前に降伏したとの見解を示した。これは戦後の聞取りと分析による調査団の評価であり,同時代の確定した作戦結果ではない。したがって,本土上陸は重大な危険であったが,受諾拒否から機械的に生じる唯一の未来ではなかった。

4 犠牲者数を一つの数字で断定できない理由

本土決戦の犠牲者数は,侵攻の範囲,期間,日本軍の配置,住民動員,ソ連軍の行動,海上封鎖と食料事情などの仮定によって大きく変わる。6月18日の会議で示された76万6700人は九州作戦の上陸部隊数であり,死傷者数ではない。また,同会議には単一の公式死傷者見積りはなく,複数の比較方法が示されていた。

このため,「早期受諾で100万人の米兵を救えた」「受諾しなければ日本人全員が死亡した」などの表現は,政治的主張又は宣伝上の表現と,公文書で確認できる数値を混同する。確実にいえるのは,戦争が長引くほど,爆撃,封鎖,陸上戦及びソ連軍の作戦による死傷者が増える方向に働いたということであり,反実仮想上の総数は算定不能である。

この算定不能という性質は,仮想の九州上陸だけでなく,現実に生じた原爆被害についても同様に当てはまる。投下から2日後の1945年8月8日付でテニアン島から発せられた米陸軍航空軍の報告は,広島の犠牲者数を「最も控えめな推計でも10万人」と記載していたが,これは投下直後の暫定的な集計であり,その後長期間かけて蓄積された調査に基づく数字ではない。最初に示された数字であっても,それが確定値ではなく暫定的な推計であることを区別する必要がある点は,仮想の犠牲者数についても現実の犠牲者数についても変わらない。

第5 日本の降伏を生んだ複数の要因と先行研究

1 長期的な敗戦条件,短期的な衝撃及び決定手続

原爆投下とソ連参戦は,いずれも終戦判断に重大な影響を与えた。しかし,日本の降伏を説明するには,①海上封鎖,通常爆撃,海上輸送及び生産力の低下並びに本土決戦準備の物的脆弱性という長期的な敗戦条件,②広島への原爆投下,ソ連参戦及び長崎への原爆投下という短期的な衝撃,③最高戦争指導会議構成員の意見対立,受諾条件及び天皇の判断という決定手続を区別する必要がある。米国戦略爆撃調査団は,広島への原爆投下とソ連参戦後も,最高戦争指導会議内のポツダム宣言をめぐる意見対立が従前どおり続いたと記録している。二つの衝撃のいずれか一つが機械的に降伏を発生させたのではなく,天皇による裁断,軍部の統制,受諾条件及び連合国側の回答が組み合わさって最終受諾に至ったのである。

海上封鎖,通常爆撃及び軍事的劣勢は,日本の敗北を構造的なものにした。他方,これらの事情だけでは,なぜ8月10日に一条件付き受諾申入れが決まり,バーンズ回答後の14日に最終受諾が決まったかを説明できない。戦争を継続する能力が失われつつあったことと,政府が特定の時点で降伏を決定したことは,別の問題である。

2 原爆とソ連参戦の相対的な重み

広島への原爆投下は,従来の防空及び本土決戦の前提を損ない,戦争継続論を弱めるとともに,終戦を正当化する政治的材料となった。しかし,8月6日から8日までに政府及び軍部の受諾合意が成立したわけではない。ソ連参戦は,対ソ和平仲介の可能性を消滅させ,二正面戦争,満洲・朝鮮・南樺太等の喪失及びソ連軍による占領範囲拡大の危険を現実化した。長崎への原爆投下は,既に進行していた8月9日の意思決定過程に圧力を加えたが,その報告を誰がいつ知り,どの判断を変えたかには史料上明らかでない部分がある。

ソ連参戦については,8月9日の東京で直ちに作用した対ソ仲介の破綻及び戦略環境の急変と,その後数日間におけるソ連軍の作戦上の成功を区別する必要がある。最高戦争指導会議構成員会議は,満洲における関東軍の敗北が明らかになる前から始まっており,「関東軍の壊滅を知ったため降伏を決めた」と説明することは時系列に合わない。

千々和泰明の2023年論文は,米国が原爆を使用した「目的」と,日本の降伏決定に生じた「効果」を分け,目的については戦争終結のコスト最小化を,効果についてはソ連参戦をより重く評価している。2025年の同人著書はソ連参戦を最大の単一衝撃とするが,中谷直司の2026年の研究史整理は,同時代の記録と戦後の回顧証言を突き合わせ,広島原爆の作用を限定的とする結論には実証上の問題が残ると批判している。原爆の衝撃を重視する研究,ソ連参戦を重視する研究及び複合的な作用を重視する研究があり,相対的な重みについて研究上の合意は成立していない。

3 史料の性質と断定できる範囲

終戦の問題は,「いつ終戦するか」という時期,「ソ連仲介,直接交渉又はポツダム宣言受諾のどの方法を採るか」という方法及び「天皇の地位,自主的武装解除,占領,戦犯処理等について何条件を付けるか」という条件に分けて検討する必要がある。8月9日から10日にかけては,一条件案と四条件案をめぐって最高戦争指導会議構成員の意見が3対3に分かれ,通常の合議では決着しなかった。8月10日の受諾申入れと,バーンズ回答後の14日の最終受諾は,二度の天皇の判断を伴う別個の決定である。

終戦期の重要会議には完全な逐語議事録が存在しないものがあり,敗戦時の文書焼却も史料の偏りを生じさせた。同時代の正式文書,外交電報,日記及び会議直後の記録と,戦後の尋問調書,回顧録及び後年の編纂物とでは,資料の性質が異なる。戦後に公表されたシュテメンコの回想は,原爆投下がソ連軍の対日作戦計画を変更しなかったというソ連側の認識を示す資料ではあるが,日本政府が降伏を決めた原因を直接示す資料ではない。そのため,本記事では,同回想を日本降伏の単一原因又は複合原因の根拠としては用いない。

以上から,本記事では,海上封鎖,通常爆撃及び軍事的劣勢が敗戦を構造的にし,広島への原爆投下が戦争継続論を弱め,ソ連参戦が対ソ仲介と二正面戦争回避の可能性を失わせ,長崎への原爆投下が進行中の危機を増幅したと整理する。しかし,外的圧力だけで受諾が自動的に決まったのではなく,国体護持をめぐる条件論及び政府内部の決定手続を経て,最終受諾に至った。なお,原爆使用の道徳的評価と,日本の降伏決定に与えた因果的効果は,別の問題である。

第6 出典・参考資料

1 外交・軍事関係の公文書

① 米国国務省,Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, The Conference of Berlin (The Potsdam Conference), 1945, Volume II, No. 1382, Proclamation by the Heads of Governments, United States, China and the United Kingdom(1945年7月26日)。

② 国立国会図書館,「ポツダム宣言」及び「ポツダム宣言受諾に関し瑞西,瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」(8月10日付申入れ,8月11日付四国回答,8月14日付最終通告等を収録)。

③ 米国エネルギー省科学技術情報局,Manhattan Project: Order to Drop the Atomic Bomb(1945年7月25日付命令の翻刻)。

④ 米国国務省,Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, Conferences at Malta and Yalta, 1945, Agreement Regarding Entry of the Soviet Union Into the War Against Japan(1945年2月11日)。

⑤ 外務省,日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集(ヤルタ協定,日ソ中立条約,廃棄通告及び対日宣戦声明を収録)及び北方領土問題とは

⑥ 米国国務省,Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, The Conference of Berlin (The Potsdam Conference), 1945, Volume I, No. 598, Minutes of Meeting Held at the White House on Monday, 18 June 1945 at 1530

⑦ Jacob Neufeld, William T. Y’Blood and Mary Lee Jefferson eds., Pearl to V-J Day: World War II in the Pacific, Air Force History and Museums Program, 2000, 93頁,米国政府刊行物局掲載PDF

⑧ 米国国務省,Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, The Conference of Berlin (The Potsdam Conference), 1945, Volume I, No. 613, Japan: Occupation and Military Government(1945年7月15日)。

⑨ 米国国務省,Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, 1945, The Far East, China, Volume VII, No. 390, Directive by President Truman to the Supreme Commander for the Allied Powers in Japan(1945年8月15日付指令に収録された一般命令第1号)。

⑩ 米国国務省,Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, 1945, The British Commonwealth, The Far East, Volume VI, No. 450, スターリンからトルーマンへの1945年8月16日付書簡及びNo. 452, トルーマンからスターリンへの同月17日付回答

⑪ National Security Archive, The George Washington University, “Report on Overseas Operations Atomic Bomb,” by Brigadier General T. F. Farrell, n.d. [circa September 15, 1945](Document 94C,RG 77, Reports Pertaining to the Effects of the Atomic Bomb, 1945-1946),文書ページ,収録:The Atomic Bombings of Japan and the End of World War II, 80 Years Later(2025年8月5日更新版,編者William Burr)。

⑫ Papers of Henry A. Wallace, Special Collections Department, University of Iowa Libraries, Diary Entry, Friday, August 10, 1945(Document 78,出典は前掲⑪と同じ特集ページ)。

⑬ ロシア歴史協会「電子歴史文書図書館」,ソ連軍最高司令官による北海道上陸作戦延期・南千島転用指令の目録記録(1945年8月22日付。原本はロシア国防省中央文書館(Ф.66,Оп.178499,Д.8,Л.379-380)所蔵,『Русский архив: Великая Отечественная』第18巻(7-2)(Терра,2000年)収録。書誌情報の確認にとどまり,指令の本文は同サイト上で公開されていない)。

⑭ 米国国務省,Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, 1945, The British Commonwealth, The Far East, Volume VI, No. 409, The Ambassador in the Soviet Union (Harriman) to the Secretary of State(1945年8月11日付電報)及びNo. 410, (同日付電報)。

⑮ National Security Archive, The George Washington University, Memorandum of Conversation, “Japanese Surrender Negotiations,” August 10, 1945(出典=米国議会図書館手稿部門所蔵,Papers of W. Averell Harriman, box 181, Chron File Aug 10-12, 1945)。

⑯ Samuel J. Cox(Director, Naval History and Heritage Command), “H-053-2: The Surrender of Japan”(H-Gram 053, Attachment 2),2020年9月,本文

⑰ The National WWII Museum,“V-J Day: The Surrender of Japan”

2 公的研究・報告書

① United States Strategic Bombing Survey, Summary Report (Pacific War), United States Government Printing Office, 1946, 103頁~107頁,特に106頁~107頁,米国政府刊行物局掲載PDF

② 千々和泰明「アメリカによる広島・長崎への核兵器使用再考―目的と効果のレベルからのアプローチ―」『安全保障戦略研究』第4巻第1号,防衛省防衛研究所,2023年12月,115頁~132頁,特に128頁~131頁,論文PDF

③ 庄司潤一郎「日本の『終戦』をもたらした要因」防衛省防衛研究所編『日独戦史共同研究2019―2021 日本とドイツ 20世紀の経験』国際共同研究シリーズ19,2022年,155頁~171頁,特に165頁~171頁,報告書PDF

④ 広島市,広島へ原爆が投下された経緯とは(2026年3月3日更新)。

⑤ 千々和泰明『誰が日本を降伏させたか-原爆投下,ソ連参戦,そして聖断』PHP新書,PHP研究所,2025年。

⑥ 中谷直司「原爆神話は解体されたのか-千々和泰明著『誰が日本を降伏させたか』(PHP新書,2025年)と5つの関連研究をめぐって」ROLES REPORT No.55,東京大学先端科学技術研究センター創発戦略研究オープンラボ,2026年2月,論文PDF

⑦ S.M.シュテメンコ,Генеральный штаб в годы войны,2版,Воениздат,1989年(テキストは1981年版による),第15章「Разгром Квантунской армии」,本文(ロシア語)

3 主な先行研究

① Tsuyoshi Hasegawa, “The Atomic Bombs and the Soviet Invasion: What Drove Japan’s Decision to Surrender?”, The Asia-Pacific Journal: Japan Focus, Vol.5, Issue 8, 2007,本文

② Sadao Asada, “The Shock of the Atomic Bomb and Japan’s Decision to Surrender: A Reconsideration”, Pacific Historical Review, Vol.67, No.4, 1998, 477頁~512頁,書誌・抄録

③ Robert A. Pape, “Why Japan Surrendered”, International Security, Vol.18, No.2, 1993, 154頁~201頁,書誌・抄録

④ 鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』東京大学出版会,2011年,及び東京大学文学部・大学院人文社会系研究科,博士論文要旨

⑤ David M. Glantz, August Storm: The Soviet 1945 Strategic Offensive in Manchuria, Leavenworth Papers No.7, Combat Studies Institute, 1983,特に153頁~159頁,米国陸軍指揮幕僚大学図書館掲載資料