第1 本記事の対象と結論
1 本記事の対象
本記事は,資産形成の結果として,会社を辞めて働かない生活に入ること(いわゆるFIRE。本記事では「早期リタイア」という。)を考える会社員に向けて,早期リタイアを決める前に確認しておくべき法律,社会保険及び税の扱いを,退職の手続から順に整理するものである。
投資の判断や,早期リタイアに必要な資産額は扱わない。
調査基準日は令和8年9月26日である。
条文はe-Gov法令検索の現行条文で確認し,手続の運用はハローワーク,全国健康保険協会(協会けんぽ)及び日本年金機構の案内で確認した。
裁判例は,裁判所ウェブサイト又は第一法規のD1-Lawで全文を確認したものに限っている。
2 結論
①期間の定めのない雇用は,退職の申入れの日から2週間を経過することによって終了する(民法627条1項)。
②退職願を提出し,退職を承認する権限を持つ者がこれを受理すると,その時点で合意解約が成立し,撤回できなくなることがある。
③雇用保険の基本手当は,「労働の意思及び能力」があるのに職業に就くことができない人に支給されるものなので,働くつもりがない早期リタイアでは受けられない。
④健康保険は,任意継続(資格喪失日から20日以内に申出,期間は2年,保険料は全額自己負担),国民健康保険又は家族の健康保険の被扶養者から選ぶことになる。
⑤60歳未満で退職すると,国民年金の第1号被保険者となり,14日以内に届出をして保険料を自分で納めることになる。
⑥住民税は前年の所得に課税されるので,退職した翌年度も課税される。
第2 退職の申入れ
1 期間の定めのない雇用
民法627条1項は,「当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する。」と定める。
同条2項は,期間によって報酬を定めた場合の申入れの時期を制限しているが,その対象は「使用者からの解約の申入れ」に限られている。
したがって,月給制の正社員であっても,労働者からの申入れについては同条1項の2週間が基準になる。
就業規則に「退職の1か月前までに申し出る」等の定めがある場合は,引継ぎを含めて円満に退職するため,その定めも確認しておくことが考えられる。
2 期間の定めのある雇用
民法628条は,雇用の期間を定めた場合であっても,「やむを得ない事由があるときは、各当事者は、直ちに契約の解除をすることができる。」と定める。
ただし,労働基準法137条は,期間が1年を超える有期労働契約を締結した労働者(同法14条1項各号に規定する労働者を除く。)は,労働契約の期間の初日から1年を経過した日以後においては,使用者に申し出ることにより,いつでも退職することができると定めている。
有期契約で働いている人は,契約期間と,初日から1年を経過しているかを確かめる必要がある。
3 退職願の撤回
(1) 人事部長の受理で合意解約が成立するとした判決
最高裁昭和62年9月18日第三小法廷判決(昭和57年(オ)第327号,判例時報1296号15頁,大隈鉄工所事件)は,労働者が人事部長に退職願を提出し,人事部長がこれを受理した後,労働者が退職願を撤回したと主張した事案である。
原審は,退職願の提出を雇用契約の合意解約の申込みと認めた上で,人事部長の受理は申込みの意思表示を受領したにとどまり,会社の承諾はまだないとして,撤回を認めた。
最高裁は,労働者からの合意解約の申込みに対する使用者の承諾の意思表示は,就業規則等に特段の定めがない限り,辞令書の交付等一定の方式によらなければならないものではないとした。
そして,人事部長に退職承認の決定権があるならば,人事部長が退職願を受理したことをもって即時承諾の意思表示がされ,合意解約が成立したと解するのが当然であるとして,原判決を破棄し,事件を差し戻した。
(2) この判決から分かること
同判決は,退職願の提出を合意解約の申込みとした原審の認定を前提に,承諾が成立したかどうかを判断したものである。
退職を承認する権限を持つ者が退職願を受理すると,その時点で合意解約が成立し,後から撤回を主張しても認められないことがある。
退職願は,早期リタイアの意思と時期が固まってから提出すべきものといえる。
第3 雇用保険の基本手当
1 働くつもりがなければ受けられない
(1) 「失業」の定義
雇用保険法4条3項は,「失業」を「被保険者が離職し、労働の意思及び能力を有するにもかかわらず、職業に就くことができない状態にあること」と定義している。
同法15条は,基本手当は受給資格者が失業している日について支給するとし,失業の認定を受けようとする受給資格者は,公共職業安定所に出頭し,求職の申込みをしなければならないと定めている。
したがって,資産収入で生活するために退職し,就職するつもりがない場合は,基本手当を受けることはできない。
(2) ハローワークの案内
ハローワークの案内も,基本手当の受給要件として,求職の申込みを行い,「就職しようとする積極的な意思」があり,いつでも就職できる能力があるにもかかわらず職業に就くことができない「失業の状態」にあることを挙げている。
そして,基本手当を受けることができない状態の例として,「定年などで退職して、しばらく休養しようと思っているとき」や「結婚などにより家事に専念し、すぐに就職することができないとき」を挙げている。
2 後から働く気になった場合
(1) 受給期間は原則として離職日の翌日から1年
基本手当の受給期間は,原則として,離職の日の翌日から起算して1年である(雇用保険法20条1項1号)。
早期リタイアの後に働く意思が生じて求職の申込みをした場合でも,基本手当を受けられるのは,この受給期間内の失業している日に限られる。
自己都合で退職した場合の給付制限(同法33条1項)や受給資格の要件は,労働保険の加入・保険料・労災給付・雇用保険の手続で説明している。
(2) 60歳以上の定年退職者の特例
雇用保険法20条2項は,定年に達したことその他厚生労働省令で定める理由により離職した受給資格者が,離職後一定の期間求職の申込みをしないことを希望して申し出たときは,その期間(1年が限度)を受給期間に合算するものとしている。
対象となるのは60歳以上の定年による離職であり,60歳以上の定年に達した後の再雇用等の期限が到来したことによる離職も含まれる(雇用保険法施行規則31条の2)。
この申出は,離職の日の翌日から起算して2か月以内にしなければならない(同規則31条の3第2項)。
60歳以上の定年で退職し,しばらく休んでから働くかどうかを決めたい人は,この期限に注意する必要がある。
第4 健康保険
1 三つの選択肢
協会けんぽの案内は,退職後の健康保険には,「健康保険任意継続」,「国民健康保険」,「ご家族の健康保険(被扶養者)」の3つの選択があるとし,保険料などを比較するよう勧めている。
国民健康保険法5条は,都道府県の区域内に住所を有する者を国民健康保険の被保険者とし,同法6条は,健康保険の被保険者(1号)や被扶養者(5号)等をその適用除外としている。
任意継続にも被扶養者にもならなければ,国民健康保険に加入することになる。
2 任意継続
(1) 要件と期間
健康保険法3条4項は,任意継続被保険者を,適用事業所に使用されなくなったため被保険者の資格を喪失した者であって,喪失の日の前日まで継続して2か月以上被保険者であったもののうち,保険者に申し出て,継続して当該保険者の被保険者となった者と定義している。
申出は,被保険者の資格を喪失した日から20日以内にしなければならない(同法37条1項)。
任意継続被保険者となった日から起算して2年を経過したときは,資格を喪失する(同法38条1号)。
(2) 保険料
任意継続被保険者は,保険料の全額を負担する(健康保険法161条1項ただし書)。
保険料の基礎となる標準報酬月額は,資格喪失時の標準報酬月額と,保険者の全被保険者の標準報酬月額の平均額を基にした標準報酬月額のうち,いずれか少ない額である(同法47条1項)。
協会けんぽの案内によれば,協会けんぽでは,退職時の標準報酬月額が32万円を超えていた場合は,32万円で保険料を計算する。
健康保険組合では,規約により資格喪失時の標準報酬月額を用いることができる(同条2項)ので,加入していた組合の定めを確かめる必要がある。
3 国民健康保険
国民健康保険の保険料は,協会けんぽの案内によれば,加入する世帯の人数や前年の所得などによって決まり,市区町村によって異なる。
健康保険の被保険者でなくなったため国民健康保険の資格を取得したときは,世帯主は14日以内に市町村へ届け出なければならない(国民健康保険法施行規則3条)。
早期リタイアの直後は前年の給与所得が保険料に反映されるので,任意継続の保険料と比べて選ぶことになる。
4 家族の被扶養者
配偶者等が加入する健康保険の被扶養者になれば,本人の保険料の負担はない。
ただし,被扶養者として認定されるには収入等の基準を満たす必要がある。
被扶養者の認定と退職後の医療保険の比較は,社会保険の加入・保険料・資格取得喪失と士業の適用で説明している。
第5 国民年金
1 第2号被保険者から第1号被保険者へ
国民年金法7条1項は,日本国内に住所を有する20歳以上60歳未満の者で第2号被保険者及び第3号被保険者のいずれにも該当しないものを第1号被保険者,厚生年金保険の被保険者を第2号被保険者と定めている。
会社を辞めて厚生年金保険の被保険者でなくなった60歳未満の人は,配偶者の被扶養者にならない限り,第1号被保険者となる。
種別の変更は,当該事実があった日から14日以内に市町村長に届け出なければならない(国民年金法12条1項,国民年金法施行規則6条の2第1項)。
第1号被保険者の保険料は自分で納めることになり,納付が難しい場合の免除等は,国民年金保険料の免除・納付猶予・追納-国民健康保険料の軽減・減免で説明している。
2 配偶者の手続
第3号被保険者は,第2号被保険者の配偶者であって主として第2号被保険者の収入により生計を維持するもののうち20歳以上60歳未満のものである(国民年金法7条1項3号)。
日本年金機構の案内によれば,第2号被保険者が退職した際,その被保険者に扶養されていた配偶者も同時に第3号被保険者の資格を喪失するので,第1号被保険者の手続をする必要がある。
早期リタイアを決めるときは,本人だけでなく配偶者の保険料の負担も生じることを考えておく必要がある。
第6 住民税と所得税
1 住民税は退職した翌年度も課税される
個人の住民税の所得割の課税標準は,前年の所得について算定した総所得金額等であり(地方税法32条1項,313条1項),賦課期日は当該年度の初日の属する年の1月1日である(同法39条,318条)。
そのため,年の途中で退職しても,その年の給与所得に対する住民税は,翌年度に課税される。
在職中に給与から特別徴収されていた住民税は,退職により給与の支払を受けないこととなった月の翌月以降の分について,会社は徴収して納入する義務を負わない(同法321条の5第2項本文)ので,残りの税額は本人が納めることになる。
ただし,退職が6月1日から12月31日までの間で本人が申し出た場合や,翌年1月1日から4月30日までの間の場合には,5月31日までに支払われる給与又は退職手当等が残りの月割額の全額を超えるときに限り,その支払の際に残りの全額が一括して徴収される(同項ただし書)。
2 年の途中で退職した場合の所得税
所得税法190条の年末調整は,給与等の支払者がその年最後に給与等の支払をする際に行うものである。
所得税基本通達190-1は,年の中途で退職した人について年末調整を行う場合を,死亡による退職,著しい心身の障害による退職でその年中の再就職が明らかに不可能な場合,12月に支給期の到来する給与等の支払を受けた後の退職等に限っている。
これに当たらない早期リタイアでは,年末調整がされず,源泉徴収された所得税が精算されないままになることがあるので,確定申告(還付を受けるための申告。所得税法122条)で精算することになる。
第7 家族の扶養義務がある場合
婚姻費用や養育費を負担している人が自ら退職して収入が減った場合でも,現実の収入ではなく,本来働けば得られる収入(潜在的稼働能力)を基礎として算定されることがある。
その判断枠組みと裁判例は,無職・退職・休職と潜在的稼働能力で説明している。
配当や売却益等の金融資産からの収入の扱いは,給与収入が低くても金融資産が多い場合の婚姻費用・養育費-配当・売却益・含み益・元本の扱いで説明している。
第8 関連記事
①労働保険の加入・保険料・労災給付・雇用保険の手続
②社会保険の加入・保険料・資格取得喪失と士業の適用
③国民年金保険料の免除・納付猶予・追納-国民健康保険料の軽減・減免
④傷病手当金とは―支給要件,金額の計算,退職後の継続給付及び障害年金・失業保険との関係
⑤退職勧奨の適法性と進め方―違法となる場合,諭旨退職・解雇との違い及び配転・降格との関係
第9 出典
1 法令
①e-Gov法令検索「民法」627条及び628条(令和8年9月26日確認)
②e-Gov法令検索「労働基準法」14条及び137条
③e-Gov法令検索「雇用保険法」4条,15条,20条及び33条
④e-Gov法令検索「雇用保険法施行規則」31条の2及び31条の3
⑤e-Gov法令検索「健康保険法」3条4項,37条,38条,47条及び161条
⑥e-Gov法令検索「国民健康保険法」5条及び6条
⑦e-Gov法令検索「国民健康保険法施行規則」3条
⑧e-Gov法令検索「国民年金法」7条及び12条
⑨e-Gov法令検索「国民年金法施行規則」6条の2
⑩e-Gov法令検索「地方税法」32条,39条,313条,318条及び321条の5
⑪e-Gov法令検索「所得税法」122条及び190条
2 通達
①国税庁「所得税基本通達190-1(中途退職者等について年末調整を行う場合)」
3 裁判例
①最高裁昭和62年9月18日第三小法廷判決・昭和57年(オ)第327号・判例時報1296号15頁(大隈鉄工所事件。裁判所HP未掲載。第一法規D1-Lawで全文を確認した)
4 所管行政機関等の案内
①ハローワークインターネットサービス「基本手当について」
②全国健康保険協会「任意継続」
③日本年金機構「会社を退職したときの国民年金の手続き」