第1 この記事が扱う場面
1 対象とする問い
義務者又は権利者が無職である,退職した,休職しているなどの理由で現実の収入がない又は少ない場合に,婚姻費用・養育費の算定上,どのような収入を基礎とすべきかを扱う。
標準的な算定表の基本的な読み方は別記事に譲り,本記事では,現実の収入をそのまま用いてよいか,それとも本来働けば得られたはずの収入(潜在的稼働能力)を基礎とすべきかという問題に絞って説明する。
2 本記事で扱わない事項
相手方が収入資料そのものを開示しない場合の対応(情報開示命令等)は,「相手が収入資料を出さない場合の婚姻費用|収入の推計・情報開示命令・必要資料(AI作成)」で説明しており,同記事は潜在的稼働能力の一般的な考慮要素にも簡潔に触れている。
本記事は,相手方が収入資料を開示しているかどうかにかかわらず,無職・退職・休職という状態そのものをどう評価するかに絞り,具体的な裁判例に基づいて掘り下げる。
第2 実収入原則とその例外
民法760条は,夫婦がその資産,収入その他一切の事情を考慮して,婚姻から生ずる費用を分担すると定めている。
婚姻費用・養育費の算定は,当事者が現に得ている実収入に基づくのが原則である。
もっとも,義務者が無職であったり,低額の収入しか得ていない場合において,就労が制限される客観的,合理的事情がないのに,単に労働意欲を欠いているなどの主観的な事情によって本来の稼働能力を発揮しておらず,そのことが婚姻費用・養育費の分担における権利者との関係で公平に反すると評価される場合に初めて,義務者が本来の稼働能力(潜在的稼働能力)を発揮したとしたら得られるであろう収入を,諸般の事情から推認し,これを算定の基礎とすることが許される。
この定式化は,東京高等裁判所平成28年1月19日決定(判例時報2311号19頁,裁判所HP未掲載)によるものであり,実務上広く参照されている。
第3 潜在的稼働能力を認定するための要件
前記の東京高裁決定が示した要件は,①就労が制限される客観的,合理的事情がないこと,②それにもかかわらず主観的な事情によって本来の稼働能力を発揮していないこと,③そのことが婚姻費用・養育費の分担において公平に反すると評価されることの3つに整理できる。
これらは累積的な要件であり,いずれか一つでも欠ける場合には,現実の収入を基準とすることになる。
健康な成年については,原則的に稼働能力があると考えられ,専業主婦であった者も少なくともパートタイムとしての労働は可能とするのが実務であるとされる。
もっとも,労働意欲があっても就職できない場合や,稼働していてもその収入が賃金センサスの統計額より低い場合であってそれ以上の収入が期待できないときは,公平に反するとまではいえず,現実の収入を基準とすることになる。
第4 収入を推認する際に考慮される要素
前記の東京高裁決定は,潜在的稼働能力に基づく収入をいつから,いくらと推認するのが相当であるかは,義務者の退職理由,退職直前の収入,就職活動の具体的内容とその結果,求人状況,義務者の職歴等の諸事情を審理した上でなければ判断できないとした。
したがって,退職の経緯や,実際にどの程度の求職活動をしているかといった事情を裏付ける資料が重要になる。
第5 退職から再就職までの移行期間
前記の東京高裁決定は,原審が,義務者が失職した直後から直ちに従前の収入と同程度の収入が得られたはずであると認定判断したことについて,「義務者が退職する必要もないのに辞職したというような例外的な事情がある場合でない限り,是認できない」として事件を原審に差し戻した。
この判示は,退職直後に直ちに潜在的稼働能力に基づく収入を認定することが相当でない場合には,それが相当でない期間について,雇用保険による実収入を審理し,これを算定の基礎とする必要があることを示すものである。
退職には通常,再就職までに一定の期間を要することを踏まえた,実務上重要な視点である。
第6 健康上・監護上の事情により稼働能力が否定される場合
大阪高等裁判所平成21年4月16日決定(平成21年(ラ)第204号,裁判所HP未掲載)は,アルコール依存症・健忘症候群と診断され,軽度の見当識障害等がある事案について,稼働能力がないとし,収入を0と認定した。
大阪高等裁判所平成20年10月8日決定(家庭裁判月報61巻4号98頁,裁判所HP未掲載)は,別居後間もない,幼稚園児・保育園児の子を監護する母について,潜在的稼働能力を判断するには母親の就労歴や健康状態,子の年齢やその健康状態など諸般の事情を総合的に検討すべきであるとした上で,就労歴が乏しく,子が幼く送迎等の負担があることなどから,稼働能力が存在するとはいえないとした。
第7 既に相応の努力をして稼働している場合の限界
東京家庭裁判所平成22年11月24日審判(家庭裁判月報63巻10号59頁,裁判所HP未掲載)は,大学院卒の学歴を有し大学の非常勤講師として稼働している者について,義務者から,学歴に照らしより高い収入を得る努力をすべきであるとの主張がされた事案で,「現にその学歴等を生かして大学の非常勤講師として稼働しているのであるから,その潜在的稼働能力に従った努力を怠っているとは言い難く,実収入ではなく,賃金センサス等に基づく統計値を用いるべき事情は特に認められない」とした。
既に相応の努力をして就労している者について,理論上の最大収入まで擬制すべきではないことを示す,実務上重要な歯止めである。
第8 自己都合による転職・退職の扱い
1 自己研鑽等を理由とする転職は容認されにくい
大阪高等裁判所平成18年4月21日決定(平成17年(ラ)第1219号,裁判所HP未掲載)は,医師である義務者が,自己研鑽のため勤務先病院を退職し,複数の病院でアルバイト勤務に転じた事案について,「自己の本来の稼働能力に応じた収入を自らの意思により得ようとしていない」として,経験年数・年齢に応じた医師の平均年収による潜在的稼働能力を認定した。
2 資格取得等,正当な理由がある場合は容認され得る
これに対し,東京家庭裁判所平成27年6月17日審判(判例タイムズ1424号346頁,裁判所HP未掲載)は,看護助手として稼働する傍ら准看護学校に入学し,収入が大幅に減少した権利者について,義務者から,婚姻費用を高く算定させるための不当な意図によるものであるとの主張がされたが,「不当な意図をもって准看護学校に入学したとは認められない」として,減収後の収入をそのまま用いることを是認した。
義務者の収入が高額で減収の幅も相対的に小さく,就学期間も長くないことが背景にある。
この2つの裁判例は,同じ「自己の意思による収入減少」であっても,減収の目的,必要性,期間の長さ及び相手方の負担能力等を総合して結論が分かれ得ることを示している。
第9 経営者・親族企業における給与操作の推認
大阪高等裁判所平成21年5月25日決定(平成21年(ラ)第496号,裁判所HP未掲載)は,父親が経営する会社に勤務する義務者(30歳)が,月額6万円という著しく低い収入を主張した事案について,勤務先の経営者が父親であり,給与の額等の勤務条件について義務者の意向が大きく影響すると考えられること,稼働能力に影響する疾病等が認められないことを考慮し,年齢,学歴,保有資格等から,賃金センサスの学歴計・全年齢・男子労働者平均賃金の6割相当の潜在的稼働能力を認めた。
第10 強制執行回避目的の退職という悪質な例
福岡家庭裁判所平成18年1月18日審判(家庭裁判月報58巻8号80頁,裁判所HP未掲載)は,先行審判で命じられた養育費を一度も履行しないまま,強制執行を受けたことを契機に勤務先を退職した事案について,「強制的に支払わされることに納得できなかったために退職した」ものであり稼働能力を有しているとし,退職前の年収と同額の収入があるものとして養育費を算定し,免除の申立てを却下した。
第11 賃金センサスの使い方
賃金センサスを用いる場合,どの表によるかは義務者の職業による。
給与所得の場合,賞与を加える場合とそうでない場合があり,平均値相当額を用いる場合と,これを一定割合減額した数値を用いる場合がある。
大阪高等裁判所平成17年5月9日決定(平成16年(ラ)第1334号,裁判所HP未掲載)は,取締役を退職し,調停申立時52歳であった義務者について,現実収入がないことをもって分担義務を免れさせることは相当でないとしつつ,従前収入をそのまま用いることは相当でないとし,義務者の年齢や資格・勤務経験の乏しさを考慮して,賃金センサスのパートタイム50歳~54歳男性労働者の平均賃金による収入を推認した。
大阪高等裁判所平成21年9月4日決定(平成21年(ラ)第669号,裁判所HP未掲載)は,家業の食品会社の破産に伴い自らも破産し無職となった義務者(58歳)について,調理師免許や職歴を考慮すれば短時間労働者程度の稼働能力しかないとみるのは相当でない一方,年齢や経済情勢からは賃金センサスに匹敵する収入の確保も難しいとして,賃金センサスの該当職種平均のおおむね半額を採用した。
これらの例は,賃金センサスの平均値をそのまま機械的に用いるのではなく,年齢,資格,職歴等に応じた調整が行われていることを示している。
第12 確認順序
無職・退職・休職の状態にある当事者の収入を検討する場合,おおむね次の順序で確認することになる。
①現実の収入がない又は少ないことについて,就労を制限する客観的,合理的な事情(疾病,育児・介護,年齢等)があるかを整理する(第3,第6)。
②既に相応の努力をして就労しているにもかかわらず,理論上の最大収入を前提とすべきと主張されていないかを確認する(第7)。
③自らの意思による離転職である場合は,その目的,必要性,期間及び相手方の負担能力を踏まえて,正当化できる事情があるかを整理する(第8)。
④退職直後である場合は,直ちに従前水準の収入を推認されるべきではなく,求職活動の状況等を踏まえた移行期間の主張ができないかを検討する(第5)。
⑤親族企業に勤務している場合等,給与額に自らの意向が影響し得る事情がないかを確認する(第9)。
⑥賃金センサスを用いる場合は,平均値をそのまま適用すべきでない事情(年齢,資格,職歴等)がないかを検討する(第11)。
出典
1 法令
①民法(明治29年法律第89号)760条(婚姻費用の分担)――第2の根拠(e-Gov法令検索)。
2 裁判例
以下の裁判例は,いずれも裁判所HPには掲載されておらず,松本哲泓(弁護士・元大阪高等裁判所部総括判事)『婚姻費用・養育費の算定-裁判官の視点にみる算定の実務-』(新日本法規,2018年)81頁~93頁が引用する決定・審判の説示に基づく。
同書は,大阪高等裁判所家事抗告事件集中部(第9民事部)における事例研究会の報告をまとめたものであり,各裁判例について,裁判所名・裁判年月日・事件番号又は掲載誌を明示した上で,理由中の説示を引用符付きで引用している。
①東京高等裁判所平成28年1月19日決定(判例時報2311号19頁)
②大阪高等裁判所平成21年4月16日決定(平成21年(ラ)第204号)
③大阪高等裁判所平成20年10月8日決定(家庭裁判月報61巻4号98頁)
④東京家庭裁判所平成22年11月24日審判(家庭裁判月報63巻10号59頁)
⑤大阪高等裁判所平成18年4月21日決定(平成17年(ラ)第1219号)
⑥東京家庭裁判所平成27年6月17日審判(判例タイムズ1424号346頁)
⑦大阪高等裁判所平成21年5月25日決定(平成21年(ラ)第496号)
⑧福岡家庭裁判所平成18年1月18日審判(家庭裁判月報58巻8号80頁)
⑨大阪高等裁判所平成17年5月9日決定(平成16年(ラ)第1334号)
⑩大阪高等裁判所平成21年9月4日決定(平成21年(ラ)第669号)
3 文献
①松本哲泓(弁護士・元大阪高等裁判所部総括判事)『婚姻費用・養育費の算定-裁判官の視点にみる算定の実務-』(新日本法規,2018年)81頁~93頁
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