第1 本記事の対象と結論
1 本記事の対象
(1) 問題となる場面
人を殺そうとして毒物を飲ませたが量が足りなかった,首を絞めた道具が途中で切れた,薬品の量が不足して覚せい剤ができなかったというように,犯罪を実行しようとしたが結果が生じなかった場合がある。
このような場合に,未遂犯として処罰されるのか,それとも結果が生じる危険がなかったとして処罰されないのか(いわゆる不能犯)が問題となる。
本記事は,この区別について,最高裁判所が実際にどのような表現で判断したかを,事案ごとに整理するものである。
(2) 本記事の資料と基準日
調査基準日は令和8年9月25日である。
条文はe-Gov法令検索の現行条文により,裁判例は裁判所ウェブサイトに全文が掲載された最高裁判所の判決・決定により確認した。
本記事は学説の紹介を目的とせず,最高裁判所の判断の言い回しと事案の事実関係を示すことに重点を置く。
実行の着手の時期(どの段階から未遂になるか)は,特殊詐欺は現金の交付要求前でも詐欺未遂になるか―最高裁平成30年3月22日判決と実行の着手で扱っている。
2 結論の要旨
①刑法43条本文は,犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者の刑を減軽することができるとし,未遂を罰する場合は各本条で定めるとしている(同法44条)。
②最高裁判所は,いわゆる不能犯とは,犯罪行為の性質上結果発生の危険を絶対に不能ならしめるものを指すとしている(最高裁昭和25年8月31日判決)。
③また,刑法43条の未遂とは,その行為をもって犯人の予見する結果を惹起することができる実行行為に着手して遂げなかった場合をいい,その実行行為をもってしては絶対に予見する結果を惹起することができない場合には,未遂罪として論ずることができないことは,弁護人の所論のとおりであるとしている(最高裁昭和23年9月18日判決)。
④本記事で確認した最高裁判例は,紙製の模造革のバンドで首を絞めたがバンドが切れた事案,致死量以下の空気を静脈に注射した事案,純度の低い青酸カリを飲ませた事案,青酸カリを入れて炊いた黄色く臭う米飯の事案,工程で使用した薬品の量が必要量以下で覚せい剤ができなかった事案のいずれについても,不能犯の主張を退けている。
⑤最高裁昭和27年8月5日判決は,青酸カリの純度が低かったため死の結果が生じなかったとしても不能犯ではないとした原判決について,被告人の犯行当時の主観的認識事情を基準として判断したものではないとしている。
同判決は判断の基準を一般的に示したものではないが,本記事では,行為者が何を認識していたかと,行為時の現実の手段・客体に結果発生の危険があったかを,別の事項として確認することが有益であると考える。
⑥無害な物を毒物と誤信して用いた場合や,攻撃の対象となる客体が存在しなかった場合を直接判断した最高裁判例は,本記事の調査範囲では確認できなかった。
⑦不能犯の主張は,罪となるべき事実の否認であって,判決で別個の判断を示すべき事項には当たらないとされている(最高裁昭和24年1月20日判決は旧刑事訴訟法360条2項について,最高裁昭和28年3月24日決定は刑事訴訟法335条2項について判断した)。
第2 条文
1 未遂犯の規定
刑法43条は,「犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者は、その刑を減軽することができる。ただし、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽し、又は免除する。」と定めている。
同法44条は,「未遂を罰する場合は、各本条で定める。」と定めている。
不能犯という言葉は条文には無く,判例が43条の解釈として用いてきた概念である。
2 殺人未遂罪の規定
刑法199条は,「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の拘禁刑に処する。」と定め,同法203条は,「第百九十九条及び前条の罪の未遂は、罰する。」と定めている。
本記事で紹介する最高裁判例の多くは殺人未遂の事案である。
第3 最高裁判所が示した不能犯の意義
1 最高裁昭和23年9月18日判決
(1) 未遂罪の意味についての判示
最高裁判所第二小法廷昭和23年9月18日判決(昭和23年(れ)第555号,集刑4号111頁)は,刑法43条にいう「犯罪の実行に着手し之を遂げざるもの」とは,「その行為を以て犯人の予見する結果を惹起することができる実行行為に着手し、その犯罪を遂げなかつた場合を意味し、その実行行為を以ては絶対に犯人の予見する結果を惹起することができない場合には、同条の未遂罪を以て論ずることができない」ことは弁護人の所論のとおりであるとした。
「犯罪の実行に着手し之を遂げざるもの」は,同判決が刑法43条の文言として引用したものであり,現行の文言は前記第2の1のとおりである。
(2) 紙製の模造革のバンドが切れた事案
同判決の事案では,被告人らは,共謀して自動車運転手を殺害して自動車を強奪しようと企て,所携のバンドを運転手の頸部に掛けて絞め付けたが,たまたまバンドが切れたため殺害の目的を遂げなかった。
同判決は,バンドが「紙製擬革品であつても、右の方法を以つてすれば絶対に人を殺害することができないものではなく、殺害の結果を惹起する危険は十分あつた」とし,犯罪の時刻及び場所が殺人を行うのに不適当であったとしても殺害の結果が発生しないとはいえないとして,不能犯には当たらないとした。
2 最高裁昭和25年8月31日判決
最高裁判所第一小法廷昭和25年8月31日判決(昭和25年(れ)第858号,刑集4巻9号1593頁)は,「いわゆる不能犯とは犯罪行為の性質上結果発生の危険を絶対に不能ならしめるものを指すものであるから、本件行為の性質上殺人の結果発生の危険ある以上、被害者において被告人の犯行を予知していたとしても、不能犯であるとはいえない。」とした。
同判決の判決文には,行為の具体的な内容は記載されていない。
被害者が犯行を予知していたという事情があっても,行為の性質上結果発生の危険がある以上は不能犯にならないとした点に意味がある。
第4 手段が不足・不完全であった事案
1 致死量以下の空気の注射―最高裁昭和37年3月23日判決
最高裁判所第二小法廷昭和37年3月23日判決(昭和36年(あ)第2299号,刑集16巻3号305頁)の事案では,弁護人が,人体に空気を注射し空気栓塞によって殺害することは絶対に不可能であると主張した。
同判決は,原判決及びその是認する第1審判決が,静脈内に注射された空気の量が致死量以下であっても,被注射者の身体的条件その他の事情のいかんによっては死の結果発生の危険が絶対にないとはいえないと判示しており,その判断は鑑定書に照らし肯認するに十分であるとして,これを相当とした。
量が致死量に達していなかったことだけでは,不能犯にはならないとされたことになる。
2 純度の低い青酸カリ―最高裁昭和27年8月5日判決
(1) 事案と判断
最高裁判所第三小法廷昭和27年8月5日判決(昭和26年(あ)第199号,集刑67号31頁)は,毒物劇物営業取締法違反と自殺関与未遂の事案である。
弁護人が引用した鑑定書には,青酸カリの粉末を約0.06グラムないし0.07グラム程度服用したとすれば,致死量は多少個人差を有するけれども通常は死に至らない旨が記載されていたが,同判決は,絶対に死に至らないとは記載されていないと指摘した。
第1審判決は,2人が死亡しなかった原因について,毒物の量が少なかったことと,1人は間もなく毒物を吐き出し,もう1人は医師の手当てが早かったことを認定していた。
原判決は,青酸カリ0.06グラムは通常の致死量であることを認め,その量を相手方に与えて飲ませた以上,たまたま青酸カリの純度が低かったため死の結果が生じなかったとしても不能犯ではないと判示しており,同判決は,原判決に判例違反はないとした。
(2) 主観的認識を基準としたものではないこと
弁護人は,原判決が被告人の犯行当時における主観的認識事情を基準として判断したと主張したが,同判決は,原判決は「所論のように「被告人の犯行当時に於ける主観的認識事情を基準として判断」したものではない」とした。
第1審判決は,毒物の量が少なかったことと,吐き出し及び医師の手当てを死亡に至らなかった原因として認定し,原判決は,与えた量が通常の致死量であることと,純度が低かったことを前提に判断している。
同判決は,弁護人の主張を退けたものであって,判断の基準を一般的に示したものではない。
本記事では,不能犯かどうかを検討するときは,行為者が毒物だと思っていたかという認識だけで結論を出すのではなく,現実に用いられた物の種類・量・純度と,結果が生じなかった原因を確認することが有益であると考える。
3 黄色く臭う米飯―最高裁昭和24年1月20日判決
最高裁判所第一小法廷昭和24年1月20日判決(昭和23年(れ)第1251号,刑集3巻1号47頁)の事案では,被告人が,食事に供するため仕込んであった飯釜に青酸カリ一片を投げ入れた。
弁護人は,青酸カリを飯釜に投入しただけでは殺人の目的を達することは不能であるとして不能犯を主張した。
同判決は,青酸カリを入れて炊いた米飯が黄色を呈し臭気を放っているからといって,「何人もこれを食べることは絶対にないと断定することは実験則上これを肯認し得ない」として,たやすくその主張を容認することはできないとした。
4 薬品の量の不足―最高裁昭和35年10月18日決定
最高裁判所第三小法廷昭和35年10月18日決定(昭和33年(あ)第2060号,刑集14巻12号1559頁)は,覚せい剤の製造を企て,用いた方法が科学的根拠を有し,その薬品を使用しその工程を実施すれば本来覚せい剤の製造が可能であるが,工程中に使用したある種の薬品の量が必要量以下であったため製品を得るに至らず,2倍量ないし3倍量を用いれば製造が可能であったと認められる場合には,覚せい剤製造の未遂犯として論ずべきであり,不能犯と解すべきではないとした。
用いた方法自体に科学的根拠があり,薬品の量が必要量以下であったために製品を得るに至らなかった場合には,未遂犯になるとされたことになる。
第5 行為者の認識と行為時の現実を分けて整理する
1 確認する事項
(1) 行為者の側の事情
①行為者が認識していた手段・客体(例えば,毒物であると思っていた物,致死量に足りると思っていた量)。
②行為者が予定していた行為と,そのうち現に終えた行為。
(2) 行為時の現実の事情
③現実に用いられた手段の種類・量・純度・状態(器具が壊れやすい物であったか等)。
④現実の客体の状態と,結果が生じなかった直接の原因(量の不足,純度の低さ,吐き出し,救命措置,器具の破損等)。
⑤その手段・客体で結果が生じる危険が「絶対に」なかったといえるかについての鑑定・医学的知見。
⑥実行の着手があったか。
(3) 整理の仕方
前記の最高裁判例は,危険の有無を,鑑定書の記載(昭和27年判決,昭和37年判決)や経験則(昭和24年判決)に照らして判断している。
①・②の行為者側の事情と,③から⑤までの現実の事情を同じ欄に書くと,行為者が毒物だと思っていたことから危険を肯定し,又は結果が生じなかったことから危険を否定するという短絡に陥りやすい。
事情を欄ごとに分けて記載し,どの事実が危険の有無の判断を左右しているかを明らかにしておくことが,弁護人にとっても捜査・公判の側にとっても有益である。
2 最高裁判例で直接判断されていない場面
(1) 無害な物を毒物と誤信した場合
本記事で確認した最高裁判例のうち,用いられた手段が判決文から分かるものは,いずれも青酸カリ,空気,バンド,覚せい剤の製造に用いる薬品のように結果を生じさせ得る物であった事案である(昭和25年判決は,手段が判決文から分からない。)。
全く無害な物を毒物と誤信して飲ませた場合を直接判断した最高裁判例は,本記事の調査範囲では確認できなかった。
調査範囲は,裁判所ウェブサイトの裁判例検索で「不能犯」を含むとされた25件のうち最高裁判例の11件と,裁判年月日で検索した最高裁昭和37年3月23日判決である。
この場合に前記の判例の言い回しをそのまま当てはめて結論を出すのではなく,下級審の裁判例を含めて個別に調べる必要がある。
(2) 客体が存在しなかった場合
攻撃の対象となる人が既に死亡していた場合や,財物がその場に無かった場合のように,客体の側に結果発生の可能性が欠けていた場合についても,本記事の調査範囲では,直接判断した最高裁判例を確認できなかった。
最高裁判所第二小法廷昭和23年4月17日判決(昭和22年(れ)第340号,刑集2巻4号399頁)では,弁護人が,密造酒を盗む目的で侵入したが密造酒が無かったことを前提に不能犯を主張したが,同判決は,そのような目的で侵入したことは原審の認定しないところであるとして主張を退けており,客体が無かった場合の扱いについて判断を示したものではない。
3 刑事手続上の扱い
(1) 不能犯の主張は罪となるべき事実の否認
最高裁昭和24年1月20日判決は,旧刑事訴訟法の下で,不能犯の主張は行為と結果との因果関係を不能であるとするものであるから,結果の発生を犯罪の積極的構成要件とする殺人罪においては結局罪となるべき事実を否定する主張に帰着し,「法律上犯罪の成立を阻却すべき原由たる事実上の主張」には当たらないとして,判決でこれに対する判断を示す必要はないとした。
現行の刑事訴訟法の下でも,最高裁判所第三小法廷昭和28年3月24日決定(昭和26年(あ)第3975号,集刑77号61頁)は,強盗予備の事案で,不能犯の主張は犯罪事実の否認であって,刑事訴訟法335条2項によりこれに対し判断を示すべき事項ではないとした。
(2) 刑事訴訟法335条2項
刑事訴訟法335条2項は,「法律上犯罪の成立を妨げる理由又は刑の加重減免の理由となる事実が主張されたときは、これに対する判断を示さなければならない。」と定めている。
不能犯の主張はこれに当たらないとされているので,判決で独立の項目として判断が示されるとは限らない。
弁護人としては,不能犯を主張するときも,結果発生の危険が無かったことを示す鑑定・資料を提出し,罪となるべき事実の認定そのものを争う形で主張立証を組み立てることになる。
第6 関連記事
①キャッシュカードの暗証番号は財産上の利益か―正しい番号・誤暗証番号と二項強盗
②特殊詐欺は現金の交付要求前でも詐欺未遂になるか―最高裁平成30年3月22日判決と実行の着手
③キャッシュカード入り封筒のすり替えは詐欺か窃盗か―処分行為,占有移転及び実行の着手
④強盗・不同意性交等罪はいつ既遂になるか―刑法241条の行為順序,未遂及び改正の経緯
第7 出典
1 法令
①e-Gov法令検索「刑法」(43条,44条,199条,203条)
②e-Gov法令検索「刑事訴訟法」(335条)
2 裁判例
①最高裁昭和23年4月17日第二小法廷判決(昭和22年(れ)第340号,刑集2巻4号399頁)
②最高裁昭和23年9月18日第二小法廷判決(昭和23年(れ)第555号,集刑4号111頁)
③最高裁昭和24年1月20日第一小法廷判決(昭和23年(れ)第1251号,刑集3巻1号47頁)
④最高裁昭和25年8月31日第一小法廷判決(昭和25年(れ)第858号,刑集4巻9号1593頁)
⑤最高裁昭和27年8月5日第三小法廷判決(昭和26年(あ)第199号,集刑67号31頁)
⑥最高裁昭和28年3月24日第三小法廷決定(昭和26年(あ)第3975号,集刑77号61頁)
⑦最高裁昭和35年10月18日第三小法廷決定(昭和33年(あ)第2060号,刑集14巻12号1559頁)
⑧最高裁昭和37年3月23日第二小法廷判決(昭和36年(あ)第2299号,刑集16巻3号305頁)