第1 この記事の結論と基本用語
1 結論
(1) 1945年には最終的な領土移転まで決まっていなかったこと
第2次世界大戦後,オーデル・西ナイセ線より東側にあったドイツ領の大部分はポーランドの行政管理下に置かれ,北部東プロイセンはソ連の行政管理下に置かれました。ただし,1945年8月2日のポツダム会談議定書は,ポーランドの行政管理下に置かれた旧ドイツ領の最終的な帰属について,平和的解決を待つものとしていました。したがって,1945年に国境が最終確定し,旧ドイツ領が直ちにポーランドへ法的に譲渡されたと説明するのは正確ではありません。
(2) 1970年と1990年の法的意味を分けること
西ドイツは,1970年12月7日のワルシャワ条約により,現存する境界線がポーランドの西部国境を形成することを確認し,国境の現在及び将来にわたる不可侵,領土保全の尊重並びに領土要求の放棄を約束しました。その後,1990年9月12日のドイツ最終規定条約が統一ドイツの領域及び最終的な外部国境を定め,1990年11月14日のドイツ・ポーランド国境条約が両国間の既存国境を確認しました。1970年の国家間義務と,1990年の統一ドイツを含む最終規定とを区別することが重要です。
(3) 国境問題と私有財産権の問題を分けること
国境の確定は,領域主権がどの国家に帰属するかという問題です。旧ドイツ東部領土にあった個人の不動産その他の財産がどのように扱われたかは,別の法的問題です。ドイツ連邦憲法裁判所は,1992年6月5日決定において,1990年の国境条約は領域の国家的帰属を定めるものであって,私人の財産を主権的に処分するものではなく,私人の所有権又は請求権の放棄を含まないと整理しました。
2 用語の整理
(1) 旧ドイツ東部領土
本記事でいう旧ドイツ東部領土とは,原則として,1937年12月31日現在のドイツ領のうち,現在のドイツ・ポーランド国境より東にあった地域を指します。主な地域は,東プロイセン,ポンメルン東部,ブランデンブルク東部及びシレジアです。ダンツィヒ自由市や,戦時中にドイツが併合又は占領したポーランド領とは,法的及び歴史的な位置付けが異なります。
(2) オーデル・ナイセ線
オーデル・ナイセ線は,オーデル川とその支流である西ナイセ川,すなわちラウジッツ・ナイセ川を中心とする境界線の通称です。ポツダム会談議定書及び1970年のワルシャワ条約は,より正確には,バルト海岸のシュヴィネミュンデ,現在のシフィノウイシチェの直ぐ西からオーデル川へ至り,同川を西ナイセ川との合流点まで進み,更に西ナイセ川を旧チェコスロバキア国境まで進む線を記載しています。「ナイセ川」には複数の河川があり,また,河川だけを見ればシュテティーン,現在のシュチェチン周辺の線形を誤解しやすいため,条約文上の起点及び経路まで確認する必要があります。
(3) 避難,追放及び移送
ドイツ語圏では,戦争末期のソ連軍進攻からの逃避及び避難と,戦後の追放とをまとめて「避難及び追放」と表現することがあります。しかし,事実認定では,ア 戦争末期の避難及び逃避,イ ポツダム会談前後の無秩序な追放,ウ 連合国管理理事会の計画に基づく組織的な移送を分けるべきです。これらは時期,主体及び法的根拠が同じではありません。
3 国境確定までの3段階
(1) 1945年の行政管理
ポツダム会談議定書は,旧ドイツ東部領土の大部分をポーランドの行政管理下に置きましたが,最終的な領土問題の決定を平和的解決まで留保しました。
(2) 1950年及び1970年の承認
東ドイツは1950年のズゴジェレツ条約により,西ドイツは1970年のワルシャワ条約により,それぞれの立場からオーデル・ナイセ線を国境として確認しました。ただし,両国の国際法上の地位,4国の権利及びドイツ全体に関する最終規定の未了という事情が残っていました。
(3) 1990年から1992年までの最終確認
1990年のドイツ最終規定条約とドイツ・ポーランド国境条約により,統一ドイツの東部国境は最終的かつ国際法上拘束力のある形で確認されました。最終規定条約は1991年3月15日に,国境条約は1992年1月16日に発効しました。
第2 旧ドイツ東部領土からのドイツ人の避難及び追放
1 人数に関する統計の読み方
(1) 1939年人口及び地域別人口
「ドイツ第三帝国の崩壊と避難民・被追放民問題」(南山大学ヨーロッパ研究センター報第20号)121頁から123頁までの表によれば,1939年の旧ドイツ東部領土のドイツ人人口は約957万5000人と推計されています。地域別には,東プロイセンが247万3000人,ポンメルン東部が188万4000人,ブランデンブルク東部が64万2000人,シレジアが457万7000人とされています。
これら4地域の内訳を単純に合計すると957万6000人となり,表の総計と1000人ずれます。引用元自身が推計値であることを明示しているため,端数処理又は基礎統計の差を含む概数として扱うのが相当です。また,ブランデンブルク東部の中心部分は現在のポーランドのルブシュ県等に含まれますが,歴史的地域と現在の県境は一致しません。
(2) 避難民,被追放者,残留者並びに死亡者及び行方不明者
同論文の表2から表4までは,1945年から1950年までの避難民及び被追放者を694万4000人,故郷に残った者を110万1000人,避難及び追放の過程における死亡者及び行方不明者を122万5000人と推計しています。122万5000人は「死亡者だけ」の数ではなく,死亡者及び行方不明者を合わせた推計です。
また,694万4000人,110万1000人及び122万5000人の合計は927万人であり,1939年人口との差を期間中の出生だけで説明することはできません。戦時中の人口移動,軍務,地域間移動,調査時点,定義及び推計誤差が異なるため,これらの数字を同じ母集団の完全な内訳として扱わない方が安全です。
(3) 死亡者数には推計幅があること
避難及び追放に伴う犠牲者数は,調査時期及び算定方法によって大きく異なります。ドイツ歴史博物館は,数十万人から200万人までの幅があることを示しています。ドイツ連邦政治教育センターも,1970年代以後の調査では従前の推計より低い数値が示されたことを紹介しています。したがって,特定の数字を確定値として示すのではなく,出典,対象地域,対象期間及び「行方不明者」を含むかどうかを明記すべきです。
2 避難及び追放の3局面
(1) 戦争末期の避難及び逃避
1944年後半以後,ソ連軍が東プロイセン,ポンメルン及びシレジア方面へ進攻すると,多数の住民が西方へ逃れました。避難命令の遅れ,冬季の移動,海路での避難,戦闘及び輸送手段の不足が被害を拡大しました。この局面は,戦後当局による追放とは区別して把握する必要があります。
(2) ポツダム会談前後の「無秩序な追放」
ドイツ降伏後からポツダム会談前後にかけて,ポーランド及びチェコスロバキア等では,連合国管理理事会による統一的な移送計画が整う前にドイツ系住民が排除されました。この局面は,後の組織的移送と区別して「無秩序な追放」又は「野放図な追放」と呼ばれます。
(3) 管理された集団移送
ポツダム会談後,連合国管理理事会は各占領地域の受入れ能力を踏まえて移送計画を作成しました。もっとも,議定書が「秩序ある人道的」な実施を求めたことと,現実の移送に暴力,収容,財産喪失,疾病及び死者が生じたこととは,分けて評価する必要があります。
3 ポツダム会談議定書第12項
(1) 同項の内容
1945年8月2日のポツダム協定,より正確にはポツダム会談議定書第12項は,ポーランド,チェコスロバキア及びハンガリーに残るドイツ系住民又はその一部をドイツへ移送する必要があるとの認識を示し,移送は秩序ある人道的な方法で行われるべきであるとしました。あわせて,各地で進行していた追放を一時停止し,関係政府が連合国管理理事会の報告を待つことを求めました。英語原文はポツダム会談議定書全文で確認できます。
(2) 同項を読む際の注意点
第12項は,集団移送の実施を予定した文書ですが,既に行われた全ての追放を遡って適法としたものでも,個々の暴力又は財産剥奪を承認したものでもありません。また,ポツダム会談前の避難及び追放と,同項後の計画移送とを一括して同じ法的評価に置くこともできません。
4 各地域の歴史的な位置付け
(1) 東プロイセン
東プロイセンのケーニヒスベルクは,1701年にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世がプロイセンの王フリードリヒ1世として戴冠した都市です。現在はロシア連邦のカリーニングラードです。東プロイセン北部はソ連の,南部はポーランドの行政管理下に置かれました。
(2) ポンメルン
ドイツニュースダイジェストHPの「戦後に起きたドイツの民族大移動」は,旧東部領土が植民地ではなく,ドイツ人が長期間居住した地域であったことを説明しています。ただし,ポンメルンの領有経緯は細分して理解する必要があります。後ポンメルンは1648年のウェストファリア条約でブランデンブルクに帰属しました。スウェーデン領となったのは主として前ポンメルンであり,プロイセンはその一部を1720年に,残部を1815年に取得しました。「東ポンメルン全体が19世紀初頭にスウェーデンからプロイセンへ割譲された」とする説明は正確ではありません。
(3) 東ブランデンブルク及びシレジア
ブランデンブルク東部及びシレジアも,1945年以前から長い歴史と複合的な住民構成を有する地域でした。現在の国境及び行政区画から遡って,過去の地域名,国家帰属又は住民の民族的構成を単純化しないことが重要です。
5 追放に関する関連資料
(1) 概説及び当事者の記憶
日本語の概説としては,前記南山大学論文及びWikipediaの「ドイツ人追放」が入口になります。もっとも,人数,地域及び法的評価は一次資料又は専門研究で再確認する必要があります。次のX投稿は,ダンツィヒからの避難を家族史として受け継ぐ立場から,映像資料への協力を紹介したものです。
(2) 映像資料
次の動画は関連する映像資料です。動画の表現及び数値は,前記の一次資料及び専門研究と照合して視聴する必要があります。
第3 1939年から1945年までの国境問題
1 独ソ両国によるポーランド分割と1941年協定
(1) 1939年9月28日の独ソ国境友好条約
ドイツとソ連は,ポーランド侵攻後の1939年9月28日,独ソ国境友好条約に署名し,両国の勢力圏及び境界を調整しました。署名日は9月29日ではありません。英語原文はGerman-Soviet Boundary and Friendship Treatyで確認できます。
(2) 1941年7月30日のシコルスキ・マイスキー協定
1941年6月22日に独ソ戦が始まると,ポーランド亡命政府とソ連は,同年7月30日,イギリスの仲介により外交関係を回復しました。シコルスキ・マイスキー協定第1条において,ソ連政府は,ポーランドの領土変更に関する1939年の独ソ諸条約が効力を失ったと認めました。ただし,ソ連・ポーランド間の具体的国境は同協定では決着せず,ソ連はおおむねカーゾン線を主張しました。
2 カティンの森事件と外交関係の断絶
(1) 事件の公表
ドイツは1943年4月13日,スモレンスク近郊のカティンでポーランド将校の集団埋葬地を発見したと公表しました。ポーランド亡命政府が国際赤十字による調査を求めたことに対し,ソ連はドイツへの同調であると非難しました。
(2) 1943年4月25日の断交通告
ソ連は1943年4月25日,ポーランド亡命政府との外交関係断絶を通告しました。その後,ソ連はポーランド国内の共産主義勢力を支援し,戦後のポーランド政府の構成及び国境問題に大きな影響を与えました。関連年表はポーランド国家記憶院のカティン事件年表で確認できます。
3 テヘラン会談
(1) カーゾン線と西方補償の構想
1943年11月28日から12月1日までのテヘラン会談では,ポーランドの東部国境をカーゾン線付近とし,ポーランドが失う東部領土をドイツ領からの西方補償で埋め合わせる構想が協議されました。チャーチルは,ポーランドが東プロイセン及びオーデル川方面で領土を得る可能性をスターリンに提示しました。
(2) 最終的な国境合意ではなかったこと
テヘラン会談記録によれば,チャーチルは,自らの案についてスターリンに検討させたものであり,合意を求めているわけではなく,誓約しているわけでもないと述べています。したがって,テヘラン会談でオーデル・西ナイセ線が法的かつ最終的に合意されたとするのは正確ではありません。
4 ルブリン政権の承認及びヤルタ会談
(1) 1945年1月5日のソ連による承認
ソ連は1945年1月5日,ルブリン委員会を改組したポーランド臨時政府の承認を公表しました。公表日は1月4日ではありません。米国国務省の史料編者注は,1945年1月5日に承認が公表されたことを記録しています。
(2) ヤルタ会談で決まったこと
1945年2月4日から11日までのヤルタ会談では,ポーランドの東部国境を,部分的にポーランドに有利な5kmから8kmの修正を加えたカーゾン線に沿わせることが確認されました。また,ポーランドは北部及び西部で相当な領土追加を受けるべきであるとの方針が示されました。
(3) ヤルタ会談で決まらなかったこと
ヤルタ会談の公表合意は,ポーランドの西部国境の範囲について新しいポーランド臨時統一政府の意見を聴いた上で,最終画定を平和会議まで待つとしています。したがって,ヤルタ会談でオーデル・西ナイセ線又はポーランドが取得する旧ドイツ領の具体的範囲が確定したとはいえません。詳細な外交史については,「第二次大戦とポーランド」も参考になります。
5 ベルリン宣言及びポツダム会談
(1) 連合4国による最高権力の掌握
米国,ソ連,英国及びフランスは,1945年6月5日のベルリン宣言により,ドイツに関する最高権力を掌握しました。ただし,ベルリン宣言の原文は,この権力掌握自体がドイツの併合を意味しないと明記し,ドイツ又はその一部の境界及び地位は後に決定されるとしました。
(2) ポーランドの行政管理下に置かれた地域
ポツダム会談議定書第9項は,平和的解決における最終決定まで,シュヴィネミュンデの直ぐ西からオーデル川及び西ナイセ川を経て旧チェコスロバキア国境へ至る線の東側にある旧ドイツ領を,ポーランド国家の行政管理下に置くこととしました。これは,ソ連が米英との最終合意前からポーランド当局に同地域を行政管理させていた既成事実を,米英が会談で扱った結果です。
(3) 北部東プロイセンの例外
ポーランドの行政管理下に置かれた地域からは,ケーニヒスベルク及びその周辺の北部東プロイセンが除かれ,ソ連の行政管理下に置かれました。ポツダム会談では,実際の境界を専門家が検討することを条件として,同地域を最終的にソ連へ移転するというソ連提案に原則的に合意し,米英両首脳は将来の平和的解決において同提案を支持すると表明しました。したがって,ポーランドの行政管理及び最終決定の留保を定めた部分と,ケーニヒスベルク地域についての別個の合意とを区別する必要があります。また,旧ダンツィヒ自由市も,1937年12月31日現在のドイツ領とは別の法的来歴を有します。
(4) 最終的な領土決定の留保
議定書は,ポーランドの行政管理下に置かれた旧ドイツ領をソ連占領地域の一部とみなさない一方,領土問題の最終決定を平和的解決に留保しました。このため,「1945年8月2日に旧ドイツ東部領土がポーランドへ最終譲渡された」と説明すべきではありません。
第4 1950年から1972年までの国境承認
1 1950年のズゴジェレツ条約
(1) 東ドイツによる承認
ドイツ民主共和国,すなわち東ドイツは,1950年7月6日のズゴジェレツ条約により,オーデル・西ナイセ線をドイツ・ポーランド間の確定した既存国境として承認しました。
(2) 条約当事国の範囲
同条約は東ドイツとポーランドとの二国間条約でした。西ドイツは東ドイツをドイツ全体の正統な代表と認めておらず,4国もドイツ全体及びベルリンに関する権利を留保していたため,ズゴジェレツ条約だけで統一ドイツの国境問題が最終解決したわけではありません。
2 1970年のワルシャワ条約
(1) 条約本文の内容
西ドイツとポーランドは,1970年12月7日調印のワルシャワ条約第1条において,ポツダム会談議定書に定められた境界線がポーランドの西部国境を形成することを一致して確認しました。また,両国は,国境が現在及び将来にわたって不可侵であること,領土保全を無条件に尊重すること並びに相互に領土要求を有せず,将来も提起しないことを宣言しました。同条約は1972年6月3日に発効しました。
(2) 1972年の西ドイツ連邦議会共同決議
西ドイツ連邦議会は1972年5月17日,東方諸条約に関する共同決議を採択しました。同決議は,西ドイツが西ドイツの名においてのみ義務を負うこと,平和条約上の解決を先取りしないこと及びドイツ全体の法的根拠を新設しないことを確認しました。「ドイツ統一とポーランド外交」は,この外交的及び国内政治的経緯を整理しています。
(3) 「暫定的な承認」とだけ説明できない理由
共同決議がドイツ全体に関する平和条約上の最終規定を留保したことは事実です。しかし,ワルシャワ条約自体が定めた国境不可侵,領土保全の尊重及び領土要求放棄の義務は,西ドイツとポーランドとの間で現に発効した国際法上の義務でした。したがって,西ドイツ又は将来の統一ドイツが任意に無視又は撤回できる,単なる暫定線であったと説明するのは適切ではありません。より正確には,「西ドイツは自国の名で拘束力ある義務を負ったが,ドイツ全体の最終国境確認は1990年の最終規定及び別個の国境条約を待った」と整理すべきです。
(4) 1975年のドイツ連邦憲法裁判所決定
ドイツ連邦憲法裁判所は,1975年7月7日決定・BVerfGE 40, 141において,モスクワ条約及びワルシャワ条約の承認法に対する憲法異議を不適法として退けました。同裁判所は,両条約が個人の行為義務を直接定めず,私人の財産権を奪うものでもないと判断しました。また,ワルシャワ条約による領域割譲が行われたものではないとの整理を示しました。
3 1972年の東西ドイツ基本条約
(1) 条約の内容
東西ドイツは,1972年12月21日署名の東西ドイツ基本条約により,対等の基礎に立つ正常な隣国関係を樹立し,相互の独立及び自主性,領土保全並びに国境の不可侵を尊重するとしました。
(2) 通常の国家承認とは異なること
基本条約を,東西ドイツが通常の意味で相互に主権国家として正式承認した条約と要約するのは不正確です。ドイツ連邦憲法裁判所は,1973年7月31日判決・BVerfGE 36, 1において,東ドイツが国際法上の国家及び主体である一方,西ドイツによる正式な国際法上の承認はなく,基本条約は特別な種類の事実上の承認を含むと説明しました。
次のX投稿は,独ソ関係と東欧の住民被害を論じる第三者の見解です。強い評価表現を含むため,事実及び法的評価の根拠には用いず,投稿当時の議論を示す資料として掲げます。
第5 ドイツ統一と国境の最終確認
1 1990年6月の両ドイツ議会の決議
(1) 決議の内容
1990年6月21日,西ドイツ連邦議会と東ドイツ人民議会は,現存する境界線がポーランドの西部国境であること,その現在及び将来にわたる不可侵を確認すること,相互の主権及び領土保全を無条件に尊重すること並びに領土要求を現在も将来も提起しないことを表明しました。西ドイツ側の決議及び経緯は,ドイツ連邦議会の解説で確認できます。
(2) 西ドイツ連邦参議院の決議日
西ドイツ連邦参議院は,翌1990年6月22日,同趣旨の決議を採択しました。両日の違いを区別する必要があります。
2 ドイツ統一条約
(1) 東ドイツの西ドイツへの加入
東西ドイツは,1990年8月31日調印のドイツ統一条約により,東ドイツがドイツ基本法旧23条に基づいて西ドイツへ加入し,東ドイツの各州が統一国家の州となることを定めました。条約原文はドイツ連邦法令データベースで確認できます。
(2) 統一の発効日
ドイツ統一は1990年10月3日に実現しました。これに対し,ドイツ最終規定条約の発効は1991年3月15日であり,両日を混同しないことが必要です。
3 ドイツ最終規定条約
(1) 統一ドイツの領域及び最終的な外部国境
東西ドイツ並びに米国,ソ連,英国及びフランスは,1990年9月12日,ドイツ最終規定条約に署名しました。同条約第1条第1項は,統一ドイツが西ドイツ,東ドイツ及び全ベルリンから成り,統一前の両ドイツの外部国境が同条約発効日から統一ドイツの最終的な外部国境となると定めました。国連条約集収録の原文はUNTS第1696巻で確認できます。
(2) 領土要求の放棄及び独波国境条約の予定
同条第2項は,統一ドイツとポーランドが両国間の既存国境を国際法上拘束力のある条約で確認すると定めました。同条第3項は,統一ドイツが他国に対する領土要求を有せず,将来も提起しないと定めました。
(3) 基本法旧23条第2文等の改正
同条第4項が明示したのは,基本法旧23条の「第2文」,基本法前文及び146条です。「23条第2項」とするのは正確ではありません。旧23条第2文は,統一後に他のドイツ地域が基本法の適用範囲へ加入する可能性を示していました。実際の国内法上の改正では,ドイツ統一条約第4条第2号が旧23条全体を削除し,前文及び146条も改正することにより,統一ドイツの領域について最終規定条約に反する憲法上の根拠が残らないようにしました。「最終規定条約が旧23条第2文を名指ししたこと」と「統一条約が旧23条全体を削除したこと」とを区別する必要があります。
(4) 旧東ドイツ地域における軍隊及び核兵器
同条約第5条第1項及び第2項は,ソ連軍撤退までの移行期における軍隊配置を定めています。同条第3項は,ソ連軍の撤退完了後,旧東ドイツ地域及びベルリンに,外国軍並びに核兵器又はその運搬手段を駐留又は配備しないと定めました。他方で,核兵器運搬手段を保有しないドイツ軍部隊を同地域に駐留させることは認められています。また,通常兵器として装備され,その用途だけに指定された兵器体系は,他の能力を有し得るという理由だけでは核兵器運搬手段に当たりません。ここでいう英語原文の「carriers」は一般の輸送手段ではなく,核兵器の運搬手段を意味します。したがって,「旧東ドイツ地域では全ての外国軍,核兵器及び一般の輸送が禁止され,単純な非核地帯になった」と要約するのは広すぎます。
(5) 発効及び4国の権利の終了
同条約は,最後の批准書が寄託された1991年3月15日に発効しました。同条約第7条により,米国,ソ連,英国及びフランスは,ベルリン及びドイツ全体に関する権利及び責任を終了させ,統一ドイツは国内外の事項について完全な主権を得ました。
4 1990年のドイツ・ポーランド国境条約
(1) 既存国境の確認
統一ドイツとポーランドは,1990年11月14日調印のドイツ・ポーランド国境条約第1条において,1950年のズゴジェレツ条約及びその実施・補充協定並びに1970年のワルシャワ条約によって示された両国間の既存国境を確認しました。国連条約集収録の英語原文はUNTS第1708巻で確認できます。
(2) 不可侵及び領土要求の放棄
同条約第2条は,国境の現在及び将来にわたる不可侵並びに相互の主権及び領土保全の無条件の尊重を定めました。同条約第3条は,両国が相互に領土要求を有せず,将来も提起しないことを確認しました。
(3) 署名日及び発効日
同条約の署名日は1990年11月14日,発効日は1992年1月16日です。ポーランドの法令データベースも,発効日を1992年1月16日と表示しています。
(4) 1992年のドイツ連邦憲法裁判所決定
旧東部領土の出身者らは,国境条約承認法が所有権その他の基本権を侵害すると主張して憲法異議を申し立てました。ドイツ連邦憲法裁判所第2法廷第3部会は,1992年6月5日決定・2 BvR 1613/91ほかにおいて,申立てを不適法としました。決定は,次の点を明確に区別しています。
- 国境条約は,領域の国家的帰属を国際法上確認するものであり,私人の財産を処分するものではないこと。
- 国境確認は現在及び将来に向けたものであり,旧東部領土に対する領域主権を遡って移転するものではないこと。
- ドイツが国家として領土要求を放棄したことに,私人の所有権又は請求権の放棄は含まれないこと。
- 同条約は,1945年以後のポーランド当局による収用措置をドイツが承認したものではないこと。
ただし,同決定は,私人が主張する所有権,返還請求権又は補償請求権が実体法上存在し,行使できることを積極的に確認したものではありません。国境条約自体によって従前の法的地位が不利益に変更されたとはいえないと判断したものであり,1945年以後の各措置の効力及び個別請求権の成否は別問題として残ります。決定要旨及び抜粋は,マックス・プランク比較公法・国際法研究所の判例資料で確認できます。
5 国境確定の時期を一覧で確認する
(1) 法的段階の一覧
| 年月日 | 文書又は出来事 | 法的な意味 |
|---|---|---|
| 1945年8月2日 | ポツダム会談議定書 | 旧ドイツ東部領土の大部分をポーランドの行政管理下に置き,最終決定を留保しました。 |
| 1950年7月6日 | ズゴジェレツ条約 | 東ドイツとポーランドが国境を確認しました。 |
| 1970年12月7日 | ワルシャワ条約 | 西ドイツとポーランドが現存国境,国境不可侵及び領土要求放棄を確認しました。 |
| 1990年9月12日 | ドイツ最終規定条約 | 統一ドイツの最終的な外部国境及び領土要求放棄を定めました。 |
| 1990年11月14日 | ドイツ・ポーランド国境条約 | 統一ドイツとポーランドが既存国境を二国間条約で確認しました。 |
| 1991年3月15日 | ドイツ最終規定条約発効 | 4国の権利及び責任が終了し,統一ドイツが完全な主権を得ました。 |
| 1992年1月16日 | ドイツ・ポーランド国境条約発効 | 両国間の国境確認条約が発効しました。 |
(2) 「1990年に永久割譲した」と表現しない理由
1990年の国境条約は,旧ドイツ東部領土をその時点で新たにポーランドへ割譲した条約ではなく,既に存在していた国境を確認した条約です。また,現在のドイツを単純にプロイセンと同一視し,東部領土を「奈良又は京都に相当する固有領土を永久割譲した」と例えることは,歴史的連続性,地域の複合的な帰属及び条約の法形式を正確に表しません。
第6 弁護士が確認しておきたいQ&A
1 国境の法的地位
(1) ポツダム会談だけで国境は最終確定したのか
最終確定していません。ポツダム会談議定書は,旧ドイツ領の行政管理を定める一方,最終的な領土問題の決定を平和的解決まで留保しました。
(2) ワルシャワ条約は自由に撤回できる暫定合意だったのか
そのようにはいえません。西ドイツは,国境不可侵,領土保全の尊重及び領土要求放棄について国際法上の義務を負いました。他方で,ドイツ全体の最終国境を決定する権能及び4国の権利が残っていたため,統一ドイツによる最終確認は1990年に別途行われました。
(3) 1990年に初めてポーランドへ領土を譲渡したのか
国境条約の文言は「譲渡」ではなく「既存国境の確認」です。ドイツ連邦憲法裁判所も,1990年条約は現在及び将来に向けた国境規律であり,領域主権を遡って移転するものではないと判断しました。
2 国境と私有財産権
(1) 国境条約は個人の所有権を処分したのか
国境条約自体は,個人の所有権を処分していません。国境確認と,ポーランド又はソ連の当局が行った収用及び財産剥奪の効力とは,別に検討されます。ただし,国境条約が私人の権利を放棄していないことから,直ちに返還又は損害賠償が認められるわけでもありません。準拠法,外国国家行為の承認,領域性原則,裁判管轄,国家免除,時効及び個別の補償制度を検討する必要があります。
(2) 国境条約の違憲性は争われたのか
争われました。1970年のワルシャワ条約については1975年決定が,1990年の国境条約については1992年決定があり,いずれも憲法異議を不適法としました。両決定は,国境条約による国家間の領域規律と,私人の財産権その他の個人的法的地位とを区別しています。
3 用語上の注意
(1) ドイツ最終規定条約は平和条約なのか
条約名は「ドイツに関する最終規定条約」であり,「平和条約」ではありません。しかし,ドイツの領域,軍事的地位,4国の権利及び完全な主権を最終的に規定したため,ドイツ問題について平和条約に相当する最終処理の機能を果たしたと説明されます。条約の正式名称と機能上の評価を区別すべきです。
(2) 旧東ドイツを「中部ドイツ」と呼べるのか
「中部ドイツ」は,1945年以前の領域観を前提として旧東ドイツ地域を指した歴史的又は政治的用法があります。しかし,現在の一般的な地理用語又は公法上の名称ではありません。現代の読者に対しては,「旧東ドイツ」,「ドイツ民主共和国」又は具体的な州名を用い,歴史的用法を紹介するときだけ説明を付すのが適切です。
第7 関連記事及び補足資料
1 国境及び戦後処理に関する外部資料
(1) ドイツの国境の変遷
ドイツニュースダイジェストHPの「ドイツの国境の変遷」は,近現代ドイツの国境変化を概観するための参考資料です。法的な確定時期については,条約原文と併せて確認する必要があります。
(2) 14か条の平和原則
第1次世界大戦後の国境問題の背景については,1918年1月8日のウィルソン米国大統領演説である14か条の平和原則が参考になります。
(3) 政治的比喩を読む際の注意
衆議院議員吉良州司HPの「北方領土問題の本質と対応 その12 大戦時の同盟国ドイツに学ぶこと」は,ドイツの戦後国境を日本の領土問題と対比する政治的見解を示しています。ただし,プロイセンと現代ドイツの同一視,旧東部領土と日本の特定地域との比喩及び「永久割譲」という表現は,ドイツ最終規定条約及び独波国境条約の正確な法的要約ではありません。比較論として参照する場合も,前記の法的段階を崩さないことが必要です。
(4) 戦争賠償及び現代の安全保障に関する資料
Liberty & Justice 1993年9月号の「戦争賠償」に関する議論は,戦後処理を考える資料の一つです。また,山形浩生の「経済のトリセツ」ブログの「ロシアの攻勢と新世界 (2022/02/26): 侵略成功時のロシアの予定稿 全訳」は,現代の領土変更をめぐる政治言説を検討する資料です。いずれも,1945年から1992年までのドイツ・ポーランド国境の法的経緯を示す一次資料ではありません。
2 当ブログの関連記事
(1) ドイツの戦後補償
ナチス迫害被害者等への補償については,ドイツの戦後補償を参照してください。
(2) 第一次世界大戦の賠償金
第1次世界大戦後のドイツ賠償については,第一次世界大戦におけるドイツの賠償金の,現在の日本円への換算等を参照してください。
(3) 在外財産補償問題
領土変更及び引揚げに伴う日本の補償問題については,在外財産補償問題を参照してください。
3 関連するX投稿及び映像資料
(1) 安全保障に関する投稿
次の投稿は,NATO拡大をめぐる発言の法的評価,ロシア・ウクライナ関係史及び戦時支援を論じるものです。本記事の歴史的条約の根拠ではなく,現代の安全保障を考える補足資料として掲げます。
(2) ベルリンの壁に関する投稿
次の投稿は,ドイツ分断の象徴であったベルリンの壁の跡を紹介するものです。
(3) 関連動画
次の動画も,ドイツ統一及び戦後史を理解するための補足資料です。動画内の評価は,条約原文及び公的資料と区別して視聴してください。
第8 まとめ及び主要出典
1 まとめ
(1) 追放の事実認定
旧ドイツ東部領土からの住民移動は,戦争末期の避難,ポツダム会談前後の無秩序な追放及びその後の組織的移送に分けて検討する必要があります。犠牲者数は推計幅が大きく,死亡者と行方不明者,対象地域及び対象期間を区別すべきです。
(2) 国境確定の法的段階
1945年のポツダム会談議定書は行政管理と最終決定の留保を定め,1950年及び1970年の条約が東西ドイツそれぞれの立場から国境を確認し,1990年の最終規定条約及び独波国境条約が統一ドイツの国境を最終的に確認しました。
(3) 実務上の確認順序
法的評価では,ア 対象時点,イ 対象文書,ウ 条約当事国,エ 4国の権利の存否,オ 領域主権と私有財産権の区別,カ 条約の署名日及び発効日を順に確認すると,誤解を避けやすくなります。
2 主要出典
(1) 条約及び連合国文書
- 1939年独ソ国境友好条約
- 1941年シコルスキ・マイスキー協定
- テヘラン会談記録
- ヤルタ会談の公表合意
- 1945年ベルリン宣言
- 1945年ポツダム会談議定書
- 1970年ワルシャワ条約
- 1972年東西ドイツ基本条約
- 1990年ドイツ最終規定条約
- 1990年ドイツ・ポーランド国境条約
(2) 裁判例及び議会資料
- ドイツ連邦憲法裁判所1973年7月31日判決・BVerfGE 36, 1
- ドイツ連邦憲法裁判所1975年7月7日決定・BVerfGE 40, 141
- ドイツ連邦憲法裁判所1992年6月5日決定・2 BvR 1613/91ほか
- 東方諸条約に関するドイツ連邦議会資料
- 1990年6月の独波国境保証決議に関するドイツ連邦議会資料