在外財産補償問題

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目次
1 総論
2 引揚者に対する金銭給付
3 戦後補償裁判での取り上げられ方
4 内閣答弁書の記載
5 戦後処理問題懇談会報告
6 日本の領土問題に関係する文書
7 関連記事その他

1 総論
(1) 在外財産補償問題とは,第二次世界大戦の敗戦によって失われた引揚者などの日本人の在外資産の補償を巡る問題をいいます。
(2) 平和祈念展示資料館(総務省委託)HP「海外からの引揚者」には以下の記載があります。
 海外からの引揚者とは、さきの大戦の終結に伴い、生活の本拠としていた海外から故国日本への引揚げを余儀なくされた方々をいいます。身の危険が迫る中、すべてを捨て、大変な労苦を体験しながら故国を目指しましたが、引揚げ途中で亡くなった方も多くいました。

2 引揚者に対する金銭給付
(1) 引揚者に対する金銭給付は,昭和32年制定の「引揚者給付金等支給法」に基づき464億円が支給され,昭和42年制定の「引揚者に対する特別交付金支給法」に基づき,全国に350万人いる引揚者に対し,2100億円余りが支給されたみたいです(Wikipediaの「在外財産補償問題」参照)。
(2) 東京都福祉保健局HP「引揚者給付金・引揚者特別交付金」によれば,引揚者給付金(厚生労働省所管)は終戦時の年齢に応じて1人当たり2万8000円から7000円であり,引揚者特別交付金(総務省所管)は終戦時の年齢に応じて1人当たり16万円から2万円です。
(3) 総務省HPの「旧独立行政法人平和祈念事業特別基金の公表文書」に載ってある「戦後処理問題懇談会報告」には,「戦後処理関係の諸措置は、昭和42年の引揚者等に対する特別交付金の支給(支給実績額約1,636億円)をもって一切完了したとの認識であった。」と書いてあります。


3 戦後補償裁判での取り上げられ方
(1) いわゆる戦後補償裁判において,最も初期に争われたのは,サンフランシスコ平和条約等において,日本国政府が,国民の有していた在外資産を戦争賠償に充当する趣旨で処分したり,連合国又は連合国民に対する戦争被害に係る国民の請求権を放棄したのは,憲法29条3項に基づく損失補償の対象となるなどとして,在外資産を保有していた者又は連合国に対する損害賠償請求権を有していた旨を主張する者が原告となり,国に対し,補償又は賠償を求める類型の事件です。
 この類型に属する事件の最高裁判例としては,①カナダ在外資産補償請求訴訟に関する最高裁大法廷昭和43年11月27日判決,②サンフランシスコ平和条約19条(a)に関する最高裁昭和44年7月4日判決,③シベリア抑留者補償請求訴訟に関する最高裁平成9年3月13日判決がありますところ,「戦争中から戦後占領にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては,国民のすべてが,多かれ少なかれ,その生命・身体・財産の犠牲を堪え忍ぶべく余儀なくされていたのであって,これらの犠牲は,いずれも,戦争犠牲又は戦争損害として,国民のひとしく受任しなければならなかったところであり,右の在外資産の賠償への充当による損害のごときも,一種の戦争損害として,これに対する補償は,憲法の全く予想しないところというべきである」(上記①の半分より抜粋)などとする戦争損害受任論というべき枠組みによって請求が棄却されました
(2) この点については,最高裁判所判例解説(民事篇)(平成19年度)(上巻)409頁及び410頁の記載を全面的に参照しています。

4 内閣答弁書の記載
(1) 昭和25年2月17日付の,衆議院議員前田榮之助君提出引揚邦人の在外財産補償に関する質問に対する答弁書には以下の記載があります。
 日本在外財産の処理に関しては、一九四五年九月二十二日の米国政府発表による「降服後初期の対日方針」によつて初めて明らかにされた。即ち日本の保持する領域外に在る日本財産を関係連合当局の決定に従い引渡すこと、更に日本の在外資産及び降伏條件により、日本より分離せしめられたる地域にある日本の資産は、全部ないし一部皇室及び政府の所有に属するものを含めて占領軍当局の決定による処分に委ねらるべし、と規定し、在外資産の賠償充当の方針を明らかにしている。
 次いで、一九四七年六月十九日の極東委員会の政策決定「降伏後の対日基本政策」において、日本の在外資産については、今後関係諸政府の見解によつて取扱いが決定されることを明らかにした。
 叙上の通り、日本の在外財産の処理は連合国側の方針にかかつているのであるが、各連合国側による日本在外財産に対するそれぞれの評価額及びこれらを賠償要求額中に繰入れられるか否かという問題並びに賠償要求額が正式に決定していない現在、在外財産の所有者に対する補償をいかにすべきかということについては、具体的な決定をなすべき段階と至つていない。
 在外財産の調査に関しては、昭和二十一年九月外務、大蔵両省共同にて「在外財産調査会」を設置し、満洲外各地域別に九部会を設け、それぞれ学識経験者に調査を委嘱し、昭和二十年十一月大蔵省令第九十五号に基き、在外財産報告書及び在外公館からの持帰り資料等をもととして調査を進めて来たが、昭和二十四年一月調査を完了したので、同調査会を解散した。
 なお同調査会の調査の結果はまだ公表する時期に至つていない。
(2) 昭和50年7月8日付の,衆議院議員受田新吉君提出引揚者の在外財産問題に関する質問に対する答弁書には以下の記載があります。
一について
 御質問の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(条約附属書を含む)は、国際法上一般に戦争が違法とされていなかつた時代に作成されたものであり、国際連合憲章第二条4において、武力の行使が、他国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも禁止されている今日においては、同条約の適用につき種々議論はあるが、一般には、国家間に実態的な戦争状態が存在する場合には同条約の適用があるものと考えられている。
イ 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」の違反があつた場合の責任について、同条約は、その第三条において、「前記規則ノ条項ニ違反シタル交戦当事国ハ、損害アルトキハ、之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス」と規定しているのみであり、違反国の責任を追及する特別の機関を設けていない。
ロ 「日本国との平和条約」第四条(b)の対象となつている財産の処理に関しては、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」に規定する一般原則の範囲を超えた処理が合衆国軍政府によつてなされた場合があつたことは事実であるとしても、かかる処理については、同条(b)の規定によつて、その効力を承認し、右平和条約第十九条(a)の規定により、これに関する請求権を放棄したものである。
 政府としては、平和条約上かかる措置がとられたことに関し、国に当該財産の旧所有者に対する法律上の補償の責任はないとの立場に立つている。かかる立場は、最高裁判所の判例(昭和四三年一一月二七日大法廷判決及び昭和四四年七月四日第二小法廷判決)の趣旨とも合致するものと考えられる。
二について
イ 税関保管物件は、引揚者が持ち帰つた通貨、証券等を税関が保管しているものであり、引揚者からの返還請求に応じ返還処理してきているところである。
 政府は、この保管物件を可能な限り返還するよう努めて参る所存であつて、現在、この最終処理を検討すべき段階に至つていないと考える。
ロ 終戦直後、連合軍最高司令部の覚書に基づく昭和二十年大蔵省令第九十五号によつて引揚者等から提出された在外財産等報告書は、集計作業を行つた後、集計表とともに連合軍最高司令部へ提出した。
 この在外財産等報告書は、終戦直後の混乱期に引揚者等から申告により徴した報告であり、証拠資料が皆無に近かつたこと、また、評価基準が不統一であつたこと等の事情からみて、客観性又は信ぴよう性に乏しいものと認めざるを得ないので、公表することは適当でないと考える。
ハ 関係者の陳情等により、台湾引揚者が、引揚げに際し、台湾当局が発行した「私人財産清冊」(私有財産明細書)を持ち帰つている旨承知しているが、右「清冊」の内容の真否等について、現在、政府として確認することは困難である。
ニ 引揚者の在外財産問題については、昭和四十一年十一月の第三次在外財産問題審議会の答申の趣旨にのつとり、昭和四十二年六月引揚者等に対して特別交付金の支給措置を講ずることをもつて最終的に解決する旨を閣議決定し、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和四十二年法律第百十四号)に基づき措置してきたところであり、右の措置をもつて在外財産の処理は最終的に解決されたものと考えている。
 なお、特別交付金は、昭和五十年四月までに、支給対象者として、約三一三万人を認定し、約一六三六億円を支給した。

5 戦後処理問題懇談会報告
・ 総務省HPの「旧独立行政法人平和祈念事業特別基金の公表文書」に載ってある戦後処理問題懇談会報告(昭和59年12月21日付)には,「在外財産問題」に関して以下の記載があります。
    敗戦及び引揚げの過程で、海外居住者は、財産のほとんどすべてを失うことを余儀なくされたほか、人間関係、生活利益等生活の支えまでも根こそぎ喪失するに至った。しかも、幾多の辛酸をなめながらたどり着いた祖国は荒廃し、頼るべき身内もほとんどなかったことから、これらの引揚者の生活再建は困難を極めた。
    一方、国においても、引揚者に対しては、引揚時の応急援護、定着援護、給付金の支給、特別交付金の支給等措置を講じてきている。
    引揚者は、上記の惨苦をふまえ、失われた在外財産に対し国が法的補償措置を講じることを求めているのであるが、この点に関しては、第三次在外財産問題審議会の答申の結論-国際法上も国内法上も在外財産に対し国に法律上の補償義務はない-が適当であり、また、その後における最高裁の判決もこれを裏付けており、且つ、日中国交正常化及び外務省記録の公開という関係者の主張する新たな事実についても、前者については、日中韓の法律関係は日中国交正常化により何ら影響を受けないこと、後者については、当該記録は内部検討資料にすぎず、在外財産の帰趨は平和条約によって判断すべきであることから同答申の結論を変更する必要はないとするのが、我々の共通した意見である。
    更に、在外財産喪失者に対するこれまでの措置が公平なものであったかどうかについては、引揚げ直後の応急援護、定着援護、給付金の支給、特別交付金の支給等の措置を通じて、一般戦災者の被った損害と比較し特別であったと考えられる限りにおいては、その公平化が図られたと考えられる。
    当懇談会は、戦後処理の基本的な在り方について検討を加え、更に,措置すべきであるにもかかわらず残されている戦争損害があるかどうか、これまでに講じられた措置に不均衡なものがあるかどうか、その後における新しい事実又は事情の変化によってこれまでの措置を見直す必要があるかどうかについて、以上のとおり、特に、恩給欠格者問題、戦後強制抑留者問題及び在外財産問題を中心に種々の観点から慎重かつ公平に検討を行ってきたが,いずれの点についても、もはやこれ以上国において措置すべきものはないとの結論に至らざるをえなかった。

6 日本の領土問題に関係する文書

(1) 大西洋憲章
ア アメリカのルーズヴェルト大統領及びイギリスのチャーチル首相は,1941年8月9日,大西洋のプラセンティア湾(カナダ・ニューファンドランド州沖)で会談し,後に大西洋憲章としてまとめられる内容を協議しました。
イ アメリカとイギリスは,1941年8月14日発表の大西洋憲章第1項において,領土拡大を求めないことを表明しました。
ウ 1941年9月24日にロンドンで開催された第2回連合国会議において,ソ連を含む連合国の代表が大西洋憲章で示された政策原則を支持することを全会一致で採択しました。
(2) 連合国共同宣言
ア アメリカとイギリスは,1941年12月22日から1942年1月14日までの間,ワシントンDCにおいてアルカディア会談を行いました。
イ アメリカ,イギリス,ソ連及び中国は,1942年1月1日,大西洋憲章への賛意を含む連合国共同宣言に署名しました。
ウ 1942年から1945年にかけて47の国の政府(亡命政府を含む。)が連合国共同宣言に署名しました。
エ 連合国共同宣言に署名したことが国際連合の原加盟国の資格の一つとなりました(国際連合憲章3条)。
(3) カイロ宣言
ア アメリカのルーズヴェルト大統領,イギリスのチャーチル首相及び中華民国の蒋介石主席は,1943年11月22日から同月26日にかけて,エジプト・カイロにおいてカイロ会談を行いました。
イ 1941年12月1日に発表されたカイロ宣言には以下の条項が含まれていました。
① 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
→ 領土不拡張原則について定めています。
② 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

→ 委任統治領(国際連盟規約22条)としての南洋群島の没収,並びに満州,台湾及び澎湖諸島の中華民国への返還について定めています。
③ 日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
→ 日露戦争を終結させたポーツマス条約によって日本が取得した南樺太が該当すると思われますが,当時,日ソ中立条約に基づき,日本はソ連との間で戦争状態にありませんでした。
④ 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
→ 朝鮮の独立について定めているものの,「軈て(やがて)」という文言が付けられていて,終戦後,朝鮮半島については信託統治を経た後に独立させることが想定されていました。
ウ 1944年4月17日から同年12月10日にかけて実施された日本軍の大陸打通作戦において中国国民党軍が大敗したため,蒋介石主席はヤルタ会談及びポツダム会談に招かれませんでした。
(4) ヤルタ協定
ア 1945年2月4日から同月11日にかけて,アメリカのルーズヴェルト大統領,イギリスのチャーチル首相及びソ連のスターリン書記長は,ヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿でヤルタ会談を行いました。
イ ヤルタ協定には以下の条項が含まれていました。
一、外蒙古(蒙古人民共和国)ノ現状ハ維持セラルヘシ
二、千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルヘシ
(イ) 樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」連邦ニ返還セラルヘシ
(ロ) 大連商港ニ於ケル「ソヴィエト」連邦ノ優先的利益ハ之ヲ擁護シ該港ハ国際化セラルヘク又「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ海軍基地トシテノ旅順口ノ租借権ハ回復セラルヘシ
(ハ) 東清鉄道及大連ニ出口ヲ供与スル南満洲鉄道ハ中「ソ」合弁会社ノ設立ニ依リ共同ニ運営セラルヘシ但シ「ソヴィエト」連邦ノ優先的利益ハ保障セラレ又中華民国ハ満洲ニ於ケル完全ナル主権ヲ保有スルモノトス
三、千島列島ハ「ソヴィエト」連邦ニ引渡サルヘシ
前記ノ外蒙古並ニ港湾及鉄道ニ関スル協定ハ蒋介石総帥ノ同意ヲ要スルモノトス大統領ハ「スターリン」元帥ヨリノ通知ニ依リ右同意ヲ得ル為措置ヲ執ルモノトス
三大国ノ首班ハ「ソヴィエト」連邦ノ右要求カ日本国ノ敗北シタル後ニ於テ確実ニ満足セシメラルヘキコトヲ協定セリ
「ソヴィエト」連邦ハ中華民国ヲ日本国ノ覊絆ヨリ解放スル目的ヲ以テ自己ノ軍隊ニ依リ之ニ援助ヲ与フル為「ソヴィエト」社会主義共和国連邦中華民国間友好同盟条約ヲ中華民国国民政府ト締結スル用意アルコトヲ表明ス
ウ 1項は中華民国に対してモンゴル人民共和国(ソ連の衛星国でした。)の独立承認を求めたものであって,中華民国は,1945年8月14日締結の中ソ友好同盟条約に基づき,外モンゴルの公民投票により確認されることを条件として,モンゴル人民共和国の独立を承認することとし,1946年1月5日に同国の独立を承認しました。
    なお,蒋介石主席がヤルタ協定の内容を知らされたのは1945年6月14日でした(「「大日本帝国」崩壊 東アシアの1945年」138頁)。
エ 1946年2月11日,ヤルタ協定の内容が公開されました。


(5) ポツダム宣言
ア 1945年7月17日から同年8月2日にかけて,ベルリン郊外のポツダムにおいて,アメリカのトルーマン大統領,ソ連のスターリン書記長及びイギリスのチャーチル(7月27日以降はクレメント・アトリー)がポツダム会談を行いました。
イ 1945年7月26日に発表されたポツダム宣言には以下の条項が含まれていました。
第8項 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
第9項 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
ウ 8月9日未明のソ連対日参戦を受けて開催された最高戦争指導会議構成員会議及び閣議で結論が出なかったものの,翌日午前2時20分頃終了の御前会議(1回目の聖断)及び同日午前4時頃終了の閣議に基づき,日本は,連合国に対し,「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」と通告しました(「ポツダム受諾に関する8月10日付日本国政府申入」参照)。
エ 8月11日付のバーンズ回答の「the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.」(「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施するため適当と認める措置を執る連合国最高司令官(SCAP)の制限の下に置かれるものとする。」という意味です。)という記載に紛糾して同月12日の閣議,並びに同月13日の最高戦争指導会議構成員会議及び閣議でも結論が出なかったものの,同月14日正午終了の御前会議(2回目の聖断)及び同日午後11時発布のポツダム宣言受諾の詔書(いわゆる「終戦の詔書」)に基づき,ポツダム宣言受諾通告を行いました。
オ ポツダム宣言を受諾した場合,同宣言8項に基づき,日本が植民地及び占領地を失い,同宣言9項に基づき,海外に残留している軍人軍属が武装解除された上で引き揚げることは明確でしたが,海外に在留している日本人がどのように取り扱われるかは不明でした。
    また,戦争で荒廃した日本が海外に在留している日本人の引揚げを受け入れる余裕はないと考えられました。
    そのため,日本政府は,8月31日の終戦処理会議において,できる限り現地での共存に努力することを第一義とし,やむを得ず引き揚げる者には便宜を与えて速やかに引き揚げる方途を講じることを決定したものの,結果として,原則としてすべての日本人が植民地及び占領地から引き揚げることになりました。
カ 1945年9月2日付の一般命令第1号(連合国最高司令官指令(SCAPIN)の1番目の指令)に基づき,北緯38度線以北の日本軍はソ連に降伏し,北緯38度線以南の日本軍はアメリカ軍に降伏するとされた結果,38度線による南北分断につながりました。


7 関連記事その他
(1)ア 外務省HPの「『日本外交文書』占領期全3巻」に「七 邦人の引揚げ問題」のことが書いてあります。
イ 国立公文書館HPに「[ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係]」が載っています。
(2)ア 「「大日本帝国」崩壊 東アシアの1945年」84頁には以下の記載があります。
    連合国のなかで朝鮮独立にこだわったのは中国であった。戦後中国の安定のために朝鮮半島に独立した国家が不可欠であると考えていた蒋介石は、カイロ会談にあたって朝鮮独立を取り上げるよう強く求めた。その結果、カイロ宣言に文言が盛り込まれたのである。しかし、カイロ宣言の草案段階では、朝鮮の独立が「at the earliest possible moment」(できるだけ早く)となっていたが,議論のなかで表現が弱められ、最終段階で、この会談に続くテヘラン会談とノルマンディ上陸作戦のことで頭がいっぱいだったチャーチルによって「in due course」(やがて)に修正されてしまった。
イ 大阪産業大学HP「朝鮮独立問題をめぐる連合国の論議」が載っています。
ウ 広島大学学術情報リポジトリ「在朝日本人二世の朝鮮・朝鮮人に対する意識形成の研究-在釜山日本人を中心に-」が載っています。
(3) 以下の記事も参照してください。
・ 日本の戦後賠償の金額等
・ ドイツの戦後補償
・ 旧ドイツ東部領土からのドイツ人追放,及びドイツ・ポーランド間の国境確定
→ 1945年8月2日締結のポツダム協定12項はドイツ人の秩序ある移転について定めていました。
・ 裁判官及び検察官の定年が定められた経緯(日本国憲法の制定経緯を含む。)
 日韓請求権協定

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