目次
第1 裁判官の定年が定められた経緯
1 戦前の経緯
2 ポツダム宣言の発表から降伏文書調印までの経緯
3 降伏文書調印後,GHQ草案作成までの経緯
4 GHQ草案作成後,憲法改正草案発表までの経緯
5 枢密院における審議等
6 帝国議会における審議等
7 日本国憲法制定後の経緯
8 参考になるHP等
第2 検察官の定年が定められた経緯
1 戦前の経緯
2 戦後の経緯
第3 日本国憲法制定経緯に関する政府答弁
第4 関連記事その他
第1 裁判官の定年が定められた経緯
1 戦前の経緯
(1) 大正10年6月1日施行の改正裁判所構成法に基づき,大審院長の定年は65歳であり,その他の判事の定年は63歳でした。
ただし,控訴院又は大審院の総会決議により最大で3年間,引き続き在職することができました(大正10年5月18日公布の法律第101号による改正後の裁判所構成法74条ノ2)。
(2) 裁判所構成法74条ノ2は,昭和12年9月1日公布の法律第82号による改正があり,同日以降,定年退職日は5月31日又は11月30日に統一されました。
(3) 詳細については,「戦前の判事及び検事の定年」を参照してください。
2 ポツダム宣言の発表から降伏文書調印までの経緯
(1)ア 昭和20年7月26日に発表されたポツダム宣言(訳文)には以下の条項が含まれていました。
6項:吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
10項後段:日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
12項:前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
イ ポツダム宣言の中には,憲法改正という文言が直接に出てくる部分はありませんでした。
(2) 日本政府は,連合国に対し,昭和20年8月14日にポツダム宣言受諾を通告し,同日付のポツダム宣言受諾の詔書(いわゆる「終戦の詔書」)を,翌日正午のラジオ放送(いわゆる「玉音放送」)により発表しました。
3 降伏文書調印後,GHQ草案作成までの経緯
(1) 昭和20年8月31日に国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)で決定された「対日政策の基本文書」(SWNCC150)では,天皇を含む既存の日本の統治機構を通じて占領政策を遂行するという間接統治の方針が明確化される一方、主要連合国間で意見が相違する場合には米国の政策がこれを決定するという記載がありました(「米国の「初期対日方針」」参照)。
(2) 昭和20年9月6日にトルーマン大統領が発した,連合国最高司令官の権限に関する指令(JCS1380/6 =SWNCC181/2)では,ポツダム宣言は双務的な拘束力を持たないのであって,日本との関係は無条件降伏が基礎となっているとされました。
(3) 昭和20年10月8日,国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)は「日本の統治体制の改革」を作成しましたところ,そこでは,日本が自主的に統治体制を変革できなった場合,最高司令官が日本側に対し,憲法改正(日本国民が天皇制を維持すると決めた場合に天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行うことや,日本国民及び日本の管轄権のもとにあるすべての人に基本的市民権を保障すること等の9項目の原則を盛り込んだもの)を示唆すべきとしていました。
(4) 昭和20年10月11日,マッカーサーが,就任挨拶に訪れた幣原喜重郎首相に示した5大改革指令の一つとして,「四、国民ヲ秘密ノ審問ノ濫用ニ依リ絶エス恐怖ヲ与フル組織ヲ撤廃スルコト―故ニ専制的恣意的且不正ナル手段ヨリ国民ヲ守ル正義ノ制度ヲ以テ之ニ代フ」という指令がありました(「十月十一日幣原首相ニ対シ表明セル「マクアーサー」意見」参照)。
(5) 昭和20年10月27日から昭和21年2月2日までの間,昭和20年10月13日付の閣議了解に基づき,幣原内閣の下に設置された憲法問題調査委員会(委員長は松本烝治国務大臣であり,通称は「松本委員会」です。)が,憲法問題審議のための会合を続けました。
(6) 昭和20年12月8日,松本烝治国務大臣は,衆議院予算委員会において,憲法改正について,①天皇の統治権総覧の堅持,②議会議決権の拡充,③国務大臣の議会に対する責任の拡大及び④人民の自由・権利の保護強化という,松本4原則を明らかにしました。
(7) 昭和21年1月7日,国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)は,「日本統治制度の改革」(SWNCC228)を作成し,同月11日,マッカーサーに伝達しました。
SWNCC228では,マッカーサーが日本政府に対し,選挙民に責任を負う政府の樹立,基本的人権の保障,国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく,統治体制の改革を示唆すべきであるとしていました。
(8) 昭和21年2月1日,「松本委員会試案」なるものが毎日新聞によってスクープされたところ,同日,これを見たマッカーサーは,GHQのホイットニー民政局長に対し,松本試案の詳細な回答書を作成して日本政府に手交するように命じました。
(9) 昭和21年2月3日,マッカーサー3原則(天皇は国家の元首・戦争放棄・封建制度の撤廃)に基づくGHQ草案の作成がGHQ民政局で開始し,同月10日に完了しました。
(10) 政府がGHQに対し,昭和21年2月8日に提出した憲法改正要綱(「政府ノ起案セル憲法改正案ノ大要ニ付キ大体的ノ説明」とセットです。)によれば,司法に関する改正事項は「第六十一条ノ規定ヲ改メ行政事件ニ関ル訴訟ハ別ニ法律ノ定ムル所ニ依リ司法裁判所ノ管轄ニ属スルモノトスル」ことだけでした。
10月には幣原喜重郎内閣が発足。連合国最高司令部の意向を受けて憲法改正に向けた動きが本格化する中、帝国陸海軍は解体され、12月1日付で第一復員省(旧陸軍省)と第二復員省(旧海軍省)へと移行した。 #芙蓉録 pic.twitter.com/RdefW3kOHz
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) September 2, 2021
4 GHQ草案作成後,憲法改正草案発表までの経緯
(1)ア GHQが日本政府に対し,昭和21年2月13日に提示したGHQ草案(訳文)によれば,71条本文で「最高法院ハ首席判事及国会ノ定ムル員数ノ普通判事ヲ以テ構成ス右判事ハ凡ヘテ内閣ニ依リ任命セラレ不都合ノ所為無キ限リ満七十歳ニ到ルマテ其ノ職ヲ免セラルルコト無カルヘシ」と定めていて,72条後段で「判事ハ満七十歳ニ達シタルトキハ退職スヘシ」と定めていました。
イ 日本政府は,GHQに対し,昭和21年2月18日,憲法改正案説明補充を提出し,日本の国情にあわない民主主義的憲法を制定した場合,ワイマール憲法制定後にヒトラー政権が誕生したような事態が起きかねないなどと反対したものの,同月8日の案については考慮の余地がないとGHQに通告されました。
そのため,日本政府は,同月22日の閣議において,GHQ草案を基本として,可能な限り日本側の意向を取り込んだものを起案することを決定しました。
(2) 日本政府がGHQに対し,昭和21年3月4日に提出した憲法改正案(3月2日案)86条は「裁判官ハ満七十歳ニ達シタトキハ当然退官ス。」と定めていました。
(3) GHQ及び日本政府の共同作業として作成された憲法改正案(3月5日案)によれば,75条1項後段は「此等ノ裁判官ハ凡テ内閣ニ於テ之ヲ任命シ満七十歳ニ達シタル時退官スルモノトス」と定めていて,76条第5段は「裁判官ハ満七十歳ニ達シタル後ハ在任スルコトヲ得ズ」と定めていました。
(4) 昭和21年3月6日午後5時,「憲法改正草案要綱」が,英訳文,勅語,内閣総理大臣談話とともに内閣から発表され,謄写刷り版にして新聞社その他の報道機関に配布され,翌日に報道されました。
(5) 昭和21年4月2日のGHQ及び閣議の了解に基づき,ひらがな口語体によって憲法改正草案が準備されることとなりました。
(6) 昭和21年4月5日時点の憲法改正草案では,裁判官の定年は70歳とされていたものの,昭和21年4月17日時点の憲法改正草案(同日,枢密院に諮詢され,かつ,全文が公表されました。)では,裁判官の定年年齢は法律で定めるものとされました。
5 枢密院における審議等
(1) 昭和21年4月10日,第22回衆議院議員総選挙が実施され,過半数を制した政党が出なかったため,同月22日,幣原内閣は総辞職を表明しました。
(2) 昭和21年5月2日,鳩山一郎に大命降下があったものの,同月4日,昭和5年に統帥権干犯問題を発生させて軍部の台頭に協力したことを理由に,鳩山一郎が公職追放されました。
そのため,同月16日,幣原内閣で外務大臣をしていた吉田茂に大命降下があり,同月22日,第1次吉田内閣が発足しました。
(3) 昭和21年5月27日,政府は,それまでの審査結果に基づく修正を加えた帝国憲法改正草案を再び枢密院に諮詢しました。
(4) 昭和21年6月8日,枢密院本会議は,「国体変更」であるとして反対した美濃部達吉顧問官(昭和10年9月18日,天皇機関説事件により貴族院議員を辞職した憲法学者です。)を除く賛成多数で,帝国憲法改正草案を可決しました。
6 帝国議会における審議等
(1) 昭和21年6月20日,政府は帝国憲法改正案を第90回帝国議会に提出しました。
(2) 昭和21年8月24日,衆議院本会議で,修正された帝国憲法改正案を可決し,同日,貴族院に送付しました。
(3) 昭和21年10月7日,衆議院が貴族院の修正に同意しましたから,帝国議会での審議が終了しました。
(4) 昭和21年10月12日,政府は,「帝国議会において修正を加えた帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢し,同月29日,枢密院本会議は,2名の欠席者(うち,1人は美濃部達吉顧問官)を除く全員一致で,帝国憲法改正案を可決しました。
(5) 明治節(明治天皇の誕生日であることに基づく祝日)である昭和21年11月3日,日本国憲法が公布されました。
そして、「大日本帝国」は1947年5月3日の日本国憲法施行によって名実ともに終焉を迎える。 #芙蓉録 pic.twitter.com/4ag24xn2zK
— 芙蓉録 (@Fuyo1945) September 2, 2021
7 日本国憲法制定後の経緯
(1)ア 裁判所法(昭和22年4月16日法律第59号)50条に基づき,最高裁判所の裁判官の定年は70歳となり,下級裁判所の裁判官の定年は65歳となりました。
イ 昭和22年5月3日,日本国憲法及び裁判所法が施行されました。
ウ 「司法行政について(上)」(筆者は22期の西理 元裁判官)には以下の記載があります(平成24年4月21日発行の判例時報2141号9頁)。
裁判所法案については翌二二年一月二八日に閣議決定されたが、GHQのアプルーヴァルがなかなか得られず難航する。三月三日からは殆ど連日にわたって会談が持たれた結果、一二日に漸くこれを得て、即日枢密院本会議で議決・上奏、同月一八日に衆議院通過、同月二六日に貴族院本会議で可決成立を見る。
こうして、裁判所法は辛うじて憲法と歩調を合わせて施行される運びとなった。
(2) 昭和23年1月1日法律第1号による改正後の裁判所法50条に基づき,昭和23年1月1日以降,簡易裁判所の裁判官の定年は70歳となりました。
(3) 昭和23年12月21日法律第260号による改正後の裁判所法50条に基づき,昭和24年1月1日に設置された家庭裁判所の裁判官の定年は65歳となりました。
8 参考になるHP等
(1)ア 以下の資料が非常に参考になります。
① 国立国会図書館HPの「日本国憲法の誕生」
② 憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(平成12年4月)(衆議院憲法調査会事務局作成)
→ 裁判官の定年及び勤務延長の可否について,特段の記載はありません。
③ 憲法制定の経過に関する小委員会報告書/日本国憲法制定経過年表
④ 「日本国憲法の制定過程」に関する資料(平成28年11月)(衆議院憲法調査会事務局作成)
⑤ 内藤頼博裁判官が寄稿した「戦後の司法改革-裁判所法の制定経過-」(法曹百年史(昭和44年10月10日発行)337頁ないし350頁)
⑥ 衆議院HPの「終戦への日々」及び「帝国憲法改正案の審議」
→ 短い文章でよくまとまっています。
イ 衆議院憲法調査会HPに②及び④の資料が載っています。
(2) 帝国憲法の改正については,枢密顧問の諮詢(帝国憲法56条及び枢密院官制6条2号)及び帝国議会の議決(帝国憲法73条)を経る必要がありました(日本国憲法の上諭参照)。
第2 検察官の定年が定められた経緯
1 戦前の経緯
(1) 大正10年6月1日施行の改正裁判所構成法に基づき,検事総長の定年は65歳であり,その他の検事の定年は63歳でした。
ただし,司法大臣の決定により,最大で3年間,引き続き在職することができました(大正10年5月18日公布の法律第101号による改正後の80条ノ2)。
(2) 裁判所構成法80条ノ2は,昭和12年9月1日公布の法律第82号による改正があり,同日以降,定年退職日は5月31日又は11月30日に統一されました。
(3) 詳細については,「戦前の判事及び検事の定年」を参照してください。
2 戦後の経緯
(1)ア GHQが日本政府に対し,昭和21年2月13日に提示したGHQ草案69条2項(訳文)には,「検事ハ裁判所ノ職員ニシテ裁判所ノ規則制定権ニ服スヘシ」と定められていました。
しかし,日本政府がGHQに対し,昭和21年3月4日に提出した憲法改正案(3月2日案)では,検事に関する条文は削除されていました。
イ GHQ及び日本政府の共同作業として作成された憲法改正案(3月5日案)によれば,73条2項は「検察官ハ最高裁判所ノ定ムル規則ニ従フコトヲ要ス最高裁判所ハ下級裁判所ニ関スル制規ヲ定ムルノ権限ヲ之ニ委任スルコトヲ得」と定めていました。
ウ 日本国憲法77条2項は,「検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。」と定めています。
(2)ア 司法法制審議会第一小委員会(昭和21年7月9日に司法省に設置されたもの)において,検事はすべて判事に準じて任期,定年制を設けることと決定されました。
その関係で,検察庁法要綱案(昭和21年8月5日付)(多分,司法省刑事局が作成したもの)の第十五では,「一級検事が年令六十五年に達したとき、二級検事又は副検事が年令六十年に達したときは各退官とするとすること。」とされました。
イ 検察庁法案立案の方針(昭和22年1月23日付)(多分,司法省刑事局が作成したもの)の第七では,「その他は、概ね裁判所構成法による現在の構成に則ることとし、特に検察官の準司法的性格を保持すること」とされました。
ウ 検察庁法要綱案及び検察庁法案立案の方針は,終戦後の司法制度改革の経過(令和2年4月26日現在,楽天ブックスにおいて53万6800円で販売されています。)に載っています。
エ 「検察審査会法制定の経緯」のPDF1頁目には以下の記載があります。
1946年 7月から 1947年3月の第 2期には,日本側が主導して様々な法令が制定されたが,検察庁法の制定は警察制度改革に目途がつかずに難航し,また裁判所法には最終段階で公判陪審に関する規定が挿入された。
(3)ア 検察庁法(昭和22年4月16日法律第61号)(リンク先の3頁及び4頁)22条に基づき,検事総長の定年は65歳となり,その他の検事の定年は63歳となりました。
イ 佐藤藤佐司法省刑事局長は,昭和22年3月28日の貴族院検察庁法案特別委員会において以下の答弁をしています。
裁判官の職務と檢察官の職務は、其の性質上の差もあります關係から、職務を執行される職員の能力と申しますか、體力の點に於ても、檢察官が裁判官に比べて積極的に活動することを必要と致します關係から、裁判官程高い定年を設けることは適當ではなからうと云ふ考の下に、現行法通り定年を六十三と致したのでありまして、長官級の方はそれより高めて、現在の檢事總長の定年を六十五と斯う云ふ程度に止めたのであります。
ウ 「新検察制度の十年の回顧」には以下の記載があります(昭和33年2月発行の法曹時報10巻2号68頁)。
検察官の定年をこのように決めたことについては別に科学的考慮があったわけではないが、検察官の職務は裁判官に較べて激職であり体力的に見て一般の検察官は従前の定年が相当だろうというところからこれを踏襲し、検事総長についてはその地位と職責から従来の定年をいくらかあげたに過ぎないのである(山中注:検事総長の定年についても戦前と同じです。)。
ただ、裁判官の定年に較べて差等が設けられたのは主として総司令部の示唆があったことに因るのである。
裁判官の定年制について(昭和46年9月10日決裁の,内閣法制局の口頭照会回答要旨)→内閣法制局の執務参考資料集8からの抜粋 を添付しています。 pic.twitter.com/DP5fTKPPuh
— 弁護士 山中理司 (@yamanaka_osaka) March 13, 2021
検察官の定年年齢に関する国会答弁資料(令和4年11月17日の参議院法務委員会)を添付しています。 pic.twitter.com/cAWV6Yvz4b
— 弁護士 山中理司 (@yamanaka_osaka) March 6, 2023
検察官の定年・中途退職者数及びその後の進路状況(女子は内数)(令和5年度)を添付しています。https://t.co/1H5s5RxPuA pic.twitter.com/fAJeFACJcn
— 弁護士 山中理司 (@yamanaka_osaka) July 6, 2024
第3 日本国憲法制定経緯に関する政府答弁
1 吉国一郎内閣法制局長官は,昭和51年5月7日の参議院予算委員会において以下の答弁をしています(ナンバリング及び改行を追加しています。)。
① 憲法の前文の第一段にございます「政府」の言葉は、これは狭い意味の行政府を指すのではなくて、国家の統治機関全体を指すものというのが、これはもう学界の通説であろうと思います。
② 旧大日本帝国憲法第七十三条では、憲法の改正手続を定めております。その改正手続によって、もちろん旧憲法は欽定憲法でございましたので、その改正手続も天皇が発議をされて、それで当時の帝国議会が審議をして、それをさらに天皇が裁可されるという形で改正が行われたわけでございます。改正が行われて新しい憲法の基本原理は国民主権ということにあることは御承知のとおりでございます。
そこで、人類普遍の原理である国民主権に反するような一切の憲法、法令及び詔勅を排除するということを言っただけでございまして、大日本帝国憲法第七十三条の規定によって改正手続が行われ、その改正が行われた結果、国民主権というものが確立をされた。
国民主権が確立される以上は、それに矛盾抵触するようなあらゆる法令、詔勅は排除されることは当然でございまして、法理的のみならず、一般の理念としても何らそこに矛盾するものはないと私どもは考えております。
③ 新憲法が連合国軍の占領下というきわめて異常な事態の中で制定されたということは事実でございますけれども、当時、旧憲法第七十五条にございましたように、摂政が置かれていたわけではないのでございますから、旧憲法第七十五条に矛盾するということは全くございません。法理論上は特に問題はないものと思っております。
それからもう一つ、旧大日本帝国憲法第七十三条には、「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ」云々とあって、この憲法全体を改正することはできないのではないかというような御議論がございましたけれども、これは一条項、つまり数個の条なり数個の項を改正することのみを言っているわけではなくて、基本的に旧大日本帝国憲法全文を改正することも、この第七十三条の規定によってできるものと私どもは考えております。
2 衆議院議員森清君提出日本国憲法制定に関する質問に対する答弁書(昭和60年9月27日付)には以下の記載があります。
① 日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続によつて有効に成立したものであつて、その間の経緯については、法理的に何ら問題はないものと考える。
② 日本国憲法は大日本帝国憲法の改正手続によつて有効に成立したものであつて、御指摘のように連合国最高司令官の権限においてその有効性が保障されているものではない。
③ 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定(山中注:「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施し得べき一切の手段を盡すべし。」と定める43条のこと。)は、本来交戦国の一方が戦闘継続中他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであつて、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される。
④ 日本国憲法が大日本帝国憲法の改正手続によつて有効に成立したものであることは、一についてにおいて述べたとおりであり、日本国憲法の前文における「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、…この憲法を確定する」との文言は、日本国憲法が正当に選挙された国民の代表者によつて構成されていた衆議院の議決を経たものであることを表したものと解される。したがつて、御指摘のような問題(山中注:明治憲法の下では,日本国民は憲法改正を確定することはできないし,貴族院は正当に選挙された国会における代表者ではないという問題)はないものと考える。
⑤ 日本国憲法が御指摘の分類(山中注:欽定憲法,民定憲法及び協約憲法の三分類)のいずれに属するかは、講学上の問題であつて、政府として断定することは、差し控えたい。
第4 関連記事その他
1 国立国会図書館デジタルアーカイブの「日本国憲法等」に,大日本帝国憲法,終戦の詔書,日本国憲法等の原本の写真データが載っています。
2(1) 昭和30年代後半までは,民間企業の多くで導入されていたのは55歳定年制でした(「国家公務員の定年引上げをめぐる議論」3頁参照)。
(2) 検察官及び国立大学の教員を除く一般職の国家公務員について60歳定年制が導入されたのは昭和60年3月31日です(「国家公務員の定年引上げをめぐる議論」4頁参照)。
3 汚れた法衣-ドキュメント司法記者47頁によれば,戦後の司法改革によって裁判所が独立した際,戦前の裁判官がまったく戦争責任を問われることなく新憲法下の裁判官になったのに対し,検事は多数追放されたとのことです。
4 以下の記事も参照してください。
・ 戦前の判事及び検事の定年
・ 幹部裁判官の定年予定日
・ 日本国憲法外で法的効力を有していたポツダム命令
・ ポツダム宣言の発表から降伏文書調印までの経緯
・ 在外財産補償問題
・ 日本の戦後処理に関する記事の一覧