第1 この記事が扱う対象
1 検討の対象と時点
本記事が扱うのは,1945年7月26日に発表されたポツダム宣言の文言が,発表に至るまでの間にどのように起草され,修正されていったかという経緯である。同年5月末の政策論議から,7月26日の発表当日までを対象とし,宣言発表後の日本側の受諾交渉から同年9月2日の降伏文書調印に至る経緯は対象としない。この受諾交渉以降の経緯は,ポツダム宣言の発表から降伏文書調印までの経緯で扱っている。また,宣言の受諾及び降伏文書調印が日本の国内法秩序にどのような効力を及ぼしたか,いわゆる「ポツダム命令」体系がどのような法的根拠を持つかという点は,本記事では立ち入らない。この点は,日本国憲法外で法的効力を有していたポツダム命令で扱っている。
なお,この条項が削除されずに残っていた場合に日本が早期に受諾していた可能性があったかという反実仮想は,ポツダム宣言に天皇条項があれば昭和20年7月26日の発表直後の早期受諾が現実的だったかで検討している。
本記事は,米国務省歴史局が公開する一次資料集Foreign Relations of the United States(以下「FRUS」という。)のうちThe Conference of Berlin(ポツダム会談)第1巻及び第2巻に収録された関係文書,並びにジョージ・ワシントン大学国家安全保障公文書館(National Security Archive)が公開する機密解除文書を,生成AIを用いて通読し,原資料の記載と照合した上で構成したものである。文中で年月日を示す場合は,特に断らない限り現地時間(ワシントン又はポツダム)による。
2 主要な登場人物と機関
起草過程に登場する主な人物及び機関は次のとおりである。①ハリー・S・トルーマン(米国大統領)②ヘンリー・L・スティムソン(陸軍長官)③ジェームズ・V・フォレスタル(海軍長官)④ジョセフ・C・グルー(国務長官代理,開戦時の駐日大使)⑤ジェームズ・F・バーンズ(1945年7月3日に国務長官へ就任)⑥コーデル・ハル(前国務長官)⑦ジョン・J・マクロイ(陸軍次官補)⑧統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff,以下「JCS」という。)⑨ウィンストン・チャーチル(英国首相,7月26日にクレメント・アトリーと交代)⑩蒋介石(中華民国政府主席)⑪パトリック・ハーレー(駐華大使)⑫ヨシフ・スターリン及びヴャチェスラフ・モロトフ(ソ連)である。
3 依拠する資料
起草過程の骨格は,FRUSに収録された当事者間の覚書及び電報の原文によって確認できる。もっとも,ヘンリー・スティムソンの日記原本(イェール大学図書館所蔵)及びジェームズ・バーンズの回顧録Speaking Frankly(1947年)は,国家安全保障公文書館の解題で紹介された引用部分の限度で確認したものであり,全文を確認したものではない。この限界がある箇所は,本文中でその都度明示する。
第2 起草の前史
1 フーヴァー元大統領の覚書とグルーの進言
ハーバート・フーヴァー元大統領は,トルーマンの要請を受けて1945年5月,対日戦の終結方法に関する覚書を作成し,無条件降伏方針の緩和を提言した。同じ5月,国務長官代理ジョセフ・グルーはトルーマンと面会し,皇室の存続方針を早期に明確化するよう進言したと伝えられている。この段階は,後述する宣言案文の起草そのものではなく,対日方針をめぐる政策論議の域にとどまる。
2 グルーによる分析覚書
グルーは1945年6月13日,国務長官代理として,フーヴァーの覚書を分析する覚書をトルーマンへ提出した。国家安全保障公文書館が公開する同覚書の解題によれば,グルーは「意図を明確化しないこと(failure on our part to clarify our intentions)」が戦争の長期化と人命の損失を招くと論じている(国家安全保障公文書館Document 23)。
第3 起草体制の成立
1 三者委員会の設置
宣言文言の起草作業は,1945年6月26日午前9時30分に開かれた,陸軍長官スティムソン,海軍長官フォレスタル及び国務長官代理グルーの3名による会合に端を発する。FRUSはこの会合を「三者委員会(Committee of Three)」の議事録として収録している。スティムソンが大統領宛て覚書の草案を示し,3名は「提案する書簡の論調はおおむね妥当(the tone of the proposed letter was about right)」との評価で一致した(FRUS 1945 Berlin I, Doc. 591)。
2 起草小委員会の構成
この会合において,実際に宣言の文言を起草する小委員会が設置された。その構成員は,海軍のM・F・コレア少佐,陸軍次官補ジョン・J・マクロイ,国務省のユージン・H・ドゥーマン(元駐日大使館参事官)及びジョセフ・W・バランタイン(国務省極東部日本課出身)の4名である(FRUS 1945 Berlin I, Doc. 591)。
3 占領政策を扱った国務・陸軍・海軍調整委員会との違い
宣言の起草過程を扱う文献では,国務・陸軍・海軍調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee,以下「SWNCC」という。)が起草の主体であったかのように紹介されることがある。しかし,前記の三者委員会の議事録にSWNCCという名称は登場しない。SWNCCが実際に扱ったのは,1945年6月11日に国務省が提出した対日占領基本政策文書(SWNCC150)であり,これは宣言発表後の同年8月11日にSWNCC150/1へ改訂されている。SWNCCが天皇による降伏文書調印を可能にする詔書案を審議したのも,同年8月12日の会合においてである。すなわち,SWNCCが果たした役割は,宣言発表後の占領統治政策及び降伏関連文書に関するものであって,7月26日に発表された宣言の文言そのものの起草を担ったのは,前記の三者委員会とその下に置かれた臨時の起草小委員会であったと見るのが,一次資料に照らして正確である。
第4 スティムソンによる第一次案文
1 1945年7月2日の覚書
スティムソンは1945年7月2日,トルーマン宛ての覚書に,13箇条から成る布告案を添えて正式に提出した。この覚書は,国家安全保障公文書館ではDocument 33として,FRUSではThe Conference of Berlin第1巻の文書592として,同一の文書が収録されている(FRUS 1945 Berlin I, Doc. 592)。
2 天皇条項の文言
この段階の案文には,天皇の地位に関する条項が明記されていた。スティムソンは覚書の中で自らの見解として「これを述べる際に,現王朝の下における立憲君主制を排除しないと付け加えれば,受諾の可能性を大きく高めるであろう(if in saying this we should add that we do not exclude a constitutional monarchy under her present dynasty, it would substantially add to the chances of acceptance)」と記し,案文自体にも「これには,そのような政府が二度と侵略の野心を抱かないと世界を完全に納得させられるのであれば,現王朝の下における立憲君主制を含み得るものとする(This may include a constitutional monarchy under the present dynasty if it be shown to the complete satisfaction of the world that such a government will never again aspire to aggression.)」という一文が置かれていた。
3 発表稿にはまだ存在しなかった要素
この時点の案文には,発表稿と異なる点が2つある。第一に,署名予定国として米国,英国及び中華民国に加えてソ連も名を連ねていた。第二に,条文末尾(後の第13項に相当する部分)には,発表稿にある「日本にとっての代案は,即時かつ完全な破壊である(The alternative for Japan is prompt and utter destruction.)」という一文が存在しなかった。この2点がどのように変化していったかは,後述する。
第5 天皇条項をめぐる攻防
1 ハルの異論(7月16日)
前国務長官コーデル・ハルは1945年7月16日,天皇条項(案文の「第12項」)について異論を伝えた。グルーがバーンズへ伝達したハルの見解は,支持者はこの条項が戦争の短縮と連合国側の人的損害の軽減に資すると考えているが,功を奏する保証はなく,軍国主義者が妨害を試みた場合,失敗すれば日本を勢いづかせ,かつ米国内で深刻な政治的反発を招きかねない,というものであった(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1237)。
2 バーンズによる削除の決定(7月17日)
国務長官バーンズは,ハルの異論を受けて翌7月17日,天皇条項の削除に同意する回答を示した。グルーはこの回答をハルへ電話で伝えている。「声明の発出は延期すべきであり,発出する場合には,あなたが指摘する約束を含むべきではないと考える(I agree that the issuance of statement should be delayed and, when made, should not contain commitment to which you refer.)」という一文が,天皇条項の削除に向けた最初の明確な決定である(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1238)。
3 統合参謀本部による代替文言の提案(7月18日)
JCSは1945年7月18日,天皇条項に代わる文言を提案した。JCSの懸念は両面にわたるものであった。天皇を崇敬する過激分子が「連合国が現天皇を排除する約束をした」と読み取る危険がある一方,日本側の強硬派が逆に「天皇の存続が保証された」と読み取る危険もあるというのである。そのうえでJCSは,占領軍は日本国民の自由な意思により平和的傾向を有する責任ある政府が樹立された時点で撤退する,という趣旨の代替文言を提案した(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1239)。この文言が,発表稿の第12項の直接の起源となった。
4 スティムソンの同意とその後の巻き返し(7月20日・24日)
スティムソンは1945年7月20日,JCSの代替案に正式に同意する一方,条文中の別の箇所にあった「無条件の降伏(unconditional capitulation)」という表現について,語義上の問題を指摘し,「抵抗をやめるまで(until she ceases to resist)」への変更を提案した。この提案自体は採用されなかったが,天皇条項の代替案には同意したことが記録されている(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1241)。もっとも,国家安全保障公文書館が紹介するスティムソンの日記によれば,同月24日,スティムソンは皇室の存続に関する文言を宣言に残すよう改めてトルーマンを説得しようと試みたが,そうした配慮は後に外交上の経路を通じて伝達し得るとして退けられたとされている。この日記原本の全文は本記事では確認できていない。天皇条項の削除は,このように7月16日から24日にかけての複数の段階を経て確定したものであり,一度の決定で完結したものではない。
第6 原爆実験と宣言の語調
1 トリニティ実験の成功と報告
米国は1945年7月16日,ニューメキシコ州で原子爆弾の実験(トリニティ実験)に成功した。その報告は速やかにポツダム会談中のスティムソンへ届いた。翌17日に打たれた暗号電報(医療用語による偽装)には,「今朝手術を行った。診断は未確定だが,結果は満足のいくもので,既に予想を上回っている(Operated on this morning. Diagnosis not yet complete but results seem satisfactory and already exceed expectations.)」との文言がある(国家安全保障公文書館Document 45)。国家安全保障公文書館が紹介するスティムソンの日記によれば,同月21日の記述として,実験の詳報に接したトルーマンについて「大統領はこれに大いに元気づけられた(The President was tremendously pepped up by it)」との記述があるとされている。
2 「即時かつ完全な破壊」という文言の挿入時期
前記のとおり,1945年7月2日時点の案文には,発表稿にある「日本にとっての代案は,即時かつ完全な破壊である」という一文が存在しない。これに対し,後述する同月24日頃の対英提示案には,発表稿と一言一句同じ文言が既に存在する(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1244)。したがって,この一文は7月2日から24日頃までの間に新たに挿入されたことになる。この期間は,トリニティ実験とその成功報告がポツダムに到達した時期を完全に含んでいる。
3 時間的な符合と因果関係の限界
もっとも,この一文がトリニティ実験の成功を受けて追加されたと明示する一次資料は見当たらない。時間的な符合は強いものの,起草者の動機を直接記録した文書までは確認できていない。手がかりとなるのは,実験の結果が判明する前の7月16日の時点で,スティムソンが既に「新たな兵器に裏打ちされた,一段と重い警告」という発想に触れていたことである(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1236)。原爆の成功が宣言の語調を強めたという理解は,広く紹介されている見方であるが,一次資料が示すのは強い時間的相関にとどまり,これを直接の因果関係として断定する記録までは確認できていない。
第7 英国の承認
1 英国代表団による文言修正の提案
英国代表団は1945年7月22日頃,米国案に対して複数の文言修正を提案した。主なものは,冒頭の呼びかけを「日本国民(Japanese people)」から「日本(Japan)」へ改めること,占領地域に関する表現を「日本の領土は占領される」から「連合国が指定する日本領域内の地点」へ改めること等である(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1245)。
2 チャーチルの決裁(7月25日)
英国首相チャーチル(当時なお現職)は1945年7月25日付けの書簡で,「現在の形で(in its current form)」英国政府代表として署名することに同意し,早期の発表を求めた。この書簡で示された修正提案は,条文中の「それら」が「産業」を指すことを明確にする字句上のものにとどまる(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1249)。
3 アトリーの不関与
英国では1945年7月26日に総選挙の結果が判明し,クレメント・アトリーがチャーチルに代わって首相へ就任した。アトリーがポツダム会談へ復帰したのは,宣言発表から2日後の7月28日である。したがって,7月26日に発表された宣言に付された英国側の承認は,一貫してチャーチル個人によるものであり,アトリー政権はこの承認過程に関与していない。なお,英国外相アンソニー・イーデン個人の発言や署名を記録した一次資料は,本記事の調査範囲では見当たらなかった。
第8 中国の同意
1 ハーレーへの訓令
トルーマンは1945年7月24日,駐華大使パトリック・ハーレーに対し,蒋介石へ布告案を伝え,遅滞なく同意を得るよう指示した。この時点の冒頭文言は,中華民国をいまだ対等な共同発表国として明記していなかった(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1246)。
2 伝達の難航と24時間の期限
蒋介石本人が重慶を離れていたため,ハーレーは翌25日午後9時30分(重慶時間),行政院長宋子文に文書を手交した。ホワイトハウスからは,24時間以内に回答がなければ大統領及び首相の名で布告を発表するとの期限が通告されている(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1247,同Doc. 1250)。
3 蒋介石の同意と修正要求
蒋介石は1945年7月26日午前9時30分(重慶時間),重慶郊外の官邸で布告案を承認した。蒋介石が求めた修正は,米国,中華民国及び英国の3か国首脳を対等な形で署名者として表記することのみであった(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1251,同Doc. 1252)。ハーレーは,蒋介石が示したこれ以外の2つの要望,すなわち肩書の表記順序に関する希望と,将来のアジア関係国際会議への中国代表参加を求める希望については,あえて米国側へ伝達しなかったことを自ら報告している。中国の同意は,宣言発表の当日,発表の直前に得られたものであるが,24時間という短い期限のもとで,蒋介石本人が不在のまま代理者を通じて確認されたものであった。
第9 ソ連の除外
1 起草協議からの除外
前記の対英提示案(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1244)及び対中国訓令(同Doc. 1246)には,いずれも「ソ連代表団には伝達されなかった(not communicated to the Soviet Delegation)」との注記がある。起草段階を通じて,ソ連は一貫して協議の外に置かれていた。
2 日ソ中立条約との関係
ソ連は1945年4月5日,日ソ中立条約(1941年締結)を翌年の満了後は延長しない旨を通告した。この通告に際してモロトフ自身が,条約が1946年4月まで効力を存続することを佐藤尚武駐ソ大使に確認している。すなわち,宣言発表の時点(1945年7月26日)においても,日ソ中立条約は法形式上なお効力を有していた。
3 モロトフへの事後通知
バーンズは1945年7月26日,米国,中華民国及び英国3か国による対日宣言の写しをモロトフへ送付し,「翌朝の報道発表に付されている(has been given to the press for release and publication tomorrow morning)」と伝えた(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1253)。これは同意や署名を求めるものではなく,発表の直前に行われた儀礼的な事後通知としての性格が強い。
第10 発表された宣言とその形成過程の全体像
1 全13箇条の骨子
1945年7月26日に発表された宣言は,米国,中華民国及び英国3か国の名において,全13箇条から成る(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1382)。同一の内容は,国立国会図書館の電子展示「日本国憲法の誕生」にも英文で収録されている。骨子は,連合国が日本に無条件降伏の機会を与えること(第1項から第5項),軍国主義的権力の永久的除去,占領及び日本の主権の範囲をカイロ宣言に従って画定すること(第6項から第8項),日本国軍隊の武装解除後の家庭復帰(第9項),戦争犯罪人の処罰と基本的人権の尊重の確立(第10項),経済の維持に必要な産業の保持(第11項),日本国民の自由な意思による責任ある政府の樹立を待って占領軍が撤収すること(第12項),そして日本政府に対する無条件降伏の要求と「日本にとっての代案は,即時かつ完全な破壊である」という結語(第13項)である。
2 署名の形式
宣言にはトルーマンが自ら署名し,英国分はチャーチルの委任に基づきトルーマンが代署し,中華民国分も電報に基づきトルーマンが記入した。発表稿の脚注によれば,トルーマンは署名済みの文書に自筆で訂正を加え,国名の表示順序を改めるとともに,当初の「蒋介石総統(Generalissimo Chiang Kai-shek)」という表記を「中華民国国民政府主席(President of the National Government of the Republic of China)」へ差し替えている。
3 初期案から発表稿までの主な変更点
7月2日時点の初期案と7月26日の発表稿とを比較すると,次の表のとおり整理できる。
| 相違点 | 初期案(7月2日) | 発表稿(7月26日) | 変更の経緯 |
|---|---|---|---|
| 署名予定国 | 米国,英国,ソ連,中華民国の4か国 | 米国,英国,中華民国の3か国 | 対日不参戦のソ連は起草協議自体から除外された |
| 天皇条項 | 現王朝の下での立憲君主制を明記 | 条項自体を削除し,平和的傾向を有する責任ある政府の樹立を待つ趣旨の文言へ置換 | 7月16日から24日にかけての複数段階の経過を経て確定 |
| 第13項末尾 | 脅しの文言なし | 「日本にとっての代案は,即時かつ完全な破壊である」を追加 | 7月2日から24日頃までの間に挿入。トリニティ実験の時期と重なるが,直接の因果関係を示す一次資料は確認できていない |
| 呼びかけの対象 | 「日本国民」及び「当局者」が中心 | 「日本国政府」が中心 | 英国代表団の提案(7月22日頃)を反映したとみられるが,反映の正確な時点は特定できていない |
第11 なお解明されていない点
本記事で辿った起草過程には,一次資料によってもなお解明されていない点がいくつか残る。第一に,「即時かつ完全な破壊」という一文を実際に起草し,挿入した人物と正確な日付である。第二に,対英提示案(FRUS 1945 Berlin II, Doc. 1244)と英国代表団による修正提案(同Doc. 1245)の厳密な先後関係である。FRUS自体がDoc. 1244を日付不詳として扱っており,この点は確定できていない。第三に,英国外相イーデン個人が起草過程でどのような役割を果たしたかである。第四に,スティムソンの日記及びバーンズの回顧録の全文であり,本記事はいずれも国家安全保障公文書館の解題で紹介された引用部分の限度でしか確認できていない。
日本語文献のうち,加藤聖文『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』(中央公論新社,2009年)19頁から24頁は,起草過程の骨格を本記事と同様に描いたうえで,中華民国の同意取得過程について,実質的な協議を経ない無線による一方的な確認にとどまり,署名欄も正式な国名や氏名ではなく「中国総統,電信による」とされたと指摘し,この点を批判的に評価している。この評価そのものは同書の見方であるが,24時間という期限のもとで蒋介石本人が不在のまま代理者を通じて確認が行われたという経過自体は,前記のFRUS収録文書の記載と符合している。
第12 出典・参考資料
1 一次資料(米国務省歴史局)
①Foreign Relations of the United States, 1945, The Conference of Berlin, Vol. I, Doc. 591(Minutes of a Meeting of the Committee of Three,1945年6月26日)
②同Vol. I, Doc. 592(The Secretary of War to the President,1945年7月2日)
③同Vol. II, Doc. 1236(1945年7月16日)
④同Vol. II, Doc. 1237(1945年7月16日)
⑤同Vol. II, Doc. 1238(1945年7月17日)
⑥同Vol. II, Doc. 1239(1945年7月18日)
⑦同Vol. II, Doc. 1241(1945年7月20日)
⑧同Vol. II, Doc. 1244(Draft Proclamation by the Heads of Governments,日付不詳)
⑨同Vol. II, Doc. 1245(Proposal by the British Delegation)
⑩同Vol. II, Doc. 1246(1945年7月24日)
⑪同Vol. II, Doc. 1247(1945年7月25日)
⑫同Vol. II, Doc. 1249(Prime Minister Churchill to President Truman,1945年7月25日)
⑬同Vol. II, Doc. 1251(1945年7月26日)
⑭同Vol. II, Doc. 1253(The Secretary of State to the Soviet Foreign Commissar,1945年7月26日)
⑮同Vol. II, Doc. 1382(Proclamation by the Heads of Governments, United States, China and the United Kingdom,1945年7月26日)
⑯米国務省歴史局「Potsdam Conference」概説ページ
2 一次資料(機密解除文書アーカイブ)
①ジョージ・ワシントン大学国家安全保障公文書館 Document 23(グルーからトルーマンへの覚書,1945年6月13日)
②同 Document 45(トリニティ実験成功の暗号電報,1945年7月17日)
③同 Document 48(スティムソン日記の解題及び抜粋,1945年7月16日から25日分)
3 公的資料
①国立国会図書館「日本国憲法の誕生」電子展示 ポツダム宣言(英文)
②Department of State Bulletin, Vol. XIII, No. 318(1945年7月29日)(ibiblio.org所収)
4 文献
①加藤聖文『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』(中央公論新社,2009年)19頁~24頁
②千々和泰明「ポツダム宣言は米国の核使用を正当化する口実だったのか――天皇制存置条項削除の意味」WEB歴史街道(PHP研究所,2025年9月4日)