第1 「契約書の取扱説明書」を作る目的
1 締結済み契約を現場の行動へ変換する
契約書を締結して保管しただけでは,検収,請求,支払,更新,解約通知,秘密情報の返還・削除等が自動的に履行されるわけではない。法務担当者が条項を理解していても,実際に行動する事業部門へ期限と担当が渡らなければ,権利行使や義務履行を見落とすおそれがある。
そこで,締結済み契約のうち日常の履行に必要な事項を一枚程度に整理した「契約書の取扱説明書」を,締結版の契約書と一緒に管理する方法が考えられる。これは,契約の目的,現場のTODO,禁止事項,相談先等をAIで抽出する実務案として法務AI研究所の記事でも紹介されている。
2 取扱説明書は契約書の代わりではない
取扱説明書は,締結済み契約から作る社内用の運用資料であり,契約書そのものではない。取扱説明書と締結済み契約が食い違う場合は締結済み契約に戻り,適用法令,変更契約,個別注文書,仕様書等との関係も確認する。
また,契約違反の効果は,契約条項だけでなく,債務不履行による損害賠償,催告解除・無催告解除等を定める民法その他の法令にも左右される。取扱説明書を作ること自体を一般的に義務付ける法令があるという趣旨ではなく,期限と証拠を管理するための実務上の工夫である。
第2 取扱説明書に入れる基本項目
1 対象となる契約と版
冒頭には,契約名,相手方,契約番号,締結日,契約期間,自動更新の有無,締結済み原本の保存先及び対象となる版を記載する。ドラフト,締結版,変更契約及び個別注文書を混同しないようにし,原本へのリンクは閲覧権限を確認した上で付ける。
電子契約の場合は,契約書PDFだけでなく,署名・締結の完了を示す記録,サービスから取得した検証情報及び保存先を対応させる。詳しくは,電子契約を証拠として残すときの保存方法で扱っている。
2 TODOと禁止事項
TODOは,「納品物を検査する」,「請求書を発行する」のように行動として書く。禁止事項は,「事前承諾なく再委託しない」,「契約目的外に秘密情報を利用しない」のように,何をしてはならないかが分かる形にする。
単に条項を短く要約するだけでは足りない。どの出来事が起きたら,誰が,いつまでに,何を確認して行動するかへ分解する必要がある。条番号又は原文の該当箇所を付け,取扱説明書から締結済み契約へ戻れるようにする。
3 担当者,承認者及び相談先
各項目には,実行担当者,承認者,担当者不在時の代替担当及び法務部門等への相談先を記載する。人名だけでなく部署又は役割も併記し,異動や退職があっても担当が空白にならないようにする。
損害賠償請求,契約違反の通知,解除,権利放棄,例外承認等は,通常の担当者だけで決めず,社内規程に従って決裁権限を確認する。相手方との紛争が顕在化したときは,AIや取扱説明書だけで結論を出さず,法務部門又は弁護士へ戻す。
4 起算点,契約上の期限及び社内アラート
期限は,日付だけでなく起算点を記載する。「納品後10営業日以内」,「契約期間満了日の3か月前まで」のように原文の条件を残し,実際の日付は起算事実が確定した後に計算する。
契約上の最終期限と社内アラート日は分ける。例えば,解約通知の最終期限が満了日の3か月前であれば,社内確認をそのさらに1か月前に設定する方法がある。自動更新,異議通知,契約不適合の通知,保証期間等は,期限を徒過した場合の影響が大きいので,担当者一人のカレンダーだけに依存しない。
5 履行証拠と完了条件
各TODOには,完了したと判断する条件と,残す資料を対応させる。検収であれば検収記録,請求であれば請求書と送付記録,通知であれば通知書と送達・受領の記録,秘密情報の返還・削除であれば対象範囲,実施日及び確認者の記録が考えられる。
状態は「未着手」,「対応中」,「完了」だけでなく,「相手方回答待ち」,「資料不足」,「例外承認待ち」等も分ける。資料不足を完了扱いにせず,後から誰が何を根拠に完了と判断したかをたどれるようにする。
第3 契約の場面ごとに確認する事項
1 開始・発注・納品・検収・支払
契約開始時には,業務範囲,発注方法,仕様書の優先順位,再委託の条件,必要な保険等を確認する。納品時には,納品方法,検査期間,不合格時の通知方法,修補・代替品・代金減額等の手続を整理する。請求・支払では,請求書の宛先,締日,支払日,費用負担,消費税,振込手数料等を確認する。
取扱説明書に一般論だけを書かず,当該契約で採用された条項と,実際の社内手続を対応させる。契約書審査から締結までの確認は,契約書審査の進め方とチェックポイントで説明している。
2 更新・解約・終了後の義務
契約期間,自動更新の条件,更新拒絶・解約通知の期限,通知方法及び通知先を一組で記載する。電子メールだけで足りるか,書面の送付が必要か,契約に指定された宛先があるかも確認する。
終了後には,秘密保持義務の存続期間,資料・データの返還又は削除,貸与物の返却,アカウント停止,未払金の精算,成果物・知的財産の取扱い等が残ることがある。終了日だけを登録せず,終了後のTODOが完了するまで案件を閉じない。
3 事故・苦情・監査・契約違反
情報漏えい,納期遅延,品質事故,第三者からの請求等が起きた場合の報告期限,報告先,協力義務及び通知内容を整理する。監査対応では,監査の事前通知,対象範囲,頻度,費用負担及び秘密情報の取扱いを確認する。
事故や契約違反が起きた後は,通常の履行管理とは別に,証拠保全,事実確認,社内報告及び法的判断が必要になる。取扱説明書には緊急連絡先を置くが,紛争対応の判断そのものを定型化し過ぎない。
第4 生成AIで作る場合の確認手順
1 AIには候補を抽出させる
生成AIには,条番号を示して,契約の目的,TODO,禁止事項,起算点,期限,担当候補,必要な証拠及び相談条件を抽出させる。回答には該当条項の引用又は参照位置を付けさせ,人が締結済み原本と照合する。
AIが日付を計算した場合も,営業日の定義,休日,期間計算,起算日算入の有無及び通知到達の条件を人が確認する。原文から確定できない事項は推測で埋めず,「未確認」として担当者へ戻す。
2 入力前に秘密情報等の取扱いを確認する
契約書には,個人データ,自社の営業秘密及び取引先から受領した秘密情報が含まれ得る。AIサービスへ入力する前に,利用プラン,入力データの学習利用,提供事業者による取扱い,保存期間,削除方法及び国外移転の有無を確認する。
契約上の秘密保持条項が第三者への提供や目的外利用を制限している場合は,AIサービスへの入力が許されるかを先に検討する。承認されていない個人向けサービスへ契約書を貼り付けない。
3 人の確認と利用記録を残す
最終版には,作成日,使用したAI又は作成方法,確認者,確認日及び対象契約の版を記録する。AIの出力を採用しなかった項目や,人が補った条件も,重要なものは理由を残す。
取扱説明書の確認は,①原文と条番号が一致するか,②TODOと禁止事項を取り違えていないか,③期限の起算点を落としていないか,④例外・但書・優先順位を落としていないか,⑤完了証拠と相談先があるか,という順で行うとよい。
第5 変更契約・個別注文・例外処理
1 後から増えた文書を反映する
基本契約だけでなく,個別契約,注文書,仕様書,覚書,変更合意等によって実際の義務が変わる場合がある。どの文書がどの事項について優先するかを確認し,取扱説明書には適用文書と版を記載する。
変更契約を締結したときは,旧い取扱説明書を上書きして履歴を失うのではなく,新版を作り,適用開始日と変更点を残す。旧版は証拠・履歴として保存するが,現行の履行指示として誤って使われない状態にする。
2 例外と口頭合意を放置しない
現場で契約と異なる運用をする場合は,誰が何を承認したか,相手方との合意が必要か,いつまでの例外かを記録する。電子メールや会議で変更が話題になっただけなのか,契約変更として合意されたのかを区別する。
例外が反復する場合は,取扱説明書だけを直して契約書との不一致を固定化せず,契約変更又は業務手順の見直しを検討する。
第6 作成から運用までの流れ
1 作成時
①締結済み原本と関連文書を確定する。
②条項からTODO,禁止事項,起算点,期限及び相談条件を抽出する。
③担当者,承認者,代替担当及び完了証拠を割り当てる。
④担当部門と法務部門が原文に照らして確認する。
⑤締結済み原本と一緒に,権限を限定して保存する。
2 運用時
①起算事実が発生したら実際の日付を登録する。
②社内アラートで期限前に担当者と承認者へ通知する。
③実行後は履行証拠と確認者を記録する。
④事故,資料不足又は例外は「完了」にせず相談先へ回す。
⑤更新,変更,担当者異動又は法令・業務変更の際に見直す。
第7 導入前の最終チェックリスト
1 記載内容
①対象契約,相手方,締結日,契約期間及び版が明らかか。
②締結済み原本と関連文書へのリンクがあるか。
③TODOと禁止事項が行動の形で書かれているか。
④条番号,起算点,契約上の期限及び社内アラート日を区別したか。
⑤担当者,承認者,代替担当及び相談先を定めたか。
⑥完了条件と履行証拠を定めたか。
2 運用と証拠
①変更契約,注文書及び仕様書の優先順位を確認したか。
②異動・退職時に担当を引き継ぐ仕組みがあるか。
③例外承認と口頭合意を区別して記録するか。
④AIを使った場合に原文照合者と確認日を残すか。
⑤秘密情報等を入力できるサービス・プランか確認したか。
⑥事故・紛争時に人の判断へ戻す条件があるか。
第8 根拠資料と本記事の位置付け
1 一次資料
債務不履行による損害賠償,解除,売買の契約不適合等の一般的な法的効果は,民法(e-Gov法令検索)を確認した。個別契約では,契約条項,適用される特別法及び具体的事実を別途確認する必要がある。
2 二次資料と確認できていない事項
法務AI研究所の記事は,AIを利用して契約の要約,TODO,禁止事項及び相談先を一枚程度に整理するという着眼点を得るために参照した二次資料である。同記事は法令,裁判例又は公的ガイドラインではなく,本記事の具体的な管理項目と確認手順は,当該着眼点を契約実務へ落とし込んだ運用案である。
本記事のために判例秘書の検索は実施しておらず,「契約書の取扱説明書」の作成を義務付け,又はその法的効果を直接判断した裁判例の有無を確認したものではない。個別案件で裁判例を根拠にする場合は,争点と法的構成を特定し,検索語,検索範囲,結果件数及び判決本文の確認状況を分けて記録する必要がある。