第1 この記事の対象と結論
1 対象と資料
本記事は,弁護士が病気,けが又はメンタル不調によって,受任事件の処理,依頼者への連絡,預り金の管理その他の執務を続けることが難しくなった場合の業務継続対応を扱う。
法的な義務については,日弁連の弁護士職務基本規程及び預り金等の取扱いに関する規程を確認した。具体例については,大阪弁護士会が業務停止3月とした処分を,日弁連が令和8年7月14日の裁決により業務停止1月へ変更した公表裁決を用いる。
同裁決は一つの懲戒事案に関する判断であり,病気時の業務継続手順を一般的に定めたものではない。本記事のうち,「しなければならない」とする部分は会規等に根拠がある事項であり,24時間・3日・7日の対応順序,協力弁護士への連絡方法及び業務継続セットは,これらの義務を履行できなくなる事態を避けるための実務上の推奨策である。
2 結論
結論は次の6点である。
①病気やメンタル不調があっても,事件を遅滞なく処理し,依頼者へ報告し,預り金を記録・清算・返還する義務が当然に消えるわけではない。
②もっとも,公表裁決では,精神的不調に至った経緯,預り金を費消せず保管していたこと,審査請求後に協力弁護士が返還を完了したことが,処分を軽くする方向で考慮された。
③他方で,約4年7か月にわたる長期保管,その間に返還の能力や機会が全くなかったとは認められないこと,本人ではなく協力弁護士が返還したことも考慮され,業務停止1月は残った。
④執務不能の兆候が出たときは,診断名の確定を待たず,期限・期日・身体拘束事件・預り金・連絡不能の危険から順に事務所の対応を始める。
⑤協力弁護士がいるだけでは,受任事件の代理権や預り金を動かす権限が当然に生じるわけではない。依頼者の意思,利益相反,守秘義務,委任状,復代理及び裁判所への届出等を事件ごとに確認する。
⑥病気になってから一から引継資料を作るのでは遅い。平常時から,期限一覧,事件別預り金台帳,連絡先,権限の境界及び緊急時の手順を更新しておく必要がある。
第2 病気になっても残る職務上の義務
1 事件の遅滞防止と依頼者への報告
弁護士職務基本規程35条は,事件を受任したときは速やかに着手し,遅滞なく処理することを定める。同規程36条は,事件の経過及び事件の帰すうに影響を及ぼす事項について,適宜,依頼者に報告することを定める。
したがって,体調不良のため予定していた申立て,提訴,照会,交渉又は依頼者への回答ができなくなったときは,体調の回復だけを待つのでは足りない。期限への影響を調べ,必要に応じて依頼者へ状況を説明し,代替措置,辞任又は引継ぎを検討する必要がある。
2 預り金の分別管理,記録,報告及び返還
弁護士職務基本規程38条は,事件に関して預かった金員を自己の金員と区別し,預り金であることを明確にする方法で保管し,その状況を記録することを定める。同規程45条は,委任の終了に当たり,委任契約に従って金銭を清算し,預り金及び預り品を遅滞なく返還することを定める。
預り金等の取扱いに関する規程は,保管目的以外の使用の禁止,預り金口座,入出金の記録,依頼者への収支報告及び弁護士会の照会への回答等を定める。体調不良は,帳簿と銀行残高の不一致や,返還・報告の先送りを放置してよい理由にはならない。
3 病気は免責事由ではないが,処分の重さには影響し得ること
公表裁決は,精神的不調に陥って預り金の返還手続及び所属弁護士会の懲戒手続への対応を続けられなかったとの主張に沿う証拠が提出されたことを,処分を軽くする方向で考慮した。しかし,職務基本規程45条の趣旨に違反するとの判断自体は維持した。
したがって,病気又はメンタル不調については,①義務違反の有無,②責任の程度,③処分の重さ,④今後の再発防止を分けて検討する必要がある。「病気だから違反にならない」とも,「病気は一切考慮されない」ともいえない。
第3 業務継続対応を始める基準
1 診断名ではなく業務への影響で判断する
業務継続対応を始める基準は,診断書の有無ではなく,受任事件を安全に処理できるかである。例えば,期限を思い出せない,同じ連絡を何度も先送りする,郵便物を開封できない,記録を読むと強い不安で動けない,入出金の説明ができない状態が続くときは,病名が確定していなくても対応を始めるべきである。
2 即日対応が必要な兆候
次のいずれかがある場合は,即日の確認対象とするのが安全である。
①当日又は数日内の法定期限,出訴期間,不服申立期間,期日又は身体拘束事件がある。
②依頼者,裁判所,相手方又は弁護士会からの重要な連絡に応答できていない。
③預り金口座からの出金予定があるが,使途,承認又は証憑を確認できない。
④事件一覧,期限一覧又は預り金残高を本人以外が把握できない。
⑤本人が安全な判断を続けられない,又は連絡不能になるおそれがある。
3 本人だけで判断しない仕組み
体調不良の本人が,自分の執務能力の低下を正確に評価し,全事件の対応を一人で組み立てることは難しい。平常時に,業務継続対応を始める客観的な条件と,最初に連絡する弁護士又は事務所内責任者を決めておく。
もっとも,連絡先として指定された者に,事件記録の閲覧,依頼者への連絡,預り金の払戻し等の権限が当然に付与されるわけではない。緊急連絡の役割と,個々の事件を処理する権限を区別する必要がある。
第4 最初の24時間,3日及び7日で行うこと
1 最初の24時間
最初の24時間は,損失を広げないことを優先する。
①全受任事件から,7日以内の期限・期日,身体拘束事件,保全・執行及び時効完成のおそれがある事件を抽出する。
②確認できない預り金の出金,送金及び相殺を一時停止する。
③受信した裁判所・依頼者・相手方・弁護士会の連絡を一覧化する。
④本人の体調と意思を確認できる範囲で,事務所内責任者又は協力弁護士へ連絡する。
⑤必要な医療・安全確保を業務対応より優先する。
2 3日以内
3日以内には,事件ごとに,継続,期限だけの緊急対応,補助・共同受任,復代理,辞任又は引継ぎのどれを採るかを仮決定する。依頼者への連絡が必要な事件では,診断名の詳細ではなく,現在の処理状況,期限への影響,代替対応及び次回連絡日を伝える。
預り金については,銀行残高と事件別台帳を照合し,未記帳の入出金,未返還額,未精算の実費及び報酬控除の根拠を確認する。不一致があれば,出金を再開する前に原因と対象事件を確定する。
3 7日以内
7日以内には,継続できない事件の辞任・引継ぎ,依頼者からの新しい委任状等の取得,裁判所等への必要な届出,記録の交付,着手金・実費・預り金の清算予定を具体化する。
7日という期間は会規上の一律の期限ではない。法定期限や身体拘束事件は直ちに対応すべきであり,他方で,依頼者の選択や利益相反の確認に時間が必要な事件もある。事件の危険に応じて前倒しするための実務上の目安である。
第5 受任事件,依頼者連絡及び辞任・引継ぎ
1 事件一覧は期限から並べる
事件一覧は,顧客名順ではなく,期限・期日が近い順でも表示できるようにする。最低限,事件名,依頼者,裁判所・事件番号,相手方,次の期限,次の作業,直近の依頼者報告日,預り金残高,原本の保管場所及び担当者を記録する。
2 依頼者には診断名よりも業務上の事実を伝える
依頼者への説明で重要なのは,詳細な診断名を開示することではなく,事件処理にどのような影響があり,誰がいつまでに何をするかを伝えることである。本人の医療情報は必要最小限にとどめ,連絡不能や処理遅延を隠すために虚偽の進捗を説明してはならない。
3 協力弁護士は当然には代理権を持たない
協力弁護士に事件を引き継ぐ場合は,依頼者の意思確認,利益相反の調査,守秘義務との関係,委任契約・委任状,報酬及び責任の分担を確認する。訴訟事件では,代理人の辞任,復代理人の選任又は新しい代理人の選任について,民事訴訟法その他の手続法及び裁判所への届出も確認する。
事務職員は,連絡先の整理,郵便物の仕分け,帳簿資料の準備等を補助できるが,法律判断,依頼者への重要な説明,事件方針の決定又は弁護士名義の送金を独断で行う立場にはない。
4 辞任・引継ぎで残す記録
引継ぎでは,①依頼者が選択した弁護士,②引き継いだ記録と原本,③期限・期日,④未了の作業,⑤相手方との合意又は交渉状況,⑥預り金・実費・報酬の計算,⑦依頼者への説明内容,⑧裁判所等への届出を一覧化し,交付日と受領者を記録する。
第6 預り金の停止,照合,報告及び返還
1 新たな出金を止める
本人が入出金の目的を説明できない状態では,期限対応に必要な場合等を除き,新たな出金を止める。振込予約,自動送金,事務職員が保有する認証手段及び報酬口座への定期振替も確認する。
2 事件別残高と銀行残高を照合する
預り金口座の総残高だけでは,誰のためにいくら保管しているか分からない。銀行明細と事件別台帳を突合し,各入金の目的,各出金の使途,証憑,未返還額及び差額を記録する。照合できない金額は,推測で他の事件へ割り当てない。
3 正当な支出があっても報告・清算・返還は別に必要である
公表裁決の事案では,元成年後見人であった弁護士が,本人死亡日に本人名義の貯金から300万円の払戻しを受け,葬儀費用等を支払った。しかし,その後,長期間にわたり,相続人へ使途等を説明せず,正当な費用を差し引いた残金を引き渡さなかったことが,職務基本規程45条の趣旨に違反すると判断された。
支出自体に根拠があっても,①根拠と証憑,②支出額,③残額,④返還先,⑤返還日を説明し,清算・返還する必要は別に残る。成年後見の死後事務として払戻し又は支出が許されるかという問題と,弁護士として預り金を報告・清算・返還する義務は混同しない。
4 職員任せにしない
事務職員や協力者が実作業を行う場合も,誰が弁護士として残高,返還先,控除根拠及び説明内容を確認するかを決める。本人が確認できないときは,権限を有する別の弁護士による確認又は所属弁護士会への相談を検討する。
第7 公表裁決から分かること
1 所属弁護士会の処分と日弁連による変更
大阪弁護士会は令和7年7月13日,前記の元成年後見人であった弁護士を業務停止3月とした。審査請求を受けた日弁連は,令和8年7月14日の裁決により,職務基本規程45条の趣旨に違反するとの判断を維持しつつ,処分を業務停止1月へ変更した。裁決が効力を生じた日は同月17日である。
2 軽減方向に考慮された事情
公表裁決が軽減方向に考慮した主な事情は,次のとおりである。
①審査請求で,精神的不調に陥り,預り金返還手続及び懲戒手続への対応を継続できなかったとの主張に沿う証拠が提出されたこと
②預り金を封筒で保管し,自ら費消しなかったこと
③審査請求書の提出後,協力弁護士によって相続人への返還が完了したこと
④精神的不調に至った経緯について一定の酌むべき事情があるとされたこと
3 それでも業務停止1月とされた理由
他方で,公表裁決は,①預り金を約4年7か月にわたり保持したこと,②その間,返還する能力や機会が全くなかったとは認められないこと,③返還をしたのは本人ではなく協力弁護士であったことを考慮し,業務停止1月が相当とした。
この判断からは,病状の資料と事後の返還は重要である一方,長期化させず,早い段階で他者が介入できる仕組みを作っていたかが決定的に重要であることが分かる。
4 処分量定の機械的な相場にはできない
この裁決だけから,「精神的不調があれば3月が1月になる」,「費消しなければ業務停止1月である」といった量定基準を作ることはできない。処分は,違反の内容,金額,期間,依頼者等への影響,説明・返還の状況,病状との因果関係,客観資料及び再発防止等を総合して判断される。
第8 平常時に作っておく業務継続セット
実務上は,次の資料を平常時から更新しておく。
①全受任事件の期限・期日・次の作業・最終報告日を一覧化した台帳
②事件別預り金台帳,銀行口座との照合記録及び未返還額一覧
③記録原本,電子データ,印鑑,認証手段及び鍵の保管場所
④緊急連絡先となる弁護士・事務所内責任者・家族等の役割表
⑤依頼者へ連絡する前に確認する守秘義務・利益相反・権限の手順
⑥本人が連絡不能の場合に,誰が郵便物・期限・入出金を確認するかを定めた手順
⑦辞任・引継ぎ・記録交付・預り金清算のチェックリスト
⑧所属弁護士会,裁判所その他の関係機関の連絡先
パスワードを平文で一覧にし,共有フォルダへ無制限に置くことは避ける。業務継続のためのアクセス可能性と,依頼者情報・認証情報の安全を両立させる必要がある。
第9 一人事務所と複数弁護士事務所の違い
一人事務所では,弁護士本人が連絡不能になると,事務職員がいても法的判断と対外的な代理行為を行える者がいなくなる。このため,平常時の協力弁護士との連絡体制,事件台帳の所在及び所属弁護士会への相談経路が特に重要である。
複数弁護士事務所では,別の弁護士がいることだけで安全とはいえない。個人受任か法人受任か,共同受任か,担当外の弁護士が記録へアクセスできるか,利益相反がないか,預り金口座の権限者は誰かをあらかじめ確認する必要がある。
第10 関連する場面との区別
病気時の業務継続は,次の場面と関係するが,同一ではない。
①業務停止処分を受けた場合は,病気による自主的な業務縮小と異なり,処分の効力により弁護士業務が停止される。
②死亡した成年被後見人の死後事務は,民法873条の2,応急処分又は事務管理等の権限の問題であり,預り金の報告・清算・返還とは別に確認する。
③弁護士が受任事件を途中で辞任する場合は,依頼者への不利益を避ける時期・方法,記録の返還及び金銭の清算を確認する。
④法律事務所の退所・分裂では,事件,職員,記録,利益相反,預り金及び名義の整理が問題となる。
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第12 出典及び資料の限界
①弁護士職務基本規程(平成16年会規第70号,令和3年6月11日改正)
②預り金等の取扱いに関する規程(平成25年会規第97号)
③弁護士法(e-Gov法令検索)
④大阪弁護士会2025年7月16日告示(業務停止3月)
⑤『自由と正義』2026年9月号69頁~70頁(日弁連2026年7月14日裁決,業務停止1月への変更)
公表された告示及び裁決は,懲戒記録全体ではなく,理由の要旨を示すものである。本記事は公表資料の記載の範囲に限って事案を紹介しており,診断内容,非公表の証拠,具体的な治療経過その他の事情を推測しない。また,判例秘書による同種裁判例の網羅検索は行っていない。