第1 対象と結論
1 本記事が扱う裁判例
本記事は,弁護士費用保険及び自動車保険の弁護士費用特約について,保険金請求の成否を左右した主要裁判例を論点別に整理するものである。
調査の基準日は令和8年9月7日であり,日本弁護士連合会第24回弁護士業務改革シンポジウム第4分科会報告書の資料5「弁護士費用保険と弁護士選任権―現状の課題と展望」に収録された別表を調査の入口とした。
同別表は,令和8年8月現在の裁判例26件を掲げるが,別表自体は判決全文ではない。
本記事では,そのうち令和8年9月6日までに判例秘書で判決全文を確認した6件を中心とし,東京地裁平成28年10月27日判決の控訴審及び上告経過は公開された判例研究で補った。
残る20件は判決全文の確認が完了していないため,本記事は裁判例の網羅記事ではない。
また,資料5は分科会報告書に収録された山下典孝氏の報告資料であり,その裁判例一覧を日弁連全体の公式な法解釈として扱うものではない。
2 結論の要旨
確認した裁判例からは,弁護士費用保険金の請求では,少なくとも,①事故又は法律問題が補償対象に入るか,②保険者の同意又は承認を得たか,③被保険者が費用を現実に負担したか,④返金後にも最終的な費用負担が残るか,⑤保険金請求権を誰が行使するか,⑥費用が保険期間内に発生したかを分けて検討する必要があるといえる。
ただし,各判決は特定の約款文言と事実関係を前提としており,「弁護士費用特約なら常に同じ結論になる」という一般法理を示したものではない。
第2 確認した裁判例の一覧
1 論点別の対応
| 主な論点 | 裁判例 | 本記事で確認した結論 |
|---|---|---|
| 保険者の同意,現実の支出及びLAC基準 | 東京地裁平成28年10月27日判決・平成28年(ワ)第10728号,東京高裁平成29年4月27日判決・平成28年(ネ)第5242号 | 当該約款では同意と現実の支出が請求権発生の要件であり,LAC基準は弁護士報酬そのものではなく保険金支払の基準であるとされた。 |
| 同意拒絶が裁量権の逸脱又は濫用となる余地 | 福岡高裁令和元年11月27日判決・令和元年(ネ)第462号 | 例外の余地を認めたが,当該事案では不同意を不合理とはしなかった。 |
| 通勤災害に関する免責 | 大阪地裁令和元年5月23日判決・平成30年(ワ)第7687号 | 当該免責条項の「労働災害」には通勤災害も含まれるとされた。 |
| 弁護士費用の全額返金 | 東京地裁令和4年8月9日判決・令和4年(レ)第198号 | 支払額と同額の返金を受け,最終的な費用負担が残らない部分について保険金請求を否定した。 |
| 弁護士による債権者代位 | 東京地裁令和5年2月8日判決・令和4年(ワ)第15286号 | 依頼者の無資力の主張立証がなく,債権者代位による訴えは不適法とされた。 |
| 問題事象の発生及び費用発生時期 | 東京地裁令和5年7月19日判決・令和4年(ワ)第29168号 | 事情聴取・弁明の段階では約款上の問題事象等に直面したといえず,契約失効後に負担した費用も対象外とされた。 |
2 一覧を読む際の留意点
裁判所ウェブサイトの裁判例検索は,すべての裁判例を掲載しているわけではない旨を明記している。
本記事で扱う各判決は裁判所ウェブサイト未掲載であるが,未掲載であることは判決の不存在を意味しないため,出典欄には裁判所名,裁判年月日,事件番号,掲載誌又は判例秘書文献番号を示した。
第3 保険者の同意・現実の支出・LAC基準
1 東京地裁平成28年10月27日判決とその控訴審
(1) 同意と現実の支出
この事件の約款は,保険者の同意を得て支出した弁護士費用等を対象とし,保険金請求権は被保険者が費用を支出した時から発生する旨を定めていた。
東京地裁平成28年10月27日判決は,保険者の同意と弁護士への現実の支払がないことから,保険金請求権の発生要件を満たさないとした。
東京高裁平成29年4月27日判決も原判決を維持し,約款の文言に基づいて現実の支出を請求権発生の要件とした。
実務上,保険者から弁護士へ直接送金される場合があっても,それは保険者と被保険者の合意による運用であり,この事件ではそのような合意もないと判断したものである。
(2) LAC基準の位置付け
同事件では,報酬金を算定する経済的利益に加害者側保険会社の既払金を含めるかも争われた。
裁判所は,LAC基準を尊重して保険金額を定めることに合理性がないとはいえず,LAC基準は弁護士報酬そのものを算定するものではなく,保険金支払の基準を示すものにすぎないとした。
したがって,依頼者と弁護士との委任契約上の報酬額と,保険者が約款及び支払基準に基づいて負担する保険金額とは一致しないことがある。
この区別は,現在のLAC実務及び個別商品の違いについて説明した「弁護士費用保険とLAC制度の違い」とも共通する。
2 福岡高裁令和元年11月27日判決
(1) 不同意が常に有効とは限らないこと
福岡高裁令和元年11月27日判決は,当該約款について,保険者の同意と被保険者による現実の支出を原則として必要とした。
その一方で,明らかに適正妥当な範囲の費用であるにもかかわらず保険者が同意しないなど,不同意が不合理で裁量権の逸脱又は濫用と認められる場合には,同意がなくても適正妥当な額の保険金を請求できる余地を示した。
(2) 当該事件で逸脱又は濫用が否定された理由
同判決は,請求額又は認容額に旧日弁連報酬等基準を形式的に当てはめるだけで同意の有無を決めることはできないとした。
当該訴訟による回収可能性,ほかの損害回復手段,訴訟を提起する必要性,依頼者の実質的利益,審理経過及び保険者が示した支払案などを検討し,この事件における不同意を不合理とはしなかった。
また,保険者が交渉の過程で一定額の支払案を示したことは,約款上の同意とは扱われなかった。
したがって,保険会社の事故受付,弁護士利用の了承,暫定的な支払案及び最終的な費用承認を同じものとして扱うことはできない。
第4 返金後の費用負担と弁護士からの直接請求
1 東京地裁令和4年8月9日判決
(1) いったん支払っただけでは足りない場合
この事件では,被保険者が弁護士へ着手金及び訴訟費用として13万円を支払った後,弁護士の辞任に伴い同額の返金を受けた。
東京地裁令和4年8月9日判決は,弁護士費用保険金が,被保険者が弁護士費用等を負担することによって被る損害を填補するものであることから,返金によってその損害を回復した部分について保険者は支払義務を負わないとした。
保険金査定では,請求書及び最初の振込記録だけでなく,事件終了時の精算書,返金記録,預り金からの振替及び最終残額まで確認する必要がある。
ただし,この判決は全額返金の事案であり,一部返金又は実費控除がある場合の金額を直接決めたものではない。
2 東京地裁令和5年2月8日判決
(1) 債権者代位による請求が不適法とされた事例
この事件では,弁護士法人が依頼者に対する報酬請求権を保全するため,依頼者が保険会社に対して有すると主張する保険金請求権を債権者代位によって行使した。
東京地裁令和5年2月8日判決は,弁護士又は弁護士法人の報酬請求権も金銭債権であり,通常の金銭債権を保全する債権者代位では債務者の無資力が必要であるとした上で,依頼者の無資力について主張立証がないとして訴えを不適法却下した。
この判決が判断したのは,債権者代位という法的構成の要件である。
保険者が被保険者の申出に基づいて弁護士口座へ送金する実務を禁止したものでも,弁護士がどのような法的構成でも保険者に請求できないと一般化したものでもない。
第5 補償対象と費用発生時期
1 大阪地裁令和元年5月23日判決
(1) 当該免責条項の「労働災害」
この事件では,被保険者が勤務先から徒歩で帰宅する途中,横断歩道上で自動車と衝突した事故について,弁護士費用特約の免責条項にいう「労働災害」の意味が争われた。
大阪地裁令和元年5月23日判決は,当該約款の本文とただし書,労働者災害補償保険法との関係及び平均的な顧客の合理的な理解可能性などを検討し,「労働災害」には通勤災害も含まれるとして請求を棄却した。
もっとも,公開された判例研究は,争われた免責条項がその後改定されており,判決の直接的な意義は限られると指摘している。
この結論を,労働災害免責を置かない商品又は異なる文言の現行約款へそのまま当てはめることはできない。
2 東京地裁令和5年7月19日判決
(1) 問題事象と法律事件の発生
この事件では,一般的な法律問題を対象とする弁護士費用保険について,大学から事情聴取を求められて弁明した段階が,約款上の「問題事象」又は「法律事件」に当たるかが争われた。
東京地裁令和5年7月19日判決は,その段階では大学との間に紛争が生じているとまではいえず,問題事象又は法律事件に直面したと評価できないとした。
(2) 各費用を負担した時期
同判決は,当該約款が費用負担ごとに損害の発生を判定する構造であることを前提に,保険契約の失効後に負担した出張費及び日当を補償対象外とした。
原因となる出来事が保険期間内にあったというだけでは足りず,問題事象又は法律事件がいつ発生し,各費用をいつ負担したかを約款に即して分ける必要があることを示す事例である。
第6 裁判例を実務で使うための確認順序
1 最初に適用約款を固定する
裁判例を当てはめる前に,保険証券,商品名,特約名,保険期間及び事故日又は原因事実に対応する約款の版を固定する必要がある。
約款上の「同意」,「支出」,「負担」,「問題事象」,「法律事件」,「労働災害」及び保険金請求権の発生時期が,本記事の裁判例と同じ文言・構造であるかを確認することが出発点となる。
2 同意・支払・返金を時系列化する
次に,①事故又は原因事実,②保険会社への連絡,③弁護士選任の承認,④費用見積りの提示,⑤費用額への同意,⑥委任契約,⑦請求,⑧弁護士又は被保険者からの支払,⑨事件終了時の精算及び返金を別々の日付で並べる。
「弁護士を使ってよいと聞いた」,「一定額を払えるとの提案があった」又は「弁護士口座へ送金された」という一つの事実から,ほかの要件まで満たすとは限らない。
3 四つの法律関係を区別する
弁護士費用保険では,①被保険者が弁護士を選ぶこと,②被保険者と弁護士との委任契約,③被保険者が保険者に対して有する保険金請求権,④保険者から弁護士口座への送金方法を分ける必要がある。
自己選任,費用負担及び利益相反を含む全体像は「弁護士費用保険で弁護士を自分で選べるか」で整理している。
保険金の減額又は不払いが現実に生じた場合は,判例の結論だけを引用するのではなく,争点を補償義務,免責,対象費目,必要性・相当性,同意及び金額算定に分解する必要がある。
再査定,日弁連ADR,そんぽADR及び消滅時効の確認順序は「弁護士費用保険の保険金が減額・不払いになったとき」を参照されたい。
第7 関連記事
① 弁護士費用特約
② 弁護士費用保険とLAC制度の違い
③ 弁護士費用保険で弁護士を自分で選べるか
④ 弁護士費用保険の保険金が減額・不払いになったとき
⑤ 保険約款の文言の解釈方法
第8 出典
1 法令
① e-Gov法令検索「民法」423条
2 裁判例
① 東京地裁平成28年10月27日判決・平成28年(ワ)第10728号(自保ジャーナル2001号116頁,判例秘書文献番号L07132309,裁判所HP未掲載)
② 東京高裁平成29年4月27日判決・平成28年(ネ)第5242号(自保ジャーナル2001号113頁,裁判所HP未掲載。最高裁平成30年1月23日上告不受理決定)
③ 福岡高裁令和元年11月27日判決・令和元年(ネ)第462号(自保ジャーナル2074号143頁,判例秘書文献番号L07420815,裁判所HP未掲載。上告不受理により確定)
④ 大阪地裁令和元年5月23日判決・平成30年(ワ)第7687号(金判1574号38頁,判タ1466号163頁,判時2428号114頁,判例秘書文献番号L07450716,裁判所HP未掲載)
⑤ 東京地裁令和4年8月9日判決・令和4年(レ)第198号(判例秘書文献番号L07732346,裁判所HP未掲載)
⑥ 東京地裁令和5年2月8日判決・令和4年(ワ)第15286号(LEX/DB文献番号25598545,判例秘書文献番号L07830635,裁判所HP未掲載)
⑦ 東京地裁令和5年7月19日判決・令和4年(ワ)第29168号(LEX/DB文献番号25598946,判例秘書文献番号L07831266,裁判所HP未掲載)
3 職能団体の分科会資料及び学術文献
① 日本弁護士連合会第24回弁護士業務改革シンポジウム第4分科会報告書所収,山下典孝「弁護士費用保険と弁護士選任権―現状の課題と展望」69頁~86頁,別表74頁~86頁(報告書PDF)
② 武田涼子「弁護士費用特約に基づく保険金請求における保険者の同意と現実の支払の必要性」『損害保険研究』80巻3号,2018年,177頁~198頁(J-STAGE)
③ 中出哲「自動車事故弁護士費用特約の免責条項における『労働災害』は通勤災害を含むとして免責を適用した事例」『損害保険研究』82巻4号,2021年,117頁~137頁(J-STAGE)