令和4年7月8日に奈良市で発生した安倍晋三元首相銃撃事件については,現場映像,搬送先病院の当日会見,警察発表など,作成時点の異なる情報が併存している。
その後,消防活動記録が開示され,令和8年1月21日には奈良地方裁判所の第一審判決が言い渡された。
本記事では,第一審判決,消防活動記録,警察庁の検証報告書及び現在の救急・輸血医療の指針に基づき,銃撃から死亡確認までの経過,AEDの判断,外傷性心停止,大量輸血,弾道及び死因を区別して整理する。
なお,第一審判決に対しては被告人側が控訴しており,確定判決ではない。
第1 銃撃から死亡確認までの経過
1 2回の発砲
警察庁の検証報告書の時系列によれば,被告人は午前11時31分6秒に1発目を,午前11時31分8秒に2発目を発射した。
奈良地方裁判所令和8年1月21日判決は,被告人が安倍元首相から約6.9メートルの地点で1発目を発射し,安倍元首相が左半身を被告人側に向けた後,約5.3メートルの地点で2発目を発射したと認定した。
同判決によれば,使用された手製銃は散弾を発射する構造であり,1発につき金属製弾丸6個が装填されていた。
2 現場での胸骨圧迫及びAED装着
奈良市消防局等の消防活動記録には,午前11時37分に現場へ到着した隊が,既に現場関係者によるAED装着及び心肺蘇生が行われていることを確認した旨が記録されている。
別の救急隊の記録では,患者接触は午前11時42分,救急車内収容は午前11時43分,現場出発は午前11時45分である。
同記録には,患者接触時は心肺停止であり,初期心電図波形は「心静止」であったと明記されている。
したがって,「初期波形は公表されていない」とする説明は訂正を要する。
もっとも,この記載から,AEDが装着されてから搬送先に至るまでの全ての解析結果又は全心電図波形を知ることはできない。
3 医師への引継ぎ及び病院での治療
消防活動記録には,午前11時58分50秒に医師へ引き継いだ旨が記録されている。
搬送先病院の当日会見を伝えた報道によれば,病院到着時も心肺停止状態であり,約4時間にわたって止血及び輸血を含む治療が行われた。
死亡確認時刻は午後5時3分である。
病院の当日会見は,頸部の2か所の創,心臓・大血管の損傷及び失血死を説明した。
これに対し,後日の第一審判決は,後記のとおり,左上腕部から侵入した弾丸による左右鎖骨下動脈損傷を死因として認定した。
当日会見は治療直後の臨床説明であり,第一審判決はその後の捜査,鑑定及び証拠調べを踏まえた認定であるから,両者を同一水準の確定情報として混在させるべきではない。
第2 第一審判決が認定した弾道と死因
1 1発目と2発目
第一審判決は,1発目の弾丸6個はいずれも安倍元首相に命中せず,2発目の弾丸6個のうち2個が体内に侵入したと認定した。
残る4個のうち一部は,安倍元首相のスーツ上着,議員バッジ等に擦過又は衝突したと認定されている。
したがって,「1発目が外れ,2発目の2個が侵入した」という範囲は判決で確認できるが,映像又は外表の創だけから弾道を推測する必要はない。
2 2個の弾丸の経路
(1) 左上腕部から侵入した弾丸
1個は左上腕部から体内に侵入し,左大胸筋を貫き,左右鎖骨下動脈を損傷した上で,右胸腔内に至ったと認定された。
(2) 右前頸部から侵入した弾丸
他の1個は右前頸部から体内に侵入し,右大胸筋を通って右上腕骨に至り,同骨を骨折させたと認定された。
3 死因
第一審判決が認定した死因は,左上腕部射創による左右鎖骨下動脈損傷に基づく失血である。
同判決は,搬送先病院での処置状況等にも照らし,銃撃直後から非常に重篤で,ほぼ即死に近い状態に至っていたことがうかがわれるとした。
これは裁判所の証拠評価に基づく認定であり,「心臓を直接撃ち抜かれたこと」が死因であると認定したものではない。
また,胸骨圧迫によって心臓又は鎖骨下動脈が損傷したとする根拠は公表資料にはない。
4 第一審判決の位置付け
奈良地方裁判所は,令和5年(わ)第7号,同第154号事件について,令和8年1月21日,被告人を無期懲役に処する判決を言い渡した。
もっとも,被告人側は同年2月4日に控訴したため,本記事でいう「判決の認定」は第一審段階のものである。
第3 心停止,胸骨圧迫及びAED
1 市民が心停止を疑った場合の行動
心停止とは,心臓が有効な血液循環を維持できない状態をいう。
呼吸停止とは,自発呼吸が認められない状態をいう。
消防庁の一般市民向け応急手当WEB講習及び救急蘇生法の指針2020(市民用)は,反応がない,又は判断に迷う場合には119番通報及びAEDの手配を行い,普段どおりの呼吸がない,又は判断に迷う場合には直ちに胸骨圧迫を開始するという手順を示している。
市民救助者は,出血の原因や心電図波形を診断してから胸骨圧迫を始めるのではなく,通信指令員の指導及びAEDの音声指示に従うべきである。
2 AEDが電気ショックを行う場合
AEDは心電図を自動解析し,心室細動又は無脈性心室頻拍など,電気ショックが適応となる波形を検出した場合に限って電気ショックを指示する。
心静止又は無脈性電気活動は,電気ショックの適応となる波形ではない。
そのため,AEDが「ショックは不要です」などと案内した場合,それ自体は故障又は処置の失敗を意味しない。
本件の消防活動記録は患者接触時の初期波形を心静止と記録しているから,少なくともその時点では電気ショックの適応となる波形ではなかった。
なお,AEDは電気ショックが不要と判断した後も胸骨圧迫の継続を促すため,装着する意義が失われるわけではない。
3 消防庁統計を本件へ単純適用できないこと
消防庁「令和7年版救急・救助の現況」救急編によれば,令和6年中に一般市民が目撃した心原性心肺機能停止傷病者は2万7769人であり,一般市民が心肺蘇生を実施した1万6728人の1か月後生存率は15.3%,実施しなかった1万1041人の1か月後生存率は7.9%であった。
また,一般市民がAEDによる電気ショックを実施した1449人の1か月後生存率は53.6%,1か月後社会復帰率は44.4%であった。
もっとも,これらは「心原性」の心肺機能停止を対象とする集計である。
銃創による大量出血を原因とする外傷性心停止の救命可能性を,この数値から直接計算することはできない。
第4 外傷性心停止と出血制御
1 内因性心停止との違い
外傷性心停止では,低循環血液量,低酸素,緊張性気胸又は心タンポナーデなど,可逆的原因への処置が時間的に極めて重要である。
2025年の外傷性心停止アルゴリズムも,医療従事者に対し,胸骨圧迫と並行して,致命的な外出血の制御,気道・酸素化,胸腔内圧の解除,近位血管の制御,血液製剤及び大量出血プロトコールなどを臨床上の優先度に応じて実施することを示している。
これは,現場の市民救助者が独自の判断で胸骨圧迫を中止するという意味ではない。
市民救助者は119番通報をし,通信指令員の指示に従って胸骨圧迫及びAED装着を行い,明らかな激しい外出血があれば直接圧迫することが基本となる。
2 本件の出血源
左右鎖骨下動脈は,胸郭上口付近の深部を走行する大血管である。
第一審判決が認定した損傷は,左上腕の外表だけを圧迫すれば制御できる単純な四肢末梢出血ではなく,左右鎖骨下動脈及び右胸腔に及ぶ深部損傷であった。
したがって,市販の四肢用止血帯を装着すれば救命できた,あるいは胸骨圧迫をしなければ救命できたと断定することはできない。
このような損傷の根治的止血には,損傷部位の把握,近位及び遠位の血流制御,外科的又は血管内治療,大量輸血等を組み合わせる専門的判断が必要となる。
3 衝撃波による脳幹損傷仮説
日本外傷学会雑誌に掲載された医療者による考察は,公表された時間経過と出血性ショックだけでは銃撃直後の心肺停止を説明しにくいとの問題意識から,銃撃による衝撃波又は空洞形成が延髄・脳幹部へ影響した可能性を提示した。
もっとも,同論文自身も「可能性」を論じた医学的考察であり,本件の画像,病理又は連続生理データによって脳幹損傷を実証した症例報告ではない。
第一審判決は左右鎖骨下動脈損傷による失血を死因と認定しているため,この仮説を本件の確定した死因又は初期心静止の確定原因として記載することはできない。
第5 骨髄路と救急救命士の処置範囲
1 骨髄路の医学的位置付け
骨髄路は,緊急時に末梢静脈路を迅速に確保できない場合,骨髄腔を介して輸液,血液製剤又は薬剤を投与するための経路である。
重症外傷又は心停止で血管が虚脱している場合,静脈路確保が困難となることがあるため,医師が骨髄路を選択することは救急医療上確立した選択肢である。
もっとも,医師が行うことのできる処置と,救急救命士が法律及び通知に基づいて行うことのできる救急救命処置は同一ではない。
2 救急救命士の現行の処置範囲
厚生労働省の救急救命処置の範囲には,院外心停止に対する薬剤投与のための骨髄路確保は,現時点の全国一律の救急救命処置として掲げられていない。
また,令和8年7月9日の第2回救急救命処置の在り方に関する検討会の資料では,院外心停止に対する薬剤投与のための骨髄路確保及び外傷による出血性ショックに対するトラネキサム酸静脈内投与は,評価又は制度化を検討する候補として扱われている。
したがって,これらを既に全ての救急救命士が全国で実施できる処置として説明するのは正確でない。
さらに,「認定救急救命士」は,法令上全国一律に定義された単一の資格名称ではない。
検討会資料にある認定制度も制度案であり,地域のメディカルコントロール協議会又は医療機関による認定と,法定資格である救急救命士を区別する必要がある。
第6 大量出血と大量輸血
1 出血性ショックは出血量だけでは決まらないこと
出血性ショックの評価では,出血量の推計だけでなく,意識,皮膚所見,脈拍,血圧,呼吸,末梢循環,体温,乳酸値,凝固検査,超音波・画像所見等を総合する。
年齢,持病,服薬,出血速度及び受傷からの時間によって反応が異なるため,「循環血液量の何%を失えば必ず心停止する」という単一の境界で個別患者を評価すべきではない。
2 「100単位」を容量又は出血量へ換算できないこと
当時の病院会見を踏まえた救命救急医への取材記事では,100単位を超える輸血が行われたと説明されている。
しかし,赤血球製剤,新鮮凍結血漿及び血小板製剤では,「1単位」の由来,製品規格及び容量が同じではない。
日本赤十字社の輸血用血液製剤一覧を見ても,製剤ごとに規格及び容量が異なることが分かる。
どの製剤を各何単位投与したかという内訳が公表されていない以上,「100単位=14リットル」などと一つの容量に換算することはできない。
また,投与量は患者から失われた血液量そのものではないため,輸血単位数から出血量を逆算することもできない。
3 1対1対1の意味
令和8年2月の「輸血療法実践ガイド」68頁は,外傷性大量出血で,早期に新鮮凍結血漿,血小板製剤及び赤血球製剤をおおむね1対1対1となるよう投与することを目標としている。
これは単純な「容量比」ではなく,製剤の単位数及び国内製剤規格を考慮したプロトコールである。
同ガイド66頁は,日本の製剤規格で1対1対1を輸血する場合の目安として,新鮮凍結血漿12単位,血小板製剤15単位,赤血球製剤12単位が相当することに留意すべきであるとしている。
したがって,「血漿,血小板及び赤血球を同じリットル数だけ投与する」という説明は誤りである。
4 大量出血プロトコール
大量出血では,あらかじめ定めた手順で血液製剤を迅速に供給する大量出血プロトコールを早期に発動し,止血処置と並行して,凝固障害,低体温,アシドーシス,低カルシウム血症等を監視・是正することが重要である。
輸血療法実践ガイドは,外傷性出血を伴う成人について,可能な限り受傷後3時間以内にトラネキサム酸を静脈内投与することも推奨している。
もっとも,本件で実際にどの製剤,薬剤又は大量出血プロトコールが使用されたかは,公表資料から確認できない。
第7 心肺停止,瞳孔及び法的脳死
1 心肺停止と死亡確認
心肺停止は,蘇生処置の対象となる臨床状態を表す用語であり,その一語だけで死亡診断又は法的脳死判定の実施を意味しない。
瞳孔散大又は対光反射の消失も,重篤な脳障害を疑わせる所見ではあるが,薬剤,低体温,眼球・神経損傷等の影響を受けるため,瞳孔所見だけで死亡又は法的脳死を判定することはできない。
2 法的脳死判定
臓器の移植に関する法律6条2項は,「脳死した者の身体」を,脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体と定義している。
臓器の移植に関する法律施行規則2条及び厚生労働省「法的脳死判定マニュアル2024」は,深昏睡,瞳孔,脳幹反射,平坦脳波及び自発呼吸消失などの所定項目を確認し,原則として6時間以上の間隔を置いて2回判定する手順を定めている。
6歳未満では判定間隔は24時間以上である。
眼球損傷,鼓膜損傷,高位頸髄損傷等により瞳孔又は脳幹反射の一部を確認できない場合には,脳血流検査で確認不能項目を補うことができる。
本件で法的脳死判定が実施されたことを示す公表資料は確認できない。
したがって,法的脳死判定の基準を本件の死亡確認経過へ直接当てはめることはできない。
第8 公表資料から判断できない事項
① AED装着後の全ての解析時刻,解析波形及び電気ショック実施の有無
② 現場,搬送中及び病院到着後の連続心電図,血圧,酸素飽和度,血液ガス等の全経過
③ 病院で投与された赤血球製剤,新鮮凍結血漿,血小板製剤その他の製剤別単位数
④ トラネキサム酸その他の薬剤の投与内容及び時刻
⑤ 病院で選択された具体的な外科的又は血管内止血手技
⑥ 法的脳死判定が検討又は実施されたか否か
⑦ 別の応急処置,搬送経路又は治療を選択した場合に救命できたかという反実仮想
公表資料の空白を,映像,外表の創,輸血単位数又は第三者の推測だけで補うべきではない。
第9 公開されている消防・医療資料
1 消防活動記録
安倍晋三元首相銃撃事件に関する消防活動記録には,各隊の覚知,出動,現場到着,患者接触,車内収容,現場出発,医師引継ぎ等の時刻及び初期所見が含まれている。
もっとも,個人情報等は黒塗りであり,複数の隊の記録を区別して読む必要がある。
2 開示された医療記録
安倍晋三元首相の医療記録は143頁あるが,診療内容の大部分が不開示となっている。
そのため,この開示文書だけから投薬,輸血内訳,手術手技又は心電図経過を復元することはできない。
3 関連する暗殺事件一覧
日本の内閣総理大臣経験者に対する事件の一覧は,歴代首相の暗殺事件及び暗殺未遂事件に掲載している。
第10 出典
1 裁判所,警察及び消防資料
① 奈良地方裁判所令和8年1月21日判決・裁判例結果詳細(令和5年(わ)第7号,同第154号)
② 同判決PDF
③ 警察庁「安倍元総理の銃撃事件を受けた警護の検証及び見直しに関する報告書」
2 救急蘇生及び救急統計
④ 日本蘇生協議会「JRC蘇生ガイドライン2025」案内ページ
⑥ 日本外傷学会雑誌「要人銃撃事件における医療者としての考察」
3 輸血,救急救命処置及び脳死判定
① 日本輸血・細胞治療学会「輸血療法実践ガイド」令和8年2月
4 病院会見及び控訴報道
① テレビ朝日「【会見】首に2カ所の傷 銃弾が心臓に到達か 安倍氏銃撃」