第1 この記事が答える問い
原子爆弾の投下は,誰の,いつの命令によって行われたのか。
本記事は,投下に至る米国側の意思決定を,文書に即して確定することを目的とする。
投下の是非という評価の問題は扱わない。
結論を先に述べる。
投下作戦を許可した軍事命令は1945年7月25日付であり,発出者は陸軍参謀総長代理であって,大統領ではない。
命令文には大統領の署名も承認文言も現れない。
他方,大統領が「原子爆弾を使用する」という単一の決定を下した文書を特定することはできない。
第2 五つの局面を分けて考える
投下に至る過程は,次の五つの局面に分けて理解する必要がある。
これらを一括して「投下命令」と呼ぶと,決定の実像を見誤る。
①使用方法の勧告(暫定委員会。1945年6月)
②目標の選定(目標委員会。同年4月から5月)
③投下作戦を許可する軍事命令(同年7月25日)
④大統領自身の同時代の認識(同年7月25日の日記等)
⑤投下後に発表する声明の準備(同年7月30日ころ)
このうち②は「京都はなぜ原爆投下目標から外されたのか」で詳しく扱うので,本記事では概要にとどめる。
第3 暫定委員会の勧告
1 委員会の構成
原子爆弾の使用方法について大統領へ勧告する役割を担ったのが,暫定委員会(Interim Committee)である。
委員長は陸軍長官ヘンリー・スティムソンであり,スティムソン不在時はその特別補佐ジョージ・ハリソンが議長を代行した。
構成員は,大統領個人代表のジェームズ・バーンズ(当時は民間人。のちの国務長官),海軍次官ラルフ・バード,国務次官補ウィリアム・クレイトン,科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュ,同局野戦担当部長カール・コンプトン,国防研究委員会委員長ジェームズ・コナントである。
委員会には,科学者4名(A・H・コンプトン,エンリコ・フェルミ,E・O・ローレンス,J・R・オッペンハイマー)による科学パネルが助言した。
この構成は,スティムソン自身が1947年2月にHarper’s Magazine誌へ発表した論説に逐語で記載されている。
2 1945年6月1日の三つの勧告
同論説によれば,委員会は1945年5月31日に科学パネルとともに会合を開き,翌6月1日に次の三点を全会一致で採択した。
①原子爆弾は,できるだけ早く日本に対して使用されるべきである。
②損傷を受けやすい住宅その他の建物に囲まれた,又はこれに隣接した工場(二重目標)に対して使用されるべきである。
③兵器の性質について事前の警告なしに使用されるべきである。
②の「二重目標」とは,軍需工場と,それを取り囲む労働者の住宅とを同時に含む単一の目標を指す。
軍事施設と民間人地域という二つの別々の場所を意味するのではない。
この勧告の内容は,米国立公文書館所蔵の同時代の記録(1945年5月31日の暫定委員会会議メモ,同年6月6日付の委員会書記からハリソン宛て覚書,同年6月25日付の覚書)とも符合する。
3 退けられた代替案
同論説は,委員会が代替案を検討した上でこれを退けたことも記している。
検討されたのは,詳細な事前警告を行う案と,無人地帯で実演してみせる案である。
退けた理由として挙げられているのは,①これらが日本に降伏を強いる効果を持つとは考えられなかったこと,②実演が不発に終われば投下よりはるかに悪い結果を招くこと,③浪費できる爆弾がなかったこと,である。
すなわち,事前警告なしという方針は,警告という選択肢を検討した上で採用されたものである。
4 大統領への報告と,後日の反対意見
この勧告は1945年6月6日,スティムソンからトルーマン大統領へ報告された。
米国立公文書館所蔵の同日付の会談覚書が,その事実を示している。
なお,委員のうち海軍次官バードは,後に見解を改め,1945年6月27日付で事前の警告を求める反対意見を提出した。
スティムソン自身も,1947年の論説で,バードが後に見解を変えて反対したことに触れている。
第4 1945年7月25日の命令
1 命令の全文
投下作戦を許可した命令は,次のとおりである。
米国立公文書館所蔵の原本に基づく翻刻を対照して確認した。
“TOP SECRET
25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.
2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.
3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.
4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.
(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff”
2 誰が誰に宛てたのか
発信者はトマス・ハンディ参謀総長代理である。
本来の参謀総長ジョージ・マーシャルがポツダム会談でトルーマン大統領に同行していたため,ハンディが代理を務めた。
宛先は,米国陸軍戦略航空軍団司令官カール・スパーツである。
命令は,スパーツ自身が写し1通ずつをマッカーサー元帥及びニミッツ提督へ直接届けるよう指示している。
3 何を許可したのか
命令が許可した内容は,次のとおりである。
①投下の時期 1945年8月3日ころ以降,天候が視認爆撃を許し次第。
②目標 広島,小倉,新潟及び長崎のいずれか一つ。
③追加投下 準備が整い次第,同じ目標へ追加の爆弾を投下する。上記以外の目標については追って指示する。
④情報統制 兵器の使用に関する情報の取扱いは陸軍長官及び大統領に留保し,現地司令官による発表を禁じる。
ここで重要なのは③である。
この命令は最初の1発だけを許可したものではなく,追加の投下についても,あらかじめ包括的に授権している。
長崎への投下について,別に新たな命令が発せられた形跡はない。
4 承認者として名を挙げられているのは誰か
命令文の第4項は,この命令が「陸軍長官及び陸軍参謀総長の指示及び承認により」発せられると明記する。
大統領の署名も,大統領の承認を示す文言も,命令文には現れない。
この点は,「トルーマンが原子爆弾の投下を命じた」という一般的な説明を検討する上での出発点になる。
第5 大統領の関与はどのようなものだったか
1 計画を知らされた時期
トルーマンは,ルーズベルト大統領の死去後まもない1945年4月25日,スティムソン陸軍長官及びグローブス将軍から計画についての説明を受けた。
このとき用意された資料は,最初の砲身型の兵器が同年8月1日ころに準備できる見込みであること,目標は当初から日本であることを記していた。
2 1945年7月25日の日記
トルーマン自身の1945年7月25日付の日記(ポツダムで執筆)には,次の記載がある。
“This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. […] He and I are in accord. The target will be a purely military one and we will issue a warning statement asking the Japs to surrender and save lives.”
この記載から,次の三点が読み取れる。
第一に,使用は「今から8月10日までの間に」行われることになっている,という既定の事実として書かれている。
自ら決定したという能動的な表現ではない。
第二に,スティムソンとの関係は「合意(accord)」として記されている。
第三に,トルーマン自身は目標を「純粋に軍事的なもの」と理解していた。
しかし,目標委員会が実際に用いた基準は,心理的効果や,住宅に囲まれた工場を含むものであった。
本人の理解と,計画の実際の内容との間には食い違いがある。
3 「準備でき次第,ただし8月2日より前は不可」の意味
1945年7月30日,スティムソンは投下後に発表する声明の改訂稿について大統領の承認を求める電報を送った。
トルーマンはこれに対し,「Release when ready but not sooner than August 2」と手書きで返信した。
このやり取りは,しばしば投下命令そのものと誤解される。
しかし,米国立公文書館自身の解説記事は,これが投下作戦の命令ではなく,投下の事実を発表する声明の発表許可であったと明記している。
同時に,同記事は,これが実質的には黙示の最終承認に相当すると評価している。
4 始める決定と止める決定の非対称
投下を開始する決定については,単一の明確な決定文書を特定できない。
マンハッタン計画の責任者であったグローブス将軍自身も,後年,トルーマンの決定を「不介入の決定,すなわち既存の計画を覆さないという決定」と評している。
これに対し,投下を止める決定は明確である。
1945年8月10日,トルーマンは閣議で,以後の原子爆弾の使用には大統領自身の明示の許可を要すると述べた。
この経緯は複数の同時代の日記に記録されており,「ポツダム宣言を早く受け入れていたら,又は受け入れていなかったらどうなったか」で扱っている。
なお,トルーマンの関与の性格については,能動的な選択があったとみる立場と,既定路線の追認であったとみる立場が対立しており,学説上決着していない。
本記事は,一次資料から確認できる範囲,すなわち「命令文に大統領の署名がないこと」「本人の日記が使用を既定の事実として記していること」を示すにとどめる。
第6 投下後の声明は投下の前から用意されていた
広島への投下後に大統領名で発表された声明は,投下の後に急いで作られたものではない。
米国立公文書館の解説記事は,声明文が数週間にわたり複数の当局者によって起草され続けていたと明記する。
スティムソン自身の日記も,1945年7月30日に草稿へ手を入れ,トリニティ実験の成功を踏まえた修正を加えた上で大統領へ電送したこと,翌31日にもさらに推敲したことを記している。
声明が投下の1週間前には最終調整の段階にあったという事実は,米側が投下を確度の高い既定路線として扱っていたことを示している。
第7 ポツダム宣言との前後関係
以上の経過を,ポツダム宣言の日付と重ねると次のようになる。
①1945年6月1日 暫定委員会が事前警告なしの使用を勧告した。
②同年7月25日 投下作戦を許可する命令が発せられた。
③同年7月26日 ポツダム宣言が発表された。
④同年7月28日 鈴木首相の記者会見(いわゆる「黙殺」発言)があった。
⑤同年8月6日 広島に投下された。
すなわち,投下を許可する命令は,宣言が発表される前日の日付である。
日本側の回答を待って投下が決まったという説明は,この時系列と整合しない。
宣言に回答期限が置かれていたかという問題は「ポツダム宣言に回答期限はあったのか」で,「黙殺」発言と投下決定との関係は「ポツダム宣言は原爆投下を予告していたのか」で扱っている。
第8 原資料で確認する方法
1945年7月25日の命令は,米国立公文書館のRecord Group 77及び342に原本があり,翻刻が公開されている。
暫定委員会及び目標委員会の会議記録は,同館のRecord Group 77に所蔵されており,ジョージ・ワシントン大学のナショナル・セキュリティ・アーカイブが編集した一次資料集で所在を確認できる。
トルーマンの日記及び「Release when ready」のやり取りは,トルーマン大統領図書館及び米国立公文書館の刊行物で確認できる。
第9 出典・参考資料
1 公文書・歴史資料
①Thomas T. Handy to Carl Spaatz(1945年7月25日付命令),米国立公文書館Record Group 77・342所蔵
②”Summary of Target Committee Meetings on 10 and 11 May 1945″(1945年5月12日付,グローブス将軍宛て),米国立公文書館Record Group 77所蔵
③Harry S. Truman, Diary, 1945年7月25日(Robert H. Ferrell, ed., Off the Record: The Private Papers of Harry S. Truman, 1980所収)
④Henry L. Stimson, Diary, 1945年7月分(イェール大学スティムソン文書)
⑤”‘Release When Ready’,” Prologue Magazine, Summer 2005, Vol.37 No.2(米国立公文書館)
⑥National Security Archive (The George Washington University), “The Atomic Bomb and the End of World War II: A Collection of Primary Sources,” Briefing Book #716(ed. William Burr)所収の暫定委員会関係文書
2 研究文献
①Henry L. Stimson, “The Decision to Use the Atomic Bomb,” Harper’s Magazine, vol.194(1947年2月号)
②Alex Wellerstein, “Truman never ordered the use of the atomic bombs—but he did order atomic bombings to be stopped,” Bulletin of the Atomic Scientists, 2025年8月10日付