第1 本記事の対象と結論
1 本記事の対象と基準日
本記事は,昭和55年,最高裁判所長官から罷免の訴追を求められていた小倉簡易裁判所判事の安川輝夫(以下「安川簡裁判事」という。)が福岡県久山町長選挙に立候補して裁判官の身分を失い,裁判官訴追委員会が審査を打ち切った経緯と,これを受けた裁判官弾劾法41条の2の新設までを整理するものである。
経緯は,国会会議録,裁判官弾劾裁判所の公表資料,衆議院の制定法律情報及び裁判所ウェブサイトの最高裁判所決定で確認した。
法令は,令和8年9月27日現在の条文をe-Gov法令検索で確認した。
山本祐司『最高裁物語(下巻)』(講談社+α文庫,1997年)の記述は,同書によるものであることを示して補足的に用いた。
2 結論
①昭和55年9月10日,最高裁判所長官は,担当する刑事事件の女性被告人と私的に接触した安川簡裁判事について,裁判官訴追委員会に罷免の訴追を求めた。
②安川簡裁判事は,同年10月12日に久山町長選挙に立候補したため,公職選挙法90条により裁判官の身分を失い,訴追委員会は同月17日に審査打切りの決定をした。
③弾劾裁判による罷免がなかったため,退職手当と共済年金は法律に従って支払われることになり,最高裁判所は支払を控える解釈の余地を検討したものの,年度末に支払を決定した。
④国会では,罷免の訴追を逃れるための立候補を防ぐ方法として,公職選挙法90条を改める方法と裁判官弾劾法を改める方法が議論され,最高裁判所事務当局の案を骨格とする裁判官弾劾法の改正が選ばれた。
⑤裁判官弾劾法の一部を改正する法律(昭和56年法律第66号)は,衆議院議院運営委員長が提出した議員立法であり,衆参両院で全会一致により可決され,昭和56年6月5日に公布され,同日施行された。
⑥新設された裁判官弾劾法41条の2により,最高裁判所から罷免の訴追を求められている裁判官と訴追委員会から罷免の訴追をされている裁判官には,公職選挙法90条が適用されなくなった。
⑦もっとも,最高裁判所が訴追請求をする前の段階での立候補は同条の対象外であり,その場合の退職手当については,現行の国家公務員退職手当法12条1項2号及び14条1項が支給制限の根拠となり得る。
⑧安川簡裁判事は刑事事件でも起訴され,最高裁判所第三小法廷昭和60年7月16日決定は,担当する窃盗被告事件の女性被告人を喫茶店に呼び出した行為が公務員職権濫用罪に当たるとした原判断を是認し,上告を棄却した。
第2 事件の経過
1 担当事件の女性被告人との接触
最高裁判所第三小法廷昭和60年7月16日決定(昭和58年(あ)第1309号,刑集39巻5号245頁)が示す第一審判決の認定(原判決が是認したもの)によれば,被告人は小倉簡易裁判所判事で,女性被告人に対する窃盗被告事件の審理を担当していた。
同事件の次回公判期日は,被害弁償を待つために昭和55年7月16日に指定されていた。
被告人は,同月11日午後8時40分ころ,自己との交際を求める意図で女性被告人に電話をし,被害弁償のことで会いたいなどと言って呼び出した。
女性被告人は,被告事件について出頭を求められたものと誤信し,同日午後9時ころから9時30分ころまで,駅付近の喫茶店で被告人と同席した。
国会では,勝見嘉美最高裁判所事務総局人事局長が,昭和55年10月15日の衆議院法務委員会で,最高裁判所が把握した事実を説明した。
その説明によれば,9月6日の第1回事情聴取で,安川簡裁判事は,担当する刑事事件の女性被告人と7月11日,同月15日及び8月4日の3回にわたり喫茶店で面会したことは認めたが,旅館に行ったことと5万円を渡したことは否認した。
しかし,9月8日の第2回事情聴取で,安川簡裁判事は,7月15日に女性被告人と旅館に行って情交関係を持ち,別れる際に5万円を手渡したことを認めた。
2 最高裁判所長官による訴追請求
勝見人事局長は,上記の事情聴取の後,最高裁判所長官が訴追委員会に対して罷免の訴追を求めたと説明した。
昭和56年5月27日の衆議院議院運営委員会国会法改正等に関する小委員会で,大西勝也最高裁判所事務総局人事局長は,その日付を昭和55年9月10日と述べている。
裁判官弾劾裁判所の公表資料も,昭和55年9月10日に最高裁判所長官が訴追委員会に訴追請求をしたとしている。
当時の裁判官弾劾法15条3項は,罷免の訴追を求める義務を「最高裁判所長官」に負わせていた(後記第6の4)。
山本祐司『最高裁物語(下巻)』によれば,安川簡裁判事は事情聴取で喫茶店で会ったことと旅館での関係を認めて辞表を提出したが,最高裁判所は辞表の受け取りを拒否して訴追請求をした。
3 町長選挙への立候補と失職
大西人事局長の説明によれば,安川簡裁判事は,訴追請求の後,昭和55年10月12日に福岡県久山町長選挙に立候補した。
その結果,安川簡裁判事は,公職選挙法90条によって裁判官の身分を失い,弾劾手続を進めることができなくなった。
同じ答弁で,大西人事局長は,公職選挙法90条を「立候補によって公務員は退職したものとみなす」規定と説明している。
現行の公職選挙法90条は,次のとおり定める。
「前条の規定により公職の候補者となることができない公務員が、第八十六条第一項から第三項まで若しくは第八項、第八十六条の二第一項若しくは第九項、第八十六条の三第一項若しくは同条第二項において準用する第八十六条の二第九項又は第八十六条の四第一項、第二項、第五項、第六項若しくは第八項の規定による届出により公職の候補者となつたときは、当該公務員の退職に関する法令の規定にかかわらず、その届出の日に当該公務員たることを辞したものとみなす。」
ここにいう「前条」の公職選挙法89条1項本文は,国又は地方公共団体の公務員等は「在職中、公職の候補者となることができない。」と定める。
昭和55年当時の公職選挙法90条の文言は確認していないため,上記は現行の条文である。
山本祐司『最高裁物語(下巻)』によれば,町長選挙では現職の町長が5選を果たし,安川元簡裁判事の得票は159票であった。
4 訴追委員会の審査打切り
裁判官弾劾裁判所の公表資料によれば,訴追委員会は,安川簡裁判事が裁判官の身分を失ったため,昭和55年10月17日に審査打切りの決定をした。
昭和56年6月3日の参議院議院運営委員会で,提出者である衆議院議院運営委員長の山下元利議員は,訴追委員会が事案の審査を進めていたところ,公職選挙法の規定により自動的に裁判官の身分を失ったため,「同委員会は審査を打ち切らざるを得なくなったのであります。」と説明した。
同じ公表資料は,この事態について,「弾劾裁判による罷免の場合には、退職手当受給資格の喪失等の不利益がともなうのに対し、公職への立候補による退職の場合にはこのような不利益がともなわないことから、同判事の行為は、結果的には裁判官弾劾制度を形骸化させるものとして批判されました。」と記載している。
第3 退職手当と年金
1 全額支払となる旨の答弁
昭和55年10月15日の衆議院法務委員会で,勝見人事局長は,安川元簡裁判事は公職選挙法90条により退官したので,「退職手当それから共済法による共済年金は法律に従って全額支払われるということに相なります。」と答弁した。
同日,岡田正勝委員は,最高裁判所から罷免の訴追を請求されていながら立候補して自動的に退職となったことを指摘し,「退職金の金額は千四十二万円になるということであります。」と述べた。
2 支払を控える余地の検討
昭和55年10月22日の衆議院法務委員会では,白川勝彦委員が,安川元簡裁判事には退職金を受給する資格が法律上も道義上もないと主張し,最高裁判所の見解をただした。
勝見人事局長は,「退職手当法には支給しない条項というのがはっきりうたってございます。」と述べた上で,本件がその条項に当たると解釈できるかどうかや,権利濫用論を当てはめることができるかどうかを慎重に検討すると答弁した。
昭和56年4月9日の衆議院決算委員会で,大西人事局長は,退職手当法の支給しない場合に当たると解釈できないかどうかをかなりの期間をかけて検討したが,「法律の解釈をここで曲げることはやはりできないのではないか」との結論に達したと答弁した。
その上で,大西人事局長は,「いわばやむを得ず年度末にもなりましたので払わざるを得ないということで決定したわけでございます。」と述べた。
3 退職手当の額
昭和57年3月30日の参議院法務委員会で,大西人事局長は,「安川簡易裁判所判事は在職年数が二十四年ちょっとぐらいでございまして、退職時の報酬月額は四十二万円ばかり、結局退職手当が一千万をちょっと超える額、一千九十万程度ということになっております。」と答弁した。
同じ答弁で,大西人事局長は,弾劾裁判所で罷免の判決を受けた2名の判事補には退職手当が一切支給されていないことも説明した。
山本祐司『最高裁物語(下巻)』は,安川元簡裁判事が手にする退職金を1042万3200円としている。
このように,退職手当の額は,昭和55年10月の委員の発言と同書では約1042万円,昭和57年の最高裁判所の答弁では1090万円程度であり,一致していない。
第4 刑事事件
1 捜査
昭和55年10月16日の参議院法務委員会で,寺田熊雄委員が検察当局による職権濫用罪の捜査の有無を尋ねたのに対し,前田宏法務省刑事局長は,「現地の地方検察庁におきまして慎重に検討している、こういう状態でございます。」と答弁した。
山本祐司『最高裁物語(下巻)』によれば,福岡地方検察庁は,町長選挙の後の昭和55年10月28日に安川元簡裁判事の自宅を捜索し,本格的な取調べを始めた。
2 最高裁判所昭和60年7月16日決定
裁判所ウェブサイトによれば,前記の最高裁判所第三小法廷昭和60年7月16日決定の事件名は「公務員職権濫用、収賄」であり,原審は福岡高等裁判所昭和58年9月2日判決である。
同決定の判示事項は,「裁判官が刑事被告人を裁判所外に呼び出した行為が公務員職権濫用罪に当たるとされた事例」である。
同決定は,「刑事事件の被告人に出頭を求めることは裁判官の一般的職務権限に属するところ」,担当する刑事事件の被告人を夜間に電話で喫茶店に呼び出す行為は,職権行使の方法としては異常であるとしても,弁償の件で会いたいと言っていることなどから,職権行使としての外形を備えていないとはいえないとした。
その上で,同決定は,女性被告人を誤信させて喫茶店まで出向かせ,同席させた行為は,「職権を濫用し同女をして義務なきことを行わせたものというべきである。」として,これと同旨の原判断を正当とし,上告を棄却した。
同決定は,被告人の氏名を伏せているが,被告人を小倉簡易裁判所判事とし,昭和55年7月11日の呼出しを認定している点で,前記の国会答弁と一致する。
山本祐司『最高裁物語(下巻)』は,安川元簡裁判事が福岡地方裁判所で懲役1年の実刑判決を受け,福岡高等裁判所と最高裁判所もこれを維持したとしている。
第一審判決と控訴審判決は,裁判所ウェブサイトでは見つからなかった。
第5 国会の議論と改正の経緯
1 政府と最高裁判所の当初の反応
昭和55年10月15日の衆議院決算委員会で,宮澤喜一内閣官房長官は,前日の閣議でもこの問題が話題になったと述べ,「いかにも割り切れない出来事でございます。」と答弁した。
宮澤官房長官は,裁判官には特別の身分保障があり,弾劾の手続に時間がかかることが今回の事態を生んだとし,弾劾法の工夫も可能性の一つであるとしつつ,確たる考えには至っていないと述べた。
その上で,宮澤官房長官は,「問題意識を持っておりますので、何か方法があればやはりこういう事態は防ぐようなことを考えなければならない、そういう研究の意思は持っております。」と答弁した。
同日の衆議院法務委員会で,勝見人事局長は,「公職選挙法は自治省所管でございますし、弾劾法は議員立法でございますので」,現在のところ具体的な方策は持ち合わせていないと答弁した。
同日,矢口洪一最高裁判所事務総長は,この事件について国民に深くおわびすると述べた。
昭和55年10月22日の衆議院法務委員会で,奥野誠亮法務大臣は,この問題は「脱法的な行動によって罷免を免れたということになっておる」とし,裁判官弾劾法と公職選挙法をかみ合わせて防止することになるとの考えを述べた。
同日,勝見人事局長は,「裁判所当局は法律の提案権がございませんので」,積極的に提案することはできないが,事務当局の中で具体的な改正の在り方を検討していると答弁した。
2 改正の方法をめぐる議論
昭和55年10月16日の参議院法務委員会で,寺田熊雄委員は,公職選挙法90条を改める方法と裁判官弾劾法を改める方法があるとして,自治省の考えを尋ねた。
自治省の岩田脩選挙課長は,「被選挙権のある者の立候補の自由を最大限に保障しなければならぬ。」とし,公職選挙法90条はその裏になっている規定であるから,基本原則に触れる部分には慎重でなければならないと答弁した。
昭和55年10月30日の参議院法務委員会で,寺田委員は,弾劾裁判所で法改正を計画しており,その小委員会で最高裁判所人事局長が,訴追委員会が訴追をした場合に加えて最高裁判所長官が訴追請求をした段階でも公職選挙法90条の適用を除外する事務局案を述べたことを紹介した。
これに対し,浅野一郎参議院法制局長は,その方法は有効であろうとしつつ,「参政権を制限するということになるわけでございますので、憲法問題がいろいろ生じてくるのではなかろうかと、こう思っております。」と答弁した。
3 最高裁判所事務当局の案
昭和55年11月26日の衆議院法務委員会で,勝見人事局長は,最高裁判所事務当局の考えを条文の形で示した。
その内容は,「第十五条第三項の規定により最高裁判所から罷免の訴追をすべきことを求められており、または訴追委員会から罷免の訴追をされている裁判官については、公職選挙法第九十条の規定は適用しないということの内容であります。」というものであった。
勝見人事局長は,この案が立候補の自由を制限するものであることを認めた上で,この場合の立候補制限はやむを得ないものであって,許されてしかるべきであるとの考えを示した。
4 裁判員会議の決定と改正の依頼
裁判官弾劾裁判所の公表資料によれば,弾劾裁判所は,昭和52年の罷免訴追事件を契機に弾劾法と弾劾規則の改正作業を進めていたが,こうした事態の再発防止のための弾劾法改正が急務となった。
弾劾裁判所は,最高裁判所や関係省庁とも協議の上,昭和55年11月27日の裁判員会議で,裁判官弾劾法41条の2を追加する改正案を決定した。
昭和56年5月27日の小委員会で,山下元利小委員長は,昭和55年11月27日に訴追委員会委員長と弾劾裁判所裁判長の連名で,議院運営委員長に対して「裁判官弾劾法の一部改正について」の依頼があったと説明した。
山下小委員長は,昭和56年4月17日の議院運営委員会理事会で弾劾裁判所裁判長から説明を聴取したことも述べている。
同日の小委員会で,西村健一裁判官弾劾裁判所事務局長は,安川簡裁判事の事件が「憲法に定められている裁判官弾劾制度を形骸化する危険を生じさせるという事態になりました」ので,全面改正の検討と切り離して一部改正を依頼したと説明した。
5 小委員会での審議
昭和56年5月27日の衆議院議院運営委員会国会法改正等に関する小委員会では,関係機関の見解が述べられた。
大西人事局長は,改正案の骨格は最高裁判所の案ではなく,「最高裁判所の事務当局限りの案でございます。」と断った上で,公職選挙法90条の適用除外は被選挙権の行使を制限する意味を持つと認めた。
その上で,大西人事局長は,罷免の訴追をされた裁判官等の立候補を制限することは,「手厚い身分保障に乗じた参政権の乱用を防止するという意味において、やむを得ない措置ではないか」と述べ,ほかに適当な案はなかったと説明した。
千種秀夫法務大臣官房司法法制調査部長は,法務省が当初,立候補で職を失った後も弾劾手続を行う折衷案のようなものを考えたが,その間の身分の説明が困難であったと述べた。
大林勝臣自治省選挙部長は,訴追委員会から連絡があれば全都道府県を通じて全市町村に連絡するとし,誤って立候補届が受理された場合でも「投票の効力は当然無効ということになります」と答弁した。
青山達裁判官訴追委員会事務局長は,「新設の四十一条の二の効果は、同条に法定されている要件に該当したときに当然に発生する」との前提で,自治省と本人への通知を行う方針を説明した。
大井民雄衆議院法制局長は,選挙における立候補の自由と裁判官弾劾制度のどちらを優先するかという価値判断の問題であるとした上で,「本案は憲法に違反するものではないという結論に到達した次第でございます。」と述べた。
小委員会は,小委員及び小委員外の委員から賛成の意見が述べられた後,異議なく案を決定した。
6 可決と公布
昭和56年5月28日,衆議院議院運営委員会は,小委員会の案を委員会の成案とし,委員会提出の法律案とすることを決定した。
同日,衆議院本会議は,議院運営委員長提出の裁判官弾劾法の一部を改正する法律案を委員会の審査を省略して上程し,異議なく可決した。
この法律案は,内閣提出の法律案ではなく,衆議院議院運営委員長が提出した議員立法である。
昭和56年6月3日,参議院議院運営委員会は全会一致で可決すべきものと決定し,同日の参議院本会議は総員起立により全会一致で可決した。
衆議院の制定法律情報によれば,裁判官弾劾法の一部を改正する法律は,昭和56年法律第66号として同年6月5日に公布された。
同法の附則1項は「この法律は、公布の日から施行する。」と定めているから,同日に施行された。
7 簡易裁判所判事の推薦基準の見直し
法改正とは別に,最高裁判所は簡易裁判所判事の任用の推薦基準を見直した。
昭和55年11月11日の衆議院法務委員会で,勝見人事局長は,推薦基準のうち年齢35歳以上及び在官年数13年以上を,年齢40歳以上及び在官年数18年以上に引き上げたと答弁した。
勝見人事局長は,年齢が若すぎるのではないかという意見は従前から内部にあったが,安川簡裁判事の事件を契機として具体化したと説明した。
第6 裁判官弾劾法41条の2の内容
1 条文
現行の裁判官弾劾法41条の2(公職選挙法の適用除外)は,次のとおり定める。
「第十五条第三項の規定により最高裁判所から罷免の訴追をすべきことを求められており、又は訴追委員会から罷免の訴追をされている裁判官については、公職選挙法(昭和二十五年法律第百号)第九十条(他の法律において準用する場合を含む。)の規定は、適用しない。」
この文言は,衆議院の制定法律情報に掲載された昭和56年法律第66号の条文と同じである。
2 適用の効果
41条の2に当たる裁判官が立候補の届出をしても,公職選挙法90条による退職の効果は生じない。
国の公務員である裁判官は公職選挙法89条1項本文により在職中は公職の候補者となることができないから,41条の2に当たる裁判官は,裁判官の身分を保ったまま訴追委員会の審査又は弾劾裁判所の裁判を受けることになる。
前記の小委員会で,自治省選挙部長は,誤って届出が受理されても,投票は無効となり,選挙後は当選争訟で解決されるとの見解を示した。
3 適用される場面と適用されない場面
41条の2が適用されるのは,最高裁判所から罷免の訴追を求められている裁判官と,訴追委員会から罷免の訴追をされている裁判官である。
訴追委員会事務局長は,訴追委員会から弾劾裁判所への訴追状の受理の時点で両者が接続するため,その前後で41条の2の効果に間隙はないと説明した。
他方で,最高裁判所が訴追請求をするかどうかを検討している段階の裁判官や,最高裁判所以外の者が訴追委員会に訴追請求をしているだけの裁判官は,文言上,41条の2の対象ではない。
前記の小委員会で,広瀬秀吉小委員は,「最高裁判所で訴追すべきかどうかを審議をしているというような段階で、こういう公選法九十条によって立候補してしまうというような道は防ぐこともできないわけであります。」と指摘した。
4 同時に改正された15条
昭和56年法律第66号は,41条の2の新設と同時に,裁判官弾劾法15条も改正した。
同法により,15条3項の訴追請求の義務者は「最高裁判所長官」から「最高裁判所」に改められた。
現行の15条3項は,「最高裁判所は、裁判官について、弾劾による罷免の事由があると思料するときは、訴追委員会に対し罷免の訴追をすべきことを求めなければならない。」と定める。
同法により,15条2項は,高等裁判所長官等が最高裁判所に報告する義務を定める規定に改められ,15条4項本文は,罷免の訴追の請求は書面によらなければならない旨の規定に改められた。
同法の附則2項は,施行の際に最高裁判所長官から罷免の訴追を求められている裁判官は,改正後の15条3項により最高裁判所から求められている裁判官とみなすと定めた。
第7 罷免と退職手当の関係
1 罷免された場合
裁判官弾劾法37条は,「裁判官は、罷免の裁判の宣告により罷免される。」と定める。
国家公務員退職手当法12条1項は,懲戒免職等処分を受けて退職をした者等について,退職手当管理機関が一般の退職手当等の全部又は一部を支給しないこととする処分を行うことができると定める。
同法11条2号ロにより,裁判官の退職手当管理機関は最高裁判所である。
罷免と退職手当の関係については,裁判官に対する罷免判決と退職手当で政府答弁書や運用方針を紹介している。
2 公職選挙法90条による退職
現行の国家公務員退職手当法12条1項2号は,「国家公務員法第七十六条の規定による失職又はこれに準ずる退職をした者」を支給制限処分の対象としている。
同法の平成20年法律第95号による改正前は,8条1項が,「国家公務員法第七十六条の規定による失職(同法第三十八条第一号に該当する場合を除く。)又はこれに準ずる退職をした者」を含む同項各号の者には退職手当を「支給しない。」と定めていた。
国家公務員退職手当法等の一部を改正する法律(平成20年法律第95号)は,8条を削り,退職手当管理機関が事情を勘案して全部又は一部を支給しないこととする処分を行うことができる現行の12条1項を設けた。
国家公務員退職手当法の運用方針(昭和60年4月30日総人第261号,最終改正令和7年3月31日閣人人第153号)は,「本条第一項第二号に規定する『これに準ずる退職』とは、例えば次に掲げる規定による退職をいう。」とし,その例に公職選挙法90条を挙げている。
安川元簡裁判事の退職手当については,昭和56年4月の国会答弁で,退職手当法の支給しない場合として懲戒処分などが書かれているとされ,本件がこれに当たると解釈することはできないとの結論が示されていた。
3 退職後の刑事処分
国家公務員退職手当法14条1項1号は,退職をした者に一般の退職手当等の額がまだ支払われていない場合に,その者が当該退職後に拘禁刑以上の刑に処せられたときは,支給制限処分をすることができると定める。
安川元簡裁判事の退職手当は,前記のとおり昭和56年4月9日の答弁の時点で既に支払が決定されており,控訴審判決(昭和58年9月2日)及び前記の最高裁判所決定はその後のものである。
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第9 出典・参考資料
1 法令
①裁判官弾劾法(e-Gov法令検索)15条,37条,41条の2
②公職選挙法(e-Gov法令検索)89条,90条
③国家公務員退職手当法(e-Gov法令検索)11条,12条,14条
④裁判官弾劾法の一部を改正する法律(昭和56年法律第66号,衆議院制定法律情報)
⑤国家公務員退職手当法等の一部を改正する法律(平成20年法律第95号,衆議院制定法律情報)
⑥国家公務員退職手当法等の一部を改正する法律案の新旧対照表(平成20年法律第95号の法律案,内閣官房ウェブサイト)6頁及び7頁
2 裁判例
①最高裁判所第三小法廷昭和60年7月16日決定(昭和58年(あ)第1309号,刑集39巻5号245頁,裁判所ウェブサイト)
3 国会会議録
①昭和55年10月15日衆議院決算委員会第1号(宮澤喜一内閣官房長官の答弁)
②昭和55年10月15日衆議院法務委員会第1号(勝見嘉美最高裁判所事務総局人事局長の答弁)
③昭和55年10月15日衆議院法務委員会第1号(退職手当と共済年金に関する答弁)
④昭和55年10月15日衆議院法務委員会第1号(岡田正勝委員の発言)
⑤昭和55年10月16日参議院法務委員会第1号(岩田脩自治省選挙課長の答弁)
⑥昭和55年10月16日参議院法務委員会第1号(前田宏法務省刑事局長の答弁)
⑦昭和55年10月22日衆議院法務委員会第2号(奥野誠亮法務大臣の答弁)
⑧昭和55年10月22日衆議院法務委員会第2号(白川勝彦委員の発言)
⑨昭和55年10月22日衆議院法務委員会第2号(退職手当に関する勝見人事局長の答弁)
⑩昭和55年10月30日参議院法務委員会第2号(寺田熊雄委員の発言)
⑪昭和55年10月30日参議院法務委員会第2号(浅野一郎参議院法制局長の答弁)
⑫昭和55年11月11日衆議院法務委員会第5号(簡易裁判所判事の推薦基準に関する答弁)
⑬昭和55年11月26日衆議院法務委員会第7号(最高裁判所事務当局案に関する答弁)
⑭昭和56年4月9日衆議院決算委員会第7号(大西勝也最高裁判所事務総局人事局長の答弁)
⑮昭和56年5月27日衆議院議院運営委員会国会法改正等に関する小委員会第1号
⑯昭和56年5月28日衆議院議院運営委員会第29号
⑰昭和56年5月28日衆議院本会議第28号
⑱昭和56年6月3日参議院議院運営委員会第18号
⑲昭和56年6月3日参議院本会議第22号
⑳昭和57年3月30日参議院法務委員会第4号(退職手当の額に関する答弁)
4 公的資料
①裁判官弾劾裁判所「弾劾裁判所の歴史」(昭和50年代)
②裁判官訴追委員会「裁判官弾劾制度に関する国会会議録」
③内閣人事局「国家公務員退職手当法の運用方針」(昭和60年4月30日総人第261号,最終改正令和7年3月31日閣人人第153号)
5 文献
①山本祐司『最高裁物語(下巻)』(講談社+α文庫,1997年)286頁及び287頁
6 調査範囲
国会会議録は,令和8年9月27日に国会会議録検索システムで「安川」「久山町」「小倉簡易裁判所」「裁判官弾劾法の一部を改正する法律案」等により昭和55年9月から昭和60年12月までの発言を検索し,関係する発言の全文を確認した。
裁判例は,同日に裁判所ウェブサイトの裁判例検索で「小倉簡易裁判所判事」等により検索し,前記の最高裁判所決定の全文を確認したが,第一審判決と控訴審判決は見つからなかった。
公職選挙法90条の昭和55年当時の条文は確認していないため,本記事では現行の条文だけを引用した。
山本祐司『最高裁物語(下巻)』は,該当頁を画像で確認して用いたが,同書は裁判官弾劾法の改正には触れていない。
同書の記述のうち,国会会議録や裁判所ウェブサイトで確認できなかった事実は,同書によるものであることを示して記載した。