第1 事前報道と漏えい疑惑について確認できる結論
1 判決予測報道があったこと
愛媛県靖国神社玉串料訴訟については,最高裁大法廷の判決言渡しより約2か月前の平成9年2月9日,朝日新聞及び共同通信の配信を受けた地方紙が,玉串料等の公費支出を違憲とする判断が示される公算が大きい旨を報道した。共同通信は前日の同月8日夜に記事を配信したと国会で説明されている。
最高裁大法廷は,同年4月2日,愛媛県が靖国神社の例大祭等に玉串料等を公金から支出したことは憲法20条3項及び89条に違反すると判断した。事前報道の示した方向と実際の判決結果が一致したため,評議の秘密が漏れたのではないかとの疑惑が広がった。
2 漏えいが確認されたわけではないこと
もっとも,公開資料から確認できるのは,判決の方向等を詳細に予測した事前報道があり,漏えい疑惑が生じたという事実までである。最高裁は内部関係者と報道機関側を調査したが,裁判所内部から合議の秘密が漏えいした事実は認められなかったと説明した。
その後,裁判官訴追委員会も調査を行ったが,漏えい事実を認めず,対象となった最高裁判事全員を不訴追としたことが公刊資料から確認できる。したがって,本件を「評議内容が事前に漏えいした事件」と確定的に表現することはできない。
3 評議の秘密との関係
裁判所法75条は,合議体による裁判の評議を公開せず,評議の経過,各裁判官の意見及びその多少の数を秘密とする旨を定めている。
判決結果を予測した記事が的中したことだけで,この秘密に属する情報が漏えいしたことになるわけではない。他方で,判決前に合議の結論又は評議の経過を知った者が外部に伝えたのであれば,裁判の公正に対する信頼に関わる重大な問題となるため,最高裁による調査と国会での質疑が行われたのである。
第2 平成9年2月9日の事前報道
1 朝日新聞及び共同通信の報道
国会会議録によれば,朝日新聞は平成9年2月9日付け朝刊1面で,愛媛玉串料訴訟について最高裁が違憲判決をする公算が大きいとの趣旨の記事を掲載した。共同通信も同月8日夜,最高裁大法廷が違憲判断を示す見通しであるとの趣旨の記事を地方紙へ配信し,愛媛新聞を含む複数の加盟紙が翌9日付けで大きく掲載した。
同年3月25日の参議院予算委員会では,共同通信の社内資料とされた「編集週報」の記載も取り上げられた。質問者は,記事が違憲論と合憲論の比較や目的効果基準をめぐる審理の方向に踏み込んでいるとして,単なる予測では説明できないのではないかと追及した。
これに対し,最高裁判所長官代理者の涌井紀夫最高裁判所事務総局総務局長は,読者に合議の秘密が漏れたとの疑念を抱かせる記事であることは認めた。他方で,最高裁の調査では漏えい事実を認めなかったと一貫して答弁した。
2 愛媛新聞の見出し
国立国会図書館レファレンス協同データベースに収録された愛媛県立図書館の回答によれば,愛媛新聞平成9年2月9日付け1面の見出しは「愛媛玉ぐし料訴訟 公費支出違憲判断へ 最高裁大法廷 政教分離に反す」であった。
同日付け5面には,原告・支援者側の反応だけでなく,公費支出は社会慣行であるなどとする被告側の反応も掲載された。したがって,事前報道の存在と内容を確認する際は,後日の評価だけでなく,当時の紙面に示された見出しと双方当事者の反応を区別して見る必要がある。
第3 最高裁の内部調査と報道機関への抗議
1 五十人弱を対象とした調査
最高裁は事前報道の直後から調査を開始した。国会答弁によれば,調査対象は大法廷を構成する15人の裁判官だけではなく,合議の内容を直接又は間接に知る可能性がある調査官,裁判官の秘書官,書記官及び事務職員等を含む五十人弱であった。
最高裁は,対象者ごとに複数の方法で事実を確認したと説明したが,個別の調査方法は合議の内容と密接に関係するとして公表しなかった。朝日新聞及び共同通信の裁判所担当記者からも,複数回にわたり取材経過等について説明を求めた。
2 平成9年2月19日の調査結果と抗議
最高裁は平成9年2月19日,内部から合議の秘密が漏れた事実は認められなかったとの調査結果を公表した。報道機関側も,裁判所内部から秘密を得たものではなく,外部の関係者への取材,既存判例及び学説等を基礎とする判決予測であると説明した。
もっとも,最高裁は,記事が漏えい又は報道による合議への影響を国民に疑わせ,裁判の公平に対する信頼を損なうおそれがあると判断した。そこで,朝日新聞及び共同通信の編集責任者を呼び,文書を交付して抗議した。
第4 六つの国会会議録から分かること
1 国会で取り上げられた経過
本件は,平成9年2月20日から同年3月28日まで,少なくとも次の六つの国会会議で取り上げられた。各会議録を通読すると,調査の開始,対象者,報道機関への抗議,訴追請求,再確認の経過を時系列で把握できる。
| 日付 | 会議 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 平成9年2月20日 | 参議院法務委員会第3号 | 裁判所法75条との関係,調査の開始及び報道機関側の説明 |
| 平成9年2月20日 | 衆議院法務委員会第2号 | 2月19日の調査結果,朝日新聞及び共同通信への文書抗議 |
| 平成9年3月11日 | 参議院予算委員会第7号 | 五十人弱を対象とした調査,60件を超える訴追請求 |
| 平成9年3月18日 | 参議院予算委員会第11号 | 漏えい疑惑をめぐる再調査の要求と最高裁の説明 |
| 平成9年3月25日 | 参議院予算委員会第15号 | 「編集週報」,調査方法,抗議及び最高裁に寄せられた意見 |
| 平成9年3月28日 | 参議院予算委員会第17号 | 共同通信側及び名指しされた裁判官への再確認,新聞社への抗議 |
2 平成9年3月25日の答弁
同年3月25日の質疑では,最高裁が15人の裁判官を含む五十人弱を調査したこと,報道機関側から繰り返し説明を聴いたこと,内部から合議の秘密が漏れた事実を認めなかったことが改めて答弁された。
また,同月24日までに最高裁へ寄せられた電話等は百数十件,書面は五百件余りであったと説明された。同月3日には大学教授等20人が,同月18日には80人余りの学者等で構成する「最高裁判決報道の真相究明を求める会」が,それぞれ真相究明を求める要望書を提出していた。
3 平成9年3月28日の再確認
同年3月28日の答弁によれば,最高裁は,共同通信の「編集週報」を執筆した社会部長にも事実を確認し,同資料は裁判所内部からの秘密漏えいを述べたものではないとの説明を受けた。
また,別の新聞が特定の裁判官を情報源として名指ししたため,最高裁は当該裁判官について再度確認したが,その裁判官を通じて秘密が漏れた事実は認められなかったとした。最高裁は,当該新聞社にも文書で抗議した。
以上の答弁は,最高裁が一度の調査で終えたのではなく,新たな指摘が出るごとに関係者を再確認したことを示す。他方で,調査方法の詳細や報道機関の具体的な取材源は公開されなかったため,疑惑を訴える側との認識の隔たりは解消しなかった。
第5 裁判官訴追委員会の調査と不訴追
1 最高裁判事全員に対する訴追請求
泉徳治ほか『一歩前へ出る司法―泉徳治元最高裁判事に聞く』144頁~147頁によれば,本件報道を理由として,愛媛玉串料訴訟を担当した15人の最高裁判事全員について裁判官訴追委員会への訴追請求がされた。
裁判官弾劾法11条は,訴追請求があったとき又は罷免事由があると思料するとき,訴追委員会がその事由を調査しなければならないと定めている。同委員会は,官公署への調査嘱託,証人の出頭・証言及び記録提出の要求をすることができる。
2 泉徳治に対する二度の参考人聴取
同書によれば,裁判官訴追委員会は,当時の最高裁判所事務総長であった泉徳治を「6月9日」に約1時間15分,「2月26日」に約20分,それぞれ参考人として聴取した。
泉徳治は,判決の方向を予測できた事情として,関係省庁の通達,愛媛県における公費支出の継続,既存の法令・判例,取材で把握できる事情等があったとの説明をしている。また,名指しされた裁判官の一人は平成9年2月3日から同月19日まで海外に滞在しており,本人も漏えいを否定したという。
3 不訴追の結論と年が確認できない日付
同書によれば,裁判官訴追委員会は「12月10日」,漏えいの事実を認めず,15人全員を不訴追とした。
ただし,同書は,二度の参考人聴取及び不訴追決定について月日だけを記し,年を記載していない。裁判官訴追委員会の議事は非公開であり,年を確認できる公刊一次資料も確認できないため,本記事では年を推測して補わない。
第6 本案の三審と判決予測報道をめぐる先例
1 本案の三審
愛媛玉串料訴訟の本案三審は,次のとおりである。
| 審級 | 裁判例 | 事件番号・掲載誌 | 結論 |
|---|---|---|---|
| 第一審 | 松山地裁平成元年3月17日判決 | 昭和57年(行ウ)第4号ほか・民集51巻4号1905頁 | 玉串料等の支出を違憲と判断した。 |
| 控訴審 | 高松高裁平成4年5月12日判決 | 平成元年(行コ)第3号 | 支出を合憲と判断した。 |
| 上告審 | 最高裁大法廷平成9年4月2日判決 | 平成4年(行ツ)第156号・民集51巻4号1673頁 | 高裁判決を破棄し,憲法20条3項及び89条違反と判断した。 |
高松高裁判決の事件番号について,旧二次資料には平成元年(行コ)第5号とするものがあるが,現行の裁判所公式ページは平成元年(行コ)第3号と記載しているため,本記事では公式ページの表記を採用した。
2 昭和25年の二つの最高裁大法廷判決
『一歩前へ出る司法』145頁は,昭和25年にも,二つの最高裁大法廷判決を予測する記事が掲載され,二人の最高裁判事が裁判官訴追委員会で事情を聴かれた先例があると紹介している。
同書に示された判決日及び事件名を裁判所公式データベースと照合すると,最高裁大法廷昭和25年10月11日判決・昭和23年(れ)第800号・物価統制令違反・刑集4巻10号1972頁及び最高裁大法廷昭和25年10月11日判決・昭和25年(あ)第292号・尊属傷害致死・刑集4巻10号2037頁である。
3 比較対象となる砂川事件国家賠償請求訴訟
東京地裁令和6年1月15日判決・平成31年(ワ)第6848号は,砂川事件上告審の係属中に,当時の最高裁長官が米国側へ心証や評議状況等を伝えたため,公平な裁判を受ける権利が侵害されたなどとして国家賠償等が請求された事案である。同判決は,具体的な評議内容又は予想される判決内容まで伝えた事実を認めず,請求を棄却した。
東京高裁令和7年1月31日判決・令和6年(ネ)第599号も,当時の最高裁長官が具体的な評議状況等を米国側へ伝えたとの主張を採用しなかった。
これらは愛媛玉串料訴訟の事前報道を判断した裁判例ではなく,判決前の裁判情報の外部提供が争われた比較対象である。本件漏えい疑惑自体について,漏えいの有無又は法的責任を本案として判断した裁判例は,裁判所ウェブサイトでは確認できなかった。
第7 令和3年に発見された訴訟記録
1 松山地裁における記録発見
日弁連の令和3年8月25日付け会長声明によれば,最高裁で廃棄されたと考えられていた愛媛玉串料訴訟の記録が,同年4月に松山地裁で発見された。
日弁連は,同事件が憲法上の重要な争点について最高裁大法廷の判断が示された事件であり,後世の検証に不可欠であるとして,永久保存に付すことなどを求めた。したがって,本件記録について現在も単に「廃棄済み」と説明するのは正確でない。
2 現在の特別保存制度
裁判所は,重要な事件記録等を保存するため,事件記録等の特別保存についてで現行制度を案内している。令和6年1月30日からは,新たな規則・通達に基づく運用が開始され,外部有識者の意見を聴く仕組みも整備された。
制度の内容及び保存の要望方法については,裁判所の事件記録等の特別保存に関するガイドブックも参照されたい。
第8 米国連邦最高裁の判決草案漏えい調査との違い
米国では令和4年5月,人工妊娠中絶をめぐるDobbs事件の多数意見草案が判決前に公表された。米国連邦最高裁の令和5年1月19日付け調査報告書によれば,調査対象となった職員97人に対して126回の正式な聴取が行われたが,証拠の優越の基準によっても公表者を特定できなかった。
Dobbs事件では実際の草案そのものが外部へ公表されたのに対し,愛媛玉串料訴訟では,公刊資料上確認できるのは判決の方向等を詳細に予測する記事である。両者は,判決前情報と司法への信頼という共通点を有するものの,外部に出た情報の性質が異なるため,区別して扱う必要がある。
第9 出典・参考資料
1 法令
2 裁判例
①松山地裁平成元年3月17日判決・昭和57年(行ウ)第4号ほか・民集51巻4号1905頁
③最高裁大法廷平成9年4月2日判決・平成4年(行ツ)第156号・民集51巻4号1673頁
④最高裁大法廷昭和25年10月11日判決・昭和23年(れ)第800号・刑集4巻10号1972頁
⑤最高裁大法廷昭和25年10月11日判決・昭和25年(あ)第292号・刑集4巻10号2037頁
⑥東京地裁令和6年1月15日判決・平成31年(ワ)第6848号
3 国会会議録・公的資料
①国立国会図書館「国会会議録検索システム」掲載の第140回国会参議院法務委員会第3号,衆議院法務委員会第2号並びに参議院予算委員会第7号,第11号,第15号及び第17号
②愛媛県立図書館「愛媛玉串料訴訟における事前報道と報道内容を確認したい。」国立国会図書館レファレンス協同データベース,令和5年11月19日登録
③日本弁護士連合会「愛媛玉串料訴訟の事件記録の永久保存等を求める会長声明」令和3年8月25日
⑤Supreme Court of the United States,Statement of the Court Concerning the Leak Investigation,January 19,2023
4 文献
①泉徳治・渡辺康行・山元一・新村とわ『一歩前へ出る司法―泉徳治元最高裁判事に聞く』(日本評論社,平成29年)144頁~149頁