生年月日 T9.2.20
出身大学 京大
退官時の年齢 70 歳
叙勲 H5年春・勲一等旭日桐花大綬章
叙位 H18.7.25 従二位
H2.2.20 定年退官
S60.11.5 ~ H2.2.19 最高裁長官(11)
S59.2.20 ~ S60.11.4 最高裁判事・一小
S57.11.22 ~ S59.2.19 東京高裁長官
S55.3.22 ~ S57.11.21 最高裁事務総長
S53.10.23 ~ S55.3.21 東京家裁所長
S52.9.26 ~ S53.10.22 浦和地裁所長
S51.7.16 ~ S52.9.25 最高裁事務次長兼総務局長事務取扱
S45.12.30 ~ S51.7.15 最高裁人事局長
S43.11.11 ~ S45.12.29 最高裁民事局長
S43.4.18 ~ S43.11.10 東京地裁民事部部総括
S40.1.1 ~ S43.4.17 東京地裁民事部判事
S37.10.1 ~ S39.12.31 最高裁総務局制度調査室長(臨時司法制度調査会事務局参与)
S37.8.1 ~ S37.9.30 東京地裁判事
S34.4.1 ~ S37.7.31 最高裁経理局総務課長
S33.4.21 ~ S34.3.31 最高裁経理局主計課長
S33.1.28 ~ S33.4.20 最高裁経理局付
S31.11.10 ~ S33.1.27 最高裁民事局第二課長
S29.8.31 ~ S31.11.9 最高裁民事局付
S28.5.1 ~ S29.8.30 横浜地裁判事補
S26.9.1 ~ S28.4.30 東京地裁判事補
S24.3.1 ~ S26.8.31 最高裁人事局付
S23.1.28 ~ S24.2.28 大阪地裁判事補
S22.12 司法修習終了
S21.12 結婚
S21.2.25 司法修習生に採用(京都修習)
S20.11 予備役編入・復員
S20.3 海軍法務大尉に昇進(佐世保鎮守府軍法会議勤務)
S19.3 海軍法務中尉に昇進(佐世保鎮守府軍法会議勤務)
(横須賀海軍砲術学校での訓練)
S18.9.30 海軍法務見習尉官に任官
S18.9.23 京都帝国大学法学部を繰上げ卒業
S18.7.16 高等試験司法官試補に合格
S16.4 京都帝国大学法学部に入学
*0 以下の記事も参照してください。
・ 歴代の最高裁判所長官
・ 歴代の東京高裁長官
・ 歴代の最高裁判所事務総長
・ 歴代の東京家裁所長
・ 歴代のさいたま地裁所長
・ 歴代の最高裁判所人事局長
・ 歴代の最高裁判所民事局長兼行政局長
・ 平成11年11月までの弁護士任官の状況
→ 「判事選考要領」(昭和63年3月)については,当時の高輪1期の矢口洪一最高裁長官の名を取って「矢口構想弁護士任官」と呼ばれたところ,この制度による判事任官者は4年間で10名にも及びませんでした。
*1 最高裁判所とともに(著者は矢口洪一)及び司法官試補制度沿革(著者は2期の蕪山厳)を参照しています。
*2 昭和17年7月30日合格発表の高等試験司法科試験の合格者320人のうちの32人は,同年10月1日付で司法官試補28期として採用されました。
また,それ以前の合格者と合わせて56人が昭和18年10月1日付で司法官試補29期として採用されました(戦前最後の司法官試補の採用でした。)。
*3 昭和16年度の大学卒業は12月に繰り上げられ,昭和17年度及び昭和18年度の大学卒業は9月に繰り上げられました。
*4 最高裁判所とともに(著者は矢口洪一)3頁には以下の記載があります。
私は平成二年二月一九日、定年で最高裁長官を退官した。四二年間の裁判官生活のうち実際の裁判の一線に身を置いたのは、八年足らずに過ぎず、大半は司法行政を任務とする最高裁事務総局で過ごした。司法行政とは全国の裁判官の人事や庁舎の管理など、裁判を支える内部行政のことである。
*5 平成11年11月27日に東京九段の専修大学で開催された,第17回全国裁判官懇話会全体会において,「司法改革の背景と課題-法と日常生活-」と題する講演を行いました(判例時報1698号3頁ないし20頁)ところ,同号13頁には以下のやり取りがあります。
D裁判官 矢口さんは最高裁長官を退官されたあと、いろいろ発言のニュアンスが変わってきているのではないかなというふうに感じています。
(中略)
矢口 そういうふうにお思いになるのも無理はないかもしれませんが、私、基本的には変わっていないつもりです。
*6 「思い出すまま」(著者は2期の石川義夫裁判官)199頁及び200頁には以下の記載があります。
(山中注:25期司法修習の)後期の終わりが近づいたある日、田宮上席教官と次席の私(山中注:石川義夫民事裁判教官)が矢口人事局長に呼び出された。問題は青法協に所属する修習生が判事補任官を志望した場合、これを如何に処置するかということだった。矢口氏は田宮氏に「研修所教官の方で、疑わしい連中の試験の成績を悪くしておいてくれれば、問題は解決するじゃないか、なんとか考えてくれ」と言った。要するに、青法協所属の修習生の任官を人事局の責任で拒否することをしたくないので、研修所教官の責任で拒否しようというのである。田宮氏は「教官にはそんなことは出来ません」と言下に断った。私はこの件について、矢口氏の名誉を慮って、今日まで他言しなかったが、目的のためには手段を選ばない矢口氏の手法を思うと、こんなことがあったと、もっと早い時期に公にすべきであったかと後悔している。
*7 日本裁判官ネットワークHPの「 Judgeの目その14 「ミスター司法行政」逝く~矢口洪一氏の死亡」(平成18年10月)(投稿者は40期の浅見宣義大分地裁判事)には以下の記載があります。
今年7月25日,第11代最高裁長官の矢口洪一氏が亡くなった。享年86歳。矢口氏は,70歳で最高裁長官を定年退官後に,癌等で何度も手術が必要となる身となったが,そのたびに生き延び,失礼ながら,他の最高裁長官には見られない様々な影響力を行使した。
(中略)
矢口氏の生前,政策研究大学院大学が「矢口洪一オーラル・ヒストリー」という矢口氏からの聴取りをまとめている。私は,これは大変貴重な資料だと思っているが,矢口氏も『最高裁判所とともに』(有斐閣、1993年)という著書を遺している。こうした資料や,山本祐司「最高裁物語(上・下)」(日本評論社、平成6年),萩屋昌志「日本の裁判所ー司法行政の歴史的研究ー」(晃洋書房,平成16年)などの書物を,法科大学院生や司法修習生の方々は是非読んでいただきたい。また,学者の中に,司法の歴史を研究する若い学者が育って欲しい。これは,司法の未来のために,私の心からの願いである。
まあ、過去の最高裁判事の中にも…
>後藤田正晴と矢口洪一は同世代の人間として、私的にも家族ぐるみで交際していた。そして、裁判官に対するいろいろな行政上の問題について、矢口洪一は、いちいち後藤田正晴の了解をとっていたというのです。これには、驚きましたね。https://t.co/vAHtuUiypX
— venomy (@idleness_venomy) October 21, 2024