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(AI作成)伊藤栄樹検事総長(昭和63年5月25日死亡)の闘病生活に関するAI消化器外科専門医の論評

◯本記事は,AIが消化器外科専門医の視点を仮想的に担って執筆した論評であり,特定の医師による診断又は医療行為ではない。一般的な医学的知見に基づく解説である。
本記事は,伊藤栄樹元検事総長の闘病記『人は死ねばゴミになる――私のがんとの闘い』(新潮社,1988年)を,消化器外科の観点から論評するものである。
伊藤元検事総長の経歴,病名,診断・手術・入院の経過,逝去に至る事実関係の詳細については,既出の記事「伊藤栄樹検事総長の,退官直後の死亡までの経緯」に譲る。
本記事は,これと役割を分け,医学的な評価,闘病を支えた著者の精神力,並びに昭和62年(1987年)当時の医療水準と令和8年(2026年)の医療水準との違いの解説に重点を置く。

目次

第1 本記事の位置づけ

1 本記事の目的と,別記事との役割分担

本記事の目的は,著者自身の手記である同書を一次資料として,本症例を消化器外科の観点から評価し,あわせて,闘病を支えた著者の精神力に触れ,さらに昭和62年(1987年)と令和8年(2026年)の医療水準の違いを解説することにある。

伊藤元検事総長の経歴,人事,職務上の事績,並びに発病から逝去に至る事実関係の細目については,既出の別記事に詳しい。
本記事は,事実関係の網羅を別記事に委ね,医学的・法的な論評と人物評に徹することで,両記事の役割を分担する。
したがって本記事では,経過の事実は論評に必要な限度で簡潔に整理し,紙幅の多くを「評価」と「比較」に充てる。

2 依拠資料と確度の区別

本記事が依拠する一次資料は,著者自身の手記である同書である。
ただし,同書は患者本人の理解と記憶を経た記述であり,診療録そのものではないため,医学用語の厳密さには手記としての限界がある。
また,使用された抗がん剤の同定や,生存期間等の数値は,当時の一般的状況からの推定,又は一般論としての概数であり,本症例の確定的事実ではない。
本記事では,こうした推定・概数と,手記に明記された事実とを,可能な限り区別して述べる。
本症例の遺伝的背景や分子レベルの性質に関する記述は,すべて仮定的な指摘であって,確定診断ではないことを,あらかじめ明らかにしておく。

3 病気と死に関する叙述にあたっての姿勢

叙述にあたっては,故人とその御遺族,並びに現にがんと向き合っておられる方々への敬意を最優先とする。
病や死を論評の具とすることなく,事実と医学的評価とを丁寧に区別して述べる。
個々の患者の経過は一人ひとり異なり,本記事の一般論がそのまま個別の事案に当てはまるものではないことも,あらかじめ申し添える。
とりわけ後述する「精神力」に関する論評は,闘病の経過を患者の心構えの優劣で評価する趣旨では断じてなく,この点は本文の中であらためて明確にする。

第2 本書が描く病態の整理

1 一文での要約

本書が描く経過を,現在の言葉で一文に要約すると,次のとおりである。

すなわち本症例は,右側結腸(盲腸)のがんが急性虫垂炎様の症状で発症し,診断の時点で既に腹膜播種(がん性腹膜炎)とリンパ節転移を伴う進行がんであって,約10か月の経過で,腹膜播種による腸閉塞と,尿管圧迫に起因する尿毒症により逝去した症例である。

消化器外科の臨床では決して稀でない経過であり,それだけに,本書は右側結腸がんの自然経過と,当時の医療の到達点とを,患者の側から精密に記録した貴重な資料となっている。

2 時系列の経過

(1) 発病から第1回手術まで

1987年7月3日,著者は人間ドックを受けた。
そのドックは,著者に相当量の喫煙と飲酒の習慣があったことから,肝臓と肺のがんに重点を置いており,胸部エックス線検査と腹部超音波検査が行われたが,異常は指摘されなかった。
同月8日ころから右下腹部の痛みと腹部の膨満が現れ,著者自身も急性虫垂炎(いわゆる盲腸炎)を疑った。
いったんは虫垂炎として抗生物質などで様子をみたが,痛みと微熱,白血球の増加がそろい,同月13日,「急性虫垂炎」として緊急の開腹手術が行われた。
ところが開腹してみると,回盲部(小腸末端の回腸から大腸の始まりの盲腸にかけての部位)のがんであった。
このため術式は盲腸本体の一部切除にまで拡大され,腰椎麻酔から全身麻酔へ切り換えられ,手術の傷も大きくなった。

同月29日,著者は主治医から病名を告げられた。
主治医は,妻の了解を得たうえで,すべてを率直に説明している。
がんは回盲部に生じ,性質を調べるために腹膜などの組織を大きく切除し,培養検査をしたところ,既にリンパ節と腹膜へ転移を始めていた。
これは現在の分類でいえばステージ4に相当する進行がんであり,主治医は,やがてがん性腹膜炎となって腹水がたまることが考えられる,と予後の見通しまで伝えている。

(2) 再発から第2回手術まで

いったん退院した後,著者は職務に復帰したが,同年10月7日,腸閉塞の症状で再入院した。
腹部には腹水がたまり始めており,検査の結果,大腸の2か所が狭くなっていた。
主治医は「再発」と判断し,バイパス手術を行っても延命効果は乏しいことを,率直に説明している。

11月以降,鼻から腸まで通した管(経鼻イレウス管)で,1日におよそ2000ミリリットルもの腸液とガスが吸引され,抗がん剤と副腎皮質ホルモンが投与された。
病状は,回盲部の原発巣が腹膜に播種状に広がり,それが外から腸管を圧迫して,大腸2か所と小腸1か所を狭めているというものであった。
同年12月18日,第2回手術が行われ,開腹すると,拳大のがんが盲腸から結腸にかけて3か所に確認された。
術式は,小腸と結腸を結ぶバイパスを2か所作り,さらに直腸を圧迫し始めていた結腸を直腸から切り離して人工肛門を造設するもので,根治ではなく,通過障害を解除して症状を和らげるための姑息的手術であった。
この時点でも腹膜への播種は残っていたが,肝臓・肺などの他臓器や,遠隔のリンパ節への転移は確認されなかった。

術後は,39度前後の発熱が続いた。
中心静脈カテーテルの感染や肺炎が疑われて検索されたが,最終的に,がん組織の中心部が崩れることに伴う発熱(腫瘍熱)と判断され,仙骨部には床ずれもみられた。

(3) 終末期から逝去まで

1988年に入り,著者は新年を迎えるという一つの目標を達成した。
経鼻イレウス管を入れたまま,同年1月には登庁し,検察長官会同に臨み,週2回の抗がん剤点滴を受けながら職務を続け,同年3月24日に検事総長を退官した。

しかし,がん性腹膜炎は静かに進行し,左右の尿管が外から圧迫されて,腎臓から尿を排泄できなくなる腎後性腎不全に陥り,体内に老廃物がたまる尿毒症が進んだ。
眠気が強まり,腹水は繰り返し穿刺で抜かれ(一度に600から1000ミリリットルに及んだ),貧血には輸血が,痛みには経口モルヒネが用いられた。

手記は同年5月2日の記載で途切れている。
その日に試みられたのは,膀胱鏡を用いて尿管に管を通す処置であり,左側は成功したが,右側は管が入らなかった。
著者は,それから3週間余り後の同年5月25日に逝去した。

3 書名「人は死ねばゴミになる」の由来

書名「人は死ねばゴミになる」は,再発を悟った著者が同書につづった死生観に由来する。
著者は,人は死んだ瞬間にただの物質となり,意識のようなものは残らないと考える,と率直に記している。
これは死を軽んじる言葉ではなく,死後の世界に幻想を求めず,一切の虚飾を排して自らの死と向き合おうとした,著者なりの率直な表明と理解すべきである。

第3 昭和62年(1987年)当時の医療水準からの評価

1 発見の経路

(1) 人間ドックの守備範囲とその限界

7月のドックが盲腸がんを捉えられなかったことは,当時の医療水準からは,やむを得ない面が大きい。
このドックは肝臓と肺に重点を置いており,大腸がんを狙った検査(便潜血検査・注腸造影・大腸内視鏡)は組み込まれていなかった。
日本で便潜血検査による対策型の大腸がん検診が始まったのは1992年(平成4年)であり,本症例の1987年はそれ以前である。
加えて,盲腸を含む右側結腸のがんは,便がまだ液状で通過するため狭窄症状が出にくく,相当に進行するまで無症状でありやすいという性質がある。
したがって,これは見落としというより,当時の検診体系の守備範囲の問題と見るのが公平である。

(2) 虫垂炎様の発症という典型像

盲腸がんが急性虫垂炎の手術中に発見されたという経路は,右側結腸がんの発症様式として,今日でも珍しくない。
回盲部の腫瘍が虫垂の根もとを塞いで二次的な虫垂炎を起こすことがあり,本症例もこの類型と考えられる。
今日の臨床では,中高年の急性虫垂炎の背後には盲腸がんが隠れていることがあるとして,経過や年齢に応じて大腸の精査を勧めるが,これは本症例のような経験の積み重ねの上に立つ警戒である。
開腹して初めてがんと判明し,術式を拡大して全身麻酔に切り換えた対応は,術前に病変の広がりを確定できなかった時代として,妥当な臨機の処置であった。

2 薬物療法の限界

同書には,4回を1クールとする抗がん剤注射と,副腎皮質ホルモンの併用が記されている。
具体的な薬剤名は手記に明記されていないが,1987年に進行大腸がんに使える薬は,実質的にフルオロウラシル(5-FU)系がほぼ唯一であった(この薬剤の同定は推定である)。
当時の5-FU単剤の効果は限定的であり,腹膜播種を伴う進行がんを薬だけで抑え込むことは,現実には困難であった。
主治医が「バイパス手術をしても延命効果はない」と述べたのは,悲観ではなく,有効な全身治療が乏しいという当時の現実を,正確に反映した言葉である。

3 外科治療の評価

第2回手術は,腹膜播種による多発狭窄に対し,バイパスと人工肛門で通過障害を解除した姑息的手術である。
結腸を直腸から切り離して口側を人工肛門に出す術式は,現在いうハルトマン手術に近い形である。
がんが拳大で3か所に及び,腹膜播種も残存している以上,根治は不能であり,根治を断念して,食べられる体・楽な体を確保するという判断に切り換えたことは,当時としても緩和外科の考え方として正しい。
本書には,主治医が「ほんの小手術ですむと思っていたが,いざやると欲が出て」と語ったとの記述があるが,これは画像で病変を確定できない時代に,開腹して初めて広がりを把握し,その場で最善を尽くした事情を率直に表したものと読める。

4 栄養管理とイレウス管

頸の静脈から心臓近くまで管を進めて高カロリー輸液を行う中心静脈栄養は,1968年に確立された,当時としては新しい技術であり,本症例で繰り返し適切に用いられている。
全く飲食できない時期を,この栄養管理が底支えしたことは,著者が職務に復帰できた一因でもある。
鼻から腸まで通す経鼻イレウス管による腸液・ガスの吸引も,当時の標準的な処置であり,本書のサイフォンの原理を用いた排液の描写は正確である。
術後の遷延した発熱に対し,中心静脈カテーテルの感染や肺炎を疑って検索し,最終的に腫瘍熱と判断してステロイドで対応した経過も,医学的に筋が通っている。

5 終末期医療と疼痛緩和

終末期に用いられた経口モルヒネ(同書にいう「モルヒネ・ワイン」)は,当時の経口モルヒネ製剤である。
世界保健機関(WHO)が,痛みの強さに応じて鎮痛薬を段階的に用いる三段階除痛ラダーを公表したのは1986年であり,本症例はその直後にあたる。
同書に,聖路加国際病院の日野原重明医師のターミナル医療やホスピス,さらに死の臨床の文献への言及があることは,日本にターミナルケアの概念が入り始めた黎明期であったことを示している。
その時代背景の中で,本症例の疼痛緩和は,当時として良心的なものであった。

6 本人告知の先進性

同書全体の主題は「がん告知」である。
1987年当時の日本では,がんを本人に告げず,家族にだけ伝える運用が主流であった。
本書の中にも,著者の連載を担当した編集者が,かつてはがんを本人に告げない考えの持ち主であったとの記述がみられ,当時の空気をよく伝えている。
そのなかで,主治医が妻の了解を得たうえで,本人に病名・転移・予後を率直に告げたことは,当時として極めて例外的かつ先進的な対応であった。
そして,この率直な告知があったからこそ,著者は残された時間を自らの意思で設計し,本書を書き残すことができた。

第4 令和8年(2026年)の医療水準との比較

1 診断・病期診断の進歩

(1) 検診・CT・内視鏡

無症状期には,便潜血検査が大腸がんを拾う最初の網となる。
右下腹部痛で受診すれば,まず造影CTで虫垂炎か腫瘍かを高い精度で鑑別し,続いて大腸内視鏡と生検で,盲腸がんを術前に組織診断する。
腫瘍マーカー(CEA・CA19-9)を測り,CTで肝転移・リンパ節・腹膜播種を術前に評価する。
同書の「あけてみた具合で切り取られるとわかれば」という記述は,当時の画像診断の限界を映したものであり,現在は,手術前に病変の広がりをかなり把握して臨むのが通常である。

(2) がんゲノム・MSI検査という分岐点

現在の決定的な違いは,がんゲノム検査,とりわけミスマッチ修復機能の検査(MMR/MSI検査)である。
盲腸を含む右側結腸のがんは,MSI-High(高頻度マイクロサテライト不安定性)の割合が高いことが知られている。
仮に本症例がMSI-Highであれば,後述の免疫チェックポイント阻害薬が著効する可能性があり,これは1987年には概念すら存在しなかった分岐点である。
本症例が実際にMSI-Highであったかは不明であり,これはあくまで仮定的な指摘であるが,今日であれば検査によってこの分岐を確認する手立てがある,という点が重要である。

(3) 遺伝性腫瘍という視点

本書には,著者の母が比較的若くして子宮のがんで亡くなったとの記述がある。
右側結腸のがんと,血縁者の子宮(子宮内膜)のがんという組合せは,遺伝性のがんであるリンチ症候群を想起させる組合せでもある。
今日であれば,こうした家族歴と右側結腸がんという所見から,遺伝性腫瘍の可能性が検討され,本人の検査結果によっては,遺伝カウンセリングや血縁者の検査・定期的な観察につなげる道がある。
これも仮定的な指摘にとどまるが,1987年には,一人のがんを家系全体の健康管理に結びつける視点そのものが,まだ十分には確立していなかった。

2 薬物療法の進歩

進行大腸がんに使える薬は,この40年で大きく入れ替わった。
殺細胞性薬剤として,オキサリプラチン,イリノテカン,5-FU/ロイコボリン,カペシタビンを組み合わせたレジメン(FOLFOX,FOLFIRI,CAPOX等)がある。
分子標的薬として,腫瘍の血管新生を抑える抗VEGF抗体(ベバシズマブ)や,RAS遺伝子に変異のない場合に用いる抗EGFR抗体(セツキシマブ,パニツムマブ)がある。
さらに,MSI-High/ミスマッチ修復欠損のがんには,免疫チェックポイント阻害薬が長期の効果をもたらし得る。
これらにより,ステージ4の大腸がん全体の生存期間中央値は,5-FU時代の数か月から1年程度から,おおむね2年半から3年程度まで延びた(一般論としての概数である)。

もっとも,重要な留保がある。
本症例の主病態である腹膜播種は,血流が乏しく薬剤が届きにくいため,今日でも全身化学療法が効きにくい部位であり,肝転移などに比べて予後は厳しい。
したがって,「薬が進歩したから本症例も容易に救えた」とは言い切れず,進歩の恩恵を最も受けにくい型の転移であった点は,誠実に指摘しておかねばならない。

3 外科・処置の進歩

根治が可能な段階であれば,現在は腹腔鏡下,又はロボット支援下の右半結腸切除とリンパ節郭清が標準であり,開腹に比べて侵襲も回復も大きく改善している。
腸閉塞に対しては,内視鏡的に大腸ステントを留置して開腹を回避する選択肢が加わった。
ただし,本症例のような小腸を含む多発狭窄にはステントは不向きであり,その場合は,今日でも外科的バイパスや人工肛門が選ばれる。
また,腹膜播種が限局している一部の症例には,腫瘍減量手術と腹腔内温熱化学療法(CRS+HIPEC)という積極的治療が,専門施設で行われるようになったが,本症例のような拳大で多発する高度の播種は適応外と考えられる。

4 緩和ケアの進歩

疼痛緩和は,経口モルヒネの時代から,徐放性のオキシコドンやモルヒネ,フェンタニル貼付剤,自己調節鎮痛(PCA),神経ブロックへと,格段に洗練された。
専門の緩和ケアチームが早期から関わり,本人の意思をあらかじめ話し合って支えるアドバンス・ケア・プランニングの考え方も整っている。
本症例の主治医が示した「楽にする」という姿勢は当時として立派であったが,それを支える道具立ては,今日のほうがはるかに豊かである。

5 終末期の腎後性腎不全への対応

本症例の直接の死因に連なったのは,がん性腹膜炎の進行で左右の尿管が圧迫され,腎後性腎不全から尿毒症に至ったことである。
絶筆となった処置は,膀胱鏡で逆行性に尿管へ管を通す試みであり,右側は通せなかった。
現在であれば,尿管ステント留置はルーチンであり,逆行性が困難なら,背中側から経皮的に腎瘻を造設して,より確実に尿路を確保できた可能性がある。
ただし,根本にある広範な腹膜播種が制御できない以上,尿路を確保しても延命は限定的であるという本質は変わらない。
予後が限られた段階で,こうした侵襲的な処置をどこまで行うかは,現在もなお,延命とQOLと本人の意思を慎重に比較して決める問題であって,技術が進んだから自動的に行うものではない。

6 比較の一覧

以上を整理すると,昭和62年と令和8年の標準的な対応は,次のように対比できる。

項目昭和62年(1987年)当時令和8年(2026年)の標準
発見のきっかけ無症状のドックでは捕捉されず,急性虫垂炎の開腹で偶然発見便潜血検診を入口に,造影CTと大腸内視鏡・生検で術前に確定診断
病期診断開腹して初めて播種・転移を確認造影CT等で術前にステージング,がんゲノム・MSI検査を実施
遺伝的背景家系全体の管理に結びつける視点が未確立家族歴に応じ遺伝性腫瘍を評価,血縁者の観察につなぐ道
薬物療法5-FU系がほぼ唯一で,効果は限定的多剤併用レジメンに分子標的薬,MSI-High例には免疫療法
根治手術開腹による切除腹腔鏡・ロボット支援下の定型切除とリンパ節郭清(根治可能例)
閉塞への対処開腹によるバイパス・人工肛門部位により大腸ステント,多発例は外科的バイパス・人工肛門
腹膜播種有効な手立てが乏しい限局例にCRS+HIPEC(専門施設・適応限定)。なお予後は厳しい
栄養・減圧中心静脈栄養・経鼻イレウス管同様に加え,感染対策の標準化
疼痛緩和経口モルヒネ(モルヒネ・ワイン)多彩なオピオイド・貼付剤・PCA・専門緩和ケアチーム
尿路閉塞逆行性尿管カテーテル(成功に限界)尿管ステント留置,経皮的腎瘻造設
病名告知本人不告知が主流(本症例は例外的に告知)本人への説明とインフォームド・コンセントが原則

第5 闘病を支えた精神力

本書を医学の目で読み解くとき,もう一つ強く印象に残るのは,著者の精神力の強さである。
それは単なる気丈さではなく,自らの死を直視しながら,最後まで職務と表現と生活を手放さなかった,一貫した姿勢として現れている。

1 告知を受け止めた冷静さ

7月29日の告知の場面で,著者は取り乱すことなく病名と転移の事実を受け止めている。
それどころか,退院後の食事や酒,ゴルフ程度の運動,旅行や出張について冷静に質問し,さらに「最良の場合,何年くらい生きられるか」とまで主治医に尋ねている。
著者は自らを「楽天家」と評しているが,死を直視しながらこれだけの平静を保つことは,誰にでもできることではない。
この冷静さは,その後の闘病の設計図を,著者自身の手で描くことを可能にした。

2 「おつりのいのち」を働き続けた姿

当初,年内一杯が一つの見立てであったが,著者はその見立てを越えていった。
著者は,延びた時間を「おつりのいのち」と呼び,これを目標を立てて一つずつ使っていった。
まず正月を越えることを最低の目標に置き,次に2月3日の満63歳の誕生日を目標に据え,さらにその先を見据えた。
そして,鼻からイレウス管を入れたまま,1988年1月には登庁し,検察長官会同に臨み,週2回の抗がん剤点滴を受けながら職務を続けた。
衰えた脚で高い階段を上って登庁したことを,著者は淡々と書き留めている。
建築中であった自宅の完成を病床から気にかけ,その引渡しに立ち会うことも,目標の一つとした。
延びた一日一日を,職務と家族と表現のために使い切ろうとする姿勢が,全編を貫いている。

3 自らの死を記録し続けた営み

著者がこの手記を書き残せたこと自体が,精神力の証しである。
鼻から腸まで通したイレウス管のおかげで体調が安定すると,著者はワープロに向かい,「私の発病から死まで」を書き継いだ。
新聞には役人生活を振り返る回想を連載し,雑誌にも寄稿を続け,手記は逝去のわずか3週間前まで途切れなかった。
著者は,自らの病状・処置・体重・数値を,医師の説明をそのまま書き写すように記録している。
これは,死にゆく自分を一人の観察者として見つめ続ける営みであり,恐怖に流されずに事実を記すという,強い自己統御を要する作業であった。

4 ユーモアと死生観

苦境のなかでも,著者はユーモアを失わなかった。
本書の随所には軽妙な句や洒落が差し挟まれ,重い主題を扱いながらも,読む者をふと和ませる。
書名「人は死ねばゴミになる」もまた,死後の世界に救いを求めず,現実をありのままに受け止めようとする,著者一流の率直さの表れである。
海軍に身を置いた戦中世代として,若い日から死を身近に意識してきたことも,この平静さの背景にあると思われる(これは推測である)。

5 医学から見た「気力」の意味と,誤解してはならないこと

告知の際,主治医は「気力も大事ですから,どうぞ最後までお仕事をお続け下さい」と述べている。
本書には,患者が体力・気力を良好に保つことで,医師ががんと闘いやすくなる,という趣旨の記述もみられる。
現代医学でも,患者の生活の質を保ち,意味のある活動を続けることは,治療の完遂や合併症の管理に良い影響を与え得ると考えられている。
著者が職務を続けられたこと自体,当時の栄養管理・イレウス管・疼痛緩和といった支持療法が,体調を底支えした成果でもある。

ただし,ここには厳に慎むべき誤解がある。
がんの経過を最終的に決めるのは,腫瘍の生物学的な性質や病期であって,患者の精神力の強弱ではない。
経過が思わしくない患者が,「気持ちが弱かったから」と責められることは,決してあってはならない。
著者の精神力を讃えることは,他の患者の生き方や闘い方を評価することとは,全く別のことである。
そのうえで,自らの死までを冷静に見つめ,最後まで職務と表現を全うした著者の姿は,一人の人間の生き方として,深い敬意に値する。

第6 法的観点からの補足

1 がん検診の法的枠組み

対策型のがん検診は,健康増進法(平成14年法律第103号)第19条の2に基づく市町村の健康増進事業として実施されている。
大腸がん検診(便潜血検査)もこの枠組みの下にあり,国は,がん対策基本法(平成18年法律第98号)の理念に沿って,がんの早期発見を推進している。
本症例の1987年は,これらの法整備の前であり,無症状者を対象とする大腸がん検診の社会的基盤が,まだ整っていない時期であった。
すなわち,本症例が無症状のドックで捕捉されなかったことは,個人の不運であると同時に,制度がまだ追いついていなかった時代の反映でもある。

2 インフォームド・コンセントの法的位置づけ

医師等の説明義務については,医療法(昭和23年法律第205号)第1条の4第2項が,「医療の担い手は,医療を提供するに当たり,適切な説明を行い,医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない」と定めている。
これは努力義務の形をとるが,医療水準に応じた説明とインフォームド・コンセントは,今日の医療において確立した責務として受け止められている。
本症例で主治医が本人に率直に告知したことは,こうした現在の考え方を,制度が整う前に先取りした対応であったと評価できる。

3 本書のがん告知史における意義

本書は,例外的に本人へ告知がされた記録として,日本の「がん告知」の歴史を考えるうえで,欠かせない一次資料の一つとなっている。
がんを隠す医療から,本人と共に方針を決める医療へという40年間の転換を,本書は具体的な体験として今に伝えている。
率直な告知が,著者の精神力を支え,残された時間を自らの意思で設計する基礎となったことを思えば,告知をめぐる本書の意義は,制度史の一齣にとどまらない。

第7 総括

1 劇的に変わったもの

この40年で劇的に変わったのは,診断(検診体系・内視鏡・CT・がんゲノム検査),薬物療法(多剤併用・分子標的薬・免疫療法),手術の低侵襲化,緩和ケアの質,そして告知と意思決定のあり方である。
これらを総合すれば,仮に本症例が今日発症していたなら,より早期に確定診断され,より侵襲の小さい治療を受け,より長く,より楽に過ごせた蓋然性は高い。

2 変わっていない,又はなお難しいもの

他方で,変わっていない,あるいは今なお難しいものもある。
右側結腸がんが無症状のまま進行し,虫垂炎様に発症するという病態そのものは,今も昔も同じである。
そして,診断時に既に腹膜播種を伴う進行がんであれば,依然として予後は厳しく,とりわけ腹膜播種は薬物療法の恩恵を受けにくいことも,40年を経て本質的には変わっていない。
本症例は,治療の進歩で寿命を延ばせるようになった一方で,進行がん・腹膜播種という出発点の重さは依然として重いという,がん医療の到達点と限界を,同時に映している。

3 むすび

消化器外科の観点からあらためて教訓を引くなら,本症例が指し示すのは,無症状の右側結腸がんをいかに早く見つけるかという,検診と早期診断の重要性である。
そして法律家の視点からは,検診の法的基盤と,本人への説明・意思決定の尊重という,制度の整備こそが,この40年の歩みを支えてきたことを確認できる。
医学がどれほど進歩しても,最後に残るのは,限られた時間をいかに生きるかという,一人の人間の問いである。
自らの死までを冷静に記録しきり,最後まで職務と表現を全うした著者の精神力と姿勢は,医療者にも,法に携わる者にも,そして病と向き合う一人ひとりにも,なお深い示唆を残している。